マイルストンの破綻
エンジンは止めた。ベルトも外した。キーは掌中にある。後はいつも通りにドアを開け、外へ出れば良い。だが中里は、32の車内から動かずにいる。
何時間も前に見た慎吾の顔が、脳裏に焼き付いていた。長い茶髪に挟まれた性悪な表情の似合う顔。それが陰鬱に曇っている。隆起の多い骨が、それを覆う薄い肌が不安で歪んでいる、そういう慎吾の顔だった。
心配されているだけだとは分かっていた。狡猾なくせに繊細で、無慈悲に見えて情け深いのが、妙義山最速の座を争う宿敵であり、妙義ナイトキッズという無法者の集いがちな走り屋チームを支える中里の双璧たる、庄司慎吾という男だった。
走りを早く切り上げる日が増えている。峠に遅くまで留まる日が減っている。孤独に走る日が増えている。仲間と会話を持つ日が減っている。それはわずかな変化であり、一ヶ月以上続いている現状でも、元との差異が際立つほどではないだろう。だが、目は充血しその下には隈が浮き、ただでさえ少ない頬の肉まで落ち始めているこの顔と合わせれば、何かが起こっていると気付かれても不思議ではない。それは中里も分かっている。
分かっている。慎吾はただ、心配しているだけだ。以前はチームの覇権を争う仲だった。今も雌雄を決するべく峠で鎬を削っているが、互いがナイトキッズに欠かせぬ走り屋であることは、互いに認め合ってもいる。かつてのように、蹴落とすべき敵としてのみ慎吾に見られているとも思えない。
中里にせよ慎吾が自分のような状態にあれば、心配するに違いない。何か気にかかることでもあるのかと、直接尋ねもするだろう。
だが、今まで慎吾がそう尋ねてきたことはない。不安に歪んだ顔で見てくるだけで、何を聞いてきたこともない。その慎吾の子供じみた臆病さの、大人びた表出は、中里に追及されないことへの安心をもたらすと同時に、ただ軽蔑されているだけではないかという恐れも抱かせる。あの曇った顔の裏側には、走りを捨てかけている走り屋への、とことんの軽蔑が潜んでいるのではないか。そう疑わせ、そして頭から離さない。
そうではないとは分かっている。慎吾はただ、こちらを心配しているだけだ。だがいずれはそう、なるかもしれない。慎吾に軽蔑され、競い合う走り屋としての価値もないものとして切り捨てられ、チームのメンバーも去っていくかもしれない。
そうなってからでは、遅いのだ。もう終わりにしなければならない。帰るべきだ。思いながら、中里は動かない。動けなかった。
都市部と田舎の合間には、権利の知れない土地がぽつぽつとある。制約の記されていない駐車場。初めに指示された通り、そこに32を停める。いたずらをされたことはない。誰に見つかったこともない。
約束の時間より、いつも十分前に来る。五分、車の中で待機する。逡巡する。これでいいのかと自分に問う。五分前、結局車から降りている。答えは今まで出ていない。
だが今日は、降りていない。約束の時間から、二十分過ぎている。
中里はシートに背を預けたまま、目を閉じた。高度なドライビングを達成するために創生された窮屈な、しかし何年も体を預けている馴染み深いシート。息を吐く。安らぎはない。ここに停まっている限り、親しい車の中で安らげることはない。
帰らなければならない。
どこにだ?
目を閉じて、思い出す。荒々しい山肌。濃緑の峠。削れたアスファルト、ひしゃげたガードレール、底知れぬ崖下。闇を割るライト、散らばる車、轟く咆哮。
鼻腔に溜まる排気ガス、流れる紫煙、溢れる熱気。下卑た笑い声、穏やかな苦笑、真剣な表情。
狡猾に笑う男。熱情に染まった愉しげな笑みを浮かべる男。大切な同胞。人生の一部。自分の中央だった。
不意に、力が沸いてきた。右手を握り締める。小さな金属の凹凸が掌に食い込み、存在を肉に刻む。目を閉じたままその輪郭を、皮膚で味わう。
帰らなければならない。
そこに、帰らなければならない。そう思った。
中里は、目を開いた。握っていた右手も開く。Rのキーは変わらずそこにある。使われることを待つように、掌に載っている。それを中里は、使おうとした。指に持ち替えシリンダーに差し込み、エンジンを始動させようとした。
外で砂利の擦れる音がして、中里は止まっていた。砂利の擦れる音。何かが砂利を踏む音だ。誰かの足音のようだった。右方から、近づいてくる。
まさかと思った。まさか、来るわけはない。来る理由はないはずだ。だが、可能性を考えるだけで、動けなくなる。
足音は近づいてくる。ドアの近くで砂利が擦れる。音が止まる。
唐突に、運転席のドアが開かれた。
外の空気が流れ込んできた。初冬の渇いた冷たい空気に肌が震え、筋肉が収縮する。だが中里は動けなかった。右手も顔も、動かせない。目の前にあるステアリングを、その奥の通電していないダッシュボードを、ただ見ているしかなかった。
十秒ほど、間があった。一分にも感じられた。
「何をしてる」
地を這うように低い、感情の表れない声が、右方から聞こえた。顔を見なくとも、誰の声か分かる。分かるから、動けなくなっている。血液が凍りついたようだった。全身が冷たく痺れてどこにも力が入らない。指一本、動かせない。帰りたいのに、帰れない。
そのままどれほど時間が経ったのか、突如右腕を掴まれた。抵抗する間もなく運転席から引きずり出され、視界が揺れているうちにドアが力強く閉められる。
腕を離された。中里はよろつきながら、砂利の敷かれた地面に立った。真っ直ぐ立ち、前を見た。目の前には男が立っていた。黒いワークパンツとカーキ色のダウンジャケットが、少しばかり大柄の体を包んでいる。その上に、厳めしくも鋭い容貌、刈られた茶の強い金髪。
須藤だった。
来るはずのない、来る理由のないはずの、須藤がそこに立っていた。すべてが停止したような感覚に陥りながら、中里はロックの音を聞いた。キーレスではない、シリンダーに直接キーを差し込んで回す音。目を移す。32の運転席のドア。その斜め下に須藤の右手。キーを持っている。32のキーだ。GT−Rのキーだった。須藤に運転席から引きずり出された時、力が入らずそれをシリンダーから抜けなかった。須藤がそれを抜いたのだ。抜き取り、閉めたドアをロックしたそのキーを、須藤はダウンジャケットのポケットに入れた。
中里は顔を上げた。目の前には須藤が変わらず立っている。その顔に表情はない。いつもの冷厳たる面持ちで、こちらを興味なさそうに見返すと、背を向けて歩き出す。
キーは須藤が持っている。キーがなければ車は動かせない。そもそも車に乗れもしない。どこにも行けない。帰れない。
それを意識した途端、何かが死んだようだった。その死んだ何かに縛られるように、中里は立ち竦んでいた。
離れた須藤が途中で止まり、砂利を荒々しく靴裏で擦りながら、すぐに戻ってくる。舌打ちの後、再び腕を掴まれ引っ張られ、歩くことを強要された。抵抗できなかった。体も頭も働かなかった。
須藤の住むアパートまで、歩いて二分もかからない。三階建て、レンガ調の灰色の壁、左の共同玄関、一階の左側。道は何度も辿っている。いつも一人だった。一人で足を引きずりながら歩いていた。それを痛みも重さも怠さもない状態で須藤に引きずられながら歩くのは、自分の足が地面を踏んでいることが不思議になるほど現実感が薄かった。泥沼に沈んでいるような空中に浮いているようなあやふやな感覚は、須藤の部屋に着いても続いていた。
須藤が錠を外した外壁と同じ色調のドアを開け、中へ入る。腕を引かれるまま中里も続き、そこでようやく腕から手が離された。タイル敷きの土間に靴を脱いだ須藤は短い廊下を進む。中里は動けない。留まろうとする慣性に従い、靴を履いたまま土間に立っている。
廊下の途中で、須藤が立ち止まる。数秒後、振り向き、ダークブラウンの艶やかなフローリングを鳴らすように戻ってくる。その顔に、苛立ちが見えた。
「何なんだ」
低い声が険しく跳ねていた。上り口から見下ろしてくる須藤は明らかに苛立っていた。それを感じ、中里の混乱は一気に収束した。人間らしく苛立つ須藤を前にして、帰れぬことへの恐怖で死んだ自分が、生き返ったようだった。
俺がどうこうってわけじゃない、中里は冷静に思った。道端の石ころとおんなじだ。引っかかれば苛立つが、そうでなければ目にも留まらない。そんなものに誇るべき厳格さを邪魔された、須藤のこの苛立ちも当然だった。だがそれだけだ。須藤が駐車場まで迎えに来たのも、自ら決めた約束を履行して、予定を忠実に完了しようとしただけだろう。苛立ちの火種を消そうとしただけだろう。
俺がどうこうってわけじゃない、まなじりを厳しく吊り上げている須藤を落ち着いた心持で見上げながら、中里は冷静に思い、右手に力を入れた。しっかりと握り、大きく開く。十分に動く。全身には温かい血が巡り始めている。足は地面についている。帰ることに障害はない。こいつはもう、俺とは関係がない。最初から、そんなものはなかったのだ。
開いた右手をそのまま須藤に差し出した。そして、中里は言った。
「キーを返してくれ」
◇◆◇
「こいつを頼みてえんだよ」
面倒そうに顔をしかめた清次が言った。チームを解散させ、帰ろうとした矢先のことだった。清次の横には中里がいた。所在なさげに身を縮めている、その肩に清次は腕を回し、京一の前に突き出すようにしながら、そう言ってきたのだ。
「頼む?」
意味を正確に解せずに、京一は聞き返した。清次は中里の肩に回している手とは別の手で、後ろに括ってある黒髪の根元を小さく掻き、深々とため息を吐く。
「康の奴に呼び出されちまってな。また変なことに首突っ込んだとかで、あの野郎、面倒臭えし構いたくもねえけど、放っといてこっちにトバッチリきても困るだろ」
康は度々危険な道へ足を踏み入れそうになるメンバーで、そういう泥臭い騒動を処理させるには清次は適任の男だった。知略は任せられないが最低限の機転は利くし、とにかく抜群に頑強だ。
ああ、と康にまつわる話への理解を示して京一が頷くと、で、と清次は中里の肩を叩いた。その体が、大仰に揺れた。
「こいつをさ、俺朝まで戻れそうにねえから、お前んとこに泊まらせてやってくんねえか。何か調子悪ィみてえだし」
清次は無骨な顔に懸念を表しながら言い、そんな清次に中里は見張った目を向けた。
「いや、俺は……」
寝耳に水の話だったのだろう、ほとんど口を動かさずに言った中里には、動揺が露わだった。厚みのある唇は震え、薄い頬は引きつり、大粒の目は揺れて、太い眉の周囲は強張っている。怯えているような顔だった。清次がろくな根回しもせずに自分の計画を進めるのはよくあることだが、その時は中里がその餌食となったらしかった。
他の奴に、頼んでやれ。そう言いかけた。その一時間ほど前に、清次に紹介されて京一は中里と挨拶を交わした。須藤京一だ、と言えば、中里だ、と返してきた。それだけだ。以降は目を合わせてもこなかった。避けたがっているのが目に見えていた。京一の構築したチームであるエンペラーでの群馬侵攻の際に清次が敗北を与えた走り屋で、清次目当てに二週間前からいろは坂に来るようになったのだと、清次が説明している間に実際、中里は逃げるように自分の車に戻っていた。
初対面の人間に、距離を取られることには慣れている。峠では身内にも部外者にも無駄な愛想を振り撒かないから尚更だ。それが当然になっていた。避けたければ避ければ良い。そう思うだけだった。中里が相手でも、そこに自ら近づこうという気も起きなかった。
他の奴に頼んでやれ、だから、その言葉が口から出かかったのだ。不調な人間を泊まらせるなら、神経を使わずに済む相手が妥当に違いなかった。避けたくなるような相手は、不当だろう。
「分かった」
だが京一は、そう言っていた。初めて間近で見る、中里の顔から、目を離せなくなっていた。その男の、怯えの強調された顔。それを見ないことへの躊躇があった。その躊躇が、妥当性を優先させなかった。
「おう、ありがとよ」
清次が笑い、じゃあな、と中里の肩をもう一度、力一杯叩いて去っていく。おい、と中里はその背に呼びかけるも、声は小さく、清次は振り向きもしない。清次の背をしばらく見ていた中里が、やがて京一を向く。動きはねじの切れかかったぜんまい人形のようにぎくしゃくとして、最後には斜めに対する形で止まった。目は、合わされなかった。
「俺は」
中里が、口を開く。言葉は続かない。続けられない緊張感がその削げた頬に溜まっている。瞬間、鬱陶しさを京一は感じた。気遣われる鬱陶しさ、拒まれる鬱陶しさ、自分の都合を無視される鬱陶しさ。清次相手ならば受容できる。ただ、その男相手では、なぜか極めて気に障った。
「来いよ」
それだけ言って、京一は車に向かった。エボ3に乗り込むまで、顧みることはしなかった。取るに足らないはずの相手との些細なやり取りで、必要以上に苛立った感情的な自分を、妥当性を確保しなかった理不尽な自分を、そうして振り払おうとしていたのかもしれなかった。
32で追走してきた時でも、エボ3の助手席に乗ってきた時でも、中里は逃げたそうな雰囲気を放っていた。京一はその時でもまだ、中里に逃げ道を用意してやっていた。避けたければ避ければ良いように、逃げたければ逃げれば良いという思いがあった。こちらが頼んで世話をしてやるものでもなかった。
だが、結局中里は部屋までついて来た。先に入るよう促すと、土間に脱いだスニーカーをぎこちない手つきで揃え、廊下を進む。
足取りもぎこちなかった。リビングの入り口で、それは止まった。京一は遅れてその後ろに立った。すると中里が、急に振り向いてきた。一目散に踵を返して逃げようとするかのような、素早い動きだった。
「何だ」
多少面食らい、見下ろしながらそう問うと、混乱に強張った顔にある二つの太い目が、明確に、こちらを捉えた。まつげの密植している範囲が分かるほどの、近さだった。揺れる黒の深さが分かるほどの近さだった。近づいていた。
唇が、触れた。
感触は、ほとんどなかった。表面を掠めただけのようだった。直後、弾かれるように身を引いた中里が、悪い、と小さく言って横を通り抜けようとした。京一は咄嗟にその腕を掴み取り、そのまま廊下の壁に押しつけていた。
わずかに触れられただけの唇から、何かぴりぴりとしたものが全身を貫いていた。それは憤りのようだった。何かに対する激しい怒りのような、それをぶつけるように、京一は中里の唇に食らいついた。顔を手で挟みつけ、口に左右から親指をねじ込んだ。開かせたその中に舌を入れ、指と合わせて粘膜を苛烈に犯した。唇を噛み、口腔をねぶり、舌を奥から指で擦り上げながら、唾液を飲ませ、零させた。だがいくらその男に苦痛の呻きを上げさせても、体を貫く激情は消えなかった。それどころか、増していく一方だった。
「えっ、う、うぅ……」
嗚咽のようなものが口の中に聞こえ始め、京一はふと顔を離した。京一の指は五本も中里の唾液にまみれ、その中里の顔は唾液と涙にまみれていた。眉頭は頼りなく上がり、口からは舌とよだれと空気とが、だらしなく零れていた。見苦しい顔だった。それに神経が焼かれたようだった。右足が痙攣するように動き、太腿に硬いものが当たった。
「……ッ」
中里が息を呑む。ジーンズの奥に潜む、硬い肉の塊。京一はそれを、膝で押し上げた。
「俺に」
その潰れぬ強さに、潰してやりたい衝動を覚えながら、言うつもりもなく言っていた。
「やられてえのか」
目は、合わされていた。赤く充実したその目が、見開かれた。そこに京一は、欲情のうるみを見た。
鬱陶しさが拭えなかった。性的指向と反する行為に駆り立てるあてどもない感情、それを掻き立てる目の前の男。そんなものに左右されている理不尽な自分。鬱陶しくてたまらなかった。その苛立ちのはけ口とするように、中里を捕まえながら突き放した。力なく床に落ちたその体をベッドに放り、その前にクリームとコンドームを放り、好きなようにさせていた。ペニスを大して良くもない口に貸して、尻に貸した。大して良くはなくとも、勃起はしたのだ。
「ぐ……」
ゴムを被せたそれを、中里はぎりぎりと締めつけた。その顔は大きく歪んでいた。筋肉は強張りを見せ、額に脂汗が浮き、ペニスは完全に萎えていた。その尻の狭さ、咥えてきた熱い口の、ぎこちない摩擦。瞬間、閃いた。
「初めてか?」
自分でも、間の抜けた問いに聞こえた。だが正鵠を射たようだった。見上げる先、目を閉じ顔をしかめた中里は、何も言わなかった。荒い息だけ口から吐き、後は動きもしなかった。頭の奥が、すうっと冷えた。その冷たさが全身に広がった。氷漬けにされたようだった。だが、中心には溶解しそうな熱さがあった。中里の尻に締めつけられているものだけが、明確に生きていた。どろどろとした快感に、腰が浸かっていた
内と外、中心と末端とで、体温が隔離されているようだった。吐き気を呼ぶ、その不愉快さをならすように、京一は腰を動かしていた。中里が呻き、俯く。硬い肉に締め上げられているだけだった。うまい刺激などあるわけがなかった。だが腰を揺すっているうちに、熱い泥に浸かっているような腰から、太く鋭い快感が背骨を突き上げた。吐き気が浮き上あがるほどの、それは異様な快感だった。
中里は揺さぶられるままになっていた。その全身で苦痛を表していた。もう、やめるべきだとは分かっていた。痛めつけようという気などはなかった。ただ、鬱陶しかっただけなのだ。唇を寄せてきたのはこの男で、仕掛けてきたのはこの男だ。だから勝手にすれば良い。人を好きなようにして、一人で満足すれば良い。どうせそういう人間だ。そう思っていた。思い込んでいた。初めてだとは、考えもしていなかった。
もう、やめるべきだった。あるいは優しくしてやれば良い。それは簡単だ。いつものように、夜を共にする相手への、後腐れのない、最低限の思いやりをかけてやれば良い。当然に、できるはずのことだった。
京一は、動きを止めた。全身の温度はならされている。ただ、腰だけは、変わらずどろどろと、熱い。中里は動かない。噛まれている歯が口から覗く。眉間の皺が苦悶を表す。その尻を、京一は平手で叩いた。
「動けよ」
やめるべきだとは分かっていた。だが、始めたのは、この男だ。終わりはこの男が決めることだった。優しさなど、挟む余地はない。挟む義務も、京一は見出せなかった。
尻を叩かれた拍子に、崩しかけたバランスを整えた中里が、やがてゆっくりと動き始める。ぎこちなさのつきまとう腰の揺れは、時間を経るごとに滑らかさを増していった。次第に声を殺しながら、中里は勃起していた。息遣いとベッドの軋みが響く寝室で、京一は不思議と静けさを感じていた。技巧はなかった。大して良くないはずの行為だった。静寂そのもののような行為だった。だが、京一は目まぐるしい嵐のような快感に襲われていた。ペニスは自分の支配下から脱してしまったように興奮し続け、中里の尻によって極みに導かれていた。
京一が射精を終えると、中里は自ら離れていった。そのペニスは勃起したままだった。京一はそれを無視し、自らの処理だけを行った。中里は文句を言わなかった。何も言いはしなかった。
声をかけようかと、思いはしたのだ。始末をしてやろうかと、思わないわけではなかった。だがそうする義務はやはり、見出せなかった。
崩れ落ちたように横になっている中里へ、ただティッシュを放った。中里が顔を上げる。体液と赤に覆われたその顔には、絶望が塗り込められているようだった。京一は何も言わずにそれを見返した。そして、寝室を出た。
風呂場に入り、熱いシャワーを浴びた。全身をくまなく洗い、湯を浴びせた鏡を見た。鏡に映る自分は、ひどく曖昧な顔をしていた。
寝室に戻ると中里は元通りに着替えていた。ベージュのジャケット、白いシャツ、ブルージーンズ、白い靴下。その姿でベッドの端に腰掛けて、開いた膝の間で手を握りしめている。リビングからの光が斜めに当たり、闇の中で浮き立っているようだった。
京一は寝室のドアの横、壁にもたれてそれを見た。何も言わなかった。シャワーくらい浴びたらどうだ。寝るならベッドを貸してやる。普段考えずとも出せる言葉が、ただただ頭を巡っていった。それを出すことへの躊躇があった。その躊躇の正体を把握し得ぬまま、京一は出せない言葉を頭蓋骨の中で回していた。
そのうち中里が立ち上がった。俯き足下だけを見て、バランスを崩しかけながら、ドアの方へと歩いてくる。京一の方へとだった。息遣いはまだ荒い。そのまま中里は、横を通り過ぎようとした。顔を上げようとはしなかった。一度も見ようとしてこない、そこに京一は、抑えがたい苛立ちを覚えた。
「次が欲しけりゃ連絡しろ。番号は清次が知っている」
すぐ横で、言うつもりもないことを言っていた。中里が立ち止まり、数秒後、再び歩き出す。目を向けられた気配はなかった。フローリングを足の引きずる音が耳に強く刻みつけられた。寝室のゴミ箱には丸められたティッシュが増えていた。
それ以降、電話がくるようになった。最初の電話で中里は名乗っただけだった。中里だ、と、初対面での挨拶のように、それ以外には何も言わなかった。会う日にちを決めたのは京一だった。大体は当日の夜だった。中里は嫌を言わなかった。週に一度の頻度で電話はあった。
今日もそうだ。電話をしてきた。もう名乗りもしない、相変わらずの無言電話だった。いつも通りの電話だった。京一が日時を提案して、初めて中里はものを言う。それも、ああ、と言うだけだった。
「俺は帰る。ここにはもう来ない」
揺らがぬ黒でこちらを捉えながら、中里は言った。苦悩が刻まれた顔ではなかった。全身に癒えない傷を抱えているような悲壮感も漂ってはいなかった。先ほどまでの深刻さを捨てきった、落ち着き払った中里が、京一の目の前に立っていた。
「だから、キーを返してくれ」
真剣で、たくましい顔つきで、中里はそう繰り返した。キーを返してくれ。俺は帰る。
帰る? 来ると言ったのはお前だろう。思ってすぐに、いや、と京一は考えている。来るなどと、中里は言っていない。ああ、としか、言ってはいないのだ。その声に漂う重苦しさも、いつも通りだった。何も変わりはしなかった。
その時から、それでも考えていたというのだろうか。疑問が頭を支配する。いつものように電話を寄越しておきながら、提案した日時にああと返しておきながらこの男は、こうすることを、考えていたのか。やめようと、していたというのか。いつからだ。いつからこいつは、こうすることを決めていた。
頭蓋骨の中を巡る疑問は、だが言葉として吐き出せない。その焦燥感はありえるはずのないものだった。いつでも言葉は京一の従者だった。それは己を他者に認めさせるための矛となり、侵されないための盾となった。意思に基づく瑕疵なき理屈を外部に表す手足となった。
なのに今は、開いた口から一言も吐き出せない。何も語れない、何も聞けない、聞くための言葉がまったく外へ出ていかない。手足をもがれたようだった。この男に対してだけだ。この男に対してだけ、いつでも言葉は支配を拒むのだ。
京一は、きびすを返した。逃げるようにリビングに入る。逃げる? どうして俺が逃げるんだ? 思ってすぐに、立ち止まる。ありえるはずのない焦燥感に、体まで、支配を拒もうとしていた。
「須藤」
後ろから、声がした。迷いのない声だった。フローリングを足の踏みしめる音が近づいてくる。京一はダウンジャケットを脱いだ。床に脱ぎ捨てて、振り向いた。目の前に中里が立っていた。迷いのないその顔が、床に落としたダウンジャケットに向く。その目に決意が閃くのが、見えた。それを消さずにはいられない衝動が体を駆けた。京一は咄嗟に中里の腕を掴み取り、そのままリビングの壁に押しつけた。
「やめっ……」
間を置かずその唇に食らいつくと、中里は体をくねらせ逃れようとした。それを京一は力の限り壁に押さえつけながら、唇と舌を擦り合わせた。抵抗はやがて減る。鼻にかかった声が上がり、前に触れれば張り詰めている。
手を振り払った中里が、壁を伝って座り込んだ。三角に座り、膝に額を押しつける、その体は震えていた。矮小な姿だった。それを見下ろし、京一は肉を切られるような苛立ちに襲われた。こんな奴に、どうして翻弄されなければならないのか。こんな風になる奴が、どうしてやめようとしたというのか。
「お前が始めたことじゃねえか」
言うつもりもないことだった。この男に対しては、それしか、言えなくなっているようだった。
「お前が俺を、巻き込んだんだ」
◇◆◇
初めて会った日のことを、今でも思い出す。
名前だけは知っていた。須藤京一。岩城の属する栃木エンペラーのリーダー、岩城を妙義に送ってきたランエボ乗り、赤城レッドサンズの高橋涼介と何がしかの因縁を持ち、ストリートキングと謳われたその引退者と互角に競り合って、負けた走り屋。それ以上を、知りたいとは思わなかった。
いろは坂を目指したのは、岩城に再戦を挑むためでしかなかった。過去、ホームの妙義山で負けたことは幾度かある。だが岩城に負けたヒルクライムバトルには、どの敗北をも上回るほどの、後悔と屈辱があった。自分の力を出しきれなかった後悔、自分だけではなく、チームまでもが虚仮にされた屈辱。
だから、岩城ともう一度走りたかった。自分の実力は、あんなものではないと、その自分が守るチームは、侮辱される筋合いなどないものなのだと、岩城に認めさせ、そうであることを、自分でも確かめたかった。それも、年が変わる前にだ。須藤には、その岩城以上の興味も持たなかった。
十月半ばのことだった。いろは坂に行った二度目、岩城は須藤を紹介してきた。一度目、その姿は峠になかった。会うのも目にするのもその時が、初めてだった。
黒いエボ3の傍に、腕を組み、立っていた。比較的大柄な岩城と、似たような背格好に見えた。上には車よりも光沢のない黒の、肉体の線に沿った長袖のシャツ、下にはカーキ色のカーゴパンツ。布地に余裕があるそれと比べると、シャツはぴったりと須藤の肌を覆い、筋肉を際立たせていた。盛り上がった肩、張りのある腕、隆起した腹周り。強靭そうな肉体だった。
顔は、それよりも、頑強そうだった。面長の、骨の形の明らかな輪郭、高低差のある頬、鷲鼻気味の鼻、引き絞られた唇。白い手拭が、頭に巻かれ、髪型は定かではなかったが、刈られているもみあげから、坊主に近いという推測がついた。
その手拭に半分隠れた、角度のある眉。その下に近い距離で埋め込まれた、二つの目。まなじりの上がった、長く、鋭い双眸だった。感情の窺えない、黒く、深く、揺るぎない目だった。
その目だった。それを見た、瞬間だった。それに、見られた瞬間だった。
心臓が、止まった。
止まったような、気がしたのだ。
何かが心臓を突き刺して、ぐしりと抉り、鼓動を止めた。そんな気が、した。
「お前が俺を、巻き込んだんだ」
苛立たしげに、須藤は言った。断罪的な物言いだった。中里は三角に座ったまま、自分の髪を引きちぎらんばかりに掴んだ。そうだ、これは、俺が始めたことだ。だが、巻き込んだ? そんなこと、できるわけがない。今まで自分がやるとは考えもしなかった、ろくにやり方も知らなかった、苦痛と恥辱と快感とに塗れた行為を、それで得られるわずかな時間を、後悔に苛まれても求めることをやめられない、この感情に巻き込むことができるのならば、こんな風にはしていないのだ。
中里は、膝につけていた顔を上げた。腕の間から、須藤の足が見えた。その奥に黒いダウンジャケット。そこにRのキーがある。意を決し、フローリングを這うように走った。須藤の足をかわし、ダウンジャケットに手を伸ばす。
「ぐっ」
それに届きかけた寸前、服の襟首を後ろへ引っ張られた。逃れようとするが、襟が喉に食い込んで呼吸と血流を妨げる。力を出せない。結局そのまま寝室まで引きずられ、ベッドに投げ捨てられていた。
首が解放されて、空気が一気に喉に入り、伏せながら咳き込んでいる間に、上半身を裸にされる。咳が治まった頃には、仰向けになっていた。上には須藤が乗っていた。
「須藤ッ」
見上げる顔は半分が寝室の暗闇に黒く塗られ、半分がリビングから入る光に白く塗られている。熱くも冷たくも見える、須藤の顔だった。何を考えているのか見透かせない。殴ろうというのだろうか、だがそこまでの怒りの源にも、なれるわけはない。
「できるわけ、ねえだろ」
何とか叫ぶ。須藤は黙ったまま見下ろしてくる。その目を間近で食らうだけで、頭が痺れそうになる。意識が逸脱しそうになる。自分が失われそうになる。その程度のものだった。
「俺が、お前を、巻き込むなんて」
そんな力は持っていない。そんな権利は、そもそもない。
「できるわけ、ねえんだ」
いまだ苦しい息の中、中里はそれだけを吐き出した。できないから、帰らなければならなかった。夜の峠を駆ける興奮を共有できる仲間の元に、そうできる走り屋としての自分に、帰らなければならなかった。
須藤の右の眉の端が、わずかに動いたように見えた。何の感情が示されたのかは分からなかった。それ以外、須藤は顔のどこも動かさないまま、手を伸ばしてきた。首を掴まれ、強く絞められた。何をする間もなかった。一気に頭が朦朧とし、死が瞬間的に想起された頃、放される。血は元通りに巡り出したが、意識はすぐには正常に戻らなかった。
下半身を覆う衣服を脱がされても、抵抗ができなかった。全身が気怠かった。それでも体の感覚は戻っていた。右足を取られたのが分かった。胸に膝がつくように、それを上げられた。
はっきりとしてきた視界の中、須藤の動きが見えた。何のためらいもない動きだった。ベッドサイドの棚から何かを出して、手でもてあそぶ。右手が股間に入ってくる。
まさかと思う間もなかった。尻にぬるいものが触れた。周囲を揉みほぐすこともなく、それは無遠慮に中へと入ってきた。
「あっ……」
ぬめりをまとった、堅く、細い、節立ったもの。須藤の指だ。意識した瞬間、全身に震えが走った。締めつけると、まざまざと輪郭が分かるようだった。須藤の指。須藤に指を入れられている。頭が真っ白になった。自慰の際、幾度も思い描いた行為だった。現実は、想像を駆逐した。入れられただけで、達しそうなほどの、快感があった。
「あ……あ、あ」
指が、中を、えぐっていく。声を抑えられない。体が跳ねるのを止められない。自分でやる時のように、快感の生まれる場所を重点的に擦られているわけではない。ただ、えぐられているだけだ。それなのに、途方もない官能がある。二本、三本と指が増えていくごとに、募る圧迫感が、疑似的な快楽を呼び起こす。何も考えられなくなる。尻をえぐる須藤の指に、中里は束の間すべてを支配された。
「……んっ……」
それは突然引き抜かれ、排泄感に似たものがぞっと腰を震わせた。尻はぽっかりと空いているようだ。体を疼かせるその欠落感が、かえって中里の意識を冷ましていった。
こんな自分は、嫌だった。何の気もない須藤の指一つでこうまで感じてしまう自分。それをまったく抑えられない自分。そんなもの、本来の自分ではない。もう、それを放っていては、いけないのだ。自分が失われる肯定は、これ以上、してはいけないのだ。
逃げようと、くすぶる快感で重くなっている体を動かそうとした時だった。ジ、と音がした。溝のついた金属が擦れるような音。ファスナーの下りる音だと気付き、中里は違和感を覚えた。そんなものを、誰がここで、下ろす必要があるというのか。
顔を上げて、須藤を見る。横から少しだけ差す光がその輪郭を映し出し、動きを拡張する。須藤はワークパンツを太股まで下ろしている。下着ごとだ。それとシャツの間には須藤のペニスがある。陰毛を隠すほどに勃起しているペニスだった。
現実では、ないような気がした。自分は何もしていない。ペニスを刺激していない。それなのに須藤が勃起することなどはありえない。こんな現実は起こりえない。だが実際須藤は勃起している。勃起したペニスをさらけながら、こちらの足を開いてくる。
「い、や、やめ……」
尋常ではない恐怖を中里は感じた。ありえないことが起こっている。夢で見たことが起こっている。夢でしかないことだ。何もせずとも須藤は勃っていて、その須藤に抱かれる夢。それを想像するだけで、自慰は容易く達せられた。怖かった。現実に、指を入れられただけで、あの快感だった。本当に抱かれてしまえばどうなるのかという恐怖があった。どうしてそんなことが起こるのかという、恐怖があった。
逃げたかった。だが、体は恐怖に囚われていた。開かれた足の間、須藤が腰を据えてくる。
「あっ、あ……」
尻に、須藤の硬いペニスが触れてすぐ、それを躊躇なく、突き入れられた。頭の中で何かが弾けたように中里は感じた。その何かは巨大な奔流となって視界を白で埋め尽くし、全身を呑み込んだ。何も把握できなかった。一切が消えてしまったようだった。全身が浮いているように痺れ、痙攣した。とけているようだ。とけた体の中に入っている、須藤だけが硬かった。
それが、ぬるぬると出入りしていく。おぼろな感覚の中で、追われるような感じがあって、何かが漏れた。射精したような気がしたが、それも定かではなかった。
「これでも」
上から声が降ってくる。須藤の声だ。そのはずだった。どこか、ざらついていた。
「帰りたいのか」
帰りたいのか。そうだ。帰りたい。頷くと、金属音のような舌打ちが聞こえた。
「なら何で、お前は俺と」
ざらついている声が、言葉が切られる。見上げても、須藤の顔は、暗闇でろくに見えない。それなのに、苦渋に満ちているようには見えた。何でお前が、ぼんやりと中里は思った。何でお前がそんな顔を、するんだ。
「お前が」
手を、伸ばしていた。頬に触れていた。その皮膚を掌に感じるのは初めてだった。しっとりと、温かかった。たまらないものが、肉の底に広がった。
「好き、なんだ、須藤……」
だから、帰らなければならなかった。帰りたかった。この男を、求めずにいられる自分に、帰りたかった。
手に、手が重ねられた。熱い手だ。苦渋に満ちているような、須藤の顔が近づいてくる。唇が重なる。舌が重なる。熱い。行為の最中、そうして触れられるのも、初めてだった。肉が混じる。熱が混じる。上も下も、何もかも、とけてしまう。
もう、何もない。これで終わりだ。須藤の手を、顔を、振り払いながら、須藤の首に、すがりついた。
「好きだ」
何度もそう繰り返した。再び口を塞がれても、強く体を揺さぶられても、意味が分からなくなっても、言い続けた。須藤。好きだ、須藤。それで良かった。ただ、心地が良かった。須藤に精液を注ぎ込まれた瞬間、途方もない幸福が、中里を溶解していた。
◇◆◇
射精を終えたペニスを挿入したまま、京一は放心状態の中里にキスをしていた。やめてもいいはずだったのに、衝動を抑えられなかった。唇を重ね、舌を絡ませ、唾液を吸う。次第に応え始めた中里は、合間合間にうわごとのように、好きだと繰り返した。好きだ、好きだ、好きだ。意味が分かっているのか不思議になるほど言い続けた。一つ言われる度に、下半身に熱が宿った。欲望がたぎった。
驚くほどの早さで、萎えたペニスは勃起を取り戻した。京一はためらわずに中里を再び突いた。服を脱ぎ捨て、しっかりと体を絡ませ合い、動きの流れで後ろからも貫いた。初めて耳にする中里のあられもない嬌声が、動きに合わせてきっちりと締めつけてくる肉が、次々快感を引き出した。一度目に注いだ精液がこぼれ出す尻に、構わず腰を打ちつけていた。二度目の限界まで長くはなかった。三度目は長かった。その頃にはもう、声は言葉を表さなかった。
京一が射精すると同時のように、中里は気を失った。尻に出したものを掻き出す間も、全身を蒸しタオルで拭う間も、覚醒しなかった。眠りについたらしい中里をベッドに横たえ布団を被せ、京一は寝室を出た。
風呂場で熱いシャワーを浴びる。全身をくまなく洗い、湯を浴びせた鏡を見た。鏡に映る自分は、整然とした顔でこちらを見ていた。
寝間着に着替え、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出した。キャップを開け、口をつけた。冷えた水に、濁った味を感じた。味覚が濁っているようだった。
容器を半分も空けずに、リビングのテーブルに置く。代わりに煙草を手にして、ソファに座って火を点ける。濁った味がした。何もかも濁っているようだった。
三回吸って、煙草を消した。ソファから立ち上がり、寝室に向かう。リビングの光が開いたドアの角度だけ流入して、闇を割っていた。
フローリングを素足のまま歩き、ベッドの傍に立つ。そこに一人の男が眠っている。薄暗い部屋、被せた布団から、やつれた横顔が見えた。
この程度の世話すらも、今までしてはこなかった。終われば一顧だにしなかった。そんなこと、いつでもしてやれたのだ。体を労わりベッドを貸す。それだけのことを、だが一度もしなかった。嫌悪していたわけではない。憎悪していたわけでもない。気にしていなかったわけでもない。それなら最初から、こんな風にはしていない。
初めて間近で見た瞬間。動揺に染まり、怯えが強調された顔から目が、離せなくなった。巻き込まれた。だが、始めたのは、この男ではない。俺の方だ、京一は冷静にそう思った。余計な気を遣われたくはなかった、関わりを拒まれたくもなかった。自分の都合を、意思を、無視されたくはなかった。
始めたのは俺の方だ、死んだように眠っている中里の横顔を見下ろしながら、京一は冷静に思った。だからこそ、巻き込むことが、できなかった。こちらの人生に、引き込めなかった。妥当性を優先できない自分、言葉を従わせられない自分、それに苛立ちを抑えられない自分。情動を欲望に背負わせた、不当な自分。そんなものが、自分であるはずがなかった。自分であってはいけなかった。それが本来の自分だと、認めることができなかった。
触れる義務が、見出せなかったのではない。権利だ。そんな自分が中里に、近づく権利を見出せなかった。
大切に、したかったのだ。
ベッドから離れ、窓に歩く。カーテンを少し開けると、帯状の雲の流れる空の下方が、うっすら赤く染まっていた。朝焼けだ。橙にも近い透明なそれが、ひどく目に沁みた。京一は目頭ごと眉間を強くつまんだ。しばらくそのまま動かずにいた。そしてリビングに戻り、煙草に再び火を点けた。味はいつもと変わりがなかった。
◇◆◇
目覚めた時、違和感があった。いつになく体は重かった。皮膚にも筋肉にも関節にも内臓にも、疲労がしっかり食い込んでいた。だというのに、息苦しさはまったくない。すべてはあまりに安らかだった。裸で寝ていたせいだけではないようだった。
それでも重さの残る上半身を斜めに起こし、中里は辺りを見た。部屋は明るい。淡い日差しがレースカーテンを貫いている。それを遮るように窓を向いて立っている男がいた。銀鼠のジャージとトレーナー、茶のかかった金髪。須藤だった。
驚きに、体が揺れていた。布団が肩から滑り落ちた。がさりと大きな音がした。須藤が振り向いた。その顔まで淡かった。
「起きたか」
声は、明瞭だった。中里は何も言えなかった。動揺が過ぎていた。部屋を満たす日差しのような顔のまま、須藤はこちらへ、歩いてくる。
ここは、須藤の部屋だ。須藤の寝室、須藤のベッド、須藤の布団。だがここに泊まったことはない。泊まることなどあるはずがない。なのにどうしてこんなことになっているのか、中里には分からない。
須藤がベッドに腰を下ろす。マットレスが沈む。鼻をくすぐる煙草の匂い。草原に建つ土壁のような匂い。須藤の匂い。全身が、須藤に囲まれているようだった。中里はめまいを感じた。目を強くつむってやり過ごす。
「中里」
向けられた声に、体が震えた。名前を呼ばれたのは初めてだった。呼ばれることなどあるはずがない、ありえない、そんなことばかりが起こっている。わけが分からない。分からないが、とにかく帰らなければならないと思う。帰るためには車に乗らなければならない。車に乗るにはキーがなければならない。Rのキーを持っているのは須藤だ。
「キーを」
返してくれ、目をつむったまま中里は言った。返してくれればそれでいい。帰れさえすればそれでいい。もう何もない。終わっている。昨日で全部、終わったのだ。
そうだ。夢を見ていた。須藤に抱かれる夢だった。恐ろしく幸福な夢だった。それが終わった。夢は終わる。後は現実に帰るだけだ。あんなもの、いつかは見たことも忘れるだろう。
シーツの擦れる音がした。空気が動く。須藤の匂いが流れてくる。閉じた目の裏がぐるぐると回る。めまいが深まった。倒れぬように力を入れた体は直後、熱いものに包まれていた。力強いものに、捕らえられていた。濃密に、温度も匂いも重なった。
須藤に抱き締められたのだと、気付いた時には、不思議とめまいは止まっていた。
「俺の方だ」
耳元で、声がした。砂利でも詰まったような須藤の声だ。ざらついた、いびつな声。それが何の言葉を作ったのか、中里は咄嗟に理解できなかった。
「始めたのは俺の方だ、俺が始めた、だからお前を……」
須藤は苦しげに唾を飲む。苦しげに息を吸い、そして躊躇を刻んで、言葉を続けた。
「俺は何だって、説明できると思っていた、言葉で説明できねえことなんざ、この世にありはしないんだと、なのに、今は、分からねえ。何が、正解なのか、何をどう言えばお前に全部、伝わるのか、伝え、られるのか」
迷いの溢れた口調だった。苦渋に満ちた言葉だった。それが脳に浸透し、ああ、と中里は吐息を漏らした。まさか、そうだったというのだろうか。あれは夢ではなかったのか。須藤も同じだったのか。留まろうとしていたのか。自分が失われそうな中、自分を失わないように、足掻いていたと、いうのだろうか。
「分からねえんだ、でも、中里」
名を呼ばれ、体が芯からぶるりと震えた。それを潰れそうなほどに、腕で、胸で、全身で、掻き抱かれた。
「ここにいろ」
心臓が、止まった。
止まったような、気がしただけだ。動いていた。ものすごい勢いで、筋肉を打ち始めていた。今まで止まっていた、その遅れを取り戻すかのように、必死の速さで動いていた。
「俺のためにここにいろ、帰るなら、ここに、帰ってこい俺は、俺はいつでもお前を待つ、中里、俺は」
須藤が喘ぐように唾を飲む。胸が熱い。目の奥が熱い。耳にかかる、須藤の息も熱かった。
「お前が好きだ」
ざらついた、声まで熱いようだった。全身を冒したその熱が、目から液体となって溢れ出て、須藤の肩まで濡らしていく。生き急ぐ体は苦しかった。それを締めつけられて、なお苦しかった。だが、そこはあまりに安らかだった。夢の続きのようだった。
そこに、帰りたかったのだ。
そう思えるほどの、錯覚のような安らぎを、須藤の腕の中に、中里は感じた。
(終)
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