ターンオーバー
ドアノブは抵抗なく回り、引くとドアは抵抗なく開いた。無施錠の場合にその家主が留守にしていることなどなかったため、京一は清次が在宅であることを疑わずに玄関に上がった。土間に見覚えのある靴はなく、玄関から見える範囲に清次の姿はなく、気配もないことにかすかに違和感を覚えたものの、結局京一は靴を脱ぎ廊下に上がり、居間まで足を進めていた。身についた習慣というのは急には抜けない。だからこそ習慣なのだ。
「おい、麺類が一つもない――」
とりあえずダイニングテーブルに持参したものを置こうとして、横手から声をかけられて、京一はそちらを向いた。流し台の前に男が立っていた。黒い短髪の男だ。上半身裸で、下には黒いスウェットを履いている。その特徴的な濃さと幼さと渋さの混じった顔貌は、清次のものではない。そもそも清次は黒髪だが常時括っているほどの長髪だ。清次ではないその黒髪の男を京一は知っている。その男も京一を知っている。峠で何度か会ったことがある。挨拶を交わしたこともある。
「……どうも」
「どうも」
会釈し合うくらいの面識はあった。そして京一はその男が清次の家にいる理由をおぼろげながら知っていた。男がそれを知っているかは京一には知れなかった。それは清次が京一にした話でしかなかったからだ。だがともかく、京一はその男が上半身裸の状態で清次の家にいる理由を、おぼろげながらは知っていた。だからさして動揺もせず、目的を果たそうとした。
「清次は?」
「……知り合いに呼び出されたとかで、出てるぜ」
男は京一を見た時から作り出した頓狂な顔のまま、しかしまともに答えた。清次は出ている。不在ということだ。清次はこの男に留守を預けたのだ。だから無施錠だというのに清次はいない。狂うはずのない予定が狂ったことに、京一は一抹の苛立ちを覚えた。だが清次が不在であっても目的は達せられる。京一は苛立ちを無視して男に頷き、持参したものを掲げ、これをあいつに渡しておいてくれ、と言おうとした。それを遮ったのは、玄関のドアが開く無遠慮な音だった。
「ただいま」
律儀にそう言いながら入ってきた清次は、京一を見て、よお、と片手を上げる。モッズコートを着ているのは徒歩で出ていたからだろう。車を使う時に清次が外套を身につけることはない。ああ、と京一は持参した箱を持った手を上げ返し、寄ってきた清次にそれをそのまま差し出した。
「お届けものだ。里美からな」
「はあ? 何だァ?」
大仰に顔をしかめながら箱を手にした清次に、何だはねえだろ何だは、と苦笑する。
「偶然出先で顔合わせたら、渡してくれと頼まれたんだ。そろそろ店に来いってご請願だろ」
里美は共通の知り合いだ。夜の世界に暮らす女で、比較的規模の大きい店に勤めている。京一は仕事が関係しない限り行きもしない。清次は接待があるような職業ではないから、顔を出すのは趣味でしかない。それも最近はご無沙汰だと、手早く清次へのプレゼントを選びながら里美は愚痴っていた。去年の暮れから顔も見ていないらしい。
「あー、そうか。そういやあいつのこと、すっかり忘れてたぜ。道理で財布がいつもより軽くならねえわけだ」
納得したような面持ちで、清次は綺麗に包装された縦長の箱を取り、その包装を無造作に剥ぎ取っていく。継ぎ目から紙を破らないように開く京一としては、包装紙をただの紙くずにして容易く本体を露わにしてしまう清次の乱暴さには眉をひそめもするが、同時にその豪快さに清々しさを感じもする。性質が相反するというのに長くつるんでいるのは、不愉快ながらも惹かれる部分があるからだろう。雑談を厭うこともない。
「里美もお前を配送役に使うとは、相変わらず礼儀を知らねえ女だな」
「いつでもいいと言われりゃ断るほどのもんでもねえよ。もののついでだ」
「これからどっか行くのか?」
「西崎さんのところにな。昼間に行けることも滅多にないんだ」
「ああ、保の奴が寂しがってたぜ、お前のエボ3に触れなくて」
包装はさっさと解きながら、話に集中して箱は開けずにいる清次が、意味ありげににやりと笑う。西崎は整備工場を営んでいる四十絡みの男で、保はそこの工員だ。何かある度に人の車を分解しようとする。独学の技術は十代にしては目を見張るものがあるが、正規の代物ではない。
「あいつにはこのまま当分触らせてやりたくはないんだが」
「だろうな。まあ巻志の奴が人柱になってやるらしいから――あ?」
言いながらようやく箱を開け、それに視線をやった清次が、無骨な顔に似合う剣呑な表情を浮かべながら、中のものを汚物でも拾うように人差し指と親指でつまみ上げた。
「……ネクタイか?」
「ネクタイだな」
紺地に水色のストライプの入った縦長の布地は、一般的にネクタイと呼ばれるものだ。貧乏人が選んだ品物ではないから、それなりに値は張っている。
「……俺、使わねえんだよなあ。お前要るか、京一」
摘んだままのネクタイを、敬遠したそうに清次が向けてくる。デパートの紳士服売り場にて満面の笑顔でそれを選び出した里美に京一は、清次がネクタイを締めるような状況は冠婚葬祭以外ではありえないと言わなかった。それ以上里美に付き合うのが面倒だったからでもあるし、そのネクタイが清次に似合わないでもないと思ったからでもあった。だが言うべきだったのかもしれない。価値を認めた人間からの贈り物は何であれ清次は喜ぶが、そうでなければ不要品はすぐに手放そうとする。近場の人間にだ。それを押しつけられるのもまた面倒なことだった。京一はついため息を吐いていた。
「要らねえよ、大体俺がそれをして、あいつに出くわしたら何て言う」
「偶然ってのはよくあるもんだぜ」
「状況的には必然だ。お前と同じもんを買う必然を演じるなんざ、頼まれたって俺は御免だな」
「そこまで嫌がらなくたっていいじゃねえか、おい」
決まりが悪そうに清次は口を曲げる。京一は苦笑し、話を戻した。
「いいから一本くらい普段使いに持っとけよ。たまに締めるのも悪くはねえだろ」
「素面で首に紐なんて巻きたかねえや、ペットじゃねえんだ」
素面じゃなけりゃいいのかと思いつつ、これは布だ、と言おうとしたところで、そうだ、と清次が流し台を向き、摘んだままのネクタイをそちらに放り投げた。流し台の前に立っていた男は、慌てたように両手を出し、飛んでいったネクタイを掴み取った。顔は頓狂なままだ。
「中里、お前にやるぜ。適当に使え」
「……いや」
男は――中里は、掴み取ったネクタイを畳みながら、曖昧に言った。それを無視してこちらに向き直った清次は、何か言おうとして、だが怪訝そうに顔を歪めると、再び中里を向いた。
「っつーかお前、何やってんだ?」
中里は台所の前に立っている。それだけだ。何もしていない。ガス台の上に鍋は置いてあるが、料理をしている様子もない。何をしているのかという清次の疑問ももっともだった。
「うどんでも食おうかと、思ったんだが」
頓狂な顔に混乱を加えて、中里はぼそりと言った。清次はただちに言葉を返す。
「茹でてんのか」
「いや、ねえんだ」
「は?」
「麺類が一つもない」
「何?」
首を傾げて宙を睨んだ清次が、突如京一の後ろに回ると、戸棚の下を開いた。
「うわ、マジでねえ」
独りごちて扉を閉めて立ち上がり、京一、と清次は呼んできた。
「俺、買い物行くからよ、そいつ頼む」
流し台の前に立っている中里を顎でしゃくって示し、横を過ぎようとした清次の肩を、清次、と京一はしっかり掴んで止めた。
「お前、人の話聞いてたか」
「前にも言っただろ、そいつはお前に惚れてんだよ。ベタ惚れだ」
質問には答えず、だが質問に答えているかのような自然さで清次は言った。京一は面食らった。清次が人の話を無視したところで驚くまでもない。よくあることだ。問題はその後にぶつけてきた話の中身だった。この場で取り上げるなどとは予想もできないものだった。些細な会話にも統一性を求めてしまう京一に、驚きの最中、それを無視し返すという面倒を避ける手段は取れなかった。
「だから、どうした」
「だから、記念に一発かましてやれ。ケツに入れりゃあ泣いて喜ぶぜ」
野卑な笑みを浮かべた清次が、京一の手をそっと払う。京一はため息を吐いた。それは良し悪しを論ずる価値もない話だった。
「俺にはこの後予定が――」
断るにあたっての正当な理由を、京一は言いきらずに終わった。言いきる前に横から中里が現れて、あっという間に清次に飛びかかったからだ。中里は、ネクタイを巻いた拳を清次に突き出し、清次はそれを腕に受け、勢い余って戸棚にぶつかった。木材とガラスの擦れる音が立ち、周囲にあった袋やら何やらが落ちる中、体勢を立て直した清次が、中里の二発目をかわし、その後ろに回る。捕まえるのだろうと京一は見ていた。だが清次は中里を捕まえず、京一へと突き飛ばしてきた。それを受け止めて、京一は唖然とした。こんなものを渡されるいわれはなかった。
「ぶっ殺す!」
突き返そうとして、しかし声を嗄らした叫びを間近で聞き、咄嗟に中里を羽交い締めにする。実際殺しにかかるかどうかは知れないが、その危険性が感じられるほどの怒気をみなぎらせている男を、この場で放っておくわけにはいかなかった。
「クソ、いてえ。馬鹿力だな」
棚にぶつけたらしい後頭部をさすりながら、清次が舌打ちした。それを見た中里が清次に向かおうとするのを体を浮かせて押しとどめ、舌打ち代わりにため息を吐いてから、京一は清次に声をかけた。
「清次、お前な」
「中里、お前自分の立場分かってんのか?」
清次が人の話を無視したところで驚きはしない。よくあることだ。しかし苛立ちは覚え、それを通り越した億劫さも覚え、感心もする。よくもまあここまでマイペースでいられるもんだ。思いながら、京一は中里の体を抑えるよう構えたが、中里はぴくりと動いただけで、清次に向かおうとはしなかった。
「まあ俺は別にどうでもいいけどよ、お前は違うんだろ。気ィ付けた方がいいんじゃねえの」
中里は動かない。清次は動く。当たり前のように玄関に向かおうとした清次に、おい待てよ、と京一は慌てて声をかけた。軽くつんのめりかけた清次が振り向いてきて、ああそうだ、と言った。
「京一、西崎さんとこ行くなら、午後からの方がいいぜ」
「ああ?」
「午後から巻志が保の奴、呼び出してるらしいからな」
にやりと笑い、任せたぜ、と言い残し、清次は玄関から出て行った。
それなら午後からにした方が良いかもしれない。保にいちいちまとわりつかれては煩わしくて敵わないし、西崎とは久しぶりにゆっくり話をしたい。昼飯を食べてから行けば丁度良さそうだ。その際には高隅のところにも顔を出してやろうか。店には一度行ったきりだ。評判は聞いている。休日には行列もできるらしいが、平日のこの時間なら席につけるだろう。
そこまで考えたところで腕に重みがかかり、京一は中里を羽交い締めにしていることを思い出した。清次が向こうに消えたドアを眺めながら、今後の予定について考えている間中、そのことは意識もしなかった。突拍子もない事態に、判断力が幾分削がれていたようだ。中里の体重が腕に集中し始めていく。倒れそうになっている。京一は速やかに、しかしゆっくりと中里を床に下ろし、その後頭部で組んでいた手を解いて、脇の下に差し入れていた腕を抜いた。緩やかな動きで、中里は立てた膝の間に頭を挟み込み、手で頭を覆う。右手にはネクタイが巻かれたままだ。
「おい、大丈夫か」
胸を開くように抱えていたから、どこか痛めたか、それとも酸素不足にでもなったかと訝り、声をかける。
「……ああ」
中里の言葉は息と同じだ。少なくとも息はある。めまいにでも襲われたのかもしれない。だがそれにしては様子がおかしい。漏れ聞こえる呼吸音は浅く、頭の上にある手は震えていて、剥き出しの上半身は赤く、粘っこい汗が噴き出している。異常と言うほどではないかもしれないが、正常と言うにはおかしさの勝る様子だ。せめて顔色くらいは確認したい。放っておいても大丈夫なのかどうなのか、見極めたい。自分が望んだことでなくとも、一度関わってしまったが最後、京一は状態を把握せずにはいられなくなる。
「おい」
声をかけ、そっと腕に手をかけた。瞬間、払い落とされた。
「やめてくれ!」
咄嗟に顔を引いてしまうほどの、強い叫びを発した中里は、頭の上に置いていた両手を、筋を浮かせながら開き、左右に震わせた。
「行けよ、早く行け、出てってくれ。離れてくれ、早く、じゃなけりゃ、俺は、あんたに、大変なことを、やっちまう」
一転弱々しくなった声を聞き、震える中里の姿を改めて見て、京一は清次がその男について言ったことを思い出した。肝心な前提を今の今まで忘れていたとは、幾分どころではなく、判断力は大分削がれているようだ。震える体、赤らんだ肌、にじむ汗、上擦った声。これが示すのは、怪我でも流感でもない。清次の言を借りればこの男は、一発かまされたがっている。ケツに入れられたがっている。惚れた相手に欲情しているのだ。そしてその相手が自分であることを京一は知っている。明確に知らされている。それが肝心な前提だった。
つまり中里は盛っているだけで、病気にかかっているわけではない。放っておいても大丈夫だろう。所詮は顔見知りでしかない男だ。清次は記念に一発、などとほざいていたが、そんなことをする義理はない。趣味もない。この後には立て直した予定もある。何より本人が早く行けと言っているのだから、大変なこととやらをされる前に、ここから立ち去るのが最善の法だ。それを京一は分かっている。分かっているが、立ち去れない。見捨てるべきものほど――正当性のないものほど、感情を引っ掻き回して選択を迷わせようとするものだ。これが仕事や勝負事なら京一はためらうことなく最善策を取れる。そうではないから冷酷を決め込めない性癖が出張ってくる。削がれた判断力はそれを抑止し得ず、京一は立ち去るために膝を伸ばすことができなくなる。
だが、最善策は取るべきなのだ。京一はため息を吐いて、腹をくくった。膝を伸ばす代わりに、手を伸ばすことにした。発情している中里の顔でも確認すれば、その不当性を目にすれば、くだらない情も何も吹き飛ぶだろうと思われた。
近づけた手で、左肩を鷲掴みにする。中里は大きく身を揺らしたが、今度は振り払おうとはしなかった。肩を掴む手に力を入れて、体をこちら側へと慎重に開かせていき、横顔が見えたところで、勢いをつけて起こす。真正面から顔を合わせると、太い眉をひ弱に曲げた、怯えたような中里の、熱っぽい目が京一の肌を突き刺した。俗悪な欲望が侵食し、不気味な光を放っているそれに晒されて、全身を震わせる悪寒に似たものを覚え、京一は顔をしかめていた。その途端、中里も顔をしかめて目をつむり、うなだれた。悪寒に似たものを引き起こす源は逸らされた。不当性の塊だった。見捨てて当然の倒錯的なものだった。それに先に見捨てられて、京一は解放される安堵よりも、否定される焦燥を感じた。そして、魔が差した。
「一回くらい」
あるいは最初から吹き飛ばせるものなどはなく、植えつけられたものがあっただけかもしれない。ともかく京一はそう呟いており、中里は顔を上げた。怯えた顔にある二つの目は劣情をにじませており、京一の肌を鋭く突き刺すと、悪寒に似たもので鳥肌を立たせる。だがそれが逸らされないことに、京一は焦燥ではなく安堵を感じる。義理はない。趣味もない。正当な理由はどこにもない。見捨てるべき不当さだけが中里には満ちている。行くべきだ。予定がある。消化しなけりゃならない予定が――そう思いながら、劣情に支配されながら、怯えている中里の顔を見据えたまま、その肩を掴んだまま、京一は、好きにしてもいいぜ、と言った。
清次のベッドで寝たことは何度かある。長期の仕事が終わった頃に清次の家に行くと、ついアルコールに手を出している。睡眠不足も限界に近い頃だ。酒を入れればやがて前後不覚になり、気付いた時には清次のベッドで朝を迎えている。その度に家主である清次はソファで寝ることになるのだが、不満を言われたことはない。清次は寝床の質に左右されずに睡眠を満喫できる頑丈な男だった。そのため京一は何度か清次のベッドで寝たことがある。だが寝る前には前後不覚になっているため記憶は飛んでいるし、起きればすぐにベッドから出るから、今のようにただ寝続けたことは一度もない。勿論寝た状態で男に咥えられたこともない。それは清次のベッドで寝ている時に限らず初めてだ。
腰から上は万一汚れないよう自分で脱いだ。腰から下は脱がされた。まったく反応していないものを、中里はいきなり口に含んだ。熱い肉に包まれて、唾液をなすられて、ぬめった口腔とざらついた舌で擦られて、暗い違和感があったのは最初だけだ。危ういところのない行為は、作業的に進み、本来の意味を薄めていく。本来の意味――男に体を貸している。それを意識しないことに危うさを感じ、あいつはいつもこんなことをしてるのか、黄ばんだ天井を眺めながら京一は男と清次へと思考を割いた。してるのではなく、されているという方が正しいだろうか。させているという方が正しいだろうか。天井を見ていても面白い部分は一つもない。意識を捉えるものは何もない。その分ペニスへ与えられる刺激は際立って、そこに没入しないよう、京一は強引に頭をめぐらせた。
渋谷という男が無理矢理組まされた法外なローンで回らなくなった首を吊りかけたのが、去年の初冬のことだ。その尻拭いを京一は清次とともに行った。相手の弱みを探るにも大人数で動いては怪しまれる。清次は人の話をよく聞かないが、場慣れているから引き際は知っている。顔が広く汚れ役も厭わない。頭脳戦さえ押し付けなければ京一が知る限り最も有用な男だった。最も信頼できる相手でもあった。
その情報交換は峠で行っていた。直接会って話をした方が誤解がないし、わざわざ別に時間を作るほどの事件でもなかった。つまり京一には峠で清次と話をする理由があった。清次を探す理由があった。話をするためにだ。話をするために探していたのであって、黒いスカイライン、32GT−Rのルーフに手をかけながら、その運転席にいるドライバーにキスをしている清次を見つけるつもりなど、露ほどもなかったのだ。
その状況を目撃し、京一は驚き、立ちすくんだ。だが、驚きはやがて得心によって相殺された。清次がそのドライバーである男に取っていた態度――居丈高なくせに馴れ馴れしく、不愉快そうに接せられるのに何とも愉快そうだった――を思い出せば、その行為を不可思議とも受け取れなくなった。とはいえ男同士のキス現場など、眺めていたいものではない。見なかったことにしようと京一が決め、体を翻す前に、男とのキスをやめた清次が唐突に京一を向いた。
「よお」
そう言う清次は何もなかったような調子で、京一はつい何もなかったように頷いた。スカイラインのドライバーもウィンドウから出した顔をこちらに向けたが、すぐにそれを車中に戻し、急発進で場を後にした。
「危ねえな、轢くつもりか」
独りごちた清次が寄ってくる。不満で覆われたごつい顔に、罪悪感や羞恥心などは見当たらない。京一は深くため息を吐いた。
「お前、周りの目を考えろよ。俺にも庇えねえことはある」
「分かってるよ、もうやらねえって。で、何か用か?」
清次にとっての事の善し悪しは清次の価値観に根差している。それを変革しようとも京一は思わない。思うような相手と親しくすることもない。ただ目に余る不注意な行動は看過できない。非難して自粛すると言うならそれで良かった。京一はそれ以上その件は追及せず、渋谷の件の詰めだけを行った。いつ実行するかの打ち合わせを済ませてしまえば後は雑談だ。職場の新人が挨拶をろくにしないという話になった。挨拶の話だった。
「あの野郎もな、人が来たってのに挨拶の一つもしようとしねえ。失礼だろ」
挨拶の話だった。どこの職場にも愛想の悪い人間というのはいるのだと思うだけの話だったのだ。
「どんな野郎だ、そりゃ」
「中里だよ。32の。まあこれで分かっただろうけどな、挨拶は大切だって。あいつはお前に惚れてるしよ」
それがスカイラインの男につながるなど、考えてもいなかった。その時に自分が何を感じたのか、京一は正確なところを覚えていない。ただ瞬間的に様々な返答を考えた結果、一言で終わらせようとしたことは覚えている。
「そうか」
「あいつ、あれでも隠してるつもりなんだぜ。見てりゃ分かるってのに。救いようがねえよな」
清次が一言で終わらせなかったことも覚えている。見ていれば分かるだろうなと思ったのも覚えている。それは実際見ていれば分かることだった。見られていれば分かることだった。だが清次は見られていない。清次は見ている側だ。
「お前、そいつと付き合ってるのか」
痴話に首を突っ込むのは厄介を招くだけだが、厄介な事態になった場合、最低限の情報は仕入れていないと、処理もできない。その最低限の情報を京一は得ようとした。大事を避けるためにこそ関わろうとする、それもまた京一の習慣だった。
「何言ってんだよ、そりゃねえだろ。あいつはお前に惚れてんだぜ」
笑いながら、事もなげに清次は言った。京一は再び瞬間的に様々な返答を考えて、やはり一言で終わらせた。
「そうか」
「まあやるのはやるけどな。俺は別にどうでもいいんだ、そんなこと」
言葉の終わり、清次は笑みを消し、つまらなそうな顔をした。挨拶の話はそれで終わった。続いた雑談を京一は記憶に残していない。
頭の後ろで組んでいた一旦手を解いて、腕時計を見た。既に五分経っている。一時間で済めば良いが、先は読めない。中里がいつどこで満足するかが分からない。勃起させて満足するのか、尻に入れられて満足するのか、射精して満足するのか、京一には想像もつかない。未経験の事態だった。好きにさせるにしても時間をもっと正確に区切るべきだった。一回くらい、などという曖昧な表現を使ってはいけなかった。そもそもこんなことを許すべきではなかったのだ。だが京一はそれを許してしまっている。予定はもう変更された。この家に中里がいた時点で、それは理不尽に狂い始めていた。無施錠の家に清次がいなかった時点で――その時覚えたやりどころのない苛立ちを思い出し、疲労を感じて京一はため息を吐いていた。その拍子に、半ばまで咥えていた中里が動きを止める。数秒後、再び動き始める。行為にはそつがない。女に咥えられた時と比較しても、悪いものではない。無駄口がないだけ、良いかもしれない。
与えられる感覚に没入しかけ、清次がここまでさせたのか、天井を見据えたまま京一は考えた。それも不思議な感じがある。清次はあまり他人にものを教えたがらない。技術を隠したがるのではない。自慢は好む。実力を誇示することで自尊心を満たしたがる。他人に理論を説明して反復作業に付き合って欠点を指摘するという、手間のかかる作業を厭うだけだ。ただ、他人に徹底的に欠点を指摘することも好むから、それが結果的にものを教えていることになる場合もある。中里についても、そうだったのかもしれない。徹底的に欠点を指摘して、適切なやり方を教え込んだのかもしれない。あるいは中里は清次と関係を持つ前からこの技術を身につけていたのかもしれない。元々そういう指向の男なのかもしれない。正確なことなど分からない。清次は中里に専横的で、中里は清次に反逆的だが、最後の最後には従っているところを見れば、それぞれがどういう立場にいるのか推測するのは容易いことだ。しかし推測は事実にはなり得ない。清次と中里の間の何があるのか京一は知りはしない。所詮は他人事だ。それが、今は、降りかかってきている。他人事ではない。勝手に介在させられて、利用されて、予定を狂わされている。
無視しきれない苛立ちが、腹を熱くした。じっとしていられなかった。肘をつき、肩甲骨から上だけを起こし、前を見る。上半身裸の、黒髪の男が、足の横に寝ながら、ペニスを咥えてきている。それを咥えながら、中里は、目を伏せている。こちらを見ようともせず、熱心に行為に励んでいる。手ではまんべんなく擦り、唇でついばみ、舌で下も上も裏も表も舐め尽くし、口腔で深くしごき、喉で吸う。それにともない生じる体液の擦れる音が耳を刺し、京一は不意にその光景が現実であることを意識した。自分のペニスは着実に硬くなっている。男に咥えられて、反応している。それは醜悪な光景だった。ただちにそれを咥えている男を跳ね除けてしまいたくなるほど醜悪で、そのくせ、息を止めてしまうほどに、目を離せなくなるほどに、咥えてくる男の頭を押さえてもっと深く押し込みたくなるほどに、扇情的な光景だった。現実を京一は意識した。皮膚に血液が多く流れ込んでいることを意識した。汗のにじんでいる体を意識した。腰から頭に駆けのぼる確かな快感を意識した。筋肉の奥に潜んでいる射精への欲求を意識した。勃起していることを意識した。
それは十分使用に足る硬さになっていた。しかし中里は、行為をやめなかった。熱心に咥えている。官能の靄に徐々に覆われながらも、その熱心さが何に由来しているのか、京一は不審に思った。中里は、一切こちらを見ようとしない。ひたすらペニスに奉仕している。それだけが欲しいようにも思えるほどだ。そう思わせるほどの巧さが、中里の行為にはある。とめどない性欲に溺れている人間が有するような、快感を貪っていく巧さだ。誰でもいいんじゃねえのか。ふと思う。性欲を満たせるものがあれば、誰でも良かったのではないか――俺じゃなくても。
思った直後、中里が行為を止めて身を起こし、快感も止まったため、疑念は怒りを呼ぶ前に霧散して、京一は急に冷静になった。目を伏せたままの中里の行動を、勃起までは止まらない中、醒めたような気分で眺める。中里はベッドの横に置かれたテーブルからコンドームを取ると、それを慣れた手つきで勃起した京一のペニスに被せた。そしてテーブルの上から、今度は何かのチューブ容器を取った。それを持ち、思い出したように下着ごとスウェットを脱いで、太ももの上にまたがってきたところで、中里は動きを止めた。呼吸は続いている。だが、肩が上下するほど、それは荒くなっている。俯いているため顔は見えない。耳と首と胸の赤さと、腹の前まで勃ち上がっているペニスが際立っていた。京一はただ、それをじっと見ていた。やがて中里は、ぽつりと言った。
「……見ないで、くれ」
やはり動きはない。京一は、一応聞き返した。
「何だって?」
「見られたく、ないんだ。頼む」
容器を握り締めながら、中里は潰れかけた声で言う。その瞬間、霧散した疑念が舞い戻り、京一は内臓を焼く怒りを覚えた。
「俺には見る権利もないってのか」
それを見て、どうするというのではない。見なければならないわけでもない。だがそれは自分の身に起きることだ。自分の身に起きることを自分が把握しようとするのを、止められる筋合いはない。それに、この男にとっては、見られる方が良いはずだ。だからこそ、ここまでしているはずなのだ。そうでなければならない。そうでなければ、体を貸している意味がない。
「……頼む」
中里の声は、消え入りそうに小さかった。まったく今更だった。中里が咥えてきているのを、京一は見ている。その時の熱心さから、この停滞は考えられない。奔放を続けられないほどの羞恥でも迫っているのかもしれないが、盛っている姿を散々晒しておいて、勃起すら晒していてそれは、今更でしかなかった。
頼みを聞いてやれば済む話だとは分かっている。そうすれば中里は好きにするのだろう。勝手に何か準備でもして、勝手に尻に入れて、勝手に性欲を満たすのだろう。盛っていた中里に、好きにしていいと言ったのは、他ならない京一だった。ここに至って拒絶をするほど、厚顔ではいられなかった。それこそ今更にもほどがある。体は貸してやらなければならない。だが、貸すのは体だけだ。精神まで貸すつもりはない。
息を乱したまま動こうとしない中里は、おそらく羞恥に苛まれている。それは見られることに基づいている。見られるという意識が恥ずかしさをもたらしている。つまり、見られていることを意識させなければ良い。見られているかどうか、分からなくしてやれば良いのだ。動かない中里から、京一はテーブルへと目をやった。煙草や灰皿やボックスティッシュやレシートの間、紺地に水色のストライプが入った布地が、畳まれて置かれている。それは里美が清次に贈ろうとしたものだ。清次が中里に放り投げたものだ。中里が清次に殴る際、右手に巻いたそれを、ベッドに上がる前に、外したものだった。京一は体を起こし、それを手にした。
俯き続ける中里の前に戻り、手にしたネクタイを横に伸ばす。そこで京一は、わずかに迷った。この行為に正当性があるのかどうかを訝り、わずかに迷い、迷うことをやめた。判断の基準が既に失われていたからだ。こうしていること自体に、正当性がないからだった。
迷うことをやめて、ネクタイで中里の目を覆い、後頭部で固結びにし、元通りにベッドに寝、肘をついて肩甲骨から上だけを起こすと、顔を上げた中里がようやく、焦ったような声を上げた。
「おい、何……」
「続けろよ。何も見えなけりゃ、俺が見てるかどうかも分からねえだろ。それともここで終わりにするか。俺は構わないぜ。お前の好きにすればいい」
突き放すように、京一は言った。行動を制限されることへの怒りがある。精神まで制限されることへの怒りがあった。好きにすることは許せても、そんな頼みはとても聞けなかった。だが譲歩はしている。視界を遮断し、羞恥の元を意識させないようにした。それでも嫌ならやめればいい。好きにすればいい。やるもやらないも、中里の決断だ。京一は後に何も言わなかった。中里から目を逸らしもしなかった。中里は、躊躇していた。何度も手を揉み、口を開いては閉じた。そして唾を飲み唇を噛むと、動き出した。右手の指に、容器の中身を押し出す。ジェル状に見える。容器を脇に置いて、深呼吸をした中里は、左手を前について、右手を股間から後ろに入れた。
「……ッ」
息を呑む音が聞こえた。粘液の擦れる音も聞こえた。開いた足の間に入った中里の手が、上下に動く。尻に入れているのだろう。そうして手と腰を揺らす中里は、自慰をしているようだった。額にかかる黒い髪が、汗で濡れて光っている。その下に巻かれたネクタイに汗染みができ始めている。眉と目が隠れているだけで顔の印象は違う。濃さと幼さとが薄れている。人間性まで薄れて見える。中里は赤い唇を噛んだまま、鼻で息をし、声を出さない。黒い毛の目立つ白い肌は、至るところが赤らみ、つやが生まれている。角張った骨格、筋張った体、それを持つ男が滑らかに、尻で自慰を行っているような様は、思わず顔をしかめてしまうほど醜悪で、喉の渇きを感じるほどに扇情的だ。放置された勃起が鎮まる気配がないことを自覚しながら、何をやってんだ、と京一は努めて思った。こいつも俺も、こんなとこで、何をやってんだ。そうでも思わなければ、意識が場に呑み込まれそうだった。目の前の醜悪で扇情的な男に、思考が持っていかれそうだった。
再び息を呑み、中里は止まった。その手がぎこちなく尻から抜かれ、京一の勃起にかかった。それを握った上に、中里は腰を構えた。噛まれた唇の間、歯の隙間に鋭く空気を通す音が聞こえ、尻が下ろされた。締められるように、吸い込まれるように、京一のペニスは中里の尻に入った。中里が大きく息を吐いたのを見て、京一は詰めていた息を、緩やかに吐き出した。予想外のことはなかった。体温のあるぬめったものに厳しく包まれているだけだ。悪い感覚ではない。吐き気もしない。問題はない。終わりは遥か遠くというわけでもなさそうだった。
開いた膝の前に手をつき、前かがみになった中里が、ゆっくりと腰を動かし始める。それが上下する度に、包んでくるものに、擦られていく。吸い込まれて、吐き出される。その繰り返しは単調だ。時折滞る以外、同じリズム、同じ速度を保ち、息遣いすら一定に、中里は動き、京一は集積する快感を与えられる。目の前で、中里の勃起したペニスが揺れている。その下に、自分のペニスが出入りしている。何か重要な神経が麻痺しそうに感じ、京一はそこから目を上げた。赤らんだ胸、首、顔。目を覆ったネクタイは、汗が染みて全体が変色している。中里は視界を遮断された中で、唇を噛んだまま、単調に動いている。時折堪えがたそうに歪むその顔を眺めているうち、不意に京一は、疑念を抱いた。
こちらの視線を意識せず、行為に及んでいるのならば、この男は今、何を意識しているのだろうか。意識の中で、誰にまたがっているのだろうか。清次だろうか。あるいは誰でもないのだろうか。誰が相手でも、良いというのだろうか――俺じゃなくても。
疑念はまたしても、内臓を焼く怒りを呼んだ。それでは意味がない。こんな正当性など微塵もない行為を許したのは、この男が、限定的な欲望を宿した目で見てきたからだ。明らかながらも今まで隠しに隠してきたそれを、間近でぶつけてきたからだ。強烈な視線は京一のみを突き刺した。惚れた相手に欲情しきっている視線を、中里は京一のみに向けてきた。他の誰でも良いわけがない。他の誰も代わりになるはずがない。そうでなければ意味がない。ここまで許している、意義がないのだ。
他の誰になるつもりも、京一にはなかった。怒りを腹の底に抱えたまま、京一は肘を伸ばした。揺れている中里の腰に手を当て、頃合を見計らって、突いた。
「――んッ」
喉の奥で声を上げた中里が、一度跳ね上がるように小さく背をたわめ、すぐに前のめりになった。京一の顔から胸へと汗を飛ばしながら、肩の横に手をついてきて、斜めに堪える。開いた口から漏れる息は荒い。それを整え、起きようとするところを、京一はまた突いた。中里は呻き、今度は胸に倒れてきた。丁度肩口に落ちたその頭へ、京一は白々しい言葉をかけた。
「大丈夫か」
「く、あ……」
途端、中里は両肘を伸ばし、体を上へずらそうとした。尻が逃げようとするのを、腰に当てた手で素早く抑える。膝を上げて腰を寄せ、抜けかけたものを押し込むと、中里はまた上へとずれようとする。逃げようとしているのだ。それを抑えたまま、京一は訝った。
「やめてえのか」
「う……違う、言うな、何も」
耳に触れた声は、上擦っていた。違うと言うならば、やめたいわけではないのだろう。だが、中里の体は今にも逃れようとする。その理由を聞こうにも、何も言うなときたものだ。京一はため息を吐いていた。
「話をする権利もねえのかよ、俺は」
「違う、そうじゃ……あっ、あ……」
言い終えず、中里は悲鳴のような声を上げると、仰け反りかけ、また逃げようとした。浮きかけるその腰を引き戻しながら京一は、突き上げていた。
「ひ、いッ……」
高い声を放ち、斜めに止まった体が、力なく落ちてくる。すがるように肩を掴んでくる手は震えていた。中里の全身が震えていた。断続的に上がる声も震えている。腰は、細かく揺れ始めた。中里の尻が京一の勃起したペニスを擦り、中里の勃起したペニスが京一の腹を擦った。それは単調ではない、意図的な動きだった。
「どうした」
近づいた耳に囁けば、悲鳴のような声が上がり、腰がより大きく動く。分かっているのだ。誰が言っているのか中里は分かっている。誰にまたがっているのか、中里は意識している。おい、と言うだけで、恐ろしいほど耳障りで、恐ろしいほど扇情的な声を放りながら、快感で体を震わせ、貪欲に腰を振る。合わせることが難しいほど、合わせずとも勝手に吸い上げられていくほどの、強い動きだった。食われそうに求められて与えられる、凄絶な快楽を、中里が一際大きく震え、胸に精液をぶちまけてくるまで、京一は何も考えず味わった。
達して止まった中里は、息も絶え絶えで、すぐには動かなかった。密着する肉体は、熱く湿っている。その速い鼓動を感じながら、京一は何も考えないままに、手を中里の背中へ滑らせていた。中里が動いたのはその瞬間だった。京一の手を振り払うように体を起こし、手を元の位置につくと、はじめと同じように、単調に腰を揺らした。汗を滴らせる髪も開かれた口も萎えたペニスも精液の伝う腹も、はじめとは違う。動きだけが同じだった。一回を、中里は自分の射精ではなく、こちらの射精と捉えているようだった。そして、先ほどまでの貪欲さが嘘のように、ただただ単調に動く。単調だというのに、必死さを含むその動きは、何かの怯えを感じさせた。中里は怯えている。その顔を、京一は唐突に思い出した。熱っぽい目を持つ、怯えた顔だ。中里は怯えていた。あれは、大変なことをやってしまうほどの欲望の深さを、非難されることを恐れていた顔ではない。その欲望を抱えている自分を、恐れていた顔だ。それ以上のことを仕出かしかねない自分を知っているがゆえの、自分への怯えだ。だからこうして中里は、先ほどまでの貪欲さを、なかったことにしようとしている。単調に動き、何も意識などしていなかったと主張して、欲望を抑えようとしている。
それもまったく、今更にもほどがあった。ここまできて、これだけの時間を費やして、これだけの感情を、快感を引き出して、欲望を抑えられることは我慢ならなかった。意識から排除されることが、我慢ならなかった。腹の底に沈んだ怒りは、形を変えて京一の脳を焼いた。意識に刻みつけて、欲望を晒してやりたいという欲望が脳を焼いて、肉体に火を入れた。
京一は素早く上半身を起こし、中里を抱え、そのままベッドに寝かせた。中里は、動かなかった。腰の位置を定める際には反応を示したが、それ以外では、姿勢の変化による驚きでか不安でか、動けないようだった。見下ろす顔にも、動きがない。目は動いているのかもしれないが、ネクタイに覆われているため見えはしない。中里には何も見えていないだろう。何も見えなければ、誰に見られているかも分からない。誰かの視線を意識して、恥ずかしさを感じることもない。見えていれば、その逆だ。
隠れている中里の目に手を伸ばす。ネクタイを両手で掴み、後頭部の結び目は解かずに、輪にしたままで強引に頭から引き抜いた。目が、現れた。京一はそれを見た。充血し、濡れている、濃い目を見た。中里は、見返してきた。途端、背をたわめて、高い声を漏らした。
「はっ、あ……」
寄せられる尻を抱え、京一は腰を押し込んだ。中里が、たわめた背を丸める。身を縮こめ、横を向いて、腕で頭を覆う。その手をそれぞれ組み合わせ、体を開かせる。動かず見下ろすと、汗だくの、怯えたような顔を、中里は向けてきた。劣情のみなぎった、熱っぽい目を、向けてきた。悪寒に似たものが京一の背を駈けた。全身を震わせるそれは、しかし悪寒ではない。抗えない衝動を覚え、京一は腰を振るっていた。
「うあ、あ――あ、あッ」
耳障りなほどに扇情的な声を上げながら、身をよじろうとする中里の動きを、シーツに押し当てた組んだ手で封じて、突く。突く度に、中里は顔を歪める。切なそうに眉根を上げ、堪えがたそうに口元を強張らせる。瞬きが繰り返されて、あちらこちらへ飛ぶ目からは、今にも涙が零れそうだった。それを見下ろしながら、京一は終わりを求めて突いていく。より深く交わるように、足を腰に回してきた中里が、歪んだ顔の、涙を零した目を、真っ直ぐ向けてきた。
「い、あ、須藤、やめ……」
泣きながら、中里は言った。その意識が自分にあることを、浮かされたような意識で感じてすぐ、京一は、背を浮き上がらせるほどに、中里を突き上げた。高い声を発した中里の尻は、嬉しそうにペニスを咥え込む。中里は意識をしている。そして羞恥に苦しんで、泣いて喜んでいる。求められるままに、射精を求めるままに、京一は動いた。腰に回してきた足に、強く力をこめた中里が、悲鳴そのものを上げて、痙攣した。そこに深く突き刺して、京一は欲望を吐き出した。
乱れていた息を整え、組んだ手を離し、体は離さず、上半身だけを起こす。腕時計を見る。三十分経っていた。予定はまだ大きく変更せずに済むだろう。中里を見下ろす。まだ震えながら、再び勃起を晒しながら、熱っぽい目を向けてくる。射精は終わった。一回は終わった。京一は、もう一度時間を確認しようとした。できなかった。咥え込んだままの中里の尻は、物足りないように動く。中里の目は、消えない欲望の光をたたえている。京一はそれを見ていた。それは徐々に迫ってくる。それに、迫っている。一回は終わった――だが、何を一回とするかは、決めていないのだ。
(終)
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