熟れた底
夜の峠に吹く風は、桜の花をとうの昔に散らしきり、今では路面に新緑の葉を舞わせている。太平洋高気圧が勢力を増す頃になれば、この風が街を煮立てる暑さを運んでくるのだが、五月半ばの今にあってはまだ時折肌寒さを感じさせる程度の温度であり、中里にしても半袖ではなく、黒のVネックセーターを着て、妙義山の駐車場に立っていた。
この峠で中里は、毎夜のように愛車である漆黒の日産スカイラインR32GT‐Rを駆使し、妙義最速の看板維持に精力を注いでいる。また妙義ナイトキッズという、群馬県内でも札付きの不人気度を有する走り屋チームに属しており、そのリーダー格として、メンバーとの交流も疎かにはしていない。
ところでナイトキッズには、なぜか――と中里は不思議に思っているが、人気の欠けるようなチームに進んで飛び込む走り屋の集まりであるからして、必然的に――マイペースな野郎が多く、
「毅さん、パフェりましょうよ!」
その日にしても、中里を含め馴染みのメンバー五人で今季GTレースの展望について語らっていた最中、一人の若手が唐突に、そんな叫びを上げたのだった。
「パフェ?」
ウエイトハンデの公平性についての思索に没入していた中里が、その言葉の意味を瞬時に想像できるものでもなかった。しかし初心運転者を近日脱した若きマイペースメンバーは、中里の脳内事情など気にもせず、拳を握り締め、「パフェです!」、と力強く叫ぶ。
「今から食べに行きましょう! みんなで一緒にパフェりましょう!」
そこでようやく中里は、『パフェ』の意味するところを喫茶店等で出てくる洋菓子だと理解して、にしてもパフェるってのは何だ、とまず思い、「よく分からねえんだが」、続いて抱いた別の疑念を口にした。
「……何でいきなりパフェなんだ?」
「食べたいからです!」
古今東西、あまりに明快な答えとは――愛をして、その言葉のみで表現する時のように――、かえって複雑に聞こえるものである。そうして中里が、タベタイカラ?、と理解に苦しんでいる間に、
「あー何か俺も食いたくなってきたわ、パフェ」
ポルシェが速くなければ国産レースも面白くないと力説していた、同期の山男風ヒゲ面メンバーがきっちりと挙手し、
「おっ、いいねえパフェ、食べたいねえ」
「そんならコーヒーも飲みてえな」
「ならついでにミーティングればいいんじゃね?」
日本車至上論やルール改正論を戦わせていた他のメンバーも、次々パフェ食べたい論に参入し、ナイトキッズでパフェを食べる会を計画し始めた。
遅れて話の理解を果たした中里は、何だその日本語は、っつーかミーティングがついでかよ、と苦々しく思ったが、何度もパフェという菓子名を聞いているうち、ごくりと唾を飲み込んでいた。
パフェ。冷たいアイス、とろけるクリーム、缶詰仕様の甘酸っぱいフルーツ、サクサクのシリアル、甘いソースの染みたスポンジ。それらが口中で渾然一体となり、うっとりするような味わいで舌を包む、段々重ねの甘い塔。
パフェ――中里は、再び唾を飲み込んだ。言われてみれば、確かに食べたい。最近ろくに、食べてもいない。菓子類は大好物なのだが、公言するのも男らしくないように思え、仲間内で喫茶店等に行ったところで、積極的に頼みもしない。パフェ――だが、暗闇の中、反射を優先しながら操作も強いられるドライビングに集中していた肉体は、休憩と糖分補給を求めている。このまま無理をするよりも、下のファミレスで腰を落ち着けパフェを食べ、一息入れてから峠に戻った方が、質の高い走りもできるだろう。
急がば回れだ、中里が募る甘いものへの欲求の言い訳をつけ、一人で頷いたところ、
「で、どうするよ、お前は」
とんとん拍子でパフェ会の計画を立て終えたメンバーのうち、隣にいる山男風の同期が気安く笑みながら、囁くように聞いてきた。いつものことだ。仲間たちはいくら好き勝手に行動しようとも、中里を絶対的に軽んずることはない。だからこそ、そのマイペースなカーキチ野郎どもを、中里も無下にはできないのだが、度々走りと関係のない事柄にこうして巻き込まれることには、刺激と共に多少の疲労も感じるもので、はあ、とため息を吐かざるを得なかった。
ただそれでも、どうするかという、その答えは決まっていた。
「行きゃあいいんだろ、俺も」
「さっすが毅さん、パフェですね!」
パフェの口火を切った若いメンバーが、有無を言わさぬ青春全開スマイルを向けてきて、他のメンバーはそれに「パフェだよな」「パフェだな」「ああパフェだ」と調子を合わせ、明らかな揶揄の含まれたその頷き合いに、俺のどこがパフェなんだよ、と中里はげんなりした。どうやっても、人間じゃねえか。
と、その時だった。ジーンズの前ポケットに入れていた携帯電話が、単調な電子音で、着信を知らせた。
「悪い」
「どーぞどーぞ」
メンバーの適当な許可を得てから、新入りに押しつけられた妙なパンダのストラップを引いて、ポケットから携帯電話を取り出し、黒いそれの二つ折りに親指を入れて開く。傷の多い液晶に表示された着信者の名前を、そこで中里は初めて見て、動きを止めていた。
『須藤京一』
九つの番号と共に、角張ったデジタル文字で、その名が表示されていた。呼び出し音が二回続いても、中里は動きを止めたままでいた。動けなかった。驚愕が、体を硬直させていた。
「何、出ねえの? 女?」
「牛?」
「えッマジすか毅さん、ついに彼女ができたんですか! こんな時間に電話かけてきちゃうようなエロい系の!」
「この野郎、山でテレフォンセックスしようってのか!」
異変に気付いたメンバーが、無遠慮かつ下品な言葉を立て続けに発する。それに驚いたことで元の驚きが失われ、中里は我に返った。慢性的な好奇心をその目に宿した、馴染み深い男たちを改めて見回し、返答を逡巡しかける。
「違えよ」
だが数秒後、太い眉の根に多少の屈託を表しつつも中里はそう言い切ると、場から離れながら、留守番電話サービスの未使用と相手の忍耐力が続かせた、呼び出し音の十二回目にして、携帯電話の通話ボタンを押した。
中里は、概して隠し事の下手な男である。大抵の場合、嘘を吐いてもすぐ露見する。そう簡単に胸の内を見透かされることを良しともしないのだが、素朴で一途で直情的で、不測の事態に弱い性分は、努力で改変し得ぬほど盤石なものだった。また男とばかりつるんで育ったため、二十代半ばになっても女性に対する免疫が少ない一方、下半身の話題には曝露過多によるアレルギーがあって、どちらにも出くわすだけで狼狽するのが往々だ。
そんな中里の傾向をよく知っているメンバーは、今回女性にまつわるセクハラまがいの質問も、中里が恥ずかしがらずムキにもならず否定したことから、中里の電話の相手を、揶揄して楽しい恋愛関連ではないものと判断した。そうなれば、興味は早々にパフェ談義に戻る、現金な走り屋野郎の集まりが、妙義ナイトキッズだった。
ただしこの時、チームで唯一中里のライバルである、自称妙義最速ダウンヒラーの庄司慎吾がいれば、展開は違っただろう。ひとかどの観察眼を有し、愛車のEG‐6でFR潰しを企てたり生粋の毒舌を振り撒いたりしては、打たれ弱いメンバーから群馬の人間凶器と恐れられている庄司慎吾は、同時にほぼすべてのメンバーから、中学生日記的センチメンタルだと同情されてもいる。ナイトキッズにおいて誰よりも中里に心を砕き、情を注いでいることが、中里以外にのみ明々白々なためである。
そのように中里通の――それを頑として否定するくせに、語ることはやめない――庄司なら、中里の大粒の黒目の揺れ、口元の強張り、躊躇の滲んだ声から、闖入電話の相手が一筋縄ではいかない、中里に疾しさをもたらす関係にあることを、察知したに違いない。ではどういう相手なのかと、軽くカマもかけただろう。だが本日庄司は峠を走るに先に立つ、金銭を得るための労働に時間を割いており、結果的に中里は幸か不幸か誰の詮索も受けず、着信者との会話に臨むこととなった。
「……もしもし」
「よお、俺だ」
意表を突かれ、中里は戸惑った。ざわめきの中から明瞭に聞こえてきた、それは携帯電話の表示通り、須藤京一の声に相違はなかったが、それにしては、いやに軽かった。須藤京一は、重厚な男である。男であるからして、中里の『彼女』ではない。ゆえにその点でメンバーにからかわれたところで、中里も動揺まではしなかったが、時に苛立ちや喜びや欲望など、野性的な情動を垣間見せながらも、総じて理性的に、どっしりと構えている須藤が、開口一番ここまで浮ついた声をかけてきたことには、大きく戸惑った。そもそもが、こんな時間に突然電話を寄越してくることが、本来ならばありえなかった。お互いの立場を害さぬよう、夜間の連絡はまず、携帯電話のメールで相手の都合を問うことを定めたのは、他でもない須藤なのだ。
「須藤か」
分かりきっていることを聞かなければならないほど、中里の戸惑いは深かった。だが須藤は変わらず、
「俺以外に」、おどけた風に言うものだ。「お前のケータイには、須藤って名前の奴の番号が入ってんのか?」
「いや、そうじゃ……」
中里はすぐに言い返そうとして、それも何か、自分にとっての須藤の特別性を諾々と認めるようで癪に感じ、少し間を置くも、
「そうじゃ?」
近い声で、須藤にそう促されてしまうと、他に良い言葉も思い浮かばないまま、渋々と続けるしかなかった。
「……ねえけど、何だよ」
くっ、と喉で笑う声がした。軽さが飛ばされた、渋く低い、艶やかな声だった。須藤がそういう笑い方をする時は、限られる。その限られた中でも、更に限られた瞬間を覚えている体が、にわかに不埒な熱を帯び始め、中里は息を止めてしまっていた。
「今、どこにいる」
笑いを消した須藤が、いつもの落ち着いた調子に打って変わり、平然と聞いてくる。
「山だ」、自分の反応の過敏さによる、決まりの悪さを払拭するため、中里は素早く呼吸を再開させ、「妙義山」、と早口に続けた。
「丁度、休憩しててよ」
「そうか」、納得の響きを残した須藤の声は、「俺は今」、と似合わぬ軽妙さを取り戻すと、
「高崎で飲んでるんだけどな」
予想外の地名を繋げてきた。
「……高崎ィ?」
中里は思わず大声を出し、はっと周りを見回した。離れた場所にいるメンバーに、言葉を聞かれた節はない。だがそれに安堵している暇もなく、
「ああ、古い知り合いと二人でよ。だけどどっちも足がねえ。だからお前に迎えに来てもらえりゃあ助かるんだが、どうだ」
須藤にさらりとそう続けられ、戸惑いが続いたことにより、不測の事態に弱い性分を刺激された結果、中里は何も考えられなくなるほど動揺し、「ああ」、と咄嗟に話の調子を合わせていた。
「まあそりゃあ別に、構わねえが……」
何となく受け入れてしまうと、須藤はこちらの意思を確認もせず、朗々と店の場所を説明し始めた。思考が覚束ないまま、中里はそれでも習慣的に頭の中に地図を広げ、所要時間を計算し、告げている。
「じゃあ、頼むぜ」
親しい笑いを感じさせながら、言った須藤が通話を切った。中里は役目を終えた携帯電話をジーンズの前ポケットに戻し、そのまま二十秒ほど佇んでから、腕を組み、考えた。須藤が高崎で飲んでいる。今からそれを迎えに行くと、約束した。
「……やべえ」
中里は青くなりながら、苦く呟いた。突然の話に混乱するあまり、須藤からの電話の直前に決めたばかりの、メンバーとパフェを食べに行く、もといミーティングをしに行く予定を、すっかり忘れてしまっていた。だが先約はそちらである。優位なのはパフェである。とはいえ今更須藤に無理とも言いづらい。一度了解した上で断るのは後ろめたいし、理由は知れないが、栃木から高崎まで来て飲んでいるらしい、電話越しにでも分かるほど、浮ついた須藤の様子は気になった。それに妙義ナイトキッズのメンバーは、中里がいくら注意をしたところで、全員が集まる規模の飲み会でもない限りは、予定をまっとうしないのが常態であり、時間厳守計画完遂傾向にある須藤からよりは、抜け出しやすいものだった。走り屋として、いずれ戻ってくることを、疑われもしないためでもあった。
「やっぱ女かよ」
ミーティングに行けなくなった旨を、急用ができたと説明すると、若手は阿波踊りのような構えをし、「そんな!」、と不可思議な驚愕を表したが、同期の山男風は、したり顔をにやにやさせつつそう言ってきた。
「だから違えよ、知り合いだ」
中里はその断定を不服に思い、しかし真実は口にできるものでもなく、ただ半分の事実に基づいてそう返したが、
「いやいや俺たちにはごまかさなくていいって毅クン、大事な女には気に入られときましょうや」
「そしてセックスだ。セックス」
「頑張れよ、セックス」
「セックスファイトです毅さん!」
俄然応援モードに突入したメンバーは、聞く耳を持っておらず、「セックス万歳」、と見送りのコールを始め、
「違えんだよ」
一人鋭い頬に複雑な陰を作りながら、32に乗り込む羽目となった中里であった。
歓喜と安堵に震えようとする手で通話を切った携帯電話を、空になった皿の並ぶ狭苦しいテーブルに置き、前を見ると、意味ありげな薄笑いとぶつかった。
「何だ」
京一が目に鋭い不審を込めて問えば、
「いや」、日本酒が指の幅一本分底に残っているグラスを、にやついた、目鼻立ちの鮮やかな顔の下、ぐらぐらと揺らしながら、志嶋は言った。
「下僕かと思ったんだけどな」
群馬の親戚が営むカーショップに就職し、チューナーとして工場の一角を任されている、人の車を半年に一度は見ないと気が済まないらしい、この中学時代の同級生は、京一がそういう類の――他人に仕えたがる――『男』を引きつけやすい性質にあることを、経験的によく知っており、隙あらば茶化そうとしてくるものだった。
「そんなんじゃねえ、っつっただろ」
京一は皿の底で茶色いドレッシングの海に沈んでいる、レタスらしき葉物を箸に挟みながら、右の頬を高くして、嘲るように苦笑した。
実際、京一が今しがたの電話で迎えを請うてみた相手は、下僕などでは断じてない。ただしある一定の状況下においてなら、その男は下僕以上の従順さと情熱をもってして、京一に仕えてくる。だがそれは、京一しか知らないことだ。京一の旧友でありその男と既知の仲である、岩城清次ですら知りはしない。それは清次がいなかったからこそ、成立したとも言える関係だった。
「何?」
清次の不在を告げた時の、中里の頓狂な顔と声には、その事態を予想してもいなかったらしい、多大な純粋さが満ちていた。
その男、中里毅が京一の走り屋としてのホームである日光いろは坂を訪れるようになったのは、去年の秋の暮れからだ。それより少し前、京一は自ら構築したチーム、エンペラーを主導して群馬遠征を決行したが、その際叩いた一つのチームの代表者が、中里だった。しかしながらそのバトルに、京一は出ていない。京一にとって群馬の走り屋に敗北を与えることは、因縁の敵である赤城の高橋涼介を追い込むための布石の一つでしかなく、他の泡沫チームと同様に、中里のチーム、妙義ナイトキッズの相手にしても、片腕の岩城清次に一任していた。そしてその清次へのリベンジを果たすため、中里はいろは坂に現れたのだった。
――くだんねえ、おととい来いよ。
バトルがしたいという中里の直談判を受けた清次は、冷たくそう吐き捨てた。元々仲間ではない遅い走り屋に注意を払うほど、博愛精神が豊富な奴でもないから、自分が負かした中里など、どうでもよかったのだろう。端から見ても冷淡極まりないその対応に、だが中里は屈しもせず、清次に対して真剣に、対戦の要請をし続けた。
その際清次の隣にいながらも、京一は二人に介入しなかった。チームとしてやり合うというのならばリーダーとして処理をしたが、そういう話ではなかったし、素性が明確とは言えないまでも、中里には害となりそうな不審さもなく、地域に生きる走り屋としての、泥臭い熱意を清次にぶつけるその懸命さに、何の手助けも得られない状況でどこまで続くものかという、品定めをするような興味をそそられて、あくまでも傍観者を装ったのだ。
――走りを見るってだけなら、やってやらねえこともねえが。
結局二人の温度差のある話し合いは、そのように不承不承清次が折れる形で終わりに至ったわけだが、その後清次は中里と接することに、次第に独自の価値を見出していったようで、中里が栃木に来た折には自宅に泊まらせてやったり、また中里の地元にまで足を運んだり、中里について面白そうに言及したりと、中里と関わる時間を自分から作るようになっていた。それを京一は、悪いことではないと判断していた。理詰めで事を運ぶ京一とは対照的に、感性で突き進んでいくのが、岩城清次という男である。それだからこそ、速さの保てる性分なのだ。その傾向を磨く相手として、中里が丁度良い走り屋であることは、中里が来てから高い水準で均一化された、清次のタイムが裏打ちしていた。したがって、中里の来訪について京一はそれ以上、吟味の対象ともしなかった。
――まあ、バカっぽいけどな。
ただ中里個人については、偏差値の低さを度々露呈する清次がそう侮れるほどの、頭の悪さは窺えないにせよ、その清次と真っ向から下らない言い合い――高校時代の陸上種目の最高タイムで競ったり、バレンタインデーに貰ったチョコレートの最大数で競ったり、雑学の質と数で競ったり――ができる点では、精神年齢は同レベルか、と京一もしみじみ思ったものである。
「じゃあ、今日あいつは来ねえってことか」
また、清次が常にいろは坂にいると疑わず、落ち合う約束も取りつけていなかった点では、抜けていると思わざるを得なかった。そういう中里の人間味と、京一はその時初めて出くわした。清次との会話では感情を剥き出しにする中里も、京一に挨拶をする際には律儀な礼儀を欠かさずに、また早々と辞するため、おそらくまともに会話を交わしたのも、その時が初めてだったに違いない。
「今頃どっかで飲みまくってんじゃねえか。知ってるだろうがあの通り、あいつはかなりのザルだからな」
親戚の引っ越しの手伝いに駆り出されて、終われば飲みに連れ出されると、その前日に清次は言っていた。その日のことをだ。一緒にどうかと誘われたが、京一は遠慮をしておいた。引っ越しの手伝いだけならまだしも、清次の親戚との飲み会となると、午前様は当然で、大概朝日がお目見えしても終わらない。京一も酒には強い方ではあるが、徹夜でぐだぐだと飲み続け、休日を無駄に潰すという自虐趣味も、持ってはいなかった。
「そうか……」
京一の説明を聞き、中里は腕を組むと、深刻に顔をしかめた。ひと月半で重ねた訪問五回目にして、初めて起こった清次がいないという状況に、混乱したらしい中里が、清次と対する時には大抵吊り上げている、太い眉も目も唇も精彩なく歪めた面持ちには、いっそ痛ましいほどの苦悩が滲んでおり、それは京一に思わぬ忌々しさをもたらすと共に、その原因となる一つの感情の存在を、瞬間的に自覚もさせた。
京一は、自尊心の強い男である。幼くして自立を要される環境で築いた人生観を、高慢にも絶対として譲らない。過程を重視しながらも結果にはこだわり、公平性を意識しながらも勝敗を力量の基準とする。しかし同時に、上位の者を敬いはしてもそれにへつらわず、下位の者を教え導いてもそれを足蹴にはせず、暴走行為に耽ろうとも規律秩序を重んじる。自尊心の強い男だが、理知も相応に高いのだった。
その二つの性質が絶妙に混じり合って生まれた、冷静に強硬な職人気質こそが、仕えたがる『男』をよくよく引きつけるわけだが、京一はそんなものを自ら求めたことは一度もない。便宜上走り屋としてのチームを組んでいる以上、指導者としての矜持もある。だが京一がドライバーとして公道にも拠点を置くのは、正統なモータースポーツに基づく知識と技術と経験の完全性を、あらゆるコンディションで優れたドライビングを発揮できるものとして自ら選んだ、ランサーエボリューションという車に反映させ、峠を制覇することにより、盲目的な公道至上主義の連中に知らしめてやるためであり――高橋涼介に負けて以後は、公道ならではの走りの追究も目的に加わったが――、いろは坂において最も速いという実力以上の名誉も、有象無象からの賛美も望んだことは一度もなかった。見え透いたおべっかを使われれば吐き気を催すし、めくらな自惚れ屋は軽蔑の対象だった。
ところでいろは坂を訪れる度に中里は、真っ先に清次に向かう。清次と走ることが、中里の目的だからだ。それは中里が清次に負けており、それへのリベンジ魂を燃やしているという、走り屋個人間の因縁によるのであって、京一には関係がない。
しかしながら京一は、清次の不在に強い落胆を示した中里を目の当たりとし、忌々しさを感じさせられた。自分よりも劣る清次、それと同レベルの走り屋に過ぎない中里が、何をしようが本来ならば、気にもならないはずだった。だが、その中里が、自分を差し置き清次を優先しているという状況に、京一の自尊心――ドライバーとしてではない、男としての、自分が認めた相手以外からの評価など、意にも介さぬ強さも持ったもの――は、忌々しさに繋がる痛痒を、明確に覚えたのである。
そして京一は、それと同様の不愉快さを、これまで自分が幾度も――例えば中里が清次に好影響を与えている二人の関係について、悪いものではないと判断しておかなければ、何らかの妨害をしてしまいそうなほど頻繁に――感じながら、その度無視をしていたこと、自分が中里を、その清次と同レベルの走り屋に過ぎない男を、いつからか、あるいは最初、清次に果敢に向かっていく姿を見た時から、自尊心を費やす対象と認め、その評価を、すなわち注意を、意識を求めていたということに、そこで初めて気付いたのだった。
俺も同レベル、いやそれ以下か――中里が清次に執着している相応の理由を、納得しようとしないまでに、自分のうちに育ちきった、中里に対する一つの感情、原始的な執着心を、京一は厄介に思いながらも、
「俺でも良ければ相手になるが」
関わりを差し控えなければならないほどの、悪質性は感じなかったため、あくまで清次と同じチームの人間として、そう言っていた。
「……あ?」
中里は深刻に歪めている顔を上げ、それを不可解げに変じさせながら、京一を見た。聞こえていなかったのかもしれない。
「清次が来ないなら、無駄足になるだろう。走るくらいなら、付き合ってもいいぜ」
押し付けがましくならぬよう、できるだけ淡々と、ただ要点は押さえて京一は提案し、中里はそのまましばらく、不可解げな顔を続けていたが、急にそれを解くや否や、「そんな」、と次には困惑で曇らせて、
「あんたにそんな、迷惑はかけらんねえよ、須藤。ただでさえ岩城絡みで邪魔しちまってるのに、そこまでしてもらうわけにはいかねえ」
慌てたように、言い募ってきた。その瞬きの増えた目、尖りがちの唇、胸の前に出された手、いずれにも極端な後ろめたさが窺えて、京一はそこに既視感を覚えていた。確か、初めてこちらに挨拶をしてきた時も、中里はこんな態度ではなかったか。知らずに無視するみてえになっちまって、と後ろめたそうに顔を強張らせ、頭を下げてはこなかったか。名乗りもしてねえ相手のことは、知らなくても当然だろ。そこまで気にされるいわれはないことを暗に示すために、京一が滑稽さを声に混ぜながらそう返しても、中里は表情を緩めることなく、いや、俺が悪かった、と繰り返しはしなかったか――。
そうだ。その時から中里は、おそらく清次絡みで邪魔をしているという、京一からすれば筋違いも甚だしいが、本人にとっては疑いようのない、強い負い目を持っていたのだろう。だから挨拶以外で近づいてはこなかった。中里はこちらを見くびっていたわけでも、見逃していたわけでもない。邪魔をしたくないという一念で、ただ遠慮をしていたに過ぎないのだと、京一はその時また初めて気付いたのである。
つまりお互い、悪くは思ってなかったってことか。胸に広がっていたもどかしさの跡に、それとは似て非なる、熱がこもるようなむず痒さを感じ、
「迷惑だとか邪魔だとか」、京一は反射的に肩をすくめた。「そう思ってるなら言ってないさ。俺はそこまで心の広い人間じゃねえんだ」
趣味の世界で篤志家を気取っても、自分に百の利があるわけではない。平等は心がけるが、嫌なことは嫌と言う。それを言わない場合は、嫌ではないというだけだ。
「しかし……」、中里は腕を組み直し、顔に困惑を浮かべたまま、言葉を濁した。
嫌ではない。だからといって、相手がそうとも限らない。京一は細くため息を吐いて、片手を目の前で払った。この男にもう、必要以上の気遣いをされたくもなければ、したくもなかった。
「まあ、嫌ならいい」、京一がそうして話を打ち切ろうとすると、
「嫌なんかじゃ」、中里はそれを恐れるように、すぐさま語尾に被せてきた。「なくて、ただ……」
「ただ?」
その割に、言葉を続けるのは躊躇する。しかし眉間を険しくしながらも、口を何度もわななかせるように開け閉めしている様を見ると、何かを言おうとしているという、その努力は伝わった。また、胸の前で組んでいた手の片方で、手持ち無沙汰のように撫でている肉の薄い頬には、多少の赤みが浮き出ており、その中里の言おうとしている何かが、悪いものではない可能性の高さを示唆していた。
別に火急の用件があるわけでもなかったため、京一が中里の口が再び開くのを黙って待っていると、中里はまた腕を組み直して、一つ決意と諦めの詰まった息を吐き、窺うように京一を見上げた。
「……一回甘えちまうと、際限つかなくなりそうでよ」
何ともばつが悪そうな、中里の顔だった。それを京一は意外な思いで見た。ただ共に走ることを甘えとする考えは、そうした強い欲求があるからこそ――その欲求が、相手を損なうと案ずる心があるからこそ――、生まれるものだろう。清次しか見ていないと思われた中里に、自分がそこまで認められていたことは、意外だった。そして、快かった。
「……くっ」
京一は、笑っていた。中里は、不意を突かれたように目をしばたかせ、京一を見る。
「な、何だ?」
「いや、そうか」、京一は緩まりすぎた口元を、指で締めながら言った。「面白いことを言うもんだな」
「面白い?」
「ああ」
「いや、特に面白えことを言ったつもりはねえんだが……」
怪訝そうに、そしてどこか不安げに、中里は顔をしかめて身を縮ませる。その様子が、なぜかやたらとツボにハマり、そんな自分がまたおかしく思え、京一は口元を締めることを諦めて、しばらく笑い続けていた。仕事ならいざ知らず、私生活で万人に媚びを売る意義も感じないため、他人を遠ざけがちな己の――無骨な輪郭、威嚇に秀でた鋭い双眸、喜と哀楽が適切に反映されない強面の――風貌も、愛想の出にくい態度も峠では放置している京一の、日頃の老成ぶりとかけ離れた怒涛の笑いっぷりに、
「……そんなに笑うこたァねえだろ」
面食らったのだろう、中里も最初は唖然としていたが、そのうち苛立ちを感じさせる口調と顔つきで、不服そうに言ってきた。京一は笑いを収拾できぬまま、
「悪いな、お前が面白いんだ、中里」
咳き込みかけつつ言い、中里は数秒不愉快げに眉間に皺を寄せるも、つられたように失笑し、
「あんたの方が、よっぽど面白いぜ、須藤」
不敵に気安く、そう言った。
腹の底から笑い合ってしまうと、打ち解ける以外に道はなかった。峠にいながら会話に夢中になっていた。清次から聞いた互いのこと、走りの哲学、愛車の優位性、地元の質、生活環境、話題は探す前に口から出ていき、遂には高橋涼介にまで及んだ。それを過剰に意識せずに話せたのは、中里が高橋涼介というドライバーの能力を高く評価していても、あの男自身を崇めてはいなかったからかもしれない。まあキザったらしい野郎だよな、それが似合うくらい速えんだけどよ、そう苦笑する中里とは、ただ一人の、カリスマ的な走り屋をやっていた、キザったらしい男としての涼介について意見を交わせ、京一はねじくれた執着心から離れた、一種解脱したような爽快な気分を味わった。
会話だけで煙草を何本も消化した後、自宅に誘った。帰りを気にせず、話を続けたいという気持ちが膨れ上がっていた。中里は一度は遠慮したが、二度はしなかった。同じ気持ちがあることが、気恥ずかしげな笑みから伝わってきた。
折角の思考のやり取りを、アルコールで濁すのは無粋に思え、酒は入れなかったのだが、清次の家には泊まり慣れているらしい中里も、京一の家に上がることには緊張を避けられなかったようで、はじめから興奮状態に陥っており、ミネラルウォーターを片手にソファに隣同士、向き合うように腰掛けた頃には既に、京一が口を挟む間もないほど多弁になっていた。したがって京一は聞き役に回ることを余儀なくされたものの、それも不快というわけではなかった。室内の調度品の配置や、色調の組み合わせに感心し、いちいち興奮に赤く染まった顔と目を向けてきながら、家族や仲間との好みの相違などを熱心に、楽しげに語りもした中里の姿は、自己防衛のために磨き上げた自己主張を、京一に忘れさせるほどの、慈しみを誘うものだったのだ。
とはいえ、さすがに物事には限度があるらしい。二十分ほど経過すると、中里は目を合わせてきたところで、浮かべていた笑みを固まらせてから消し、「あ、悪ィ」、と居住まいを正した。
「俺ばっか喋ってんな、さっきから」
粗相をした子供のような、ばつの悪さが透けて見える態度には、やはり笑いを刺激され、噴き出さぬよう、そうだな、と短く京一は返した。
「いつもはこんなんじゃねえんだ。何か今日は……」、考え込むように斜めを見た中里が、しかし適当な言葉を見つけられなかったのか、ため息を吐いて首を振る。「おかしいな、悪い」
「なら」、京一は上がりたがる頬の角度を顔面筋で調整しながら、思考の糸口をやるために問うた。「いつもはどうなんだ」
「どうって……」
中里が困ったように、窺ってくる。目が合った。言葉がない状態での見詰め合いは、自分の領域で、中里と二人きりであるという状況を、京一に意識させた。誰の視線も構わずに済む、中里のみに構えるその状況で、京一は中里に少し顔を近づけ、そこで中里が退かず、ただ陶然としたような目で見返し続けてくることを確認してから、キスをした。それが最も自然な行いに思えたからだ。
唇が触れた瞬間、中里は体を少し揺らしたが、角度を変えて接触を深めても、拒みはしなかった。穏やかな、だが揺るぎない欲望に基づき、京一は卑猥な音を立てながら、中里と唇の粘膜を擦り合わせ、舌を絡み合わせ、唾液を混じり合わせた。中里はそれに、つたなく応えた。
「ん……」
鼻から漏れた中里の、掠れ気味の甘えがかったような声に、神経があぶられ、背中に回していた手を、腰に滑らせた、その時だった。それまで従順だった中里が、突如キスを振り払い、京一を突き放してきたのだ。
「……すまん!」
顔を見る間もなかった。叫ぶと同時にソファから立ち上がった中里は、足をもつれさせながらも、一目散に部屋を飛び出した。まさに脱兎のごとくである。京一は束の間呆然としたのち、上着も忘れて中里が出て行ったという状況を把握すると、すぐに慌てて追いかけた。
アパートから出て、すぐの路上だった。街灯が半分照らす、黒いシャツの背中が見えた。動きはなく、周りには誰もいない。近づいていくと、肩を揺らしている中里の、後ろからでも乱れた息遣いが、よく聞こえた。進みも戻れもしない、袋小路に入り込み、立ち竦んでいる男の、後ろ姿。それに途方もない、視界と思考を占有されるほどの狂おしさを感じ、人気のない路上、京一は中里を、背中から掻き抱いていた。
「中里」
耳元で呼びかけると、腕の中の体が強張る。唾の飲み込む音が、大きく聞こえた。
「……駄目だ、須藤」
湿らされたはずなのに、木枯らしのように乾いた声だった。何が、と聞けば、もう一度唾を飲み込む音と、掠れた声。
「俺は……無理だ」
「だから、何が」
問いをはっきり口にすると、中里は、一層体を硬くした。京一は返答を待った。逃がすつもりはなかった。逃がしてやれる余裕はなかった。駄目だという、無理だという、それがどんな理由であろうとも、この手で潰し、その男を、捕まえておくつもりになっていた。
中里が、呼吸を速くする。吐き出す息の音だけで、その熱さが、伝わってくるようだった。必死に唾を飲み込む音、そして湿り気の増した声が、続いた。
「……我慢、できねえんだよッ……」
言うと同時に、前へと動きかけた中里をしっかと抱き留めながら、京一は笑いそうになった。我慢――嫌なものを嫌と言えない、お互いそんな体質の男ではないことは、その日の会話だけでも十分に知れていた。だからそれは、嫌悪を我慢できないという意味ではない。我慢できないのは、つまり――先に進みたいという、その欲求だ。
京一は、めくるように、口の端を上げていた。「そんなもん」、中里の腹の前で腕を組み、その尻に、自分の熱の混じり始めている股間を押しつけながら、堪えきれずに噴き出した。
「俺だって、できねえよ」
それで、駄目も無理もないというものだった。中里の体から、力が抜けたのが分かった。戻ろうぜ、言うと腹の前で組んだ手に汗ばんだ手が重ねられ、ああ、とため息に似た声が返ってきた。
我慢はしなかった。させもしなかった。アパートに帰るなり、キスで乱し、ジーンズの中で射精させた。小便を漏らしたような羞恥を見せた中里の、うぶなくせに淫らな様に、興奮しないのは無理だった。勃起を抑えられなかった。
自分が男相手に役立つということに、京一は内心驚いたものである。要求されて女の尻に入れたことはあるが、そうでもなければ女は元より男の尻に入れたくなったことはなく、男に欲情する男の存在は、忌避までしないが理解ができるわけでもなかった。だがその時京一は、男である中里にこの上なく欲情しており、またそんな自分に驚きはしても、混乱はしなかった。結局そういう形に収まるしかないのだと、どこかで予感はしていたのかもしれない。原始的な執着心が、それを構成する一つの感情――いわゆる恋情というやつの、辿りつく先がそこにあることを、覚悟していたのかもしれなかった。
いずれにせよ京一は、そんな恋情から生まれた欲望を、常識に照らし合わせて処理するのではなく、自分の価値観の下で冷静に受け入れた。そして自分以上の驚きを露わにしながらも、自分の与える刺激にただならぬ快感を表した中里を、それに劣情をそそられる自分をもってして、そのまま抱くことに決めたのだ。
方法は当然知っていた。広義では経験もあった。傷つけないようにするつもりだった。気遣えたのは、途中までだ。尻をじっくり解しながら、唇や乳首やペニスを軽く愛撫してやるだけで、ジーンズの上から膝で押してやった時のように、また簡単に射精した中里を見て、触れてもいないのに硬く張り詰めた京一のペニスは、中里の内部を味わうことを激しく希求した。結局穴を広げる作業も早々に、そこに突き立てずにはいられなかった。
「須藤、すどぉ……」
緩め足りない箇所であっても、入ってしまえば拒まれることはない。急く必要もなかったが、汗に塗れた真っ赤な顔を、切なそうに歪めた中里に、何か求めるように舌足らずに呼ばれながら、尻を貫いたペニスを、奥に誘うように締めつけられると、留まる理由も思い浮かばなかった。京一は躊躇せずに抜き差しを繰り返し、中里は喘いだ。初めて体を重ねたとは思えないほど、それはぴったりと調和した行為だった。深いところ、体の真っ芯を走る神経に、その奥にある精神に、直接触れ合っているようだった。ろくに姿勢も変えず、互いに極みに上り詰めても、名残惜しさに囚われて、二度行った。翌朝、立てなくなっていた中里を、京一はその日じゅう介抱し続けた。
清次がいなかったその日、それ以来の関係であった。
「じゃあ、やっぱダチなのか?」
グラスの酒を干した志嶋が、何の気もなさそうに聞いてくる。京一は塩辛い葉物を最後の焼酎で流し込み、顔色を変えずに答えた。
「そんなとこだな」
正確には、違う。下僕ではないが、友人でもない。京一にとって中里毅という男は、紛れもない恋人だった。だが同性愛――互いにその傾向がなかったとはいえ、やることはやっているし、関係も定義した――に及んでいることなど、他人に零せるものでもない。清次にすら知らせていない。互いの立場が侵害される可能性は、できる限り減らしたかった。だから無闇に連絡はしない。決めた日以外に会うこともない。
それにも関わらず、敢えて志嶋の前で中里を呼び出した。酔って、気が大きくなったのだ。
志嶋の工場にエボを預けてやり、志嶋馴染みの居酒屋へ行き、志嶋の家に泊まる。高校卒業以来、半年の一度で行っている交流だった。その予定に、群馬にいるというだけの理由で、中里を組み込むつもりは毛頭なかった。
だが酒が入っていくうちに、自然と考えていた。週末には峠に行く、それは大概の走り屋の習性である。特に中里は日曜が休みだから、その前日、夜更かしに適した土曜には、確実に妙義山に行っている。他に予定を入れたがらない。京一の家に来る時でさえ、なるたけ別の休日を使おうとする。そこにいなければ何があったのかと周囲に怪しまれるほど習慣的に、土曜の中里は峠で走っている。つまり今夜、中里は極めて高い確率で、妙義山に素面でいるということだ。
考え、酔って気が大きくなった自分は、確かめたくなったのだ。中里は断らないだろう、そう思った。急な呼び出しにも応じるだろう。中里にとって自分はそういう時、優先される人間だ。それを誰かに、事情を知らない相手にでも――志嶋にでも、見せつけたくもなった。だが実際、中里が要請を受諾するかは分からなかった。それを、確かめたかった。確かめる必要もないと思っていたものだった。受け入れられて、気が付いた。確かめるのが、怖かったのだ。
中里は来る。電話越しにも、狼狽が伝わってきた。今頃どういう顔をしているのか、想像するだけで笑みを零しそうになる自分の顔を、京一はアルコールに食われていない理性でもって、引き締めた。
指定された『居酒屋よっちゃん』の構える道の脇、二メートルほど奥に車を停め、携帯電話を持つ。帰っちまおうか、とも思ったが、そうすれば会わなかった後悔で、朝まで眠れなくなる自分がいることを、中里は嫌というほど知っており、結局手にした携帯電話で、須藤の番号を呼び出した。
二回コールが続く前に、「よお」、と須藤が出た。やはり声は軽い。
「来たぜ」、中里は素っ気なく言った。
「分かった。今行く」
それを気にした風もなく、須藤は言い、通話を切った。ほどなくして、バックミラー越しに見える、掘っ立て小屋めいた居酒屋から、二人の男が出てくる。一人は黒い長袖のシャツにベージュのワークパンツ、一人はグレーのプルオーバーパーカにダメージジーンズという装いだ。肩幅の目立つ黒いシャツを着ている方が、須藤だった。
中里は、車から降りた。向こうは車もナンバーも知っている。出迎える必要もないが、わざわざ仲間との会合を断ってまで、駆けつけたのだ。少しは恩着せがましくしてやりたかった。
「……よう」
近づいてくる須藤に、声をかける。須藤は少し赤らんだ頬を、しっとりと緩めた。
「悪かったな、わざわざ」
特別親しげな笑みを浮かべた須藤に、素直に感謝を示されると、いきなり呼び出しやがって、という正当な不満も、腹の奥に引っ込んでしまった。中里は肩をすくめつつ、「別に」、と言った。
「大したことじゃねえよ。気にするな」
「そんなこともねえだろ」、須藤の赤紫がかった唇が、上に向かって弧を描く。「まあしかし、何にしても、助かった」
二人きりでも滅多に浮かべない、緩みの強い笑みを絶やさぬ須藤を、路上で見続けているのも何か照れ臭いものがあり、中里は首を縮めるようにぞんざいに頷いて、須藤の隣にいる、グレーのパーカーの男に顔を向け、どうも、と頭を下げた。刈り上げられた明るめの茶髪、重厚な須藤とはまるで異なる軽妙な顔と雰囲気を持ったその男は、不思議そうに中里を見た。会釈も返さず、じっと見てくる。
「……何か?」
不審に思い尋ねてみれば、途端男は「おたく」、と分かりやすく眉をひそめた。
「もしかして、中里毅さん?」
「知ってんのか?」、中里が返事をする前に、一瞬で笑みを消し、怪訝そうな顔つきになった須藤が、男に聞いた。
「やっぱり」、男が手を叩き、愁眉を開いて、大きい笑みを浮かべる。「うちで働いてる奴がおたくのこと、前に話しててな」
「働いてる、っていうと」、今度は中里が先に声を出した。
「内藤幸也ってんだけどさ、あー、ガリな狐っぽい奴。覚えてるかい?」
少し記憶を探ってから、ああ、と中里は思い出した。内藤幸也。昔、少しだけ世話をしてやった少年だ。今でも年賀状のやり取りくらいはしているが、就職先は聞いていなかった。
「そりゃ勿論覚えてるが」、一人前になったらお知らせします、と言った十五歳の少年の真剣な顔は、今でも鮮明に思い出せる。「あいつ、そちらさんでお世話になってるのか?」
「まあな」、男が笑みを一層大きくしてから、あ、と思い出したように目を瞬き、手を差し出してきた。「俺は志嶋。志島和秀、よろしく」
人懐こい笑顔だった。中里は自然と笑い返しながら、志嶋の手を握った。
「中里毅だ、よろしく」
握手を交わして少し離れると、志嶋の隣に立つ、須藤の顔が目についた。先ほどまでの穏やかな笑みがどこへやら、いつも通り――それ以上の、感情の読めない、冷厳たる面持ちになっていた。
「こいつも送ってもらっていいか」
その顔のまま、志嶋をしゃくった顎で示し、須藤は言った。中里は、その平坦な調子に、悪寒を誘われるような怪しいものを感じながらも、他人がいる手前踏み込んでどうしたのか尋ねることもできず、ああ、まあ、と答えてから、でも狭いぜ、と言う前に、
「カズ、お前は前に乗れ」、須藤は中里を一瞥もせず、32へ歩きながら志嶋に言った。「先に降りるだろ。俺は後ろに乗ってるからよ」
「そうだな」、頷いた志嶋が、笑顔を向けてくる。「じゃあ、よろしく頼むよ」
それを無視するわけにもいかない中里が、志嶋に自宅までの道を聞きながら、志嶋と共に32に着く頃には、須藤は既に後部座席に乗り込んでおり、
「幸也の奴、あんたに改心させられたって言ってたぜ」
発車させてすぐ、志嶋がそんな身に覚えのない話を振ってきたものだから、一応聞いた方がいいよな、と考えていた須藤の送り先が、頭から弾き飛ばされた。
「改心?」
「家に住ませてやってたんだろ? 出会った頃だっけ?」
出会った頃といえば、五年も前の話である。だが、覚えてはいた。
「そうだな、そんなこともあったか」
「あいつ、その頃結構トンがってたと思うんだけど、何でそんな不良少年預かってやろうって気になったんだ、中里さんは。幸也の話はあいつ目線だから、そこんとこピンとこなくてな」
「あー……何つーか、な」、中里は左手をステアリングに置き、右手で頭を掻きつつ言った。「俺、泣かせちまったんだよ、あいつのこと」
へえ、と志嶋が興味深そうに相槌を打ってくる。身元が明確ではない、トンがっていた少年を受け入れた職場の人間なら、今更偏見を持つこともないだろう、そう信じられるほど、嫌みのない態度の志嶋だった。当時のことを思い出すのも懐かしく、中里は記憶が蘇るに任せ、昔話をしていた。職場からの徒歩での帰り、少年たちのいざこざを見つけたこと、小さく細い子ぎつねのような幸也が一方的に殴られていたこと、見逃せずに助けに入ったこと、連れて逃げた先で、余計なことをしてんじゃねえよ、と幸也に威嚇されたこと――。
「誰が助けてくれって頼んだんだ、ありがとうって言われるとでも期待したのか、とか何とか、こまっしゃくれたこと言ってくるからよ、俺もイライラきて、てめえの言い分なんか知るか、全部こっちの都合だクソガキが、助けられねえ権利があると思うなよ、って感じで、つい怒鳴っちまってな」
するとそれまでツンケンしていた幸也が、突然泣き出した。涙を次々頬へと零し、しまいには膝から崩れ落ちての、周囲憚らずの号泣である。うろたえにうろたえた中里は、何を言っても泣き続ける幸也を抱え、ともかく自分のアパートに連れ帰った。茶を飲ませる頃には落ち着いた幸也の、そこで身の上話が始まった。住所不定無職の十五歳の少年が、いかに孤独に追いやられているか、その悲惨な状況を聞いてしまったが最後、放り出すこともできなくなり、中里は懇意の大家に事情を説明して許可を得ると、当分は、寝場所を貸してやることにした。
「でも、俺がしたのはそれだけだぜ」、手際よく家事をこなしつつ、大家と仲良くなり小間使いのようなことをやっていた幸也が、長く続ける仕事を決め出て行ったのは、確かそれから二ヶ月も経たない頃だ。「改心したのは、あいつが元々そうできる奴だったからだろ」
自分もギリギリ未成年で、今とは大きく違い、走り屋というものもよく知らないまま、仕事に集中していたため、そう優しくもしてやれなかった。それで幸也が自立できたのは、本人にその資質があったからに違いない。結論を出し、中里は志嶋をちらりと見た。志嶋は滑らかな顎を手で撫でながら、面白そうに、笑っていた。
「あいつ、今でも大事そうに持っててさ」
唐突な話題の出し方が、チームのメンバーを思い起こさせる男だった。だからこそ、幸也の話もしやすいし、言葉も返しやすいのかもしれなかった。
「何を」
「あんたの写真」、顎に当てていた手を、志嶋が紙を表すかのように、ひらひらと振る。「今とあんまり変わりがねえよな、おかげでそうじゃないかとすぐに分かった」
そういえば、欲しがられたからくれてやったことがある。地域の祭りで撮った写真だ。自分でも忘れていたようなものだった。
「五年は前のなんだけどな」、中里は苦笑した。「んなもん、捨てちまっても良いってのに」
「そうしない理由、何となく分かったよ」、志嶋がからりと笑った。「あいつの言う通り、あんた良い人だ」
初めて会った人間に、それも須藤の知り合いに、そうも当たり前のように褒められるとは思ってもおらず、中里が新鮮な驚きに襲われ、咄嗟に言葉を返せなくなると、
「ああそこでいい」、と、志嶋が前の路上を指したため、中里はとりあえず、ああ、と言い、路肩に32を停車させた。
「けどあいつ」、シートベルトを外した志嶋は、秘密を共有するような笑みを浮かべながら、
「まだあんたに働いてる場所知らせるつもりないって言ってたから、ま、俺のことはコレで」、
口の前に人差し指を立て、そのまま後ろを向いた。
「京一、お前も頼むぜ」
「ああ」
志嶋に頷く須藤は、車に乗った時と変わらず、感情の窺えない顔をしていた。
「じゃあ、お世話になりました」
志嶋が降りて、続いて須藤も窮屈そうに降りる。志嶋の家に泊まるのだろうか、それともこれから栃木まで送って行けば良いのだろうか、中里は聞こうとしていた疑問を思い出した。そもそも須藤はどうやって、群馬まで来たのだろうか。
「そうだ、何なら中里さんも入れて飲み直すか? うちは人が増える分には問題ねえし」
開けられたままの助手席のドアの向こうから、笑いを含んだ志嶋の声が聞こえる。
「いや」、須藤の声は、それと比べれば冷ややかなほど、落ち着いていた。「俺はこいつの家に泊まらせてもらう。明日また、ここに来るよ」
「そうか、じゃあ明日」、軽い志嶋の声の後、足音が遠ざかり、須藤が助手席に乗ってくる。
「行けよ」
それだけを言い、シートベルトを着ける、須藤の顔は、無表情という表情しか作っていなかった。
――うちに、須藤が泊まる。
その時初めて、須藤に直接言われずにして、中里はそれを知った。
32を家へと向けながら、中里は沈黙を恐れるように喋り始めた。京一の旧友である志嶋について、それと繋がっていた内藤幸也という少年について、どういう人間であるかという印象を語り、
「意外な偶然もあるもんだな」
上擦った声と、同意を求めるような口調でそう言ってきた中里を、京一は見ることもせず、ああ、と必要最低限の相槌を打つに留めた。中里は他にも何か言いたそうな――こちらが本当に中里の家に泊まるつもりかどうか、聞きたそうな――雰囲気を放っていたが、結局それきり口をつぐんだ。見なくとも分かる。隣でステアリングを握っている男は今、過度の重圧に苛まれ、脂汗の浮いた顔を、奇妙に硬直させているに違いない。その原因が自分の態度の急激な変遷にあることを、京一は理解していながらも、中里へは一度たりとも顔を向けず、灯りの少ない住宅の並ぶ、ウィンドウの外を眺め続けた。
腹の奥が重かった。刺々しいものが溜まっていた。二ヶ月間、一緒に住んでいたという少年。五年も前の中里の写真を、大事そうに持っている、男。そんな話は聞いていなかった。抜けている面のある中里のことだから、志嶋に言われるまで、その幸也だかいう男のことも、明確に思い出しもしなかったのだろう。その程度の相手なのだ。その概略を中里が、活き活きと、楽しげに志嶋に語ってみせたところで、大したことではない。清次相手ですら、話題によっては中里は、愉快そうに振る舞っている。地元のチームの人間相手に至れば尚のこと、いくらでもそんな風に接しているのだろう。気にするようなことではない。奴らが知っているのはそれだけだ。中里の熱情をはらんだ目の艶やかさも、汗にまみれた肌の感触も、隠されている肉の歯応えも、股関節の柔らかさも何も、奴らは知りはしないのだ。それを分かっていてもしかし、京一の腹には、毒々しく刺さるものがあった。
酒のせいだ。いつになく浮かれていた。中里が、人生の中心に据えている走り屋活動を切り上げてまで、自分のためだけに個人的な時間を使う。そのことが、単純に、嬉しかった。自分がそうされるに足る人間であると証明されて高揚し、軽い躁状態に陥っていた。中里という男の良さを、中里と自分の親しさを、車中志嶋にそれとなく、自慢しようと思っていたほどだった。だが、そんな気分は長続きしなかった。古い仲間に会ったかのように、志嶋に笑いかけながら握手をする中里を見たら、何もかもが、一気に冷めた。冷や水をぶっかけられたようだった。志嶋に対し、こちらの知らない人間との思い出を、豊かな感情を交える中里を見る頃には、冷めた気分を、邪悪なものが覆っていた。それは宿を借りるという無断の決定を、家主たる中里に直接告げずして受け入れさせた今も、晴らされることなく臓腑を暗く焼き続けている。
京一は舌打ちしかけ、中里から見えない方の下唇を噛むに留めた。あまりに下らないために、認めたくはないが、否定の仕様もない。これは嫉妬だ。自分の知らない中里を、知っている人間がいることへの、何とも単純で愚かしくガキ臭い、理不尽にもほどがある、付き合う前、中里に優先されていた清次にしてしまっていた時よりも身勝手で悪質な嫉妬、そのものだった。そんな下らぬ感情を処理できず、中里を困惑させている自分に苛立ちながらも、自分の前でそういうものを掻き立てるような、無防備な態度を他人に見せた中里に、歪んだ恨みもあり、またそれこそが理不尽だと理解できるだけの、正常な思考は残っているため、傲慢な八つ当たりを避けるべく、京一は黙っている他はなく、結局中里の家に着くまで、二人の間に会話は生まれなかった。
「悪ィな散らかってて、お前が来るなんて思ってなくてよ」
1DKのアパートの一室は、生活感はあるが、断りを入れられるほどの、汚らわしさはない。家主が生きやすいように整えられている。中里らしさが改竄されずにあるここにも、お仲間ならば構わず上げるのだろう。
「その辺に適当に座ってくれ、ああ何か飲むか?」
「いや」
京一はごく短く返し、掛け布団が端に畳まれているベッドに腰掛けて、小さく息を吐いた。
関係を持ち始めてから二ヶ月目、来させてばかりでは負担が大きいだろうから、次はこちらから行くという、多くの興味を秘めた公平性に基づく妥当な提案を、中里が即座に断ってきた時には、何かやましいことでもあるのかと、京一も疑ったものだった。だが、うちはいつ誰が来るか分からねえから危険なんだよ、と言った中里が、辟易のため息を挟みつつ語った具体的な事例――連絡なしに押しかけてきては金欠で食べるものがないだの彼女と喧嘩して帰れないだの何だのと泊まりにかかる、不在中でも勝手に作った合鍵で侵入しベッドを使ったり酒盛りを始めたり洗濯をしたり模様替えをしたりエロ本を置いていったりする――を聞いているうちに、疑念を抱くのも馬鹿らしくなった。中里のお仲間とはそのように、鉢合わせは警戒するべきであっても、中里との仲を邪推する必要もその価値もない、非常識で不躾で単純馬鹿な野郎の集まりなのだった。
ただ、それを分かっていながらも、中里と他人の間にある特別な、何のしがらみもない親しさを、今の京一はひねくれた形で感じることしかできず、女々しいな、忌々しく思い、台所に向かった中里から、視線を逸らすように横に向けた。そして、動きを止めていた。
ベッドの頭側と壁との間には、薄いスチールラックが据えられている。場所ごとに本や服や目覚まし時計などが並ぶその中段、ティッシュの横にある、淡い色合いのチューブが目についた。洗顔フォームのようだが、そうには見えない。京一は何も考えず、体が動くまま、それを手に取っていた。
何のためのものであるかは、一目で知れた。それでも表面から裏面まで、容器に記された文章に素早く目を走らせていた。品名、使用方法、注意事項。推測の裏付けにしかならなかった。脳の芯が冷えていた。だが、心臓は熱く鳴っていた。どこかの神経が切断されたかのように、頭と体の感覚がばらばらになっていた。
印刷されている細かい文字を、つぶさに一通り読み終えると、京一はチューブを両手に収めて開いた膝の間に入れ、台所を見た。流しで水を飲み終えたらしい中里が、こちらを向くところだった。合った視線を一度外してから、恐る恐るというように再び合わせてきて、近づいてくる、その顔は青白い緊張に覆われており、京一に自分の狭量さを痛感させた。
これは嫉妬だ。非常識で不躾な単純馬鹿でもしそうにないほど程度の低い、嫉妬そのものだった。それを分かってながらも、京一はやはり処理をしきれずに、目の前まで来た中里へと、持っていたチューブを突き出すように見せていた。面を食らったように目を瞬き、それを見下ろした中里の顔から、表情が消え、血の気が完全に失せたのは、すぐだった。
「それ」
「誰かと使ったのか」、一言発して口を閉じた中里へ、京一は尋ねた。
「違う」、即座に中里は、叫ぶように否定する。
「正直に言えよ」、京一は畳み掛けるように言った。「俺はただ事実が知りたいだけだ。他の誰かとやったのか」
聞くつもりもなかったことだった。思考を飛び越え、言葉が出ていた。
「嘘じゃねえ、本当だ」、中里の返答はやはり早い。「違う、他の誰ともやってねえ、あんなこと」
「ならこれは何なんだ」
手の中にある、互いに使途を理解しているものを、もう一度突きつけながら、衝動的に京一は凄んでいた。自分が何を知りたいのか、何を中里に言わせたいのか、頭で整理するいとまもなかった。中里は痛々しげに顔をしかめ、逡巡するように視線を泳がせると、大きく唾を飲み込んで、口を開いた。
「チームの先輩が、俺の」、今度はチームか、というささくれた思いは、喘ぐように、切れ切れに続けられた答えを聞いて、あえなく消えた。「二十歳の、誕生日の時に、色々くれたんだ、その、そういう……ものを、ジョークで」
中里が、唾を飲み込む。その音は、京一に初めての夜を思い出させた。腕の中、駄目だと言った中里、無理だと言った中里、我慢ができないのだと、辛そうに告白した中里。それらはすべて、中里の抱える欲望の、懺悔だった。
「どう処分すりゃいいか、分からねえしそのまま、置いといて、それで、ずっと忘れてて……けど、お前のこと、考えてたら……思い、出して」
言葉が途切れる。中里の顔には血の気が戻っている。戻りすぎているほどだった。これも、同じなのだ。中里は懺悔しようとしている。他の誰かと関係を持ったことをではなく、非常識な連中から成人祝いにジョークで貰ったそういうものの一つ――アナル用の潤滑剤――を、こちらを思い出しながら、
「一人で使ったのか?」
そうしたことを、告白しようとした、それだけなのだ。その証拠に、運動もしていないのに、肩で息をし始めた中里の、頬には羞恥の赤がおびただしく広がっており、目は自責のうるみが浮いている。京一は中里を見上げたまま、手にした容器の潰れ方と、その重みを確かめた。
一ヶ月に一度は会っていた。初めて抱いた時、一日を台無しにするだけ酷使してしまったから、それ以来およそ半年、行為中に尻はいじっておらず、当然ながら挿入もしていなかった。そうしたいという欲望はあったが、ペニスをしごき合うなり、中里に口腔奉仕をさせた後、射精させてやるだけでも、快感は十分に味わえたし、さほど疲労も溜まらずに済んだ。何より中里は、咥えてくるだけで、勃起していた。京一のペニスにそっと唇を被せ、唾液をなすり、懸命に口腔で締めつけ、しゃぶり、膨張したそれの、裏筋や雁首をうっとりと舌で舐め、時に亀頭が喉を塞ぐまで咥え込みながら、中里は見た目で分かるまでの興奮を、下腹部に表していた。そんなに欲しかったのかと聞けば、まさしく下僕以上の従順さと情熱をもってして、応えてきた。そういうものだと思っていた。それを求められていると思っていた。それだけ与えてやれば良いと思っていた、だが求められている、その度合いが違ったようだ。
中里は、ペニスを口に咥える快感だけを求めていたのではないだろう。その先、硬度と容積の増したペニスを、尻でも咥える快感を求めて、行為に励み、勃起していた。
つまり中里は――いつでも、入れられたがっていたのだ。
京一がその確信をもったと同時に、中里の体が動いた。それが離れていく前に、腕を掴んで引き止める。
「待てよ」
ベッドから立ち上がり、強引に正面から抱き寄せて耳に言えば、中里の全身は震えを帯びた。
「須藤、俺は……」
声まで震わせ、逃げたそうに縮こまるその体を、一層強く戒める。らしくない行動ばかり取っていた。酒のせいで、自分を適切に統制できなかった。だがあるいは、と、初めて訪れる中里の部屋、初めて知る中里の一面、それを抱える中里の存在を確かに感じながら、京一は思いもする。これこそが、自分らしいと言えるのかもしれない。この愚かしくガキ臭い、理不尽で身勝手、悪質極まりない自分こそが、本当の自分であり、そんな自分が中里を独り占めにしておくことを、強く求めてやまないのだ。
しかし、いささか欲を出し過ぎた。
「疑って、悪かった」
おかげで聞き出せたこともあったが、必要な情報を与えず攪乱させた、その謝罪を心底からの言葉として吐き出すと、中里が、おずおずと背中に手をかけてきた。シャツだけが、その手に掴まれる。
「……こんなの」
中里は、京一の肩に、くぐもった声を絞り出した。
「変態じゃ、ねえか」
苦渋に満ちた声だった。慙愧に満ちた声だった。それを聞き、京一は、笑っていた。
「いいぜ」、笑いながらその耳に、優しく吹き込んでやる。「それでいい」
そっちの方がよほどいい、そう思える自分の方が、変態というものだ。
一目見て、意識を奪われた。どっしりとした佇まい、頑丈そうな体、無骨さと繊細さが相殺されずに存在している顔、無駄のない動き。ぼうっとしていると、目がその男にずっと釘付けになってしまうため、気味悪がられるだけならともかく、岩城へのリベンジを果たす前に、不審者としていろは坂から排除されることなどないように、中里は逐一視線のやり場を考えていなければならなかった。
それは初めての経験だった。初めての、感覚だった。だが、憧れだろうと思っていた。その男、須藤京一のような、峠で皇帝の名を掲げるに相応しい、外見ににじみ出る怜悧な落ち着きも傲慢な凛々しさも、自分が持ち得ていないからつい意識をしてしまうのだろう、中里はそのように思い、そんな自分の、走り屋としてなのか何なのかよく知れない感情で、須藤を煩わせたいとは思えずに、必要もない限りは、なるべく近づかないようにしていた。
ただの憧れだと思っていた。見る度に、俺もあれくらいの威厳を持たきゃならねえ、と肝に銘じるようにしていた――そうしなければならなかった理由を、初めて訪れた須藤の部屋で、初めて須藤にキスをされ、初めて中里は自覚したものである。初めて見た時、一目で意識を奪われた。だが、奪われたのは意識だけではなかった。心まで、須藤に奪われていたのだ。その心が、憧れという言葉では片付けられない、不純な感情と卑しい欲望を生み出していたことに、須藤に尻まで奪われながらまた、中里は思い知らされたのだった。
ただ、その深みまでは、知られたくなかった。須藤と同じ空間にいて、同じものについて話し、自分について語り、須藤について語られ、あるいは何も語らず、昔からの親しい身内のように、共に日を過ごす、それだけで胸の奥まで満たされるものがあり、その上肉体で触れ合えることには、あまやかな快感と幸福があった。そこに常時付きまとう、須藤の気遣いを感じると、それ以上を求めたがる自分のことは、絶対に知られたくはなくなった。
――見せてくれよ。
そう言った須藤は、テーブルの上に腰掛けて、真正面から見てきている。その一挙手一投足も見逃さんとするような、鋭い視線を素肌に直接感じると、恥ずかしくてたまらない。それで火照っていく体を見られているのが、ますます恥ずかしく、肩を壁に預けながら、ベッドの上で、剥き出しの尻を須藤に突き出すように足を左右に開くだけでも、中里は情けないまでにおののいており、ジェルを指に取った右手を股間に運ぶ頃には、泣きたいような気持ちになっていた。服を脱げば踏ん切りもつくかと思ったが、躊躇はいっかな消え去らない。こんな自分を須藤に知られたくないからこそ、今まで必死に慎重に、下手な隠し事をし続けていたのだ。
――いつも一人でやってる通りに、してみせろ。
だが、須藤が知りたいというのなら、拒むわけにもいかなかった。拒めばまた、無用な疑いを招くかもしれない。他の誰ともやってはいない、自分でしかやってはいない、それを証明する機会を、与えられたと思うべきなのかもしれなかった。
それでも一人でやるのと須藤の前でやるのとでは、勝手が違う。いつものように――須藤の家から帰った日、須藤を思い出しながらする時のように――ジェルを肛門のひだに塗り込んでも、心臓が破裂しそうなほどの緊張のせいか、そこはなかなか緩まらず、中里は目を閉じて、何とか行為に集中しようとした。須藤の厚みのある掌を想像しながら、左手で、腹から胸を数回撫でると、肩と膝から力が抜けていく。胸で手を止めて、既に立ってしまっている左の乳首を、親指の先で軽く弾く。その途端、甘い刺激に体が緩み、尻が中指を呑み込んだ。
「……っ、はぁ……」
まだ狭い穴を、指がぬるりと割って入ってくる感覚に、腰の奥が熱くなり、吐息が漏れる。この指を、須藤のペニスだと思いながら、何度も自分で締めつけた。どうすれば須藤を気持ちよくできるのか、考えながら指を動かし、尻を動かしているうちに、いつも勃起してしまっていた。この中で、須藤を感じさせたかった。須藤で感じたかった。いつも、それを期待していた。だが、言えなかった。言ってしまえば、そんな変態な自分を、自分で認めなければならなくなる。それを須藤に軽蔑されたらと思うと、怖くて余計に口にはできなかった。
一旦止まり、恐る恐る、目を開く。前に見える、須藤の顔に、嫌悪の色は窺えないが、実際どうかは分からない。ただ、こちらの足の間から、目を逸らしてはいない。それがせめてもの救いだった。もう一度、目を閉じて、尻に入れた指を、奥まで進めた。
「んっ……」
突かれたような刺激に、声を殺すことは、難しかった。尻に力を入れながら、指を入り口寸前まで抜く途中、ある部分を引っ掻くと、腰に鋭い快感が走る。初めての時、須藤に教えられたところだった。尖りきった乳首を指で捏ねながら、それと同じ強さでそこを擦ると、勝手に腰が跳ねるほど、中里は感じてしまう。たまらず何度も何度も刺激するうち、体に熱が入り始め、あっという間に硬くなったペニスから、先走りが漏れるのが分かった。
「あ、ぁ……」
そうなると、指一本ではもう足りない。内側に、もっと太いものが欲しくなり、中指に人差し指を添わせて滑り込ませ、尻穴をえぐるように激しく擦っていく。いくら指を増やしても、あの時体を貫いた、須藤のものには及ばなかった。広がった穴に、三本指を入れて中をいじり回したところで、刺し込むだけで全身を支配してきた、須藤のペニスの強大さの比にはならないが、その片鱗は感じられる。須藤の指に近いものは、感じられる。関節の盛り上がった、長い指。ごつごつとたくましくも、滑らかな肌と短く綺麗に整えられた爪が、清潔感を漂わせていた、堅実にステアリングを握り、レンチを握り、包丁を握るそれが、自分の浅ましい尻などに入っているのだと想像すると、中里は幸福感と罪悪感の入り混じった、居た堪れないほどの興奮に襲われる。骨盤周りがじんじんと痺れ、後ろからの刺激が前を、どうしようもなく疼かせる。須藤の指の記憶を辿り、乳首から、鎖骨の上の薄い肌、敏感な首筋、骨の張り出た顎、湿り気を欲しがる唇をなぞっていた左手を、衝動的にペニスにかける。竿を伝う先走りごと、それを一思いにしごくと、曖昧な痺れが、明瞭な快感に変換され、陰嚢と足先が引きつり、粘液や汗と一緒に、声が漏れた。
「はっ、あッ、すどっ、須藤ッ……」
一度名を呼んでしまえば、堪えることは無理だった。いやらしい音を立てて尻の中を、ペニスを擦りながら、腰を揺らし、喘いでいる。須藤、須藤、須藤。頭はそればかりになる。行為中だけ目にできる艶かしい不敵な笑み、耳にできる卑俗な言葉、興奮に跳ねる渋い声。生々しい汗と煙草の芳香。触れられる肌、強靭な筋肉、硬い骨、熱い粘膜、圧倒的なペニス。頭も体も何もかも、その想像でいっぱいになり、後はそのまま達するだけだったというのに、その時なぜ、目を開いてしまったのか、中里には分からない。開く必要はなかった――だが、何かに導かれるように、目を開いていた。それが、須藤の目と、かち合った。
「す、ど……」
滅多に感情を表さない、黒く深い瞳を包む、まなじりの上がった長く鋭い双眸は、アルコールの影響だろう、その白い部分と縁とに浅く朱が差して、ぞっとするような色気を放っていた。その眼差しを受けただけで、自慰を中断してもなお、中里は達しそうになった。他の誰ともこんなことはできやしない。欲しいのは、その男だけなのだ。傍にいるだけで退屈せずに過ごせるのは、見ているだけで時間が過ぎてしまうのは、いまだに皮膚が触れるだけで心臓が驚くのは、それでも触れてほしいと思うのは、入り込んできてほしいと思うのは、中に欲しいと思うのは、須藤だけだった。
「須藤……」
こんな姿は知られたくなかった。須藤が欲しくて欲しくて仕方がなくて、口をだらしなく開いてしまうような自分のことなど、知られたくはなかった。だが中里は、須藤の視線から逃れられなかった。知られたくは、見られたくはなかったのに、その須藤に見せつけるように、開いた口から、違う温度を求めている舌を外に出し、違う湿度を求めている唇を、舐めていた。須藤が音より早くベッドに上がってきたのは、その直後だった。
「むっ、んぅ……」
尻とペニスにあてがっていた手を取られ、壁に押しつけられて、唇を塞がれた。鼻腔に須藤の匂いが濃く広がって、求めていた肉の熱が、ぬめりが口腔に満ち、思わず目を閉じる。下腹部に甘い痺れを走らせる、そのぬるぬると激しいキスにただ翻弄されているうちに、左手が解放されてすぐ、空っぽになっていた尻に、何かがずくりと入ってきた。
「んん――ッ……」
それが須藤の中指だと頭が認識する前に、その形も動きもまざまざと覚えている体が悦びに震え、最初に快感を刻み込まれた場所を、二回なぞられただけで、中里はペニスから白濁をほとばしらせながら、須藤の口の中で極みの声を上げていた。
「んはっ、はぁっ、はっ……はあ……」
突如身を襲った絶頂の波が去ったところで、唇を解放される。酸素を貪りながら、中里は固くつむってしまっていた目を開いた。眼前には、刈られた金髪の下、それによく映える健康的な肌に汗をにじませ、血の気が多くなった目と唇の端を、痙攣したように上げている須藤の、うっとりするほど卑猥な顔があり、それを見るだけで腰がくねってしまう恥ずかしさに耐えきれず俯けば、その黒いシャツの腹あたりに、まだ乾いていない粘液の染みが見えた。
「……悪ッ……」
慌てて離れようとしたが、後ろは壁だ。横に逸れるかどうか迷っているうちに、須藤の左手に、引いていた顎を持ち上げられた。
「気にするな」
再び視界に入ってきた須藤が、くっきりと山なりに浮き出ている上唇の右端から、白い歯を零し、その一言の後、尻に入れたままの指で、中を広げ始めた。そのゆったりとした優しい動きは、限界を超えて収束しかけた快感を、穏やかに高めていく。だが、足りない。須藤の指であろうとも、一本だけでは足りはしない。二本でも三本でも、もう満たされない。知られたくはないことだった。隠し通したいことだった。だが、こんな醜態――中里にはそう思えてならない――から目を逸らさず、求めていたキスも指も与えてくれた須藤の誠実さの前には、すべてを曝けてしまいたかった。
須藤の腕にかけていた右手を、下へと移し、須藤がシーツについている膝、太腿へと滑らせる。奥に進めば、ワークパンツに張り出している、硬いものに手が触れた。
「……ッ」
股間にあるそれを掘り出すように指で掴むと、須藤が顔を歪め、驚いたように目を剥いた。布越しでも、その猛々しさは手に伝わった。須藤のペニスの、完全なる勃起だった。自分のはしたない行為を見て、須藤がそうまで昂ったのだと思うと、驚きの後、背徳的な歓喜が生まれ、右手に触れるそれを求める気持ちが溢れ出た。中里は、だが羞恥に負けて顔を背けて目をつむり、ただ須藤から手は離さずに、
「須藤」、呟くように言っていた。
「……入れてくれ」
反応はなかった。十秒待っても何もなく、聞かれなかったのかと思い、そうっと目を開き、顔を上げる。眼前には、変わらず須藤の顔があった。こちらを真剣に見詰めている、意識のしかとした顔だった。聞かれていたのは明らかだった。ごまかしようがない、ごまかせない。最早ごまかしたくもないことだった。ごまかすには、そもそもこの欲望は、度が過ぎた。強烈な羞恥に、目に涙がにじみ始める。それでも中里は須藤を見ながら、何とか声を絞り出した。
「欲しいんだ、お前が、須藤、頼むッ……」
頼む、そう繰り返そうとした。その前に、尻から指が抜かれ、ベッドに押し倒されていた。空白を感じる間もなかった。膝を胸につくように押し広げられ、持ち上がった尻に、須藤のペニスが容赦なく入ってきた。
「あ、あっ」
餓えていた穴に、栓をされる。みっちりと肉を割る巨大なそれに、ぐり、と粘膜を大きく擦られて、脳の中で灼熱の火花が弾け、中里は悲鳴に似た声を放っていた。
「入れたぜ、中里」、真上で須藤が、何かを確かめるように片眉を上げる。「欲しかったんだろ、どうだ、具合は」
この時を、何度も何度も想像した。須藤をどう受け入れるか想像し、どう感じさせるか、考えていたはずだった。だが、そんなことはすべて、尻から全身までを支配してくる圧倒的な須藤の存在と、脳を焼く快感の前に、どこかへ吹っ飛んでしまった。
「すげ……いい、須藤……」
感じるままを、思考を挟まず言葉にすると、くっ、と須藤が低く笑った。限られた時だけ聞ける、淫靡な笑い声に、ぞくぞくとして、首が攣りそうになる。
「いいか」、須藤の頬が、高く上がる。「俺もだ」
囁くように言われ、動かさずして、腰が動いた。それを見下ろし、再び笑った須藤が、荒々しく服を脱ぎ捨てていく。その間に、思い出したように腰を揺すられるだけで、幾度も夢想した以上の、目がくらみかけるほどの快感を与えられ、中里は喘いだ。
「いっ……う、うう……」
素早く素裸になった須藤は、一転動きを緩め、ゆっくりと腰を突き入れてきた。そうしながら、唇から頬、耳にかけてねぶり、首へ下りてきつく吸いつき、鎖骨を噛み、乳首を咥えた。敏感な部分をじっくりと刺激され、尻はひくつき、ペニスは再度張り詰めて、どろどろとしたものを吐き出したがる。どうしようもなく下肢が疼き、中里は須藤の腰に足を絡めていた。結合が深みを増し、須藤のペニスの根元にまで尻穴が広げられた、その時だった。神経という神経を引き裂くような、激しいものが中里の全身を貫いた。
「あっ、あ……まッ、すどっ」
痛みにも似ているそれが何なのか分からず、咄嗟に須藤の肩を強く掴む。
「何?」、須藤は止まり、胸から顔を上げ、怪訝そうに窺ってきた。
「待て、待って、くれ、ちょっと、待って……」
とにかく制止しておきながら、中里は自分の体の変化を探った。それは痛みにも似ているが、決して痛みなどではなかった。神経どころか、肉にも骨にも皮膚にも、びりびりと峻烈なものを走らせる、それはおそらく――今まで味わったことのない、圧倒的な、快感だ。
「待つ?」
「ひゃ、あッ」
言った須藤が、不意に半ばまでペニスを引き、奥まで入り込んでいた太いものが抜け出ていく感覚に、中里は考えもせず、高い声を上げながら、爪先の丸まった両足で須藤の腰を挟みつけ、それに寄せた尻では、須藤のペニスを一層強く締めつけていた。おかげでその太い亀頭も竿も脈動も、肉壁にぴったりと張りついて形が知れ、口腔で教え込まれた以上の、須藤のペニスのあまりの肉感的な生々しさに、体がぶるぶると震えてしまう。
「良くねえのか?」
須藤は聞きながら、再び奥まで押し込んでくる。
「ちがっ」、その際に与えられる、未知の快楽は、中里を怯えさせた。「いい、い、よすぎ、よすぎて……」
そうだ。これは、悦すぎるのだ。初めての時にはなかったほど、わけが分からなくなりそうなほど、気持ちが良くて、恐ろしい。だから少し、落ち着くまで待ってほしいというのに、須藤はこちらの心情を斟酌する気もないらしい。
「なら、いいだろ」
愉快そうに言った須藤の、その不遜さのにじむ近しい笑みと、直後に吸いつかれた唇の優しい感触に、中里は寸刻囚われた。その間に、体を起こした須藤が、腰に絡まっていた中里の足を引き剥がし、それを外に折って尻ごと持ち上げ、激しく律動し始めた。貫かれている部分から、烈々たる快感が間断なく注ぎ込まれ、予兆を感じることもできず、中里は射精している。
「あッ、あ、あ」
シーツを両手で握り締め、背を弓なりにたわめ顎を反らし、触れられてもいないペニスから、勝手に精液が漏れていく快感に耐える中でも、須藤はまったく加減せず、尻に腰を打ちつけてくる。その須藤の作り出す快感の奔流に、中里は完全に呑み込まれた。それは痛みによく似ていた。与えられれば与えられるだけ苦しくなり、どうにか止めてほしくなる。
「やっ……やだ、すどお、も、やだぁっ……」
まともな思考も保てなくなった中里は、解剖を待つ蛙のような体勢のまま、汗に濡れた短い黒髪を左右に振り乱し、必死になって懇願するが、
「いいんだよ」、須藤はそれが正しいと言わんばかりの当然さで、むしろ勢いを増し、中里を責め続ける。「いいんだ、中里ッ」
「あぅ、ひっ、い、いっ……」
「いい、俺も良い」
何が良いやら中里にはもう分からない。だが甘くとかされた尻は、須藤の出入りを従順に手伝って、感謝を表す。中を掻き回してくる須藤は、寄せてきた顔の、唇を大きく引き上げて、喜悦を表す。厳つく渋い容貌に、似合わぬ野卑さをまとわせたその笑みは、ぼやけた視界にあっても鮮明で、特別官能的だった。
「お前のケツ、気持ちいいぜ、最高だ」
目の前で、須藤にそんな風に笑いかけられながら、ひどく愉しげに、嬉しげに、それでいて残忍に、そんな風に言われては、中里も何を言われているかよく分からずして、達してしまうものだった。足が突っ張り腰が浮き、尻がよじれ腹がうねり、手がベッドに爪を立て、口がすすり泣くような声を出し、顔が恍惚に緊張と弛緩とを繰り返す。だがそんな状態になってもまた、中里にはよく分からなかった――自分が達していることも、顔に優しく残酷な笑みを張りつかせたままの須藤が言ってくることも、呂律も回らぬ自分が言い返していることも、理解ができなくなっていた。限界を超えた快楽にあっては、極まりは延々と持続するようだ。その果てない苦しみが気を失うことを許さずに、須藤が尻に吐精してきても、中里の何も終わりはしなかった。
大の男が二人で眠るに、シングルベッドは相応しい場所とは言えなかった。それでも別々に寝るより良かったと、凝り固まった体の各所を伸ばしながら京一が思えるのは、自分が腰掛け中里がまだ横になっているこのベッドで、中里と抱き合って寝た男が仮にいたとしても――『女』がいないことは聞いている――、これほど裸で密着をした人間はいないという、確信を持てるからである。
厚みのある上半身の筋肉を粗方解し終えてから、京一は一服に戻った。拝借した肌着にも馴染み、適切な体温と伸縮性を取り戻し、寛いだ肉体をもって煙草を吸うと、精神まで緩んだのか、昨夜の記憶が現実を覆うように迫り出してきた。
こちらの言った通り、尻での自慰を晒した中里。挿入を求めてきた時の、快楽にも羞恥にも負けた、その哀切な顔。ペニスを締めつけ蠕動した肉の熱さ。その奥へと、甘く掠れた声で卑猥に請わせて精液を注ぎ込んでやった時の、全身が破裂しそうなほどの絶頂感。深い余韻。挿入したまま浸っていた。浸りながら、未練がましく後戯をしているうちに、早々復活した。中里はぼんやりとした顔で見上げてくる。俺が欲しいか、中里。それにまた、請わせていた。
――欲しい……須藤、もっと、欲しい……須藤のちんぽ、奥まで、いっぱい……。
少し誘導するだけで、予想した以上に刺激的な言葉を、挑発的な態度を返してくるのだ。やめられるわけがない。一度抜き、後背位に持ち込んで、各部の俗称を言わせながら突き立てる。犬のように這い、喘ぎ、息も絶え絶えとなった中里が、再び達しかけたところで騎乗位に変え、俺が好きか、と幾度も尋ねた。
――好き、すどうっ、大好き、すきぃ……。
蕩けた顔、甘い声、淫靡に振られる腰、ペニスを咥えつけてくる肉――全身で嬉しそうに応えられれば、最後には正常位に戻り、再び請わせて中に射精するしかない。そうして汚した体を清めてやるための風呂場では、再び煽り煽られて、立位でも行っていた。途中で中里が泣きながら小便を漏らしても、構わず後ろから責め続けて、空にした尻に再び精液をぶちまけていた。
京一は一旦煙草をテーブルの上の灰皿に置き、火照り始めた額を手で押さえてため息を吐いた。随分な狂態を演じたものだった。思い出すにつけ、自分のあまりの無軌道な低俗さには、肩の後ろに蟻走感も湧いてくる。だが、もう見て見ぬ振りもしていられない。散々中里を責め尽くし、その内面に自分の存在を刻みつけ、そこに受け入れられ、求められていることを実感し、無二の相手となっているという確信を持てる今でもなお、これまで幾人の男がこの狭いベッドに寝たのかと想像するだけで、内臓を鈍く焼くものがあった。いい加減、認めなければならないのだ。同じ過ちを繰り返さないためにも、身の程は、わきまえなければならない――煙草を指に戻して考えていると、
「……んん……」
後ろから、鼻にかかった声が聞こえ、京一は上半身を左へねじった。こちらを向いて寝ていた中里は、しっかりと目を開けていた。
「起きたか」
見て分かることを挨拶代わりに問えば、中里は七秒ほどの沈黙の間に、五回の瞬きと三回の視線移動としかめ面の形成を済ませてから、ああ、と頷いて、額全面に落ちている前髪を掻き上げた。その拍子に肩まで覆っていた薄青の掛け布団が滑り、裸の胸が露わになる。ほの赤くなった顔と同様の色彩の肌の上には、まばらにきつい傷跡が散っており、自分がつけた所有の証たるそれを目にして京一は、背筋を妖しい舌で舐められたように感じ、朝から昂らないために咄嗟に視野をぼかしながら、「無理するな」、平静を心がけた声で、中里に言った。
「まだ動けるような状態じゃあ、ないはずだぜ」
「いや、そんなこと……」
不服そうに言いながら上半身を起こした中里が、「はッ」、と息を止め、動きも止める。中里自ら慣らしていた場所とはいえ、初めて挿入した時以上に酷使したのだ。痛みがあって当然だった。京一は完全に硬直した中里の背中に腕を回し、
「言われた通り、大人しくしとけ」、その体をそっとベッドに横たえて、剥き出しの肌が目に入ってこないよう、すぐに布団をかけ直した。「お前、今日は休みだろう」
「……そりゃ、まあ、そうだが……」
「俺も休みだ。面倒くらい見てやるよ」
拒否する隙を与えぬために、適度に冗談めかして京一がそう言い切ると、枕に頭を戻した中里は、不服げに顔をしかめた。それが照れ臭さを誤魔化すための装いであることは、頬に増した赤みで明白だ。思い返せば、初めて寝た後も似たようなものだった。丸一日ベッドから出られなくなった中里は、何度見ても面映ゆげな、独特のしかめ面を保っていた。そうも羞恥で苦しめるなら、無理に抱くこともないと思わせられるほどの、中里の徹底して、いじらしい態度だったのだ。
「そういえば」
顔をしかめたまま、視線を落ち着かなくうろつかせていた中里が、意を決したように目を合わせてくる。
「どうやってお前、昨日はこっちに来たんだ、須藤」
掠れの際立つ声で発された、それは妥当にせよ、情事の翌朝特有の、気怠い親密さが深まった空気の中では、場違いさも否めない疑問だった。おそらくこの状況に中里は、いまだ照れ臭さを感じているからこそ、会話を用いて普段を取り戻そうとしているのだろう。いつもならその逃避の姿勢に、ムードをぶち壊すデリカシーのなさを指摘してもやるのだが、今の中里に対し、そこまでするのは酷だと判断できる余裕を持っている京一は、自然と灰の伸びた煙草を、一つ吸ってから灰皿に潰し、ベッドの端に腰掛けたまま、中里に半身を向けた。
「車で以外にあると思うか?」
「……列車とか」
「まあ」、ありきたりなくせに、自信なさげな答えに、笑いが漏れる。「使わねえこともねえけどな」
むっとしたように唇を突き出した中里が、しかしそれをすぐに引っ込め、「ってことは」、と話を続ける。
「ランエボ乗って、来たんだよな」
「そうなるな」
「今、どこに置いてんだ」
今日は一日ここで過ごすと暗示したのに、帰る手段の心配をされるのも、釈然とはしない。ただ、そこで揶揄を挟まずに過ごせるだけの余裕が、今の京一にはあった。
「志嶋のいるショップの工場だよ。あいつはチューンドカーなら何でもじっくり見たがるし、そもそも俺はあいつのところに泊まる予定だったからな」
笑いの余韻を残しながら京一の答えに、顎で頷いた中里は、途中で不可解そうに眉間を絞り、妙な間を置いてから、「なら」、と声には妙な慎重さを孕ませた。
「志嶋さんは、あの辺のカーショップに勤めてんのか?」
ああ、と軽く頷いた直後、京一は眉をひそめていた。志嶋の勤め先が、内藤幸也という奴の勤め先でもある境遇に、お前も頼むぜ、と人差し指を口の前で立てながら言った志嶋が、唐突に思い出されたのだ。
「そうか」、一連の話をすっかり失念していた自分に対し、京一は鋭い舌打ちを飛ばして、浮いた記憶を確かめるように、剥き出しの額を撫でた。
「内緒だったか、今のは」
「まあ」、枕に頭を預けたままの中里が、顔の強張りを解き、得意げに笑う。「聞かなかったことにしてやるぜ、今のは」
その極めて単純な『内緒話』を忘れさせるほど、人の心を掻き乱してきたのは、どこのどいつだというのか――。
それについての責任を、まったく意識もしていなさそうに、見返してやったと言わんばかりの笑みを浮かべた中里を見て、途端に湧いた苛立ちを、自制の対象と定める余裕までは、今の京一には存在しておらず、無自覚という罪への最適な返報方法を即座に考えおもむろに、中里の顔挟むよう、左右の手をシーツについた。
「寛大なご裁定は痛み入るが、見習いはしないぜ、中里」
真上から見下ろしての言葉を、中里は意味を解せなかったようで、「あ?」、と間抜けな声を上げる。間抜けにもなったその顔に、自分の顔を目と鼻の先まで寄せて京一は、
「抱いてほしけりゃいつでも言え」、作為的に低めた声で、そして囁いた。「すぐに俺が、入れてやる」
数秒維持された中里の間抜け面が、驚愕と動揺と、鮮やかな朱に覆われたのは、瞬時のことだった。
「おっ、俺は別にッ、おま、お前のことをそんな、それだけの……その……そういう……」
張り上げられた声は、徐々に小さくなり、語尾は曖昧に消えていく。戻ったしかめ面は険しいが、肌の赤みと目のうるみが羞恥を明瞭にしている分、迫力に欠け、色気には満ちていた。以前ならば、誘うようなその態度も、苦痛の愁訴と判断し、中里を精神的に追い詰めないため京一は、一歩引いて接することを心がけたが、今ではそれが愚行だったとも確信できる。恥ずかしさに苦しんでみせる中里の内側には、こちらを求める多大な期待と欲望が、手酷く蔓延しているのだ。そこから目を逸らしていても、誤解が長じていくだけだ。互いの本質を見ずにして、付き合っている意味もないのである。
京一はため息を吐き、まだ何かを言いたげに動いている中里の口を、自分の口で塞ぎ止めた。皮膚接触で高まる衝動のまま、開かれている歯の間に舌を差し込み、同じ肉と絡め、たっぷり唾液を分け合ってから離れると、息の乱れた中里の困惑顔は、いよいよ真っ赤になっている。それを色取る熱と感情は、視覚を通って細胞に伝染したかのように京一の顔全体を引きつらせ、再びため息を吐かせながらも、ただ中里から目を逸らすことは許さなかった。
「俺が、やりてえんだよ」
不機嫌さと紛うほどの、必死さのにじむ欲望の告白は、中里の十八番でもあるだろうに、受けるとなると違うらしく、目を見開いた中里は、直後に狭い範囲で体を反転させると、ベッドに素早くうつ伏せた。その体勢ゆえに裏側の見える、微かに震えている耳朶は、血の透け具合が甚だしい。中里の羞恥心は、どうやら限界に届きかけているようだった。ここでそれを超えさせるのも一興なのかもしれないが――それとも俺が相手じゃ何か不足か、とでも囁けば、面白い反応があるだろう――、初めて訪れた中里の部屋で、初めて共に過ごす朝の情緒を、もう少し落ち着いて堪能したい思いもあり、震えの消えない中里の黒い後頭部と、赤いうなじと耳とを見下ろしながら、どちらにするかを十秒ほど考えた末に、京一は暫定的に後者の特別性を選んだが、その際の判断材料に、中里への遠慮を含ませはしなかった。
「お前はそのまま寝ててくれてりゃいいんだが」、中里に被せていた体を起こして言い、その頭に改めて手を伸ばし、
「俺は今、コーヒーが飲みたくてな。淹れてもいいか?」
見た目ほど硬くのない黒髪を、上から撫でながらそう聞くと、呼吸四回分の後、縦の動きが返される。その中里の、際どくもある懸命な素直さは、京一のうちに染み付いた、痛いほどの親愛を引き出して、撫でていた頭に自然、一つのキスをさせていた。そんな自分の行動を、意外にも妥当なものに思ってから、京一が立ち上がると、
「……粉は、冷凍庫だ」
足を進める前、後ろから、こもった声が聞こえた。振り向いても、中里は変わらずベッドにうつ伏せている。ただその男が、それでもこちらに意識を注いでいることは、気配で十分よく知れた。
「お前も飲むだろ?」
問いに返ってくる、懸命で素直な頷きに、今度は唇を緩く上げさせる、ぬるいものを感じながら、少し待ってろ、と京一は言葉を返し、台所に向かった。
シンプルなコーヒーメーカーは、フィルター等と共に小型のワゴンの上に置かれている。冷凍庫にはコーヒーの粉の缶。それを取り出し香りを嗅ぐと、予想通りに浅かった。だがコーヒーはコーヒーだ。贅沢を言う気分でもない。本体に粉と水を入れ、スイッチを押し、コーヒーの缶を冷凍庫に戻してから、京一は流し台にもたれると、中里がうつ伏せているベッドを眺め、要するに、と中途になっていた考えを再開させた。
要するに――鹿爪らしくしすぎていたのだ。恋愛ごときに現を抜かす浅薄な暇人などではない、仕事とドライビングを両立し、自律をもって生産的な人生を送っているという理想の自分を、中里に見せつけていたかった。だがそのおかげで、本来の自分はおろか、とことん分かりやすい中里の、分かりやすい隠し事すら見落として、邪推で害する結果を招いた。
いい加減、認めなければならない。いくら高潔を気取ってみても、いつでも会いたくなって、抱きたくなって、何もかもを知りたくなる。独り占めにしたいと思い、何より優先されたいと思う。そういう欲望を、己の卑小さ――恋情に基づく肉欲には抗えず、理不尽な嫉妬に駆られもすれば、愚かしい猜疑心にも囚われもする――の隠匿のために抑えつけてみたところで、結局暴走してしまうことは、昨夜で十分身にしみた。その過ちを繰り返さないためにこそ、身の程は、わきまえなければならないのである。
幸い、あれほど放埒な行為に及んだ後でも、中里にこちらを敬遠しようという様子はない。本質を知られたからといって、逃げられる恐れがないのなら、後はその変な輩にばかり慕われている走り屋、一途に車を愛し、素直なくせに強情で、よくよく間の抜けた、嘘は不得手、墓穴を掘るのは得意な男、少し煽ってやるだけで、狂おしいほど淫らになる恋人へ、それを始終心底求める自分を曝けていけば良いだけだ。
――欲しいんだ、お前が、須藤、頼むッ……。
そうすれば中里も、昨夜以上に従順に、尻への挿入を求めてくるようになるだろう。他の誰も、そんな姿は見られないに違いない。互いに我慢をせずに済む上に、自分しか知り得ない中里が増えるのであれば、一石二鳥というものだった。
コーヒーの完成を待ちながら京一がそのように、下の名前で呼び合う関係や、自分にしか撮れない写真の構図を思い描き、その実現性について具体的に考えていることを、ベッドで動けなくなっている中里が生身によって知らしめられるのは、割合すぐ先の話である。
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