根幹の檻



 夜は長くなり、寒さは深まっている。近いうち、クリスマス商戦も始まるだろう。メディアに扇動される人間どもが欲に溺れれば、すぐに年末だ。
 されども師走はまだ先であり、人工物を閉じ込める雪の到来もまだ遠い。峠の冷気はジャケット一枚あれば遮断できる程度のもので、山深くに分け入るのではなく、ふもとの整備された駐車場にいる限りでは、防寒着も必要はなかった。歩く際にも、手はポケットに入れねば冷え切るが、外気との接触面積を減らすために身を縮こませる必要は、ない。
「よく来たな」
 足音も気配も潜めずにいた京一が、一歩前に立ち初めて高橋涼介は目を合わせ、淡々と、歓迎の色を含まぬ声でそう言った。黒いテーラードジャケットにグレーのカットソー、ホワイトジーンズに長身痩躯を包んだ男は、骨に歪みのない、白い肌には傷もない、相変わらずの美形で、うんざりする。その横に立っている涼介の弟、高橋啓介も、似たような美形だ。涼介と違うのは、人を射殺せそうなほどに鋭く切れ上がった目と、染められ立てられた茶の髪で、それが、細身の体をゆったりと包む赤いチェックのネルシャツとダメージジーンズを、小粋に見せている。この兄弟の美しさを画像に残すのに、撮影技術は要らないはずだ。ただ撮れば良い。どの角度からでも、端麗な容姿は正確におさめられる。そしてそれは、金を生み出すだろう。高橋兄弟とは、高橋涼介とは、そういう人種だ。自分とは、生まれた時から住む次元が違う。その環境の違いにすら抱いていた屈託は、変わらぬ涼介に接してぬくまった胸が削ぐため、今、京一の感覚からは遠く、完璧な容貌を眼前にしても、うんざりするのみだった。
「まあな」
 言葉を受け取ったことを知らせるだけの言葉を吐き、京一は、ミリタリージャケットのポケットに入れていない右手に持っていた、B5サイズの緩衝材入り封筒を差し出した。涼介は小さく頷き、白く長い手で、それを取る。
「何それ」
 弟が不思議そうな声を上げ、声に合致した顔を、涼介の手に向けた。そうすると、幼さが現れて、隣に立つ涼介の顔には、慈愛が現れる。
「エンペラーデータ集だ。須藤京一お手製だぜ」
「そんなもん、どうすんだ」
 人の作り上げたものに敬意も払わぬ高橋啓介の、闘志や敵意が鋭さに加わらぬ顔は、可愛げがあると言えるだろうが、その端々に他者を食らわんとする凶暴な本能を浮き上がらせている人間に、京一は庇護欲をそそられない。顔を扇ぐように封筒を振るその兄は、実の弟に対しては万能の愛情があるらしく、それを窺わせる緩さで小さく口角を上げた。
「精査された情報はラベルを貼って管理しておけば、いつか役立つ日もくるかもしれないということだ」
「いつかって?」
「いつかはいつかさ」
「来るのかよ、そのいつかは」
「来ないかもな」
 何だか分かんねえな、と鼻の頭にしわを作った弟には小さく笑い、京一には笑みを消した冷淡な顔を向け、封筒を一度掲げると、涼介は奥へ歩いた。データを保存しに行くのだろう。京一は右手もジャケットのポケットに入れ、その場から動かず、封筒が返されるのを、待つことにした。どうせ情報は複製されるし、峠の走り屋に執着している涼介が、その身分を危険に晒す行為に走ることはないだろうが、本体が手元に戻らねば安心はできない。それに、涼介は、帰れとは言っていない。帰る必要はない。わざわざ栃木から群馬の赤城山まで来て、ディスクを渡してすぐ帰るには、涼介との接触は短すぎた。
 これは俺の個人的な頼みだ、十日前の昼、挨拶もそこそこ、電話口で涼介は言ったものだ。エンペラーのデータが欲しい、目的は私的利用、この頼みを受けたところでお前に直接の利益は生じない。どうだ。聞かれたのは仕事の休憩時間で、頭が走り屋に切り替わる前に、人間としての自分は、いいぜ、と軽く答えていた。個人情報だから、すべてとはいかないがな。それでいい、涼介は自らが作った意図を探るような沈黙を吸い込む重い声で、言った。俺に見せられる範囲で、お前が作ってくれ。
 そこで、じかに記録メディアを提供する方法にこだわったのも、引き渡しに今日を指定したのも、京一だった。合理性に欠ける行動を取っている自覚はあったが、久しぶりに、涼介の前に立ちたいという気持ちは、抑えられなかった。
 時が経つのは早い。走りの基盤を固めることに腐心していた一年が過ぎるのも早かった。振り返る度、随分急いでいたものだと京一は思う。この一年で、友人のいくらかは結婚しいくらかは親となり、旧友はプロのレーサーとしてキャリアを積み上げ、自分にしても威厳をつけろと社長に命じられて渋々金に染めた髪を、打ち合わせの際に怯えた目で見られることも減った。一年間、出来事は多くあった。だが私生活の断片には目もくれず、人付き合いのため以外で飲みに行くことも、無計画にレースに出ることも、女性と交際することも性交することもなく、己の哲学に基づいた運転技術の維持と向上に、労と金を払い続けていた。
 急いでいたのだ。自分が何をそこまで急いでいたのか、京一は既に理解している。行動の起点になっていたのは、感情だった。恐怖だ。高橋涼介という至高のドライバーが、いずれ走り屋でなくなる日が近いうちに必ずくると、時間は無尽蔵にあるものではないのだと、一年前、自分が保っていた全勝記録を止められる前から、京一は肌で感じていた。それがために、急いでいたのだ。己が理念で高橋涼介の偏向的な見解を打ち砕く機会が消え去ることに、怯えていたのだった。
 専用の施設で適切な設備を使用し、相応の同士とともにモータースポーツを楽しめば、知識も技術もついてくるものだ。正当性をもって趣味を行える。あるいはそこには趣味以上の広がりが生ずるかもしれない。一定の規律に則ってこそ、可能性とは開けるものである。いくら公道で競り合って勝利を収めたところで、そこに留まる限り、正規の栄光は、決して与えられることがないのだ。
 高橋涼介に勝たんとしたのは、それを認めさせたかったからだった。世界に対し発揮されるべきその天賦の才を、峠の走り屋などという曖昧で程度の低い定義に執着してふいにすることは、自虐的な行為でしかない。既存の理論に忠実な技術を峠道の走法に反映させたもので、下し、走り屋と称する人間の自己満足の集大成に過ぎぬドライビングに拘泥するよりも、視野を広くして公での活動にこそ重点を置くべきなのだと、高橋涼介に認めさせ、そこへ押し上げようとしたのだ。
 一年が過ぎるのは早く、ゆえに長すぎたのかもしれない。再会した折に涼介は、既に別のドライバーにその全勝記録を止められたと、敗北者には縁遠い悦に入った笑みを浮かべながら言い、引退すらほのめかした。恐怖が現実に裏打ちされたのだと愕然としたが、栃木から群馬へと乗り込んだ積極性が評価され、再戦は約束された。一年前のバトルとは違い、自らのホームであるいろは坂でなく涼介のホームである赤城山で、一年前と同様、涼介が駆る白いマツダRX−7FC3Sに、京一は計画性をもってチューニングを施してきた三菱ランサーエボリューション3をぶつけ、挑み、そして負けた。
 すなわち視野の狭さを認めさせられたのは、自分の方だった。暗黙の了解ばかり、規則など見当たらぬ無法のレース。自ら幾度も経験しながら、そこで得られるものなど、限定的で、瞬間的で、同類にしか取り上げられもしない些細な栄誉のみだと、切り捨てていた。だが、真実互いの流儀を熱くぶつけ合い、一瞬一瞬思考を挟まず車を操作しながら、総括的にあらゆる予測を脳味噌で命じ、全身を、生命を懸け、勝利に向かわんとする走り屋同士のバトルの最中には、他の現世すべてが無に帰されても構わぬほどの執心が生まれ、肉体が霧散しそうなほどの興奮が生まれ、勝者と敗者が区別される終わりには、勝ち負けを度外視できるほどの、幸福が生まれるのだと、高橋涼介に二度目の敗北を与えられたことによって、京一は知ったのだ。
 同じ走り屋として、その走り屋と、競いたいという思いはまだある。だが、以前のように、噛みつきたくなる思いはない。それより以前に、戻ったのかもしれない。残された記録を追わずにはいられないほど、美しく車を操るドライバーを、まだ、自分より少し年下の、一人の男として見ていた頃にだ。
 だから、再びの接触を期待してしまうのだろう。離れることをためらうのだろう。敵愾心と、劣等感と、未練が薄まった先にあるのは、好意なのかもしれない。涼介に声をかけられれば、欠陥の生まれてないことを確認できれば、筋肉も神経も安堵で緩み、息はよく通る。
 ただ、隣に立つ弟がされてたように、涼介に笑いかけられたいだの、答えをぼかされたいだのと、京一は思わない。
「あんたはここ、走ってかねえの」
 その弟は、愛想も、皮肉もない態度で尋ねてきた。兄弟で、まとう雰囲気の尖鋭さは違えど、対応の仕方にさしたる差はないらしい。京一は弟から周囲へ目を転じながら、答えた。
「お前らの邪魔はしねえよ」
 有象無象の走り屋が、奇妙なほど揃った距離を隔ててこちらを窺っている。監視されているようだった。赤城レッドサンズのメンバーは、このイエローのFDを駆る一番手のドライバーが、相当に大切なのだろう。山の空気を静かに割る畏敬の視線は、信奉者の強い情念を感じさせる。自分が率いるチームでも、走行時の無駄を省くためにメンバーを管理してはいるが、これほど大規模ではないし、一挙手一投足まで見張ることも、見張られることもない。
「邪魔ってわけでもねえけどな。他の走り屋だっているし、邪魔になるならアニキがそう言ってると思うぜ。多分」
 この峠の中心に立つ男が、他人の意図を斟酌する素振りも見せず、冷静に言う。それはこの空間を守り、この空間に守られている。
「そうかもな」
 京一は会話を終わらせるための言葉を返し、時間潰しに周りを見続けた。永遠の敗北の屈辱に血は多少騒ぎもするが、例え邪魔だと言われずとも、この中に割って入り、我が物顔で走るほどの情熱は、もう残っていない。
 そしてぐるりを見回し、不意に違和感を覚え、京一は右方にいる二人の男に目をとめていた。その二人だけ、こちらとの距離がわずかに近く、こちらを見ずに向き合っている。高橋啓介から隔絶していることが、この峠では異質に感じられ、京一はその二人を眺めた。黒のダウンジャケットを着ている手前の一人はこちらに背を向け、その一人の奥、正面に、白いカーディガンを着たもう一人が立っている。ダウンジャケットの男よりも、頭一つ背が高い。涼介ほどはあるだろう、そのため手前にいる男の影にならず、顔がよく見えた。眉までかかる淡い茶髪の下にあるのは、背丈に似合わぬ童顔だ。その垂れている二重の目を見、京一は、卒然寒気を覚えた。顔の柔和さに似合わぬ、暗い光が、離れた場所からも窺えた。二人の男は何やら話しているようで、一秒一秒時間を経るごとに、童顔の男の目の暗さが深まっていく。無秩序な騒乱を呼びかねぬきな臭い雰囲気を見逃せず、京一は一歩足をそちらに動かしていた。
「どうした」
 同時に、横から弟に声をかけられた。目だけで右方にいる二人の男を示すと、弟はそちらへ向けた退屈そうな顔に、ただちに警戒をにじませ、京一を見返した。京一は頷き、危険を感知したらしい弟も頷き、揃って、右方へ歩を進めた。

 右方の二人の話は続いていたが、手前の男の甲高い声が明瞭に聞こえる距離まで京一が達すると、童顔の男の口は、不意に閉じられた。その目に殺意がほのめくのを見、京一は身構えた。今すぐあの男を止めなければ、人命に関わる事態が発生するだろう。
「おい、何やってんだ、お前ら」
 男たちまであと二歩というところだった。弟が、藪から棒に声を発し、ダウンジャケットの男が振り向いた。奥の童顔の男が、ためらいなく動く。舌打ちする暇もなかった。京一は地面を足を蹴って、振り向いた男のダウンジャケットの襟に手を伸ばし、掴むと、手前に思いきり引いた。
「ひいっ!」
 間抜けな声を上げた男のいた空間を、童顔の男の右拳が通り抜けた。ダウンジャケットの襟を引いた勢いで、男を右斜め後方にいる弟に放り投げ、京一は童顔の男の前におどり出た。間髪いれずに左を繰り出そうとした男が、京一を見て、拳を上げたまま、動きを止める。その顔に満ちた殺意は一瞬にして揺らぎ、左の拳が下ろされると同時に、完全に消えた。険が取れれば、愛嬌のある顔だ。ひとまず殺人が勃発する危機と、事件が起こる面倒は、去ったようだった。
 京一は体の緊張を半分解き、その場から一歩下がり、童顔の男を横目で捉えられる位置に立ったまま、その反対側を見た。ダウンジャケットの男は、腰の抜けた態で座り込んでいる。
「無事か」
「ああ、まあな」
 それを見下ろす高橋啓介に京一が問えば、苦々しげな顔と声とが返ってきた。二人に声をかけたことにより、一層の危機を招いた自覚はあるらしい。ならば身内でもない以上、ここで追及するまでもなく、京一は無事を確認できたダウンジャケットの男から、念のため童顔の男に目を戻した。その顔から殺意は抜けたままだったが、愛嬌まで抜けていた。童顔の男の視線は真っ直ぐ、京一の横を通り過ぎる。もう一度、京一は反対側を見た。ダウンジャケットの男は、三角座りになって、腕で抱えた頭を腹と足の間に埋めている。その横に立っている弟は、既に顔の歪みを取り払い、涼介と似た端整さが際立つ、静謐な顔になっていた。その目は、京一を見ていない。京一は、再び童顔の男を見た。やはり視線は、京一の横を真っ直ぐ通り過ぎる。その目は殺意にまではならない、敵意をみなぎらせている。それはダウンジャケットの男に向けられているのではないはずだ。童顔の男は、その同じ高さにあるものに対し、目を向けている。それは似たような背丈を持つ、高橋啓介に対して向けられているはずだった。この二人の間には、何らかの因縁が存在するようで、それが何であるのか、目の前にある謎を解決することへの恒常的な欲求以上の、俗な好奇心を、京一は抱いた。童顔の男が高橋啓介に飛ばしている敵意が、この赤城山においては、ひどく異様に、そして随分と懐かしいものに感じられるためかもしれなかった。
「何があった」
 だが、馴染みのある、低い声が後方から聞こえたため、京一は童顔の男と弟の間から更に一歩身を引き、その因縁の追究を自らすることはやめた。弟の後ろから現れた、この峠を支配している、慎重さを全身に漂わせた男が、そこで起きた事態を把握しないわけはない。
「そいつらが言い合いしてると思ったら、そっちの奴がこいつに殴りかかってきたんだよ」
 発していた静けさを簡単に乱した弟が、童顔の男とダウンジャケットの男を交互に立てた親指で示しながら言い、わけ分かんねえよな、と顔をしかめた。封筒を小脇に抱えている涼介は、漂う空気の厚さを量るように左の眉を上げ、下ろし、そうか、と頷いた。
「お、俺じゃないです。俺じゃない、俺じゃない」
 座り込んだままのダウンジャケットの男が、恐怖に染まり切った、震えた声を出す。殺意を向けられたことが、今更精神を脅かしているのかもしれない。童顔の男はそれを、苛立たしげに見下ろし、「ふざけんなッ」、顔に似合わず、低い声を出した。
「お前が言ったんだ、ふざけんじゃねえよ、お前がたけ、毅さんを……」
 どもりかけながらの、童顔の男の息は、目に見えて浅くなっていた。過呼吸になりかねない状態だ。男に最も近いのは京一だった。
「落ち着け」
 見かねて、白いカーディガンに包まれた薄い肩にそっと手を置くと、男はびくりと京一を見、おどおどと目をさまよわせる。先ほどまで、殺意を露わにしていた人間とは思えないほどの、大仰な怯え方だった。こちらも愛想を欠かしていたとはいえ、そこまで恐れられる筋合いはない。だが、それを奇妙に感じている暇もなかった。
「毅さんって、中里か?」
 不穏な空気にそぐわぬ、素っ頓狂な声を、突如弟が上げたのだ。意識を引かれて目をやれば、弟の顔は幼さが目立つほどの、驚きに覆われていた。
「そうか」、その隣に立つ涼介の顔には、対照的に、得心が浮かんでいた。「お前はナイトキッズのメンバーだな。交流戦で見た顔だ」
 息を呑んだのち、弟と同様、驚きでより童顔を幼くした男は、覚えてる、んですか、と震えた声で涼介に問い、ある程度は、と涼介は、わざとらしいほど悠然と答えてみせる。交わされる名詞を知らない京一は、不明な状況に接する際の慣例と、涼介に演技じみた余裕を持たせているものへの少なからずの興味から、表情は動かさずして、思考を素早く働かせていた。童顔の男は、『ナイトキッズ』という、おそらくは走り屋チームのメンバーなのだろう。涼介はその男を、交流戦で――『ナイトキッズ』とレッドサンズとの、と推測するのが妥当と思われる――見ており、童顔の男も『ナイトキッズのメンバー』であることは否定していない。ならば、ダウンジャケットの男が『侮辱した』と童顔の男が言った『毅さん』というのも、『ナイトキッズ』とやらの人間で、それが弟の口にした『中里』であるのだろう。すなわち、童顔の男は『中里毅』という同じチームの走り屋を侮辱されたがために、ダウンジャケットの男に殴りかかったと考えられる。
「話の内容は知れないが、察するにうちのメンバーも不躾な口を利いたようだ。俺から謝罪するよ。すまなかったな」
 似たような推測をしたらしき涼介が頭を下げるも、童顔の男は黙っていた。その目は逐一泳ぎ、体は細かくわなないて、強い動揺を示しているが、一方口は堅固に閉じられている。涼介に謝られ、不安定に陥りながら、それでも黙って立っていられるその度胸のありようは、京一が童顔の男に抱きかけていた奇妙さを、消滅させた。この男は、激しい怒りに駆られた場合、却ってしずしずと殺意を行動に移せるだけの冷酷さを持ってはいるが、それ以外では保守的で、臆病な性質なのだろう。だからこその、先刻の殺人に発展しかねなかった一件であり、高橋啓介への睥睨であり、落ち着けと、そっと肩を叩いだだけのこちらへの大仰な怯えであり、涼介と対峙しての現在の動揺と硬化であると、そう考えれば頷けた。平凡な人間なのだ。ただ、態度の極端な振れ方が、この男を時に奇妙に見せるというだけに違いない。
 京一がそこまで分析を済ませた短時間、布地が擦れる音だけがやけに耳についた後、涼介は頭を上げた。
「しかし」、そして無言でいる童顔の男を鋭く見据え、容赦なく言い放つ。「だからといって暴力は見過ごせない。謝罪はしてもらう」
 言われた童顔の男は、おどおどとしたまま涼介を見返しながらも、固く閉じていた口を、そこだけ別の生き物でもあるかのように、滑らかに開いた。
「できません」
 その低く明瞭な声が、京一の耳には、爽快に届いた。涼介の要求を信念をもって退けられる者への、感心がそう響かせたのかもしれなかった。
「それは、ナイトキッズの方針か?」
 涼介は二秒、計算するような間を置いてから、問いを発した。童顔の男は、垂れている目を驚いたように開き、いえ、とどもりがちに答えた。
「うちの方針、は、赤城山で高橋兄弟、というかレッド、サンズに迷惑をかけないこと、で」
「はあ?」、弟が、不愉快げに顔を歪めた。「そんなの聞いたことねえぞ。誰が決めたんだ」
 口調は、責めるようだった。弟はどうやら、その『ナイトキッズの方針』が気に食わないらしい。童顔の男は、弟をちらりと睨み、だが直後そうしたことを悔いるように俯くと、低く細い声で答えた。
「毅さん、です。うちで、決めるのは、何でも」
「中里が、何でそんな、俺らに気ィ回すんだよ」
 一層不満げな弟の疑問に、それ以上童顔の男の返答はなかった。静けさの広がった場の空気には、まだ不穏さが残っている。京一は事態が落ち着くまで口は挟まず、思考を巡らせながら眺めていることにした。下手に介入して、不要な騒動に巻き込まれるのは御免だが、この状況には変わらず好奇心をそそられる。殺意も敵意もすっかり潜め、俯き黙した童顔の男と、それを不満げに見据えている高橋啓介、その二人の感情を繋ぐものは、涼介にも影響を与えているのだ。情報を得て、卑俗な欲求は煽られた。他人事として無視をするには、もう遅かった。
「とりあえず、史浩」
 場に満ちた静けさを破ったのは、涼介だった。「ん?」、と少々間の抜けた声を出したのは、涼介の後ろにいつの間にか控えていた、黒い海苔のような短い髪に凡庸な顔、白いカッターシャツに緑のセーター、営業畑風の男だ。確か、このチームの渉外担当であり、広報役のはずだった。その男を一瞥し、涼介は座り込んでいるダウンジャケットの男を顎で示した。
「こいつの言い分を聞いて、処理してくれ」
「俺か?」、渉外担当者はどこか面倒そうに言う。
「お前に任せるよ」、涼介ははっきりとその男を見、薄く笑んだ。「俺には何の権限もないからな」
 またそういうことを、と男はぞんざいにため息を吐き、まあしかし、と諦めたように、涼介よりも柔和に笑った。
「任せていただきます」
「お願いいたします」
 緩く笑んだまま、渉外担当の男は、ダウンジャケットを震わせている男に声をかけ、そっと立たせると、簡単に奥へと連れて行った。恐怖に染まった人間を誘導することは、それほど容易ではない。あの男は、涼介に任されるだけの折衝術に加え、交渉調整能力も有しているようだった。
 その渉外担当の衣文掛けに吊るされているような背から、京一が目を戻した童顔の男は、まだ俯いたままだった。
「それで」、涼介の揺らぎのない声が、再び浮いた沈黙を破った。「お前はその中里の方針に、従うつもりはないんだな」
「それは」、童顔の男は、路面に視線を落とし続ける。「あんなことを言いやがった奴は、許せない、ので」
「何言ったんだ、あんなことって」
 続けざまの弟の問いには、童顔の男は答えない。アスファルトに向けられたその顔の様子は、京一からは見えないが、漂う悲愴さは感じられた。あるいは童顔の男は、その問いに答えないのではなく、答えられないのかもしれない。口にすることすらそれは、ためらわれる内容なのかもしれない。
「だんまりかよ」
 弟は舌打ちし、気を抜くようなため息を吐いた。
「参ったな」
 さして参った風もなく、涼介は言い、目を遠くに向け、直後、「ああ」、と世界のすべてを理解したように頷いた。何かを、涼介は見つけたらしい。だが涼介が見る方は、多くの車が規則的に出入りしているだけで、京一の目に変わったものは映らなかった。
「丁度良いな」
 涼介は、表面上出入りする車を眺めながら、満足げに呟いた。
「何が?」
 弟が、そちらとこちらを数度見比べてから、理解に苦しむよう、首を突き出す。
「中里だ。来るぜ」
 あっさりと涼介は答え、え、と弟は突き出した分だけ首を引っ込め、喉を伸ばし、余分な感情を削ぎ落した顔になった。耳を澄ましているようだ。あたりには多種多様の車があり、出入りする車も含め、エンジン、排気、金属の震動、道路とタイヤの摩擦、雑多な音が広がっている。そこで取り上げるべき音が何か、京一には分からない。ただ、来るというならば、近づく音であろうとは、分かる。
「相ッ変わらず耳良いな、アニキ」
 先に分かったらしい弟が、数度頷いて、感心したように涼介を見る。涼介は、取るに足らないと言うように、肩をすくめる。
「あいつのRは特徴的だよ」、そして、童顔の男を見た。「そう思わないか」
 途端、童顔の男は顔を上げた。強張った顔だった。
「毅さんは関係ない、でしょう」
「そんな風に否定されたら、中里はどう感じるんだろうな」
 素知らぬ風に涼介が言うと、童顔の男の顔は強張ったまますっと青褪めた。その皮膚の下に蔓延っているものを、京一は疾しさと見て取った。それがこの男に、涼介への謝罪を拒絶させ、沈黙を守らせるとすれば、その感情を操るものが現れれば、すべては判明するのかもしれない。童顔の男は、再び泳がせかけた目を道路へと向け、何かに執着するように固定した。低く長く地を刷く音が、間近に響いていた。
(続)


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