声
――一応、同じ土地に住む仲間だからな。
そう言った時の、あの男の顔は今でも克明に思い出せる。どこか皮肉げで、嘲りがあり、それでいて、親しみと慈愛がどうしようもなくにじみ出ている笑みを、浮かべていた。こちらを見ながらも、決してこちらへ向けられていなかった、その笑みの先を、今もまだ想像しては、京一は指先を掌に押し付ける。
便宜を図れと言われたわけではない。調子に乗せるなと、そう請われた。敢えて実行に移す義理もなかった。あの男にせよ、そこまでの実直さをこちらに期待してはいなかっただろう。ならば、何を期待されていたのか。おそらく、一つ制限をかけることにより、偏りのない対応を導けられると、予想していたに違いない。
京一自身、あの男にそれを言われた時点で、公平にならざるを得ないと予測しており、またその予測を、覆す気もなかった。あの男の意のままに動くことは気に食わなかったが、むきになることも思慮に欠けると思われ、結局、普段通りにすることが、最も適当であると決定された。
調子に乗せるなと言った、あの男の声がしばらく頭から離れなかったのが、なぜかは分からない。その声が平凡な色しか持たなかったためか、あの男とその言葉がそぐわないと感じたためか――何とも知れないが、だが少なくともその言葉の、その声のために、通常なら無視できたはずの、些細な精神の乱れが、意識の端に引っかかって仕方がなくなったことは、確かだった。
腹の底をあぶる感情が、肉を動かすことに、その結果、骨に衝撃を受けることに、相手を害することに、魅力を感じたことはなかった。だから最初はただ、抵抗を封じるために、その意思をくじくためにだ。
調子に乗せるな、という言葉が、ただ頭の中を渦巻いていた。相手は取り立てて、不躾な振る舞いもしなかった。多少、周囲に対する気配りがないと思わせる言動を取ったものの、礼を欠くことはなかった。通常なら、無視できたはずだった。その程度のふり幅だった。些細な精神の乱れ――嫉妬だ。正当性の欠片もない、道理に敵わぬと捨て置くことができたはずのものだった。
その頬を殴り、腹を膝で蹴り上げたのも、意識をしてのことではなかった。自分が何を基準として、何をしようとしているのかについて、まったく意識をしなかった。そこには思索すらなかった。自分がそれをしているのだという、意識がなかったのだ。相手の唇を噛み、血を吸い、皮膚を吸い、粘膜を擦り上げる、それらをただ、調子に乗せるなという、その言葉にのみ囚われ、行った。
嫉妬だけではなかったと、今では分かる。
つまり、取り上げる価値もない――技術においても人格においても容姿においても、優れた面は見受けられなかった――相手が、あの男の笑みを作り出したという認識が、理性を揺さぶった。その上で、何の他意も含まない、ただ真っ直ぐとした目を向けられて、焦りが生まれた。見透かされたように錯覚し、錯覚したことに憎しみを覚えた。自分が常に保っていた平静が、その相手によって乱れたことに、憎しみを覚えたのだ。
それでも意識をしなかった、できなかったのは、自分の得ていた感覚が、あまりにそれまでの自分が得るはずのそれと、かけ離れていたからだろう。拳骨から走った痛み、そこに残った熱と疼きが、いつまでも脳の奥を突き刺して、興奮を持続させるなど、かつてないことだった。汗と涙にまみれ、見るに耐えないほど歪んだ相手の容貌を見下ろすだけで、顔の筋肉が引きつるなど、考えられないことだった――そもそもが、同性の排泄器官に自身を挿入して、快楽を得ること自体、それ以前の自分は想定もしていなかっただろう。
その抵抗がいつ失したのかは、覚えがない。剥ぎ取った服を敷いた地面にその体を乗せ、ろくに構えもさせないで突き入れた頃にはまだ、野太い悲鳴を上げ、幾度も手足をばたつかせていた。一、二度は頬を手で叩いただろう。それから、喉に手をあてがった。その後は何もなかったのかもしれない。ただその後も、一、二度、どこかを掌か拳で打った記憶はある。まだ、何かあったのかもしれない。覚えていなかった。
次の機会には、記憶はあった。骨の表面から筋肉へと痛みと重みと熱が広がり、脳髄を焼き尽くしていくあの感触。それを得るために、わざわざ相手を捕まえに行ったのだ。意識があるということは、理性があるということで、計算もできるということだ。相手の領域で、どの程度の行いが許されるのか。その時点で、相手の存在を無視したのは、あらゆる不満を解消するためには、相手から接触せざるを得ない状況を作るためだった。自分の持ち場という条件のみで粋がっている人間との、ダウンヒルでのバトルも、勝って当然でしかなく、味気はなかったが、考えた通りに――その後は人が払われ、誰もいない場で二人きりになった――事が運ぶことと、怒りと怯えが混じり合い、混乱ばかりが浮かんでいた、前にはまだあった勇ましさすら消え失せた相手の、それこそ取り上げる価値もないほどの、愚かさに満ちていた顔だけは、当時、深い充足感をもたらした。
地面に落ちた血を拭う必要がないことが、屋外の利点ではあった。それ以降は自室に引きずり込んでいるが、始末の簡便さは、その時が最高だっただろう。鼻血も何も、土がすべて吸い込んでしまった。
その時は、結局合計八発、すべて部位を変えて拳を入れたわけだが、一つ一つが紛れもなく、予期したものと違わぬ感覚をもたらした。更に、相手の赤く腫れた肌も、血に濡れた醜い顔も、むかつきを運んではこず、むしろ深い官能を足の裏から通してきた。それをしているという、それを敢えてしているという、意思を認めるだけの、意識はあった。記憶も残っている。思い返しても、軽く勃起はする。それでも、どこか自分ではないような気分は、消えもしなかった。だから再び行い、そのたび実感し、また茫とさせ、果てなく繰り返すのだ。
今はもう、その体の腹と背中と太ももに、青あざが残るのみだった。そこを指でを押しながら激しく突いてやると、咥え込んで離そうとしなくなる。あるいはそれは、単なる肉体の物理的な反応に過ぎないのかもしれない。すべてはそれだけのことなのかもしれない。加減をするよりも、力の入る限りに揺らす方が声を高めることも、息を止めてやった方が一層飲み込んでいくことも、ただそういう風に反応するという、それだけなのかもしれない。
嫉妬は既に、消えている。
けれどもあの男の笑みは、今でも思い出せる。そしてあの笑みを向けられるべきだったのだろう相手が、自分の下で倒錯的な快感のため喘いでいるという、その現状に、達成感とも優越感とも知れない恍惚感を覚える自分も、まだ残っている。
――調子に乗せるな。
そうして幾度交わり、相手の肉体も精神も踏みにじっても、頭にいまだ響いてやまないのは、けれども最早あの男の声ではなく、京一自身の声なのだった。
(終)
2007/04/09
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