脳内現実未公開



 自分がどうしたいのか分からない。距離を取りたいのか詰めたいのか、近づきたいのか遠ざかりたいのか。今のままで良いのかどうかすら。満足しているのか、他に何か求めているのか。自分のことが分からない。そんなことは今までなかった。だが、今そうなっている。だから関わりを避けるようにしている。接し方も分からないのだ。他の奴とはそうではない。気軽に近づけるし、話もできる。多少馬鹿にされても動じはしない。地元ではないからこそ、冷静になれる。だが、その男だけは駄目だった。傍にその存在があるだけで、思考が滞ってしまう。
「おい、中里」
 順当な場、夜更けの峠でも、突然名を呼ばれなどすると、死んでしまうのではないかと自分で思うほどの、驚きが生まれる。動揺を隠すのは難しい。声のした方に振り向くだけでも、体がいやにぎくしゃくとする。
「何だ?」
 二つゆっくり呼吸を取ってから、どもらぬように言う。男は中里の前方から歩いてきている。白いタオルを頭にきゅと巻いた、感情を容易く表さない厳格な顔をした男。中里は男に歩いていくことにする。待っているのも落ち着かない。
「清次は今日、来ないぜ。連絡があった」
 距離が詰まって立ち止まり、男が言った。中里は言葉を理解し損ねた。
「今日?」
「残業が入ったらしい。今日は缶詰だと」
「岩城か?」
「そうだ」
「そうか……」
 言ってから、中里はようやく話を理解した。
「ああ、そうか。分かった。わざわざ……ありがとよ」
「まああいつがいなくても、湯原とでも走っていけばいい。折角来たんだからな」
 その話は理解せぬまま、中里は頷いた。
「そうだな」
「俺と走りたけりゃ、そうしてもいいが」
「ああ……」
 頷いてから、中里はその言葉は理解して、ぎょっとした。
「何?」
「どうする? 俺はどっちでもいいぜ。清次が来ないなら時間も余る」
 男は真正面から視線を向けてくる。中里の心臓は縮まりきって、拡張し、また縮まり、どきどきとして仕方がなくなった。この男と走る。良い機会だと思う。凄腕のドライバーだ。この地を熟知してもいる。それは分かる。だが自分がこの男と走りたいのか走りたくないのか分からない。どうしたいのか分からない。どうすべきか分からない。
「いや、それは……」
 言葉が出てこなかった。目も合わせられない。頭が回らない。現状を処理できない。沈黙が長くなる。
 男のため息が聞こえた。
「お前はいつもそうだな」
 声も聞こえた。中里は男に顔を向けていた。まともに見合うことになる。
「え?」
 いつもがどうなのかを指摘されるほど、この男と接したことはない。何を言われるのか分からない。何を言えばよいのかも分からなかった。
「俺と何もしたがらねえ」
 男はただ中里を見ている。感情を表さない顔。それを見ているだけで心臓の調子が乱れる。呼吸が乱れる。冷や汗が浮いてくる。頭は回らない。言葉は出てこない。
「そりゃ……」
 中里も男をただ見ることになる。沈黙。静けさは気圧の存在を思い出させる。空気の持つ圧力。分子の活動する力。それが鼓膜を押す。耳が痛い。脳も痛い。圧力がかかっている。この男の存在自体が圧力を生み、中里を押し潰している。いくら見合っても何も分からない。男の顔は感情を表さない。男の目は鋭いだけだ。中里はそれを見返すしかできない。
「清次とは、連絡をつけられるようにしといた方がいい」
 沈黙が破られた。耳も脳も、急に通った気がした。男の言葉は、すっと頭に落ちた。
「……そうだな、そうだ」
「そうすりゃ、無駄もなくなる」
 男は言って、一つ間を取ってから、背を向けた。会話の終わりだった。理解していた。分かっていた。だが、言っていた。
「無駄だと思うか」
 振り向いた男の顔は、何か曖昧に見えた。声もまた、はっきりとはしていなかった。聞き取れはした。
「俺は知らねえよ」
 見合ったまま、間が取られた。今度は長かった。沈黙の圧力は凄まじかった。心臓の動きは狂ったようで、脳はじくじくと痛んだ。そして男は背を向けた。中里はその場に立っていた。肩を押さえつけてくるものがあった。全身に重さをかけてくるもの。立っていることがこんなに力の要ることだとは思わなかった。膝をついてしまいたくなる。それを止めるのが辛い。圧力。静寂によるのではない。沈黙でもない。それらの比ではないほど強いそれは、孤独によった。たった一人の男のために生まれる孤独が、中里を押し潰そうとしていた。
(終)

2008/06/25
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