如何に泥に
目覚めは脈絡もなく訪れる。明晰な目覚めだ。脈絡はなくとも朝になれば訪れるため、目覚まし時計の世話になったことはない。生まれつきの体質だった。それを中里は、朝の苦手な知人友人を見るにつけ便利なものだと感じていたが、痛みが知覚された場合はまた別であることを、たった今、文字通り痛感した。
腰を錐か何かで突き刺されているような、尻を棒か何かでえぐられているような、鋭くも鈍い痛みがあった。いてえ、中里は思わず呟いて、強張る全身の関節と筋肉に鞭を打ちながら、痛みの軽減される姿勢を探し、広めのベッドの上を左に転がった。そして目の前に他人の顔を見つけ、叫び声を上げかけた。
上げずに済んだのは、そこにいるのが知っている男であり、その男と過ごした昨夜の記憶が一瞬にして蘇り、驚きのあまり呼吸が止まったためだった。その男、須藤京一の部屋で走りにまつわる会話を持って、帰ろうとして踏ん切りがつかずに留まっているうちに、起きた後にも下半身に憎々しい余韻を残す行為に裸で及んだ記憶だった。
中里は呻いた。肉体にも精神にも苦痛が満ちていた。やるつもりはまったくなかった。一度それに至ったのはアルコールが理性を奪ったためであり、時間と距離を置いてしまえば二人きりでも何事もなく、峠でいる時と同様の、違う主義を持つ他県の走り屋としての交流を保てるものと信じていた。だがすべては裏目に出た。置かれた時間と距離は、根強くあった行為へ導く衝動を抑えるどころか増大させ、アルコールに侵食されていない脳はそれに屈しながらも、行為の一部始終は完璧に記憶した。おかげで上に位置した須藤の欲望に引きつった顔も荒々しい息遣いも、中に屹立したものが入ってくる感触も快感も、それに際した自らが延々演じた嬌態も、揃って生々しく思い出せ、主に精神的な苦痛のため、中里は再び呻いた。
もう眠りをもってしてこの苦痛に満ちた肉体からも精神からも現実から逃れたいところだが、一度起きると夜まで覚醒状態が続くのも、中里の生まれつきの体質だった。これは紛れもなく、不便だ。そう感じて呻いてみてもため息を吐いてみても、眠気は訪ねてきてくれそうにない。
何でまたやっちまったんだ俺は、それでも呻いてため息を吐き、中里は目の前にある他人の顔を見た。須藤の顔だ。須藤は寝ている。こちら向きで、すやすやと眠っている。独特の隆起の多い厳しい顔も、感情の読みにくい鋭い双眸がまぶたの下に隠れ、皮膚から緊張が幾分抜けると、穏やかに見えるものだった。坊主頭と合わさっても、近づきがたい雰囲気はない。
須藤は坊主だ。若干青く見える髪は一分刈りだ。中里は坊主を見慣れている。高校二年生の時分、クラスの半分以上が野球部で、それに属する坊主の同級生に座席を取り囲まれていたため、坊主の周りにいる日常が当然となった。今でもチームや職場にも坊主は一人二人といる。最早馴染みの風景だ。本来、今更気にかかるはずもない。
だが、なぜ、この男が相手では、そんなものからも目を離せなくなってしまうのか。触れたくなってしまうのか。衝動の根源を疑う余裕を失った中里は、無意識に須藤の頭へ手を伸ばしていた。
ざりざりと、手に馴染む感触は、鮫肌のようだ。無数の短い毛で構成されたきめの細かいおろし金は、肌を傷つけることはなく、掌をまんべんなく刺激する。その手触りが妙に心地良く、思わず目をつむり、須藤の側頭部から後頭部を、中里はゆっくり撫でた。ひたすら撫でた。うっとり撫でた。
そうしているうち、触れているのに触れられているような錯覚が生まれ、突然肩の後ろから背中にかけて、冷たいものを感じた。それが瞬間で熱いものに変わって背中を下りて、肉体を動かそうとする。
駄目だ、やべえ。自らの反応の急激さに怖気づいた中里は、思考を取り戻した。これで昨夜を含めて二度、失敗してしまっている。ここは堪えなければならない。三度目の正直だ。中里は目を開けた。内奥に生じた感覚を、外界の影響によって拡散させるためだった。そして須藤と目が合った。
目覚めは段階的に訪れる。肉体の感覚が戻り、意識が戻り、思考が戻り、自分が起きたことを知る。穏やかな目覚めだ。眠りは何にも邪魔されない。体力が完全に回復されるまで、邪魔になるものは感知しない。それを京一は、昼夜問わず気ままに騒ぎ立てる人間の傍で育ったことの唯一の利点と感じていたが、予期せぬ事態が起こった場合は別であると、たった今、改めて実感した。
例えば何者かの極限の苦痛を示す音が聞こえた場合、あるいは何者かに生殺与奪の権を握られる感覚が生じた場合だ。頭を撫でられることは後者に属し、眠りを邪魔されたことによる怠さを感じながら目を開いた京一は、眼前にある男の顔を見て、ぎょっとした。
驚きは睡眠不足による頭の曇りを一瞬にして取り除き、状況の把握を容易くした。目の前にいる男、中里は、昨晩ここに泊まった。このベッドの上にだった。だから現在こうして向き合いながら共に横になっており、頭を撫でられている。
京一は余人に怖々道を譲られそうなほど物騒な表情を作ったが、自室には中里以外に余人はおらず、その中里も目をつむっているため問題はなかった。問題はその中里に、頭を撫でられていることだ。頭部の左側、こめかみの後ろから耳の後ろまでを規則的に撫でられている。意思の感じられる動きからすると、中里は起きているのだろう。目をつむりながら目覚めており、撫でようとして人の頭を撫でている。
中里は、基本的には凡庸な男だ。くどめの容貌も一本気な性格も過激なものではなく、走り屋としても頑固さはあるが偏執狂というわけではない。そういう男が時折こういう突飛な行動を取ることは、その都度京一を驚かせ、疑わせる。
何を考えてんだこいつは、怪訝に思いながら京一は中里を見る。厚めの骨組みの生み出す堅固さは、陶然とした表情の付加により遮られ、一目で人の頭を撫でる行為に浸っているだけだとよく分かる。それは中里が、昨夜及んだ行為の最中も似たような表情をしていたためであり、その残像を意識した途端、不意に肌の震えと肉にこもった熱を感じ、京一は唾を飲んだ。
アルコールに耽溺した一月前の夜も、公平な関係への舵取りのための議論に耽溺した昨日の夜も、行為に導かれたのはその目にだ。濃いまつげに強調された大振りな、あらぬ熱情が見え隠れする目にだった。それに見られて、睡眠後にも肉体に疲労を残す行為に導かれた。
導かれたのか、そうなることを分かっていて、敢えて導かせたのか。見られてはおらず、見られていることに気付いていない男を見ているだけで昂りを覚えている現状が示すその度しがたい答えを、京一が益々物騒に顔をしかめながら渋々腹へと流し込んだところで、中里が頭を撫でる手を止めた。そして間を置かずして目を開けた。
「おはよう」
およそ七秒、互いに微動だにせず視線を交錯させたのち、顔から余計な力を抜き、京一は言った。それは魔法の言葉だ。一度目の過ちの翌日、中里が逃走か死かの二者択一を想起しているように合わせた顔を青褪めさせた時にでも、何事もない朝を知らしめた言葉だった。
「おは、よう」
ぎこちなく、中里はその言葉を返し、顔色を主に赤く変えた。何事もないものとするには強張りの強い顔だった。頬にも唇にも血の気が差し、皮膚の裏には強い羞恥が透けていた。それを見た途端、一際強い欲望に駆り立てられ、最早魔法も通用する見込みのない抵抗は諦めて、京一は重さの残る体を起こし、中里に素早くまたがった。
「朝っぱらからやるような、趣味も主義もねえんだけどな」
「は?」
肉体を目覚めさせるなら、ラジオ体操で十分だ。ため息を吐いてから呟くと、下になった中里は、かすれた声を頓狂に上げた。呆然とした顔には無理解がはびこっていたが、流れで頭から滑り落ちた右手を、皺の多くなっているシーツの上で握ると、見開かれた目には理解が宿り、熱情がほのめく。自らの意思でそこに近づき、同じ性質の熱をはらませた声で京一は、付き合えよ、と中里に囁いた。
(終)
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