透明な曇り
須藤京一は根っからの短気である。己の目算に反する事態が起こると瞬時に神経がささくれて、脳は怒りの熱でやられ、客観的な情報ではなく主観的な感情を合理性の拠りどころにしたがる。
その性分については、幼い頃から父親がしこたま躾をしてくださったため――おかげで今も左の肋骨やら右の足首やらが歪んでいる――、物心がつくまでは反射によって抑圧され、歳を重ね思考力が発達してからは、それを己の欠点として把握し、管理できるようになった。
短気が呼び起こされそうな時には右手で拳を作り、中指の爪を掌に押し付け、目を閉じ、深呼吸を一つ。短気は損気。頭の中で呟いて目を開けば、頭を取り巻く熱は霧散し、冷静な思考が確保されている。神経のささくれは収まり、己を導く道理は客観性を取り戻す。
それでも熱が消えない場合は、正当な怒りを感じるべき状況にあるに過ぎず、気の短さを管理する必要性は失われ、その時点で己の信じる道理を通すまでだった。
短気は損気。その言葉を京一は肉親の姿を見て実感し、己の失態をこれ以上増やさぬためにも、肝に銘じている。秩序のために条件反射をも利用できるのが人間だ。学び、考えるのが人間だ。発現した遺伝子に縛れたまま産まれ死にゆく畜生になるつもりはない。
そういうわけで、須藤京一は根っからの短気さを理性をもって管理しており、ごく稀にそれに基づいた失態を目の当たりにした人間に内実を悟られることもあるが、それ以上の人間に己の性分――欠点を知られるつもりも京一には、ない。
ところで他人の思惑で発生する事柄とは、往々にして不測である。だが事柄を発生させた他人の性質を理解している場合、おおまかな予想は可能だ。とはいえその発生時期まで見通すことは困難で、案の定と感じるのはほとんど、物事が開始してからである。
基準点を作り数値を計る。求められるのは十分な回数と高い精度、確度。得られるのは個々人の走りの特徴、得手不得手。幾年も似たような作業を繰り返しているが、その時々で環境条件は違い、得られる結果も違う。だから、続けてしまうのかもしれない。
短距離を超速度でゼロにする者を走り屋と呼ぶ人間もいれば、砂利道を走破する者を走り屋と呼ぶ人間もいる。共通するのは車両が道具として使われることで、京一はその中でも四輪駆動車に乗り、チームを統べて峠道で道路交通法を犯す者だ。大体は猿がよく出没する観光名所で深夜、反社会的行為に勤しんでいる。過去には公への帰属を第一としたこともあるし、今でも社会的に認められる場で得られ、通ずる運転技術こそ至上だと考える。しかし、己が全身の感覚が冴え渡るほどの興奮、呼吸を忘れるほどの焦燥を求められるのが、狂気に近い熱情を抱けるのが、この個人的欲求を満たすのみの犯罪行為であることを、いつ思い出しても癪に障る男――唯一短気を端から抑えられなかった相手――に先日食らわされた敗北にて、京一は認めざるを得なくなったため、なおも数字を積み重ねている。これは既に、趣味だった。
秋の夜気は筋肉を、関節を縮こませる。頭にはバンダナ、体はインナーにジャケット、ジーンズに靴下に靴で布地が覆っているが、剥き出しの顔や首や手は冷気に包まれた。京一は頭を右に倒し、左の首の筋をゆっくり伸ばしながら、一昔前のトレンディドラマに脇役として出てきそうな長髪と面長を持つ男――富矢という、チーム発足時からの仲間だ――が持っている、小型のノートPCの液晶を見た。第一コースの各基準点から得られた各運転手の記録が羅列されている。使用された車と運転手ごとに一年分の記録がある。表示されているのは今日のものだ。その数字を眺めながら富矢が、小首を傾げる。
「貴道、セッティング変えたんだっけ?」
「任せてみたが、結果は良いな。ようやく自分で考えられるようになったか」
「直接褒めてやれよ。あいつ、尻尾振って喜ぶぞ」
「気が向いたらな」
下の者の実力が伸びることは歓迎すべきだが、運転技術がまだおろそかな男に尻尾を振られても気持ちの良いものではないので、京一はそう返した。それを聞いて、まあそうだな、と富矢はゆったりと笑った。柔和で緩慢な男だった。だがその分慎重で、滅多なことでは感情を乱さず、話はしやすく、情報管理も任せられた。京一は今度は左に頭を倒し、右の首の筋をゆっくり伸ばした。それを興味深そうに横目で見た富矢は、そうだ、と思い出したように言った。
「清次はどうする」
「これから走らせる」
「調子、上がってるよな」
「上げてもらわなきゃ、困るさ」
運転技術だけ見れば、この場にいるドライバーの中で、最も京一を脅かす力を持つ男だった。岩城清次――だが、いかんせん頭がイカれていた。馬鹿というには鋭敏で、利口というには愚昧だった。何ともしがたい男だが、運転技術は優れているのだ。だからこそ京一も目をかけている。しかし、何せ頭がイカれている。そろそろ期待に応えてもらわねば、いい加減放り出したくなる相手だった。
「じゃあ、準備を――」
京一が一つ溜め息を吐き、富矢がノートPCを閉じてそう言いかけた時、
「ふざけるな!」
何者かの怒声が辺りに一面に響き、驚いた富矢はPCを落としかけ、京一はそれを左手で支えた。
「お前相手にふざけてやるほど、俺は暇じゃねえよ」
次に、不服げな声が耳に届いた。そちらへ目をやるまでもなく、その声を発したのがたった今、富矢との間で話題にのぼった男――岩城清次であることを、京一は知っていた。瞬間、みぞおち辺りに電気を感じ――眉根に力を入れさせようとする刺激だ――、京一は右手で拳を作った。短気は損気。頭で呟き、顔に無駄な力が入らないことを確認して、富矢にPCを渡し、おもむろに声のした方を向く。
「だったら、人のことをどうのこうのとイチイチ言ってくるんじゃねえ!」
怒鳴ったのは、清次ではない。五メートルほど離れた位置で、グレーのジャケットを着た清次と向かい合っている、黒いブルゾンを着た男が、手を大仰に振り払いながら、叫んだのだ。その男の傍には黒い車がある――スカイラインR32GT−R。男はそのドライバーで、今月に入って男が清次に怒声を向けるのは、京一の記憶が正しければ二回目だった――ちなみに今月に入ってまだ一週間経っていない。
「人が、負かした相手に親切してやろうってのに、てめえのその態度がふざけてるぜ」
清次はやはり不服げだ。その前に立つ男は、離れていても目につくほど、怒りで顔を赤くしている。この二人が今日出会った段階で、この事態が発生することを京一は予想していたため、案の定、とは思ったが、よりにもよって清次に話を振ろうとしていたタイミングで言い合いを始められては、短気を抑える回数も増えた。
「何が親切だ、その負かしたって言い方が、そもそもふざけてやがるんだよ!」
清次の前に立つ男がそう声を上げたところで、京一は大事そうにノートPCを腹に抱えている富矢へ言った。
「準備頼むぜ」
「分かった。ご苦労様」
富矢は労うように言って、やはりゆったりと笑った。己の脳が騒いでいるのが馬鹿らしく思え、京一は富矢に背を向け、溜め息を一つ吐いてから、清次と32のドライバーの元へと歩を進めた。
「そんなもんはてめえの受け取り方じゃねえか、勝手なこと言ってんじゃねえ!」
「勝手なてめえに勝手と言われる筋合いがねえんだよこの野郎!」
ついに清次も声を荒らげ、32のドライバーはそれに煽られるように、叫ぶ。近くでここまで声を張り上げられると、やかましいとしか言いようがない。耳の奥から頭蓋骨に釘を打ち込まれたような気分になる。まったく傍迷惑な二人だった。この事態は放置していれば自然と収束するものだとは京一も理解している。終わりは清次が飽きて去るか、男が怒って去るかだ。ただ、それまでは延々と怒号が飛び交い、車両がエネルギーを発生させるために生み出す騒音すら、圧倒するのだった。そんなやかましさを感じつつ大人しく待っていられるほど、京一は寛容ではない――まさしく根っからの短気であった。
右手で拳を作り、中指の爪を掌に押し付け、目を閉じるのと深呼吸は省略して、短気は損気、頭で呟く。そうして京一は、言った。
「おい、清次」
「ああ!?」
清次と男が同時に京一を向いた。双方とも、ひどい形相だった。清次の無骨な顔貌は、黒い長髪が後ろで結わわれることにより剥き出しになっており、怒りが加わったそれは他者を恫喝する色しか持たず、32のドライバーは黒い短髪と大ぶりの目が幼さを浮かせながらも輪郭は鋭く土臭さがあって、怒りが加わるとその目力は他者を威嚇するものとなる。だが京一は怒りをぶつけてくる人間には慣れているため、おののきもせず、睨みつけてきた清次と男とを、どこまでもやかましい奴らだな、と思いながら見返した。
先に表情を困惑で緩めたのは32のドライバーだが、先に意外そうな声を出したのは清次だった。
「……何だ」
「お前の番だ。富矢が準備している」
京一が右の親指で後ろにいるはずの富矢を示せば、あ?、と眉を上げた清次はすぐにその粗暴な態度を解き、ああ、としっかり頷いた。
「分かったよ。すぐ出るさ」
清次のこの感情の切り替えをもってただちに表れることのある従順さは、京一ですら奇妙に思うことがある。ぶつぶつと不満を垂れることもあるだけに、その表出の基準が不明なのだ。まして32のドライバーは清次と長い付き合いがあるでもなし、余計に奇妙であろう、その顔こそが奇妙に歪んだ。清次がそれを見ずにさっさと車に乗ってしまえば言い合いは終わり、京一も余計な作業をせずに済んだのだが、そこは清次である。男を最後に見るのを忘れず、したがってそれは最後にはならなかった。
「何だ、そのツラ」
不愉快げに、清次が横目で男を見据える。男はガチリ、と音が聞こえてくるほど歯を噛み締め、噛んだ歯の隙間から声を出した。
「これは地顔だ、俺のツラまでてめえは文句をつけるのか」
低く、脅しつけるように男が言う。それが清次の感情を再び切り替えさせたらしく、その表情は怒りに満ち、京一はうんざりした。馬鹿どもめ。
「いいか、中里。俺はお前が俺に完膚なきまでに負けて自殺を試みたりしねえように、お前とバトルするのを待ってやってるんだぜ。それでその態度はな、よっぽどふざけてるんだよ」
「誰もんなこと頼んじゃいねえ、俺は今すぐお前とやってもいいんだ」
「てめえは、自殺をされる身にもなりやがれ!」
「何で俺が自殺しなきゃならねえんだ!」
「しそうだろうが明らかに!」
「しねえよ明らかに! てめえの目は節穴か、てめえの頭はカラッポか!」
「俺の視力は2.0だ、てめえの頭こそスッカラカンなんじゃねえのかよ!」
何とも低次元な言い合いであった――議論になる余地が見当たらない。人のことを忘れてよくもここまで熱中してくださるものだ。おそらくお互い相手を理解しようというつもりがないから、いつまで経っても平行線で、同じことをやりやがるのだろう。京一は後頭部あたりに燃え続ける炎を感じ、溜め息を吐くしかなかった。32のドライバーがこの地に現れるようになってから、この光景は六度目だった。
清次は走りにおいて自分より上に位置する人間については力を認め肩入れし、下に位置する人間については侮り否定する傾向にある。このエンペラーにはその両極しか存在せず――上は京一、下はその他大勢だ――、対等な実力を持つ人間が現れた際、清次の態度に変化が生じるなどと、京一は予想もしていなかったし、そもそも清次と同等に張り合うような次元の――走りもそうだが、頭のイカれ具合もだ――人間が現れることが予測不可能であった。その人間とはチームの群馬遠征の際に清次が叩き潰した32のドライバーで、最初は清次も侮っていたのだ。嘲り、無視し、意識もしていなった。そんな清次に32の後ろについて走ってみろと言ったのは京一だった。当時清次は連敗中であって勝利の感覚を思い出させるには32相手に走らせるのが適切だと考えられ――その男の正確な実力など知りもしなかった――、結果無用なトラブルを避けられるならば言うことはなく、しかし清次はそれによって32の男を対等なドライバーだと認識してしまった。
「人が言うことまったくもって聞きやがりゃしねえ奴が、頭の中身を語るんじゃねえ!」
「先に語ったのはてめえだろうが、こんな馬鹿を俺が相手にしてやってるってこと自体が奇跡だぜ、感謝しろ!」
「誰がするか、そんな奇跡は吹っ飛んじまえ!」
ああ、俺が悪いのか――だが、いくら頭がイカれているとはいえ、まさか清次が対等であると認識した人間に対し、力を認めながら否定する、肩入れしながら侮蔑するという、二重人格者のような振る舞いをしつつ、その正当性に疑問も挟まぬ態度を取るなどと、誰が予想し得たというのか、その結果清次と32の男の怒号交換が週に一、二度は起こるなどと、誰が推測し得たというのか――京一は眼前で繰り広げられる頭のイカれた男二人の言い合いを、腹に据えかねている己を不意に意識した。右手で拳を作り、中指の爪を掌に押し付け、目を閉じ、深呼吸を一つ。短気は損気。頭の中で呟いて目を開く。
「どこに吹っ飛ばすってんだ、明日か明後日か明々後日か!」
「俺の目につかねえとこならどこでもいい、消えちまえ!」
「てめえが消えろ!」
だが、後頭部から熱は消えない。脳は怒りに浸食されている。消火活動はなされない。これは、短気が原因ではないのだ。正当な怒りを感じるべき状況なのだ。そう確信してしまえば京一は、客観性も主観性も関係なく、己の信ずる道理を通すまでであった。京一は右の拳を解き、清次と男の間に伸ばした。
「ああ、消えてやる、けどそもそもはてめえが――」
そこで京一の手は男のブルゾンの襟を掴み、男は「わるっ」と声をつっかえさせ、京一を見、凄みが生まれている形相を、狼狽によって幼さの残る顔へと変えた。清次はこの男を対等であると認識し、だからこそ肩入れしながら侮蔑する。清次を殴ってそれをやめさせることもできるが、しかし32のドライバーにも責任がないとは言えない。清次の二重人格さながらの態度など、無視を決め込めば何にも発展せず終了するものだ。それを毎度毎度まともに相手にする男も男である――頭がイカれている。だから成敗するなら両者に対してだが、さすがに己の統べる人間以外に手を挙げるのは京一としてもためらわれた――そこまでの正当性は持てない。したがって、暴力以外でもって、双方を懲らしめることが求められる。
京一は男を見た。男は京一を見、硬直している。京一は今他に考えるべきことがあるかどうかを考え、それがないことを確認した上で、男に口付けた。男に動きはなかった。舌を入れても抵抗はなかった。京一はなるたけ仰々しく、下劣に、醜怪に、男の唇を撫で、舌を吸い、粘着質な音を立てた。頭の中では数字を数えていた。一、二、三、四――それが三十を刻んだ時、京一は男の口に入れていた舌を抜き、唇から唇を離し、掴んでいた男のブルゾンの襟から手を離した。男はその場にへたり込んだ。京一はそれを一瞥しただけで、清次を向いた。清次は瞬きもせず、微動だにもしなかった。京一は湿り気の残る唇を舐めてから、
「清次。これ以上、ここでお前が、この男と、やかましくしやがるなら、俺は、もっと、ひどいことを、するぞ。分かったな」
一つ一つ区切りながら、清次のイカれた頭にも意味が染み渡るように、丁寧に言った。清次は十秒ほど間を空けてから、二度頷いた。
「分かった」
「よし。行け」
「ああ」
呟くように言い、清次は京一に背を向けると、首を傾げつつも、己の車の元へと歩いて行った。そうして京一はへたり込んだ男を見下ろした。男は三角座りで、膝の上に顔を伏せ、こちらも微動だもしない。相当の衝撃を与えられたようだった。清次にしてやっても良かったのだが、あの男は鈍いから――男同士のキスも腕相撲と同価値とする奴だ――、再び騒いだところで条件反射でこの光景を思い出して行動を自粛することはないだろう。やかましさは続く。しかし三角座りで硬直しているこの男が清次と同等の鈍さを持っていないことは明らかに窺え、条件反射が刻まれたことは容易く推察される。清次にしてもいくら鈍いとはいえ京一とこの男とが『もっとひどいこと』をする場面など、見たがりはしないはずだ。
すなわち清次と男の言い合いは今後発生しないと考えられ、京一はすかっとした。気が晴れた。脳を取り巻く熱は霧散し、冷静な思考が確保される。秩序のために条件反射をも利用できるのが人間である。学び、考えてこその人間である。それに当てはまらない頭のイカれた連中は、利用するしかないのである。
「お前も、分かったか」
男を見下ろしたまま、京一は念を押した。男は肩をびくりと揺らし、顔を上げぬまま、くぐもり声で言った
「わ、分かった。悪かった。もうしねえ」
「分かればいいんだ。じゃあな」
京一は満足して頷き、座り込んだままの男を放って、富矢の元まで戻った。
ワゴン車の横に立っていた富矢は一定の間隔で瞬きを繰り返しながら、近づく京一をじっと見ていた。京一はその横に並び、何だ、と尋ねた。いやその、と富矢は珍しくごもごもと言ってから、珍しく乱暴に頭皮をガリガリと掻いて、意を決したように京一を見た。
「ええと、京一さん」
「ああ」
「あれは一体、何だったんでしょうか?」
なぜか丁寧に富矢は言った。その不可思議さを指摘する意義は感じず、京一はただ問いに答えた。
「紛争の平和的解決だ」
富矢はぼうとした表情で、なるほど、と斜めに頷き、ふらふらとワゴン車に乗り込んだ。京一は己の道理に基づいて、暴力によらない事態の処理が行われたことに、至極充足感を得たまま、愛車へと歩いた。清次と32の男について己の定めた前提が当てはまらぬことの可能性を無視している京一は、少なくとも今月の平和を疑うこともなかった。根っからの短気なのであった。
(終)
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