物々交換
光のある時間帯、晩秋の山は、風流な紅葉に飾られる。だが日が没すれば景勝地も形無しで、落葉ばかりが辺りに目立つ。
そんな夜の峠の一部に陣取ったチームのメンバーが、車を囲んで意見交換をしている光景は、京一にとって普段通りの、何の変哲もないものだった。ただ、それを端から仁王立ちになって見据えている中里毅の姿は、変だった。
R32に乗っているその群馬の走り屋は、言動に多少の荒々しさは見受けられるものの、京一や、清次を除くメンバーの前ではそれなりに紳士的だ。挨拶には笑みを伴わせ、雑談には軽口を混じらせながら、馴れ馴れしくもならない自然な態度は、少なくとも、仇なすようなものではない。清次にのみ、敵対的な態度を取ってもいるが、中里が清次に惨敗している経緯と、それを清次が度々下衆に揶揄していることを考えれば、中里の反応は過度ではなく、人並みの自尊心を有する走り屋として、むしろ妥当だと言える。
ただ、中里と挨拶以上、数分程度の会話を交わしたのは二回だけの京一に、その男が、態度通りの義理堅い人種なのか、そう見せかけて内奥で復讐の炎をたぎらせている計算高い人種なのか、確実に判別できるだけの材料を持っているとは言えなかった。
技術面での相談を持ちかけてきた後輩への指導が、丁度終わったところだった。京一は足を動かし、微動だにせず立っている右方約四メートル先の男へと近づいた。仮に中里が狼藉を企てている粘着質で腹黒い人間だと判じられた場合、チームに不利益をもたらされる前に排除しなければならないし、そうではないとしたら、清次一人を目当てとして群馬くんだりからここいろは坂まで来るような、安直で剛直な走り屋が、他のメンバーをどうしてそこまで見据える必要があるのか、気になった。
「どうかしたか」
横に立って尋ねると、中里は地上に引きずり出されたモグラのように、うお、と大きくうろたえた。
「須藤、いたのか」
声を裏返らせた中里が、そそくさと咳をしてから姿勢を正す。まあな、と肩をすくめながら、京一は奇怪に思った。今までこの男が、こちらを見過ごしたことはない。それがこうやって、見向きもしていなかったことをまず、奇怪に感じ、たった三回の来訪時に、積極的に声をかけられただけで、この男にそうされるのが当然だと捉えていたらしい自分の早計さを、奇怪に思った。
「いや悪い、すっかりぼーっとしちまって……」
照れ臭そうな上目遣いで窺ってきながら、中里は頭を掻く。その敵意と無縁な態度を受けて、京一の思考は疑問で覆われた。この様子では、中里がこちらに対する報復の想像に没頭していたとは思えない。なら、なぜああもメンバーに熱い視線を注いでいたのか、という疑問だ。
「気になることでもあるみたいだな」
抱いた疑問を疑問のままに放置しておくことは、京一の性分には合わなかった。
「まあそうだな、気になるっつーか……」
問いかけに中里は気忙しく頷くと、再びメンバーに目をやった。三人が、一台のランエボのエンジンルームを揃って覗き込みながら、真剣な表情で何かを言い合っている。それを眺め、少し間を置いてからため息を吐き、そっちの奴らは、と中里はしみじみと言った。
「……真面目だよなあ……」
真面目、と聞こえた言葉を確かめるように京一は呟いた。そうだ、と我が意を得たと言わんばかりに、中里は力強く頷く。
「ああやって、ちゃんと車について討論してるところなんてよ、これぞ走り屋って感じじゃねえか。ホント、真面目だぜ。それに比べてうちの連中は……」
言葉を切り、中里は深さのある目を細め、虚空を睨んだ。その程度の真面目さならば、走り屋に限らず、車が好きというだけの人間でも持っているだろう。取り立てて感心するほどのものとも京一には思えないが、相対的な見方をしているらしい中里には、一般的な真面目さすら優良に思えるようだ。
「真面目じゃねえのか?」
そう思わせるほどの比較対象について、続けられるべき言葉を尋ねると、水でもぶっかけられたようにびくりとした中里が、急激にこちらを向き、おもむろに顔をしかめた。いや、と厚めの唇が、ぎこちなく動く。
「真面目じゃねえ、ってわけでもねえんだが、その、方向性がな」
中里は、今度は地面を睨んだ。この男がこちらのメンバーを凝視していたのが、自分のチームのそれと比較していたためだとは分かった。ただ中里の属するチームについて、その侵攻にあたったメンバーの、平均と比べて規模が小さく性質が野蛮、という報告以上の情報を持っていない京一は、そこにどのような方向性の真面目さがあるかは分からずに、中里の口から詳細が語られるのを待った。
「まあ、だから」
地面にため息を吐いた中里が、またばつが悪そうに頭を掻き、顔を上げ真っ直ぐこちらを見ると、少し頓狂な感じで肩をすくめた。
「須藤、お前はすげえと思ってよ」
「俺?」
思いがけない方から話題に巻き込まれ、意外さから京一は、より厳しく顔をしかめていた。だが、それにおじける風もなく、ああ、と中里は、潔く笑いながら頷いた。
「これだけ真面目なチーム作りができるなんて、すげえと思うぜ」
評価されることには慣れている。時に賞賛を、時に酷評を受けながら、より高い技術を習得するべく鍛錬してきた。ただこうやって、技術以外の面を間近で手放しに、素朴に称えられることには、慣れていない。
「お前は、そうじゃないのか」
妙な居心地の悪さに駆られて、京一は話を戻していた。中里はその性急さに不審を抱いた風もなく、俺か、と腕を組んだ。
「俺はなあ……そうしようとはしてるんだけどな……威厳が足りねえのか、どうも……」
難解そうに首を傾げた中里が、そのままあらぬ方を睨んだ状態で、止まる。そして、物々しく呟いた。
「頭に何か巻くべきなのか……?」
京一は唖然とした。こちらが頭に手拭を巻いているのは、刈り揃えた部分を直射日光や外敵から守るためと、汗が顔や首に垂れ落ちるのを防止するためでしかない。威厳を付与する意図もないところで、中里にそれを答えとして見出されそうなるとは考えてもおらず、京一は意表を突かれる形となり、何でそうなる、と思っても、声にはできなかった。
中里は悩ましげに顔をしかめたまま、わずかに首の角度を変えたり目をつむったりしながら、いや、どうだ、などと一人呟いている。威厳を得るために頭に何か巻くべきか、ということについて、真剣に考えているらしい。その思索はいささか突飛だ。人間は大概、真剣になればなるほど近視眼的になりがちなものだが、先に限定的で相対的な視点に瞬間的に没入していたことといい、この男はそういう傾向が強いのかもしれない。しかしいくら突飛で奇矯でも、思索は思索、遮るのは無粋だろう。テロの気配があるでもなし、このまま放っておいても問題はないはずだ。
とはいえ至って深刻に、一心不乱に煩悶している中里を、ただ放っておくというのも、問題に感じられる。組織を率いる者としてではない。倫理に準ずる者としてでもない。個人的に、一人の男として、ただ放っておきがたい。何か、気にかかるのだ。
どうやら自分はたった三回の来訪時積極的に声をかけられ、そのうち二回短い会話を交わしただけで、清次一人を目当てとして群馬くんだりからここまで来ているこの男に、情を抱いてしまっているらしい。
それこそを問題に思いながらも、京一は差し当たり放っておきかねる問題の方を処理するべく、後頭部の結び目を解き、頭を覆っていた白い手拭を外して、中里に差し出した。
「巻いてみるか」
声をかけると、背中から大きく肩を揺らした中里が、小鳥のように素早く頭をこちらに向け、かっと見開いた目を、ぱちぱちと瞬いた。じっとしたり急に動いたり、忙しい男だ。
「頭に何を巻いたって、威厳が増すとは思えねえけど、気分は変えるには良い手だと思うぜ。気分を変えて、もう少し余裕を持った方が、打開策も浮かびやすくなるんじゃねえか」
中里は瞬きを繰り返し、京一の手と顔を交互に何度も見た。目は細かく揺れ、口はぱくぱくと開け閉めを繰り返すだけで、そこから何の言葉も出てこない。混乱が態度に表れていた。それはそうだ。今の今まで他人が身につけていたものを、突然そのまま使えと押し付けがましく言われれば、混乱もするだろう。今日はどうも、早計でいけない。京一はそんな自分に対しため息を吐き、肩をすくめ、嫌ならいいんだ、と出した手を引っ込めようとした。
「まさかっ」
だが、短く叫んだ中里は、京一の右手にあった手拭を、引っ手繰るように奪い取った。
「嫌じゃねえよ、嫌なんかじゃ。ありがたいぜ、そんな風に言ってくれるのは」
京一が瞠目する間に、不満げに見えるほど慌てた様子で喋りながら、中里は手拭を頭に巻いていた。額から後頭部まで、短い髪の毛と、太い眉毛の半分ほどが白に覆われ、黒の面積が減る。無駄が削ぎ落とされ、骨太な輪郭の鋭さと、濃いまつげに縁取られた目の大きさが際立ち、洗練された野蛮さが漂い出したその容貌は、目を奪われるほど独特なものだった。
「引き締まったような感じがするな。こりゃあ良い」
明るく頷いた中里がこちらを見上げ、しばらくしてから、怪訝そうに眉をひそめた。
「……何か、おかしいか?」
不安げに問われ、自分が中里の顔に見入る以外何もしていなかったことに、ようやく気付く。動揺しかけるも、京一は理性で冷静を繋ぎ止め、おかしかねえよ、と逸る顎に手を当てながら、早口にならぬように返した。
「ただ、随分印象が違うもんだからな」
言い訳めいた感想も、中里には興味深かったらしく、へえ、と目を大きくし、顎を上げた。見慣れてきたとはいえ、頭に白い手拭を巻いて尖鋭的になった姿に、素朴な仕草を加えられると、些少の違和感を覚え、ついまたじっと見てしまう。だが中里は、もう眉をひそめることもなく、なるほどな、と納得の面持ちで、満足げに笑った。
「まあ、ありがとよ。参考になった」
それがあるべき姿だと言わんばかりの、自信に満ちた中里の笑顔は、京一のうちに生じた些少の違和感を、欠片も残さず吹き飛ばした。代わりに、そんな笑顔を引き出したことによる、強烈な達成感を植えつけられた。
「やるよ」
衝動的に、京一は言っていた。手拭を外そうとしてか、後頭部に両手をかけた中里が、あ?、と不可解そうに顔をしかめる。この姿に、やっと見慣れたのだ。今しばらくは失いたくないという、独占欲に似た思いが、京一の口を動かした。
「そのまま帰って、そっちの奴らに威張り散らしでもすりゃあ、憂さ晴らしにもなるだろ。うまくいけば、畏敬の目で見られるようになるかもしれない」
そこまで言い、また押し付けがましくなってはいないかと案じ、顎に当てていた右手で、久方ぶりに外気に触れた頭を撫でながら、まあ、頭がおかしくなったと思われる可能性の方が高いだろうが、と冗談として言い添えると、中里は気安く一つ笑った。だがすぐに笑みを消し、困惑の表情を浮かべた。
「でも、本当に良いのか、貰っちまって」
中里は首筋にかけていた両手を、胸の前で戸惑いがちに広げた。京一は、悪かったら言ってねえよ、と道化た調子で肩をすくめた。
「俺は自分に拷問かけて喜ぶような、マゾヒストじゃねえからな」
二回瞬きした中里が、そうか、と小さく言い、斜めを向いて、口を掴むように、片手で薄い頬を撫でる。そこにほんのり赤みが差し、強張っているところを見れば、羞恥を与えるほどに、脚色が過ぎたとは容易に分かり、散々だな、と京一は内心で嘆息した。今日は早計で、加減すらできていない。それも、この男に対してのみだ。
「しかし、俺だけ何か貰うってのも……」
斜めを向いたままの中里が、そう呟くと、ジャケットのポケットをまさぐり始め、京一は内省を中断した。手拭一枚の代替に物品を要求するような、卑しい根性は持ち合わせていない。そんなことは気にするな、と留めようとするも、その前に顔を輝かせた中里が、ジャケットの左の胸ポケットから抜き出したものを、京一の顔に向けて突き出した。
「俺の写真だ」
声を弾ませ、中里は言った。それは確かに当人の写真だった。青空と紅葉した急峻な山々を背景に、中央から右側、ダークグレーのハイネックを着た中里が、短めの黒髪を剥き出しにしたまま、穏やかに微笑んでいる。一般的な写真より二回りほどサイズは小さいが、ピントは合っていてブレはなく、色彩は鮮やかで、良く撮れているものだとは、突然見せられ面を食らった状態でも、一目で知れた。またその一目で、ついぞ見た記憶のない、寛容な親密さに溢れた中里の笑みが、平面上だというのに自分に向けられたものだと誤認され、京一は余計に面食らい、しばらく言葉を失った。
「俺の写真?」
怪訝そうな声が耳に飛び込んできたのをきっかけに、誤認と動揺から脱する。中里は、自分の写真を自らに向け、しかめ面で凝視していた。
「……何で俺の写真が、こんなとこに入ってんだ?」
真実その現象を不可解と思っているらしい、深刻な中里の口調だった。中里のジャケットの胸ポケットに中里の写真が入っていたことは、京一も目撃した、疑いようもない事実だ。しかしこの男が、自分の写真を肌身離さず持つ類の、自給自足が可能な自己愛に富んだ人間だという事実はない。
「お前が入れたんじゃねえのか」
出自を疑う余地はあった。
「いや、入れちゃいねえよ、こんな……」
首をひねった中里が、少し止まり、そうか、と膝を打つ。
「シマノの奴か、あいつまた人の服に意味の分かんねえことを……」
独りごち、中里は京一を向くと、焦った手つきで写真を胸ポケットに戻しながら、これはその、と目を伏せた。
「ちょっとした、つまり何だその、手違いだ。手違い。意味もねえ、何も、だから、気にしないでくれまったく、ただその、今の俺にはお前に渡せるもんは何もないからそれは、悪い」
すまない、本当に、と中里は心苦しそうに続ける。
先の言葉から考えるに、おそらくシマノという人間が、中里の写真を中里のジャケットの胸ポケットに忍び込ませたのだろう。勿論、当人が入れた可能性も捨て切れないが、その写真の出自など、手違いという主張を吟味しなければならないほど、疑義のある事柄でもない。
こちらに渡せるものがないからと、やましげに俯く中里を、放っておきがたく感じる事柄についても、疑義はない。ただし、今後早計となることを避けるべく、吟味すべき問題ではある。さりとて既に中里に絆されている京一に、この場で即座に自己を律することは困難で、手拭を差し出した時と同様、行動は根本の問題には触れない、対症的なものにならざるを得なかった。
「それでいい」
京一は、中里のジャケットの胸ポケットを指差した。中里は起こした目を、京一の指から自分の胸へと移し、そこを手で押さえると、風を起こすような勢いで、顔を上げた。
「それ?」
「写真だ。それで手を打とう」
指を胸に突きつけたまま、敢えて鹿爪らしく言うも、驚きに支配された様子の中里は、冗談を察する余裕もないらしい。眉間に困惑の皺が刻まれる。
「写真ってお前、こんなもん……俺だぜ?」
「お前だな」
「意味ねえだろ」
「意味を持たせたいのか?」
聞けば中里は猫だましを受けたように頭を揺らし、一度瞬いた。京一はそこで、意味を持たせたいと思われたらどうするかを考え、慄いた。
「いや」
だが中里にあっさりと否定され、安堵する。予期せぬ答えに平静を失うだろう自分よりは、当然の答えにわずかに失望した自分の方が、理不尽ながらも制しやすい。ならいいんじゃねえのか、という促しの言葉も、難なく出せた。少し考えるような間を置いてから、そうか、と頷いた中里が、胸ポケットの中の写真を再び手に取り、今度はそっと差し出してくる。受け取ったそれを、京一は再び誤認しないよう、すぐに自分のジャケットのポケットに納め、これで貸し借りはなしだ、と強調した。
「いちいち謝るなよ。度の過ぎた遠慮は、嫌みにしかならねえからな」
中里の顔に見え始めていた、惰性のようなやましさは、驚きと共に跡形もなく消え、考え深げな表情が残った。それも次には、笑顔に弾き飛ばされていた。
「ありがとな、須藤」
鮮明な輪郭から染み入る微かな恥じらいが、距離を無とするような、錯覚を引き起こす笑みだった。度の過ぎた感謝が何となるか、京一は身をもって悟ったが、揺動することに疲れ果て、肩をすくめ返すに終わった。
(終)
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