論点スライド



 店に来る客の女性の七割が膝より上の丈のスカートなりパンツを履いている、と聞いてもいない独自の調査結果を発表し、あれは誘ってんのか、と川原に点在している岩のような顔を斜めにした清次に、誘ってるとしてもお前のことじゃねえだろ、と思いながら、一厘くらいはそうかもな、と京一が経験に基づいた確率を述べると、んん、と唸った清次は眉間や顎に溝を刻んだ顔面を突如元通りの石灰岩調に戻したかと思えば、後ろで括っている墨汁を含ませた毛筆のような髪が揺れるほど素早く、京一を向いた。
「そういや京一、サノハルトって覚えてるか?」
 清次は気ままな男である。また鈍感ゆえに打たれ強い。話の論旨が急に飛ぶのは常であり、五年以上関係を保っている京一は、それに苦言を呈する無益さを身をもって知っている。かといって今更絶縁を言い渡さねばならないほど、京一も清次に悪感情を抱いているわけでもないので――そうであればとっくの昔に見切りをつけている――、友人としてではなく走り屋同士として峠にいる時でも、神経を逆撫でされない限りは、清次の話に付き合うこととしていた。
 さて、サノハルトときたものだ。佐野。数秒記憶を探っただけで、思い出した。
「ワンエイティに乗ってた奴か」
「そう、あの吐き気がしてくる白さのな」
 佐野ハルトはそれに乗り、一年前からいろは坂によく来ていた男だ。見かけなくなったのは、半年ほど前だろうか。組織に属していない人間は、去就を他人に伝えないことも多い。
「覚えちゃいるが、それがどうした」
 聞くと清次は両手首の内側を合わせ、これだ、と胸の前まで上げてみせる。その手首を拘束する黒い輪が見えるようで、京一は眉をひそめていた。
「捕まったのか?」
「金払って小学生とヤッてたんだと」、離した両手を清次は汚水でも払うように振った。「女に興味なさそうだと思ったら、ロリコンだったとはねえ。毛も生え揃ってねえようなガキの何がいいんだか」
 他者を害さず公序良俗に反さず、自己完結しているのなら幼女趣味の主といえどもわざわざ暴いて非難する必要も京一は感じないが、未発達の薄い胸に薄い体毛、まるきり子供の体に欲情するような嗜好を理解できるものでもない。したくもない。したがって捕まったという佐野ハルトやその同類にとって、『毛も生え揃ってねえようなガキ』の何が良いのかなどはまったく知れず、言及する気にもならなかった。
「やたらとあそこ手入れする女もいるけどよ、あれも興醒めだよな。自然に生えてるからこその、美しさとか色気とかがあるってもんだろ」
 ため息を吐いて嘆く清次もそうなのだろうが、既に主眼を生え揃うべき毛の問題に移しているため、黙りはしない。確かに陰毛をデザイン的に整えていられるとぎょっとするし、すべてが剃られていても違和感を覚えるが、かといって野放図過ぎても勝手が悪い場合があり、京一としては自然美と清潔さ、扱いやすさが共存している状態が一番だと感じる。しかし清次の好みというものは揺るがない。少しでも異を唱えれば徹底的に語られる。自分の女性の陰毛についての好みを主張してまで、清次のそれをわざわざ聞き出す趣味も京一にはない。このまま無言を通すのが一番だ。どうせ論点はすぐに変わる。
「まあ、下手にあいつと関わってなくて良かったぜ。仲間とか思われてロリコンのレッテルなんぞ貼られた日にゃあ、うかうか山にも来れやしねえ」
 案の定、清次は毛の問題についての思索もすぐにやめ、話を元に――といってもダイニングバーに訪れる女性の七割が男を誘っているのかどうかという話にではないが――戻した。
 一定の世界で許される事柄も他の世界では通用しない。一定の秩序を脅かす合理性は不条理としか受け止められない。峠の走り屋がいかに無法でのドライビングを享楽していようとも、女子小学生に金を積んで手を出した同好の士に暖かい目を向けるわけではない。京一自身、そういうロリコン犯罪者が仲間内に存在すると判明したら、それがどれほど有能で有益な人物であっても、チームから叩き出していることだろう。
「それを思えば、暴走族のレッテルくらいは軽いもんだな」
 京一は呟いた。世間は車に傾倒する人間を、身の丈に合わない自尊心を振りかざし周囲を否定することを存在意義としながら、集団でしか行動できない幼稚で美的感覚の前時代的な輩と度々一緒くたにするが、活動の拠点を共有するドライバーならば、そんなステレオタイプとは縁がなく、幼女買春変態野郎と見なされるのとは違い、ドライビングの専心に支障も生まれはしないのだ。
「ま、そうだな」
 清次は荒々しい顔に卑しさと爽やかさの混じった、独特の笑みを浮かべ同意を示し、そうして休憩がてらの雑談に、一区切りがついた時だった。夜も更けまばらになったチームのメンバーの向こうから、一台の車が現れた。地面すれすれに身構え、低く吠えている音を伴わせた、黒塗りのクーペ。群馬ナンバーのR32。それを京一の後から見た清次は、お、と目に力を入れた。
「まーた来たのかよ、懲りねえ奴だな」
 うんざりしたように言いながらも、清次の顔には挑戦的な笑みが染み出している。元の面相の作用により凶悪にしかならないその表情には、それでも最高の遊び相手に出会った子供のような無邪気さが透けて見える。そこまで清次に愉悦をもたらす存在の到来は、程度は違えど同質の感情を京一に抱かせ、調子に乗るなと清次を戒めるための正当性を奪う。救いがたい自分へのため息を、京一は声にして紛らわせた。
「あいつにも事情があるんじゃねえか」
「事情ねえ」
「捨て置けねえタチなんだろ」
「いくら無様貫いたって、ひっくり返って格好良くなるわけもねえのにな」
 清次はせせら笑った。だが得意の侮蔑の語尾には同情の色がにじみ、常の冴えは失われていた。R32から降りたドライバーが、こちらに近づいてくる。京一は鼻から深く息を吐いた。結局お互い、その男を懲りさせようとはしていない。
「よお須藤、久しぶりだな」
 その男、中里が片手を上げ、重厚さと鋭利さが共存している顔に、軽い笑みを浮かべながら声をかけてくる。黒のタートルネック、グレーのジャケット、ストレートジーンズ。清潔感のある出で立ちと、それに似合う爽やかな笑顔。以前――三週間前に会った時のような深刻さは見当たらない。あの時抱えていた問題は、解決したのかもしれない。
 そうだな、と京一が頷くやいなや、んだよ、と清次が中里に不機嫌を煮詰めた声を飛ばす。
「俺に挨拶はなしか、お前」
「俺に挨拶されてえのか、お前」
「っかァ、ひでえ態度だな。俺は次会う時にゃあお前が泣きべそで帰ったりしないように、優しく負かしてやろうって仏より慈悲深いこと考えてたんだぜ」
「そんな頭の沸いたこと考える暇があるんなら、今まで俺の挨拶三回も無視してんじゃねえよこの野郎」
「数えてたのかよ」
「悪いかコラ」
「しつけえ奴はモテねえぞ」
「抜かせッ」
 煽る清次に中里は食ってかかり、清次はそれを受けて満足げに笑う。懲りないのはお前だろうが、京一は思いながら、自分の前に入って清次と定番の言い合いを始めた中里の背中に、ふと目を止めていた。
 グレーのウール地のジャケットの背中。そこに、白い紙が貼られている。拳二つ横に並べた大きさで、何か文字が書かれているのが見えた。黒い、手書きの、達筆だ。京一は目を凝らし、その四行に渡る縦書きの文字を読んだ。
『エンペラーの須藤京一様へ 秘蔵写真在中 ナイトキッズ一同』
 在中も何も、どう見ても剥き出しの紙である。光沢のある用紙だ。おそらくは写真なのだろう。いや、問題はそこではない。この文章は、『ナイトキッズ一同』が、『エンペラーの須藤京一』のためにその『秘蔵写真』とやらを、中里の背中に貼り付けて寄越したことを表している。それが問題なのだった。
 ナイトキッズは中里の所属するチームである。中里が『変な方向性に真面目』と称したチームである。今秋その群馬県の走り屋チームを清次に下させたのは京一である。したがって奴らに名を知られていることは不自然でも何でもない。だが奴らにこんな形で名指しされる覚えは京一にはない。当然得たいの知れぬ『秘蔵写真』を送られるいわれもない。
 何か強烈に嫌な予感を覚えながら、触れるべきではないと感じながらも、危機管理のためと無視のできない好奇心から、京一は中里の背中にあるそれに、右手を伸ばしていた。
 『秘蔵写真』は輪になったテープ一枚でジャケットに貼り付けられており、音も立てずに簡単に剥がれた。今まで剥がれていなかったのが不思議なほどだった。
「上等だ、今度こそてめえのその鼻へし折ってやるぜ」
 その写真の裏を――正確には表を――確認しようとしたところで、中里が清次に言い放ち、京一を向いた。京一は反射的に、手にした写真を太ももの後ろに回していた。隠すような格好になっていた。
「須藤、コース借りるぜ」
「ああ」
 咄嗟の自分の対応を訝りながらも、京一はただ相槌を打った。頷いた中里は、京一の対応に疑問を抱いた様子もなく、また後でな、と笑い、32に歩いていく。
「今度こそあのクソ生意気な態度、改めさせてやらァ」
 清次が鼻で笑い、自分の車へ歩く。その肩は浮き浮きとしたように揺れている。これも最早定番だ。清次には結構な、中里には多少の馬鹿さはあるが、京一は二人を愚者ではないと判じ、非公式に走る分には当人同士の機微と責任で勝手にして構わないと告げている。中里がそれでも毎回一応の確認をしてくるのは、部外者という自覚が最低限の遠慮をさせるからだろう。馴れた清次と比すれば目立つその律儀さは、京一に当地の走り屋の首長と見られる立場を意識させながら、しかしそれとは関係のない個人としての尊重をより強く感じさせ、吐いても吐いてもキリのないため息を吐かせる。そんな認識を持った自分への、救いがたいため息をだ。
 黒い32と白いエボ4が低く高く叫びながら路面に食らいつく。二台が絡み合うように道に消え、京一は右太もも裏に回した右手を胸まで上げた。救いがたいものをすぐに救えるわけもない。今考えるべきは、これをどうするかということだ。どうせ剥がれそうになっていたのだから、無視して処分してしまおうか。だがナイトキッズの連中がなぜこれを中里の背中をもって送りつけてきたのかという疑問は残る。奴らの意図を明らかにしておかねば、安心はできない。
 京一は意を決し、紙をひっくり返した。
 まず目に飛び込んでいたのは、笑顔だった。頭の緩んだような、眠りに落ちかけているような、赤く染まった男の笑顔。酔っ払いの笑顔。横には右手でピースサイン。下には血液の透けた肌が続いている。肉に隠されている胸骨を中央として、首から上へは赤を増し、左右と下方へは薄く拡散している。横長の用紙に笑顔が中央やや右より、下端は浅く割れた腹筋の二つ目で切れている。
 つまり、裸だ。これは上半身裸の男の写真だ。黄色がかった壁に寄りかかり、まともな意識があるか怪しい笑顔でピースサインを作っている、酔っ払った上半身裸の男の――中里の、写真だ。
 心臓が大きく鳴った。鼓動が速まり、血管がはち切れそうになる。指が痺れ、写真を落としかけ、両手で掴み直した。
 京一は、深呼吸をした。数度、大きく鼻から息を吸って口から吐くことを繰り返し、脈を落ち着かせ、冷静になれ、と考える。これは由々しき事態だ。この写真が風にでも飛ばされチームのメンバーや他の走り屋の目に触れようものなら、最悪の誤解を招きかねない。裏に書かれた文章が問題だ。
 ――エンペラーの須藤京一様へ 秘蔵写真在中 ナイトキッズ一同。
 この写真にあの文章では、自分が裸の中里の写真をナイトキッズに要求したと考えられても、おかしくはない。悪くすると、人でなしロリコンに引けを取らないレッテルを貼られることになる。
 いや、既に悪くしているのかもしれない。写真。前回中里が来た時、京一は頭に巻いていた手拭と、中里のジャケットの胸ポケットに入っていた――ナイトキッズのメンバーが潜ませていたらしい――中里の写真とを交換した。京一はその際中里に、手拭を頭に巻いて連中に威張り散らしてみろなどと助言した。中里が自分の威厳が足りないと悩んでいるようだったからだ。
 その経緯がもしか、中里の口からナイトキッズのメンバーに、ずさんにかいつまんで語られていたとする。『変な方向性に真面目』は奴らは早合点する。『須藤京一』は懊悩する中里を助けるために自分の手拭を差し出し、代わりに中里の写真を受け取った。ならば中里の写真が嫌いというわけでもないだろう。そもそも中里を悩みから解き放とうとしてくれる相手だ。例え一時侵攻してきた相手であってもそれはそれ、これはこれ。お礼に写真の一つでも送ってしかるべきだ。それも取って置きのブツが良い。他の人間では決して得られない、我らがリーダーの貴重なショット――。
 京一は顔を上げ、虚空を睨んだ。流れた視線の先にいたメンバーは自分が睨まれていると勘違いしておののいたようだが、気にかけてやる余裕はなかった。嫌な想像をしてしまった。推測にはなりえない未知の集団についての、だというのになぜかあながち間違ってはいないと思える想像だった。この想像が正しければ、とうに確実に、直視しかねるレッテルをナイトキッズの奴らは貼ってきている。嫌なことに、その可能性の方は高い。更に京一が厭わしく感じるのは、自分が完全には、そのレッテルを否定できないということだ。
 だが実態はどうであれ、不利益を招きかねない評価は早急に訂正にかからなければ、ドライビングの専心に支障をきたす。とはいえこの状況でただちに動けば要らぬ誤解まで招きかねない。上に立つ人間とは行動の時機を見極める目も有している。速やかに、だが慎重に、冷静に、だが大胆に、理性と本能を駆使して難事に打ち克ってこそ、人も統べられるというものだ。
 差し当たってやるべきは、この写真を人目のつかない場所に移動、のち処分することだろう。それには自宅が最適だが、そのためだけに今帰路につくのはためらわれる。夜はまだ長い。休み前の使える時間は心技体向上のため有効利用してしまいたいし、また後でな、と言った中里の、疑念の欠片もない声が耳から離れもしなかった。
 京一は、写真に目を戻した。酔っ払いの赤い笑顔がそこにある。整髪料が落ちているのかいつも八割方上げられている前髪はほぼ額にかかっており、常時見開きがちの濃いまつげに黒く囲われた目はまぶたに半分隠れ、腫れたように赤く厚い唇はよだれが零れそうに緩んでいる。無防備な笑顔。何でも言うことを聞きそうな笑顔だ。いくら見ても変わりはしない、見たこともない、今後見る機会もないであろう、写真の中里の笑顔だった。
 変わらぬ現実とただ向き合っていても仕方がない。京一はため息を吐いて頭を振り、腕を組んで、右手に持ち替えた写真は脇に挟み、そのまま自らのエボ3へ歩いた。その姿には殺気に似た尋常ならぬ緊迫感が漂っており、現場に残っていたエンペラーのメンバーをよく分からないけど怒られるんじゃないかと恐怖の淵に追い込み、愛車のグローブボックスに『秘蔵写真』を封印しひとまずの対症療法を終えた京一は、直後仲間であるはずの走り屋全員から目を逸らされるという、変化が常の現実と向き合うこととなった。
(終)


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