溶解エチュード
「カッコイイよなあ、お前は」
酒に呑まれている奴は同じことを何度も何度も繰り返して言う。そういうものだ。そういうものだと京一は分かっている。分かってはいるが、いくら褒め言葉とはいえ、そう何度も同じことを言われると辟易してくるものだった。しかもその後、
「それに比べて俺は……」
と卑屈な――正確には悲観的になっているだけで事実を述べているに過ぎないのだろうが――ことを並べ立てられると、俺には関係ねえだろ、と言いたくなってくる。が、酔っ払いに何を言っても栓のないことだとも京一は分かっている。分かっているので、船を漕ぎかけながら念仏を唱えるようにぶつぶつと自分の境遇の格好悪さというやつを語っている中里毅に対しても、京一は何も言わない。言わなくとも中里は気にしていない。酩酊が過ぎて他人に話を聞いてもらえるかよりも自分がどれだけ話せるかが優先されている。自分に注意が集中している。酒に呑まれている奴はそういうものである。京一は分かっている。だから何も言わずに酒に呑まれている中里に付き合っているが、そろそろ苛立ちが限界にきていた。
中里毅というのは男で、走り屋で、群馬に住んでいる。顔立ちは特に良くもないが他人に不快感を与えるほど悪くもない。特徴がある。太い眉と目と唇、削げた頬、黒々としたこれまた太そうな短めの髪。声は低くかすれ気味で、性格は今のところ自己主張が強く自信家で強情、単純で直情的、そのくせ素朴で正義漢。満遍なく愛されるには傲慢で、満遍なく憎まれるには純情でぼろがありすぎた。こういうタイプは一度崩れると脆いと京一は見ている。崩れたところは見たことがない。それほど深く付き合ってはいない。
京一も走り屋だが群馬の走り屋とそう縁があるわけではない。中里毅という男を知ったのもその男が京一の地元に来たことからだ。だが中里は京一目当てで群馬から来たわけではなかったので、京一は特に意識もしなかった。こちらの身を脅かすほどの走りの技術があるかも怪しいドライバーだった。たが中里の目当てとなっていた同じチームのメンバーである清次いわく、あの男はこだわりと根性はまあそれなりにあるのではないかということだった。その後なぜか中里はたまにいろは坂に来るようになったので、そのそれなりにあるらしいこだわりと根性が見かけられるのかとたまに京一が中里に目をやっていたところ、中里の方が京一に近づいてきた。車と走りに限ってだが様々な話を聞きたがった。中里は少なくとも馬鹿ではなかった。話をするに悪い相手ではなかった。実際こだわりと根性は会話のアクセントになる程度にはまあそれなりにあったし、乗っている車も走っている環境も違うので新鮮味もあった。また尋ねられたことに的確に答えることが京一は好きだった。大好きともいえる。他人に自分の組み上げた理論を説明して理解を得られることほど心地良く感じられることはない。そのため同じことをしつこく尋ねられさえしなければ京一は大概のことは答える。中里は同じことをしつこく尋ねてくることはなかった。ただ尋ねることは多かった。よって京一も答えることが多くなった。会話の成立回数はそれに比例した。
そういうわけで、京一は酔っ払った中里を自宅まで連れ帰ってこうして愚痴なのか何なのかよく分からない呟きを聞かされるハメになっている。こちらの地元の走り屋同士の飲み会に中里を誘ったのは同じチームのメンバーであり京一ではなかったが、チーム中および飲み会の席中で最も中里と親しいと見られていたのは京一だった。皆は京一が中里を連れ帰るものだと最初から思い込んでいた。現状では京一と中里は会話回数は多いがそれほど親しいわけではない。身の上話はほとんどしないから相手が群馬のどこに住んでいるかも知らないし何を生業としているのかも知らない。親しくなる要素の豊富な会話はまったくしていない。つまり親しくはないのだが、飲み会の場の空気としては親しいということにしておくのが後腐れのない方法のようだった。信念を害さない範囲での利のある妥協ならば京一はいくらでもする。大体その時にはまだ中里は酔っ払いではまったくなかった。ザルのようだった。単に寝床を提供してやればいいだけだった。それが貸したシャワーから貸した着替えを身につけて出てきた時には千鳥足となっていた。酔っ払い以外の何者でもなかった。湯のためにアルコールが一気に回ったようだった。想定外だった。中里毅という男が酔いがためにここまで人の話を聞かないものに変ずるということも想定外だった。
「お前はいいよなあ……」
同じことしか中里は言わない。その呟きに耳を貸す必要はないのだが京一はいずれ聞いている。テレビでニュース番組を流してその音量も低くはないのだが中里の呟きを聞いている。聞いてしまっている。聞かないようにするには意識をせねばならない。それは不自然だから京一は聞いてはいるが、酔っ払いの戯言であり同じことの繰り返しであるし、聞きたいわけではなかった。それでも聞いている。聞かずにはいられない。その現状の淀みのために少しずつ苛立ち出している。限界は近い。
「何したって男としてカッコがつくってのは、何なんだ。俺はどうだ。俺は、クソ、あいつら人の話聞いてるようで聞いてねえし……聞いてると思えば馬鹿にしてるみてえだし……俺もお前みてえに尊敬されてえんだ。尊敬。どこにもねえ、畜生」
目をつむりながら中里は喋っている。頭は前後に揺れている。今にもテーブルに打ち付けるか床に打ち付けるかしそうだった。その指にはずっと煙草が挟まれている。灰は今にも落ちそうだった。ニュース番組が終わった。京一は動いた。明日の天気さえ確認できればもう良かった。中里の横に座り、その右手に左手を被せて支える。その間に指から右手で煙草を取り外す。灰皿に潰してやってから中里を見ると、中里は目を開いていた。充血した目だった。まるで泣いた直後のようでもあり、そこだけ現実味が妙に希薄な目だった。
「……あ?」
「俺はもう寝る。お前はどうする」
見据えながら尋ねると、中里は細かく瞬きした末に、極端に細めた目で京一を見返してきた。
「そういう、さりげねえことってのは、どっから出てくるんだ。俺は、何だ。あんたはそういう、心がけか。映画でも見たのか、何か、影響的な、この……」
「いいか、俺は寝る。眠いからな。お前は好きにしててくれていい。テレビを見たけりゃ見てていいし本を読みたけりゃ読んでていい。この通りに布団も用意したから寝たけりゃ寝てくれ。分かったな」
酔っ払いを中途半端な言葉でなだめても調子に乗るだけだ。なだめるなら徹底的に、突き放すにしても徹底的に行う方が始末をつけやすい。京一は突き放す方を選んだ。ただ京一は中里の言葉を待った。そこに甘さはあった。中里は京一を見ていた。目はいつもの大きさになっていた。それでも人よりは大きい目だった。ぶれがたいところのある目だった。
「カッコイイよな、あんたは、ホント」
何度言われたか数える気にもならない言葉だった。本来なら言われて悪い気もしないだろうが言われ過ぎて褒められているなどと感じられなくなる言葉だった。意味の薄まりきった言葉だった。それでも意味は残っていた。声が残っていた。それらが合体すれば通常よりは強力だった。強力に京一の思考を剥ぎ取り欲望に柔らかい爪を立ててきた。苛立ちは限界まで募っており解消されることを望んでいた。そこまで溜まってしまえば何によって不満が消され満足がもたらされても構わないほどだった。欲求不満の極みだった。緊張は高まり剥ぎ取られた思考は元に戻らず、欲望が溢れ出すのだった。
そういうわけで、京一はそれからもうしばらくは眠らずにいるハメになった。
(終)
2007/11/21
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