焼かれる
部屋が濡れる、と玄関の土間から動かず中里は言った。一段高い位置からその中里を見ながら、その通りだ、と京一は思った。京一の服は濡れている。雨を受けた。差していた傘を、歩いている途中で、放り出したからだ。放り出すつもりはなかった。雨は変わらず降っていたし、敢えてそうする理由もなかった。だが、衝動的に、路上に一旦、傘を放り出していた。その時、雨を受けた。短い間だ。衣類は、床をべっしょりと濡らすほど、水分を含んではいない。中里は、そうではない。京一以上に、雨を受けていた。ここを出て行った時からだ。雨は既に、ぱらついていた。煙草を買いに行くと、中里は言った。煙草なら京一の家にもある。だが、銘柄の好みが違うらしかった。煙草の売っている一番近い自販機まで、京一の家から歩いて五分もかからない。ゆっくり歩いても、往復で十分以内には戻って来られる。中里は、三十分戻らなかった。上着を持っても行かなかった。だから、中里の着ている服は、たっぷりと雨を吸い込んでいるようで、まだ土間に水を滴らせている。京一のそれの、比ではなかった。まず、この場で、拭えるだけ水分を拭うべきだ。それは、分かっていた。だが、京一は、居心地悪そうにじっと立っている中里の腕を掴み、部屋に引き込んだ。中里は、まだ靴を履いている。それも、分かっていた。衝動を、抑えられなかった。
京一に引きずられるまま、焦った声を、中里は出している。リビングの端で、京一は止まった。中里を向く。怪訝そうな、不安そうな顔を、していた。須藤、と中里が言った。雨の染み込んだような、不安定な声だった。京一は、考えていた。もっと手順を踏むべきだ。考えながら、濡れ切っている中里の体をかき抱いて、キスをした。雨の匂いのするキスだった。触れる肌も、唇も冷たいのに、中の粘膜も、肉も熱い。背中に回した手で、シャツの下の素肌を撫で下ろし、ジーンズに包まれた尻を掴む。股間を股間に押しつけ、ゆっくり動かすと、絡めている舌が、もつれた。濡れている服が、邪魔に思えた。
「……おい、待てよ、ちょっと……」
中里は、どこにも触れさせていなかった手を、互いの胸の間に差し込んできた。距離を取ろうとしているようだった。その目は、混乱を表すように、ひどく泳いでいる。その目を縁取っている、まつげにまで、水滴がある。髪は、風呂上がりそのままのように、じっとり濡れている。中里の混乱が、伝わってくる。こうした行為は、幾度もしている。最後まで進んだのは、五回だ。どれも、中里が進めていた。京一から仕掛けるのは、初めてだ。だから、中里は混乱しているのだろう。それも、まだ、中里は靴を履いたままだった。状況を、京一は、理解している。理解しながら、それをどこにも伝えていない。距離を取ろうとしている中里の体を、強引にソファに押し倒させている衝動と、その中里の混乱を理解している思考とに、大きな隔たりがある。熱が、隔てている。欲望が、隔てている。中里の帰りを、三十分しか待てなかった。意味もなく、傘を放り出していた。雨が降る、人気がないとはいえ往来で、抱きついていた。衝動的だった。行動と思考を、欲望が区切っているのだ。逃がしたく、なかった。中里が、逃げるかどうかは関係がない。中里が、逃げるということが、どういうことかというのも、関係がない。定義の問題ではない。ただ、そういう、脳を区切る、欲望があるということだった。
ソファの上で、キスをする。もう、唇はぬるくなっている。温度が混じっている。その合間に、水分を含んで重くなっている、中里の服を剥いでいき、靴も脱がせる。そうしながら、考えてはいる。説明するべきだ。話をするべきだ。言葉を使うべきだ。時間はある。こんなことは、すぐにしなくとも、いいことだ。少なくとも、今まで自分からは、していない。いつでも、請われるから、体を貸しているようなものだった。常識は知っている。断る理由もつけられた。だが、断らなかった。咥えられて、勃起すれば、そのまま射精したくなる。それで、入れてくれと言われれば、男の尻にだろうが、入れたくもなる。常識も倫理も道徳も、頭蓋骨の内側あたりに浮かんでいたが、結局京一は、欲求の解消を優先した。頼まれたからだ。請われたからだ。自分から、こうして、キスをして、服を脱がせて、肌をまさぐって、ペニスをしごいてやったことはない。そうする、理由がなかった。今も、理由はない。単なる衝動だ。欲望が、思考を区切っているから、それを抑えられずにいる。説明するべきだ。そうでなくとも、話すべきだ。時間はある。
唇を、中里の唇から離し、その耳に寄せる。左手で、乳首をこね回しながら、右手でペニスをしごいてやる。中里のものは、触れる前から、膨張していた。
「勝手なことを」
耳介を、唇で挟みながら、それだけ、言っていた。中里が、びくりと体を震わせて、両腕で顔を覆う。勝手なことを、している。そう言おうとしたのか、あるいは、勝手なことを、するなと言おうとしたのか、言葉を止めてしまうと、分からなくなった。いずれにせよ、今言う必要もないことのように感じられた。中里は、声を出さない。かみ殺している。顔を隠し、声を殺しても、勃起しているペニスは着実に、京一の手を、雨水とは違う質感で、濡らしていく。呆気ないものだった。それが、脳を焼く。嫉妬の炎が、脳を焼いていた。この男を、こうまでさせているものに、嫉妬をしている。それが、自分である可能性を理解していても、その理解は、京一の行動に、影響を与えない。区切られている。嫉妬の炎が区切っている。声を殺したまま、中里が放出した精液を、指に取って、その尻の中に塗り込んでいるうちに、中里は再度ペニスを硬くさせ、京一もまた、勃起していたが、それらの結果が、何によってもたらされているのかは、京一には、関係がなかった。関係性は、その時点では、生まれていなかった。
勃起したペニスを、中里の尻に挿入し、生々しい快感を得て始めてだった。両腕でなお顔を覆っている中里を、挿入したまま見下ろして始めて、その男と自分のつながりを、実感した。ペニスは肉に食われている。中里の尻に、呑み込まれている。そこを、強引に揺すると、中里が、低く短い声を上げる。京一は、抜き差しやすいよう、足の位置と、中里の尻の位置を調節してから、中里の顔を覆っている両腕を、両手でそれぞれ掴み、ソファの縁に押しつけた。濡れた肌が赤く染まっている、頼りない、中里の顔貌が、間近で見えた。京一は、それを見下ろしたまま、ゆっくり、腰を動かした。中里が、妙な音を立てて、せわしなく呼吸をする。熱い息を吐きながら、須藤、と、京一を呼んでくる。太い眉が、快感のほどを表すように、寄っている。太い、充血した目が、求めるように、見上げてくる。
「中里」
その名を呼んで、京一は、唇を触れ合わせた。舌を吸い上げながら、腰を動かし、中里を責める。痺れるほどの快感が、ごっそりと、背骨から天頂に抜けていく。脳が焼けている。官能の炎が、すべて焼いている。嫉妬も、理解も、思考も、衝動も、一つにまとめて、焼き尽くしている。自分が、手に入れている。自分が、食われている。自分が食っている。この男を、こうしている。中里の両腕を押さえていた手を、その肩に背から回し、口を離し、ひたすら京一は、腰を打ち振った。中里は、自由になった手を、京一の背に回し、切れ切れの声を放っていた。ひどく肉感的な声だった。それが、時折、快感を表す言葉を作っている。京一の名を呼んでいる。その男を、そうさせているのが、間違いなく自分であることを感じながら京一は、そして射精した。
「煙草」
中里が、言った。ベッドの上で、ただ、隣り合って、裸で寝ている。二人でシャワーを浴びてから、ここで、もう一度、抱いた。ソファも床も、濡らしたままだった。リビングには、中里の靴が転がっている。いつもなら、ペニスが半ば勃起していたとしても、相手を放って、先に掃除をしている。そうしなかった。今も、そうするつもりはない。京一は、仰向けでいる中里を、横になり、ベッドに片肘をつきながら、見ていた。
「買ってねえんだ。財布、忘れてよ。忘れて……」
かすれた声で、言い訳するように、中里が言う。京一は、何も言わず、中里を見続けた。中里が、ぎこちなく、顔を京一に向けてくる。その視線もまた、ぎこちなく京一の顔の上をさまよい、横に抜けていった。
「お前と一緒にいると、俺は……」
続けられたその声も、京一の顔を、素通りしていった。中里が、唾を呑み込んだ。その音が、やけに鮮明に聞こえた。それを聞いた途端、肉を焼くような、ひどい焦燥感が、腹の底からわきあがってきて、それが、喉から声を押し上げた。
「一緒にいろよ」
一瞬にして、中里の目が、京一の目と、かち合った。中里が、また、唾を呑み込んだ。先ほどより、乾いた音に聞こえた。焦燥感は、同じように、腹の底からわいた。嫉妬と、肉欲と、理性がまじり合った、それは所在が明確な、衝動だった。
「頼む」
京一は言った。中里は、乱れた目を、すぐに片手で覆い、やがて、吐息のような声を漏らした。
(終)
2008/2/16
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