背に痕の残らない日
爪の形に沿うように、刃を入れていく。ニッパー型の爪切りは中学生の時分に地元の刃物専門店で買ったものだ。銀に光るそのフォルムに目を奪われた。爪を切ることのみに特化した道具。その合理的な造形美。滑らかな切れ味は爪へのダメージを最小限にしながら抵抗感によって健康状態を正確に伝えてくる。この弾力は悪くない。
テーブルに広げた一週間前の地方広告が掲載されている新聞紙の上に足と手の爪をすべて切り落とし、爪切りをやすりに持ち替える。粉末と化した爪はさながら遺灰のように死んだ爪の集団に降っていく。俺の一部が完全に死んでいく。まだ生きている俺を守るために。
足を終え左手も終え右の薬指の爪を研いでいるところで、戸を引く音が後ろから聞こえた。フローリングを踏む湿っぽい足音が近づいてきて、遮音されて間もなくソファが軋む。隣に他人の重み。俺と同じ、だが何かが違うソープの香り。目の端に入る毛に覆われた白い太腿は風呂上がり特有の歯を立てたくなるような艶やかさを放っている。情事の最中はそれ以上に美味そうだが。
「爪、切ってんのか」
その足を持つ右に座った中里の見れば分かるだろう次元の問いに、俺は小指の爪にやすりを移し替えてああと頷く。広義では研ぐのも切る行為の一部と見なせるだろう。目をやらずとも中里の頷いたのが気配で知れる。その納得の表れの沈黙が俺を包む。リビングに漂う静寂には悲しむ者のいない葬儀のような滑稽さがある。死んだ俺の一部のための葬儀。
「夜に爪切ると、親の死に目に会えないって言うよな」
不意に中里の低く掠れながらも明瞭な声がそれを破る。この状況に気安く浸っているがための思いつきの発言だろう。それが癇に障らないほどに、俺はこいつを受け入れている。あるいはこいつが俺を、受け入れているのか。
「ああ、確かに会えなかったな」
どうせならそのみっともない死に様を見届けてやりたかったが。そこまで言わずに俺は黙する。やすりをかけた十本の爪は痛みも違和感もなく肌に馴染む。他を害さず己を守る形となる。その意識を共有した相手は今も昔も一人だけだ。疑うまでもない特別性。だがそれは戒めにしかならなかった。所詮は根差す場所が違うのだと互いに持たせた意義が断じていた。近づいた分だけ遠ざかる距離、強烈な拘束、砂の海で足掻くような徒労。個人としての断絶は、必然だったのだろう。
「悪い」
過去に囚われながら手の爪を検分していると、右からばつの悪そうな声。半端な茶番に騙される男に呼ばれる笑いは自嘲の色が強い。
「謝るなよ。気にするようなことじゃねえ」
言えば謝ると分かりきっていたくせに。その思いが俺の頬を醜く上げる。それで優位にでもなったつもりか。その思いが俺の顔を平坦にする。正確に整えた手足の指先に厚いビニールを被せられたような違和感が生まれる。保湿クリームを塗り込んでも感覚は鈍い。俺はため息を吐いて右に座っている男を見る。肩をすぼめて俯いている中里は見るからに気まずそうだ。そのグレーの下着から伸びる白い太腿の間で組まれている手には見るからに力が入っている。一番上で交差された左右の親指の爪は二ミリほど伸びていた。
「切ってやろうか、爪」
「あ?」
俺の言葉に中里が小鳥のように機敏に首を動かし俺を見る。その泥臭く直線の多い顔は感情による歪みを分かりやすく反映させる。例えば喜び例えば怒り、例えば戸惑い。
「親の死に目に会えないかもしれねえが」
どこまでが本音でどこまでが冗談なのか、俺自身把握をせずに言っている。半端な茶番を仕掛けた俺を中里は戸惑いを深めた顔で見返すと、突然、笑った。
「迷信だろ」
それは不敵な笑みだった。自信家がしばしば己の愚かさを主張するために浮かべるような。だが柔和な笑みでもあった。俺の抱える俺すら把握しない屈折性をすべて無として包み込んでくるような。何も知らない男の何もかもを理解しているような笑み。それでもやはり、こいつは何も知りはしないし俺の思考を分かりもせずに、そして俺を、受け入れている。呼ばれる自嘲が先ほどとは比べものにならないほど清々しいのは、茶番を完成させられたせいか。
「だといいけどな」
笑い返して言った俺は差し出された中里の左手を取る。俺の指は中里を傷つけることなく、中里の死んだ一部を切り取り俺の死んだ一部に重ねていく。その意識は共有されない。だが俺たちは共にいる。おそらく滑稽ではない葬儀をするまで、その曖昧に漂う特別性を感じながら、俺は中里の爪を切った。
(終)
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