覚えておくこと
家の電話が鳴ったのは、朝の七時五分頃だった。煙草を咥えつつフライパンで目玉焼きを完成させていた中里は、ガスの火を止めてから灰皿片手に居間に戻り、はいもしもし、と受話器を取った。
「あ、兄ちゃん? 俺俺、俺だよ俺」
すわオレオレ詐欺かと身構える間もなく、しばらく顔も見ていない弟の声だと分かったが、いつも明るいというか能天気なそれが、柄にもなく沈んでいることに気付き、どうした、と問うと、沈んだ声のまま弟は、
「いやさ、ごめんねこんな朝っぱらから、俺も夜勤明けでさ、っつーか朝帰り? んで知ったのが今日なんだよ、タロウが死んじまってんの。まあ寿命だったんだよな最近調子悪くてアレ母ちゃん見たら逝ってやがったとかでさ、それから母ちゃんも父ちゃんも暗くなっちまってるみてえでまー朝帰りの俺を出迎える家の空気が重いこと重いこと! んでさ兄ちゃん、タロウの墓参りするついでにご両親に顔見せしてくんねーかなってさ、まあアレだよ兄ちゃんのその濃い顔見りゃ二人も濃くなんじゃねえかって、っつーかアレだよあと俺らの大事な弟がよお、喧嘩で補導されちまったってことで家族会議もすっから絶対来てくれよ」
と相槌を打つ隙すら与えぬままべらべら喋り、寝起き頭への早口を呆然と聞いていた中里に、「んじゃ今日の夜ね、ヨロシクゥ」、と盛大に言って、勝手に電話をがちゃりと切った。
煙草を咥えたままの中里は、プープー鳴る受話器に向かい、十秒経ってから、今日? と一人呟いた。
ポケットの中の携帯電話が鳴ったのは、朝の七時三十分頃だった。右手でネクタイの位置を微調整しながら、左手で電話を取り出して、液晶画面を確認し、ぱかりと開いて通話ボタンを押す。はい、と相手を分かっていながら営業用の声を一応出すと、あああの、と本来低いはずの声が上擦り、焦ったものになっていて、京一は訝った。
「何だ、中里。どうした」
「いや、その、おはよう」
「おはよう」
「うん、あー……早いよな、朝だな」
「今が夜なら国際電話だろうよ。その調子じゃあ、俺の声を聞きたくなったなんて甘い話じゃなさそうだな」
「あ? え、ああ、いや聞きたくなかったってわけでもねえが」
「本題じゃねえだろ。何だ」
「いや……突然で悪いんだが、えー、あー、そのだな……ええと」
鏡に写る自分の顔と上半身の最終チェックをしながら、言いよどむ中里を多少の苛つきを窺わせながら促すと、「中学生の頃から実家で飼っていた犬が死んじまって」、更に「弟が喧嘩で補導されたことの家族会議」が「今日の夜」あることを、一番目の弟に告げられたと白状した。京一は最後にヒゲの剃り残しがないかを確認してから、特に話の中身は気にせぬまま、「なら来週はどうだ」、と持ちかけたが、水気のなくなった雑巾を無理矢理絞っているような声で中里は言った。
「すまん、土日は仕事だ」
「再来週は」
「……月曜は休みだが、日曜にチームの奴らと飲みに行く約束が……」
雑巾がそのまま破れそうなまでに、搾り出している声だった。心中は察するにあまりある。なるほど、分かった、と頷いて、京一は鏡の前から離れ、肩と顎で携帯電話を挟みながら、上着に袖を通した。中里が唾を飲む音が、随分大きく聞こえた。
「……須藤、すまない、この埋め合わせは――」
その声を聞いていると、作らない苛立ちがわいてきたため、悪い、もう時間だ、と京一は言葉を遮り、暇ができたらこっちから電話をする、とフォローだけして、一方的に通話を終了させた。そしてコートを抱え、埋め合わせなんて言葉はな、と思いながら、鞄を手にした。約束を破り慣れた奴が言うもんだ。
ともかく、これで三週間会わないことが、決定したのである。
出会いなんてものは、と峠でのチームの集合写真を眺めながら中里は考えた。いつどこで、どんな風にあるのか分かったもんじゃねえ。
思い返せば、高橋涼介が妙義山にふらりと現れたのが、先月初めのことだった。チームのメンバーは交流戦で敗れた腹いせでブーイングをかけるわけでもなく、かといってエンペラーから群馬の峠を救ったことへの感謝と羨望の瞳を向けるでもなく、はてこんなところに何の御用だにあの高橋涼介ともあろうお方が、と純粋な疑念を放出するのみであり、会ってすぐに一応の感謝の念を伝えながらも中里も同様で、すぐさま「で、何の用だ」、と脅しつけるように言ったものだった。
そして出てきた話は度肝を抜かされるほど意外でも、ごく自然に納得できるほど順当でもない、お使いをしてくださらないかという頼みであり、しかし中身が中身だった。
赤城山で行われた高橋涼介とエンペラーの須藤京一とのバトルの資料を、須藤京一自らへ配達してくれという命を、その須藤京一を引きずり出すことなくエンペラーに敗北した自分へ持ちかけるというのは、嫌がらせとしか受け取れず、中里は渋い顔をし、郵送するなりデータで送るなりすりゃいいんじゃねえのか、お前なら宛先くれえ知ってんだろ、という合理的な提案をしたが、高橋涼介は露骨に『分かってないな』というため息を吐きやがり、声音をまったく揺るがさずに言い立てた。
「俺とあいつは性向が合致しないもんでな、お互い顔を合わせたところで嫌悪感以外に生まれるものがないほどの美しい関係なんだぜ。そこで俺が一方的に物を供えるなんざ、汚らわしいにもほどがある。大体があいつは俺が送り主であるものを易々と受け取るほどの柔軟性を持っちゃいねえし、俺としてもそこで受け取られても感激のあまりに虫唾が走る。ならば、他人の手を介して送るのが最も誤解の発生率が低く、お互いの心境も害さない方法だろう。しかし手近なところで啓介、こいつをあんな奴の元に送って悪影響を与えられたらあの野郎を抹殺するしかねえし、そもそも俺の作り上げたチームに関係する奴を使えば、それはすなわち公開的な認知を下したということになる。かといって何の事情も知らない奴には任せられない。とすればチームには無関係でかつ信頼できる走り屋でなければならず、そして、それがお前というわけだ、中里」
全体を一気に、最後の方は両肩を掴まれて、真正面から顔を見据えられて語られたため、とりあえず中里は自分にとって都合の良い、『信頼できる走り屋』という一文のみを抜き出しており、要するに交通費自己負担のパシリ役を仰せつかったのだと気付いたのは、大型の紙袋を両手にしっかり握らされ、FCの白さがまぶたの裏にすら見えなくなった頃にようやくだった。
何といってもその場に庄司慎吾がいなかったのが痛手だった。あの男がいれば、「それ普通にパシリだろ」「っつーかそんなに嫌いなら敵に塩贈るのも変じゃねえか」と突っ込むなり、「こいつほど頼り甲斐のねえ奴はいないぜ」「信頼すると痛い目見ること間違いねえ」などと嘘八百――本人にとっては本当らしいが、断じて事実無根である――を並べ立ててくれただろう。
だがその時、不要な時ほどはびこっている庄司慎吾が姿を見せることはなく、中里は高橋涼介が帰ってから十分後、『あいつは暇さえあれば公道を疎むくせにそこで猿山の大将を気取ってるからいつ行っても大丈夫だ』という赤城の白い彗星様の言を信じ、気の重いことはさっさと済まそうと日光いろは坂に向かったのだった。
今考えても、そうしてなぜこんなことになったのか、中里にはその脈絡が理解できていない。ランエボばかりが集まっている峠にGT-Rでそっと忍び込み、ひとまず名乗って、一通り軽蔑の視線を受けながらも、須藤京一に紙袋を渡し、そこでようやっとパシリにされたことへの理不尽さがムラムラ沸いたため、せめて運んだ中身くらい知らねば気が済まんと張り切って尋ねてみたら、見てみるかとあっさり持ちかけられた。それだけだ。そしてお言葉に甘えて自宅にお邪魔して、高橋涼介自作のレポートや綺麗に編集されたビデオなどを閲覧していると、あれよあれよと流れ流され、気付けば尻子玉を抜かれたような体にされていた。まったく腑抜けになった。怒る気すら起こらなかった。
おそらく一目会ったその日から、恋の花咲くこともある、ではなく、魅力は感じてしまっていたのだろう。特にあの端麗清潔無菌的な高橋涼介を見た後では、高潔さと泥臭さを併せ持った、いかにもな土建的走り屋たる須藤京一の姿は、インパクトが強かった。とかく中里は印象が強いものには流されやすい。胸が大きい、足が細い、とにかくでかい、格好が良い、爆発する、一兆度の火の玉を吐く――見かけに惑わされること数知れず、そして中身にしても、積極果断威風堂々、影にひっそり隠れているよりも、前面に押し出す強さとたくましさを備えるものに心惹かれ、蔑ろにされればされるほど、情熱の炎は燃え上がった。
それを前提とすると、中里が豪傑理論家須藤京一に、言われるがままされるがままで朝を迎えたことも、疑問を挟む余地はないといえばないが、やはり中里自身は釈然としていない。
それでもこの二ヶ月、なぜだなぜだと思いつつ、請われるままにあちらへ車を運び、自宅へ招待し、翌日立ち上がれなくなるほどまで精気を奪われての関係を続けてしまっているのは、これは人生的にどうだろうかと考える自分はいるが、不幸だ不愉快だと感じる自分はいないからで、今回早朝ドタキャン電話以来一度も会わず、声すら聞いていない状態では、何か自分の内側から活力というものが失われたような気すらしていた。
仕事と家族とチームと友人と恋人――と言うべきかも中里にはまだ決められていないが、便宜上はそう捉えることにしている――、どれを優先させるべきか、ではなく、先約を優先させることが第一だということは、中里の信念であったが、今回その己の普段の考えが、緊急事態の焦燥にはあえなく敗北するということを学んだものだ。弟に言われた通り当日夜中に実家へ行ったところで両親は既にケロッとしており、二番目の弟の喧嘩は正当防衛で示談が認めらていて、ただ愛犬の墓参りをするだけに終わり、呆然としてしまったが、小学生の頃から一緒にいた存在にもう会えないということは、中里の気分を感傷的にした。墓前では、ごめんなタロウ、と何か謝ってしまった。
日々は変わりなく過ぎ、冬に入ってはろくに走ることもできず、カレンダーに記した通りに休みを挟んで営業所に行き、顧客のアフターケアと新規獲得のため八方を駆け、帰ってきて眠る、という生活を、「お疲れですね」という声を多数かけられながらもこなしていた。愛犬が死んだことも、三日も経てばそれほどの影響もなくなっていた。ただ、夜眠る時に、空虚さを感じた。そういう時は、なぜだか須藤のことを思い出した。そして須藤がしたように、自分のものをいじり、普段は決して触れない場所へ指を忍ばせ、自慰をした。終わると罪悪感だけが残った。俺は何をやっているんだ、最低二日に一度はそう思うこととなった。
こちらはお客様至上主義のため休日が安定しないのに、向こうは土日がきっちりと休日で、それでも不景気による人件費削除の煽りを受け人員が足りずに残業上等休日返上でてんてこ舞っているらしく、その上互いに少しは名の知れた走り屋で、一週間に三日も峠に限らず走りに出向けない日があれば気が狂いかける。示し合わせなければ、会う時間も取れやしなかった。そして示し合わせたそれを、中里は家族からの一本の、数分にも満たない電話による動揺から、当日土壇場キャンセルという男としても人間としても、最悪な結果に終わらせたのだった。強すぎる後悔は、感覚を消す。それから今日に至るまで何事にも――仕事にも、走りにも、自慰にも――手ごたえを感じられず、没頭できずじまいで、会社帰りに一風呂浴びて、外出着に身を包んだところで、集合時間が迫っていることを知りながらも、ベッドに仰向けになり、中里はチームで撮った写真を眺めていた。三ヶ月前、仲間内の不和も目立たなくなった頃、マイブームをコロコロ変えるメンバーが、カメラブームに入ったために峠に持ち込み、とりあえずその場にいる奴らを集めて撮ったものだ。
出会いがいつどこで、どんな風にあるか分からないのと同様に、そこから発生したつながりも、いつ途絶えるか分からない。だから大切にしなければならない。中里は、写真の中心に据えられた自分とは対照的に、後ろの端にひっそり立って仏頂面をしていた男を見て、その内実を思い出し、気だるい体をベッドから持ち上げた。一ヶ月前から企画しているチーム内での飲み会を鬱憤晴らしに使ったところで、これまでの長きに渡る酒酒酒愚痴酒歌酒反吐酒裸酒反吐酒酒酒酒という酒宴でビール大瓶一本も飲まずに大人しくしていたのだから、罰は当たらないだろう。そう思い、よし、と中里は気合を入れて、己の頬に己の両手をバチンと見舞い、痛みに少しだけうずくまった。
駅の狭いロータリーに、柄の悪い連中が十人ほど溜まっていた。こういう場合に来る面子は、モテない男代表格とモテる男代表格が両立していたり、殺人を犯しそうな目をした奴と今まで万引きすらしたことのなさそうな奴が両立していたりと、混沌具合が凄まじいが、中里にとってはその無秩序さが、何とも懐かしく、気心の知れたものだった。
ただ、一人、こういう場合、めんどくせえと零しながらも必ず来ては酒に酔って残虐さを激化させる男の姿がないまま、ぞろぞろと怪しい集団として居酒屋へ向かいだしており、中里が一分ほど歩いてから、
「慎吾はどうした」
と尋ねたところ、三人ほどの仲間がくつくつ笑った。
「あいつねえ、急に何かシフト入ってたバイトが次々ぶっ倒れたからって、呼び出し食らったんスよ。ゴシューショーサマって感じッスね」
「インフルインフル」
「流行ってるらしいぜ、お前も気ィつけろよ、変なもん移されねえように」
そう言われて背中を叩かれ、そうか、と中里は頷き、ナニ移されんスか、ナニだよナニ、ヘルペスヘルペス、と笑っている他の連中の声がすうっと遠のいていくのを感じながら、今日は飲めねえな、と冷静に思った。
クソクソクソ何でよりにもよってこんな日に三人揃ってインフルエンザだ舐めてんじゃねえかこちとら酒飲み盛りの青春だぞコラ他の店から回して来いよ大体労基はどうなってんだ訴えてやる、と庄司慎吾は内心で吐き捨てながら、限界を通り越した怒りと疲労とで無表情になったまま、コンビニ店内の商品を点検し、床を拭き、人が来るままに声をかけ、レジを打った。愛想が多少なくとも苦情がこないのは、作業は正確に丁寧に行い、声も大きくはっきりと出すためであり、そして何より店舗の立地条件が良く、物を購入しに来る客は店員の愛想よりもレジ打ち技術の素早さを求めているためである。
ただその日は、商売的にはともかくとして、慎吾にとっては幸いなことに客足も少なく、深夜帯六時間勤務ののち三時間の自由を挟んでの十五時間ぶっ続け勤務でも特に負担の軽い時間帯だったが、働いたら働いた分だけ金が入ってくるとはいえ、むしろ金を返して家に帰って布団に入ってお陀仏したくなっていた。脳みそが発酵している錯覚さえ生じていた。
それでも金のため車のためならエンヤコラ、いらっしゃいませ、ありがとうございました、と条件反射で声をかけ、レジに人が待っていれば駆け足で向かい、バーコードを読み取って雑誌は温めますかと言いそうになって正気に戻り、代金を受け取りお釣りを返し、ありがとうございましたと口にする。それを繰り返して繰り返して、少ないながらもあった人の波の最後の客が来て、いらっしゃいませお待たせいたしましたと言いながら、置かれた缶ジュースに手を伸ばしたところ、
「庄司さん」
声をかけられたが、それが自分の苗字であるとピンとこず、代金を告げてから、ふと気付いて慎吾は客へと顔を上げた。まず金髪が目について、その次にごついくせに各部のパーツが繊細そうな顔が見え、その次にジャケットを着込んだ大柄な体が見えた。「あ?」、と慎吾は店員としてではなく、庄司慎吾として、見知らぬ男から声をかけられた時の反応をしており、その客はそれを受けても表情をピクリともさせず、「単刀直入に要点のみ申し上げる」、と頭で漢字に変換するには苦慮することを言い出した。
「あなたがシビックEG−6に乗って妙義山のナイトキッズというチームに入っている走り屋の庄司慎吾であることを私は存じ上げている。その上で伺いたいことがあるんだが、よろしいか」
慎吾は男の言っていることを文章として思い浮かべつつ、その間に出されていた小銭を受け取りレジに打ち込み、はあ、と何とも気の抜けた返事をしていた。男は釣り銭とレシート、そののち商品を受け取りつつ、再び慎吾の発酵しかけた脳みそを苦しませることを言った。
「今日、あなたの所属するチームの飲み会が開かれているはずだが、俺はそのチームのメンバーの一人の友人で、彼に至急伝えなければならない用件を持っているんだ。どうか飲み会の場所と予約者を教えてくれないか」
慎吾がもう一度、はあ、と呆けた声を出すと、釣り銭のうち四円を募金箱に入れ、レシートを不要としてその隣の箱に入れた男が、周囲を見回してから、カウンターに手を置き、
「急いでいるんだ。命に関わる」
と、まるで強盗犯のごとき凄みを持って言ってきたため、慎吾は催眠術をかけられたように虚ろな声音で、とつとつと予約者名と開催地を述べており、それを聞いた男は、ありがとう、と軽く会釈をし、レジ袋を右手に提げて店から出て行った。条件反射すらも忘れたまま、慎吾は男が街灯に照らされながら透明なガラス越しに移動するのを見、何で、と思った。何で俺はあんな普通の奴に知られてんだ。しかしその時カウンターに商品が置かれた気配がしたので、慌てて常のごとき店員の姿勢に戻り、いらっしゃいませ、と三十代頃の客に言いつつ作業に入ると、先ほど聞いた記憶はないはずなのに、どこかで聞いたようなエンジン音と排気音がした。あれ、何だこりゃ、と思いながら代金を丁度受け取りレシートと商品を渡し、ありがとうございましたと一礼してから、ガラス窓に再び目をやったが、音を発生させていた車などなく、慎吾はただぼんやりと、もう俺やべえかも、と思った。
座敷に案内され、とりあえず適当にメンバーが盛り上がっている中、ウーロン茶を飲んでは鳥皮をつまみ飲んではつまみを繰り返していた中里は、隣に座った後輩から「毅さんこういう場所で飲まないのは世間じゃ礼儀知らずっつーんすよねえねえ飲みましょーよー飲まなきゃ始まんねーすよノミニケーションすよ飲み放題なんだしもったいなーい」、と絡まれてビールジョッキを握らされ、もうどうでもいいかと自棄的感覚に陥りかけた時、
「あの、ナカザト様はいらっしゃいますか?」
と、入ってきた若い男の店員が戸惑った様子でそう声をかけてきたため、下座にいた中里はすぐさま、「僕ですが」、と名乗り出た。
「あの、知り合いの方だと思うんですが、店にいらしてまして、至急呼び出してくれとのことなんです」
「知り合い? 誰ですか」
「あ、すいません、急で、名前は聞いてないもんで……」
良く通る声をしている店員は目を泳がせながらそう言い、よほど変な奴が来てるのか、まあいねえわけじゃねえし、と思いつつ中里は、ひとまず店員に礼を言い、握らされたジョッキをテーブルに置き、近場の人間に事情を告げ、座敷から出て出入り口に向かい、レジの奥に立っている迷彩柄のジャケットを着ている男の姿を目にした途端、何を口に含んでいたわけでもないのに、ブフッと噴き出していた。
恥も外聞も捨てて執着した相手は、かつて二人いた。どちらも同性であり、どちらも曖昧模糊とした運命天命神鬼神を肯定する、掴もうとしたこちらの手を何の手ごたえも感じさせぬうちにすり抜けていくような、天才と呼ばれ慣れた輩だった。
そして須藤京一はどちらへも性的欲求を感じたことなど一切なく、行動による物理的圧制を達したいと思ったことすらなく、よって、中里毅という存在は、京一にとってはイレギュラーであった。
自然体かと思えば妙なところで気負う面があり、単純明快な行動原理を持っているかと思えば複雑怪奇な優先順位を持っており、子供のような晴れやかな笑顔を見せながら、老成した憂いた表情を見せることもあった。それまでの二人とは違い、掴み取れるというのに、掴んでいないような不安をもたらす男だった。初めて組み敷いた際は、かつての一人への不満を解消するためという、我ながら非人道的な動機ゆえだったが、容易くこちらの動きの通り反応する体と、ある走り屋の仲間と似た直情径行にありながら、まったく違う小心さを抱える精神から、離れることに未練を覚えたものだ。そこでは既にかつての一人の存在は、そうしたきっかけをもたらした要素の一つにしか過ぎず、こちらに敗北を与えたバトルの資料も納得のいくできであり、不平も不満も嫌悪も何もかもは欠片も残っていなかった。要するに、最初に決まっていたわけだ。そうして京一はかつての二人以上に、その男とつながることを希求したのだった。
助手席に座るその男は、微動だにしなかったかと思うと、唇の端を何度も噛んだり、手の指をすり合わせたり、貧乏揺すりをした。そして再び死んだように動かなくなり、また動き出して、ついに堪えかねたように、車に乗ってから敢えて一言も口を開かなかった京一へと、かすれた声をかけてきた。
「おい、どこ行くんだ」
「お前の家に決まってるだろう。それともホテルがいいか」
「そういうことじゃねえよお前、何考えてんだよいきなり」
沈黙を破ったことで力がついたのか、今度ははっきりとした口調で中里は言い、京一はランサーエボリューション3のステアリングの端を親指でこすりつつ、どこから話を始めるか考え、考えながら話をした。
「使えねえ上司と後輩に挟まれて人数配分を絶対的に間違っている組み上げ作業を一ヶ月かけて他の仕事と同時進行で終わらせた、納期直前ぎりぎりだ、そして明日からまた似たような身の丈に合わない仕事を入れ込まれた。不況だリストラだ嘆かれている中でこの二ヶ月ろくな休みがねえ、これから一ヶ月もそうだろう」
鬱陶しい長髪をしたコネ入社の同僚を思い出し、ステアリングを支える指が白くなる。中里は挟むべき言葉が見つからぬようで、ぽかんと口を開けていた。
「だから今のうち、今日のうちにお前を抱かなきゃ後は仕事と走りで当分暇はねえんだ。この機会を逃してみろ、俺は中学以来、十余年ぶりに、確実にキレる。何もかもをかなぐり捨てるぞ。それは誰のためにもならねえだろ」
京一の記憶にある理性を捨てた瞬間は、中学生の時分、同級生五人に呼び出され、変わる変わる暴行を受けた時のみである。冷静さを取り戻した時には、ほとんどの生徒の顔が腫れ上がっており、己の行為に恐怖を感じるよりもまず、己の立場の危うさに恐怖を感じたものだった。それ以来、暴力の衝動は深奥に封印し、合理性を基準とすることを生きる目的とした。それはいつ何時も崩れることはなかった――職場で人格を否定されても、別れを切り出した女性に包丁を向けられても、公道バトルにて敗北し己の論理を否定されても――、しかし、今、懐かしき限界の到来をしみじみと感じていた。京一にとっての暴力の衝動とは、すなわち不条理への青臭い挑戦であり、正当な理由もなく己の欲望を侵害されることこそ、そのリミッターに近づく唯一の法であった。だが、京一の理想とはあくまで不条理と戦う自分であり、革命を望むものではなく、だからこそ欲望の解消手立てとなる中里を半ば拉致するという、傍から見れば非常識であろう行動を、偶然を利用しながら、躊躇せずに遂げたのだ。
腕を組み、考え込んでいるようで何も考えてなさそうでもあった中里は、不意に片手を恐る恐るといった様子で上げ、あの、と自信なさそうに言った。
「…………俺の意思は?」
「仲間に親戚の訃報だと嘘を吐いて俺についてきたってことは、俺の言うことを聞くんだと思ったがな。それは解釈の間違いだったか。なら今すぐ降ろしてやるぜ、どうする」
車の良く流れている道でアクセルを一気に抜くと、いや違うそうじゃねえ違わねえ、と慌てて声を上げてきたので、抜いたアクセルを踏み込み直した。
「ただ、何だ、その、急なことすぎて……頭がついてかねえ、っつーか……そういやお前、何であそこが分かったんだ?」
「場所を聞いた」
「誰に」
「庄司慎吾に」
「――は?」
きょとんとした中里の顔を一瞥し、京一は左折しながら、本来は、と事情を早口に説明した。
「お前の帰りをお前の家で待たせてもらう予定だったが、偶然立ち寄ったコンビニのレジ番のネームプレートに庄司とあるのが見えて、お前に前見せてもらった写真にあった顔と同じだったから、試しに飲み会の場所を聞いてみた。目当ての人間の名前もこっちの名前も聞かずに庄司慎吾はそれを答えた。全部偶然だ」
赤信号で止まり、もう一度中里を見ると、口は開けていたが、眉間にはしわが寄っていた。
「……待てよ、慎吾はお前のこと」
「声をかけたら接客も忘れてガン飛ばしてきたぜ、随分疲れているようなツラでな。車も見られた様子はないし、気付いちゃいねえだろ。居酒屋の店員だって俺が深刻にしていたら勝手に慌ててお前を呼び出しに行った。俺の名前も聞かずに。だから後からお前を呼び出したのは誰かと聞かれたところで、いくらでも答えようはあるんじゃねえか」
信号が青になり、発進させ、とにかく、と前を見ながら、話の筋を理解しかねているであろう中里へ、京一は結論を出した。
「俺がお前を呼び出したという事実を十段飛びで推測する奴はいるかもしれねえが、確証を握っている奴がいるとは考えられない。安心しろ」
対外的な面を考えるに、この関係が公になることで互いに発生するのは利益ではなく、損失のみだ。細心の注意を払わなければならない。しかし証拠が残っていないのであれば、ある程度は堂々とした方が、疑われにくいものでもある。
そうか、と中里は苦しそうに息を吐き、続けて言った。
「……電話くらい、してくれりゃあ」
「暇がなかった」
「いや、そっちじゃなくて」
「元々お前は断ってたじゃねえか。こうでもしなけりゃ乗ってこねえってことは、この前の一件でよく分かった」
荒れた舗装の道路を進む音がしばらく響き、そうだな、と落ち着きどころの知っている嘆息とともに、中里は言った。
「お前は、まったく無駄がねえ奴だよ、須藤」
褒め言葉として受け取るには苦味の多いものだったが、いずれにせよそれが京一の思考を侵害するということは、なかった。
鍵を持つ手が震えており、鍵穴にねじ込みどちらに回せば良いのか忘れてガチャガチャとやって、後ろに気配を感じながらようやく開錠してドアノブを握っても、震えが止まることはなかった。心臓がとんでもない速度で脈打っており、顔から体から、全身が熱を持ち始めていた。
嬉しいのか悲しいのか恐ろしいのかまったく判然とせず、久しぶりの逢瀬による緊張のあまり吐き気すら覚えながら、自宅のドアを開け、中に入って靴を脱ぎ、部屋の電気を点け、掃除もろくにしていない有り様が目に入り、これまでの生活を瞬時に思い返し、中里はぎょっとして足が止めており、すると後ろから、須藤に抱きすくめられていた。両腕越しに体を固定され、右肩に顔を埋められる。その温度と匂いと感触とに、ぎょっとして冷えた体がまた熱くなり、中里は右腕を何とか引っこ抜き、押し返すように須藤の右腕を掴んだ。
「ちょっと待て先に少し片づけッ、え……あ、お、須藤」
話している途中で首筋にぬるりと舌が這ってきて、声が裏返り、腰が砕けかけ、中里は自由になった右手を廊下の壁についた。その間に素早くジーンズの前が開かれ、下着の中からまだ柔らかいものを空気中に引きずり出される。須藤は一言も喋らなかった。中里の右肩に顎を据え、首から耳にかけてを唇や舌で撫で、服の中に入れた左手で腹や胸を撫で、右手で引きずり出したものを撫でる。刺激の鮮烈さと生々しさに、中里は口をぱくぱくとさせ、浅い呼吸を繰り返した。簡単に陰茎が硬度を持って、須藤の手の動きを潤滑にする。
「……お、おい……あ、待て、待て待て待て、ここじゃ……」
須藤はやはり何も言わなかった。ただ、尻に当たるその股間は硬く、それを意識したら全身の感覚までもが意識され、足に踏ん張りが利かなくなり、快感に背中がたわんだ。息継ぎをするように小さく声を上げていき、そして中里は簡単に射精した。十分しぼり出されて、シャツにそれをなすりつけられると、あまりの事態の速さに、半ケツのまま膝が落ちた。
「どこでも同じだ」
そこでようやく須藤が声を落としてき、中里は息を整え、顔を上げた。こちらを見下ろす須藤の、何の変哲もない顔が見えた。
「同じって……」
「やることはな」
須藤の手が、髪に触れ、頭皮を掴むように覆ってくる。頭上に位置する股間は張り出していた。中里は無駄だと思ったがジーンズと下着を前を開けたまま一旦腰まで上げ、それから膝立ちになると、目の前にあるジーンズのベルトとボタンとファスナーを外してやり、パンツも下ろした。既に十分充血しているものが鼻頭に飛び出してきた。中里は少々ためらったが、頭皮を覆う手に力が込められたように感じ、一方的に与えられたことも据わりが悪かったため、根元を右手で支え、まず先端を口に含み、ある程度舌を使ってから、一気に深くまで呑み込んだ。焦らすも何も、心理的にも経験的にも余裕がなく、行程を一定にすると、唾液が滴るのも構わずに頭を前後に動かしていく。その音の狭間から須藤のうめき声が聞こえ、中里は何もされていないのに下腹部に血液が集まっていくのを感じて、生きた心地がしなかった。疲労で適切な律動が保てなくなると、須藤が自ら動き出し、最後は須藤の自助努力的に終わり、中里は口内に吐き出された精液を飲み下し、むせて数度咳き込んで、甘勃ちもおさまったため一息吐いた。顎まで垂れた唾液を手の甲で拭う。
心を落ち着けるようにもう一度深く息を吐いてから、ひとまず立ち上がろうと片膝立ちになったところ、須藤が左の脇の下に腕を入れてきた。それからひょい、と、肩を貸す形で中里を立ち上がらせて、須藤は相変わらず黙したまま歩き出した。中里は半ば引きずられながら、おい、待て、と心的準備を整える時間を頂戴しようと声をかけたが、狭い室内ではそうするうちにベッドまで辿りつき、ひょい、と乱れているシーツの上に放り投げられており、一回転して仰向けに、ぼす、とマットと毛布と掛け布団へと落下した中里の上へ、須藤は溜めも作らず覆いかぶさり、足で毛布と掛け布団を床に蹴落としながら、頬に手を当ててきて、キスをした。一瞬にして濃厚になりかけて、中里は素早く首を振って、発言の自由を得た。
「待て、口をゆすいでから……」
「お前はさっきから待て待て待て待てと、そんなに嫌か」
須藤は一旦上半身を起こし、嫌とかじゃねえんだよ、と言う中里の口は自由にしたまま、下半身の服をひん剥いて、いや待て、と再び言った中里の上半身の服もひん剥いた。
「今度は何を待てってんだ」
冷静に見下ろされ、はて何を待って欲しいのかと素裸になった中里は考えて、いやその、と言葉に詰まり、天井から広がる鮮やかな光を見つけ、そう、と思いついた。
「そうだ、電気、電気を消して……」
「自分で消せ」
須藤は珍しく億劫げに言うと、勝手知ったる何とやらで、ごく自然に脇の棚からローションを取り出して、ふたを開けた。別段行為に恐れがあるわけではなく、中里は展開の速さに戸惑っているだけであったが、混乱する頭はそれを説明できる状態にはなく、ただ対症的な言葉を重ねるだけだった。
「いや、この体勢で自分で消すってのは……」
「自分で点けたものは自分で消せと言ってるんだ」
正論を述べて反論を封じた須藤は、中里の足を大きく開かせて、濡れた手で尻の窄まりに触れ、周囲をほぐしてから、一本指を沈めていった。
「んッ……」
慣れた感覚と、慣れない質感に、中里は目をつむり、身震いした。だが中をうごめいた指は、やがて動きを止めた。目を開けると、須藤は何とも言い表しがたい顔をしていた。奇妙な沈黙が広がった。何、と中里が口を開こうとした時、須藤は動きを再開して、二本目を入れながら、耳へ口を寄せてきた。
「一人でしたか?」
低く囁かれた瞬間、羞恥で全身がかっと熱くなり、入れられた指を締めつけていた。
「思ってたよりも柔らかいからな。どうした」
「ど、どう、って……」
耳に熱い息が当たり、力が抜け、一際強く快感を生じる場所をこすられて、息とともに声が漏れた。
「ここを自分でいじりながら、マスかいてたのか。気持ち良かったか?」
「す……す、どう」
あえぎながら、切れ切れにその名を呼ぶと、違うだろ、毅、と囁かれて、太ももが震える。京一、と呟くだけで、感覚が余計に鮮明になり、口が閉じられなくなった。
「自分でやるのと俺のと、どっちが良いんだ?」
更に増やされた指が、今度は良いところを敢えて外しながら、肉をほぐしていく。絶頂へは届きそうで届かず、須藤は答えを待っていた。中里はあ行しか出さぬ口に鞭を振るって、その耳へと懇願した。
「お、前、の……」
「何?」
「は、やく……京一」
「俺がどうした」
ここまでに至る迅速さからは考えられないほどの執拗さだった。中里はいよいよ気が狂いかけ、もぞもぞし、頼む、とその背中をきつく抱いた。笑い声が聞こえた気がした。須藤は中里の腕の中から身を上げ、指を抜き、それをついにあてがった。押し入られるだけで、中里は声を漏らした。早く動いて、すぐに須藤の動きが止まった。ずるり、と貫いていたものが抜けていく。深い口づけが降り、胸の突起をかすられ、勃起したままのものを撫でられ、しごかれた。直接的な快感が背筋を上り、頭で弾け、射精した直後に、そして再び入れられ、異様な快楽が全身を満たし、中里はただ腰を振っていた。
どれほどしたのかは覚えてなかったが、起きたのに起き上がれないことが、『通常』以上であることを教えてくれていた。うつ伏せになっており、毛布がかけられている。部屋の中は薄暗いが、全体が目視可能なほどには明るかった。顔を横に動かすと、既に服を着、支度を終えている須藤が見えた。煙草を吸っている。せめてベッドの上にでも座れぬものかと身じろぎしたが、感覚がいまいちあやふやでどうにもならず、そうして起きた衣擦れの音に、須藤が振り向いた。
「起きたか」
「……起きれねえ」
荒れた声でそう返すと、だろうな、としれっと須藤が言う。中里は枕に顔を沈め、ああ、と息を吐いた。今日の休みは休んだまま終わるだろう。これだから翌日が休みでなければ会えたものではないのだ。この男は、一度やると宣言したら加減というものをしないし、されてもこちらが居たたまれない。
須藤が煙草を消し、立ち上がった。中里は下半身を使わぬように、須藤を見上げた。
「帰るか」
「家に戻って着替えなきゃならねえしな」
「気をつけろよ」
「こんな時間に交機に捕まらねえようにってか?」
「……そもそも下手に飛ばさねえだろ、お前は」
めくら滅法にスピードを出すわけでも、制限速度を死守するわけでもなく、警察の張り込みポイントを熟知しながら適切に周囲の流れに合わせるという、配慮に長けたドライバーだった。中里にとって、己が近づきようのない、理想だった。持つ技術も、判断力も、尊敬に値した。決して頑迷ではなく、臨機応変の態を取るような男だった。だから、それが業突く張りになる瞬間が、何よりも興奮した。
「暇ができたらまた連絡する。ゆっくり休めよ」
そう言って頭に置いてきた須藤の手を掴み、おい、と枕に顔をつけ目をつむったままに、中里はずっと腹の底で溜めていたそれを吐き出した。
「そうしろよ、一度だ、何が何でもお前を優先させてやる。覚えとけ」
手にすらそれ以上力を入れられず、腕はベッドの端に落ちた。須藤がそれを拾い上げ、毛布の中にしまい、分かった、と生真面目な声を落としてきたが、中里には返事をする精力も残っていなかった。やがて傍に立つ気配が去り、玄関のドアが開閉される音がして、室内は静まった。深く長いため息を枕に染み込ませる。見つけ出された己の欲望はうとましかったが、それをきちんと満たしてくる男をうとましいとは到底思えなかった。
心中の満足感を反芻しながらしかし、俺のケツはこのままでも大丈夫なんだろうか、と中里は思った。
(終)
(2006/09/09)
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