盲従敢為



 熱を、持て余している。体の隅々まで、欲望が根を張っており、いつでも体表まで染み出そうとしている。自分がそれほど浅ましい人間だとは、中里は考えたこともなかった。須藤を前にすると、今までの自分というものが、すべて嘘のように思えてくる。今まで、真剣に懸命に生きてきた自分を、すべて否定しなければならないように思えてくる。
「科学も極まれば空想の世界だからな。俺の性には合わねえ」
 煙草を持った手を何かを表すように小さく振り、遠くを見ながら須藤は言った。低い声をしている。それに肌を撫で回されるような錯覚が、ちらと中里の脳裡に浮かび、神経を興奮させて、消える。何もしていないのに、何もされていないのに、峠に吹く冷えた風が気持ち良く感じられるほど、体温が上がっていた。喉に手を当てると、かすかに汗が浮いているようだった。手の汗かもしれない。ぬるい。指に触れる頚動脈は、随分な速さで脈打っていた。
「まあ、あんたは、現実を動かしてる方が、似合うな」
 喉を手で軽く押さえながら言うと、声は震えずに済んだ。須藤は煙草を吸い、煙を細く吐き出す。風に乗って、それが流れてくる。タールが染み込んでいるような匂いが、脳を焼く。
「夢のない子供だと、ガキの頃は言われたもんだ」
 言った須藤が、中里を見、細い片眉と、連動させるように、あまり動きを感じさせない片頬を、かすかに上げた。中里は、須藤から目を逸らした。喉からは手を離し、ジーンズのポケットに入れ直す。肌の下に、常時電流が走っていて、筋肉に伝わるのを、待っているようだった。せめて声でも出しておかないと、全身が焼き切れそうだった。
「ガキの頃の夢が、本当の夢ってわけでもないだろうよ」
「清次の奴はな」、と須藤は笑いを含んだ声で言った。「小三の作文で、いつか松坂牛になりたいって書いてたそうだ」
 中里は、目を上げた。煙草を持っている須藤の右手が、奥を示している。その先に、牛になりたかった男がいるのは、見なくとも分かった。中里は、ジーンズの前ポケットに入れ直した手をまた出して、不自然な歪みを見せぬよう口元を覆い、笑った。
「好きだったのか、そりゃ」
「本人いわく、書いた記憶はないが、その頃は牛ブームだったってよ」
「牛ブーム」
「牛が好きだったんだと」、と須藤は言い、目を閉じて、堪え切れぬように苦笑を浮かべた。「ガキの頃の判断なんざ、あてになるもんじゃねえって例だな」
 ああ、と言って、中里は口元から手を外した。ようやく、笑いが引きつらなくなったと感じられた。手は、またジーンズの前ポケットに封じた。外に出しておくと、動きたがる。
「お前は何かになりたかったか?」
 目を開けた須藤が、思い出したように、そう問うてきた。中里は、笑みを自然に消すことを忘れていた。
「俺?」
「子供の頃にな」
 そう付け足す須藤が、あまりに真っ直ぐ見てくるものだから、自分が今、どういう表情を浮かべているのか、中里は把握できなくなった。体温が上がる。心臓が、さっきから荒れている。寿命がひどく縮まっている気がする。思考は、浅いところでしか働かない。何か、目指していたものはあっただろう。作文も書いた記憶がある。それが、出てこない。ただ、今と似た、焦燥感は、思い出された。
「早く、大人になりたかったな」
 須藤を見ずに、中里は言っていた。早く大人になって、誰にも何も、文句を言わせないよう、面倒をかけないよう、生きていきたかった。
「俺もだ」
 須藤の声が、すぐ傍でする。もっと耳元で、それを聞きたかった。ジーンズの生地ではなく、須藤の存在に触れたかった。熱を、持て余している。吐き出してしまいたかった。それでも、両手をジーンズの前ポケットに入れたまま、須藤を見ないまま、中里は、言った。
「立派な大人に、なりたかったんだ」
 それすらも、嘘のように思えるのだった。
(終)

2007/11/25
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