壁
I don't want to talk about it.
過去のことだ。妙義山で自分に勝ち、チームのステッカーを切り裂いた男がいた。栃木の走り屋チームに属していた。その過去は近い。拳で叩き割りたくなるほどに。
早い紅葉目当ての観光客が、死体に群がる蛆のようにわく季節だった。
深夜には、蛆虫もそう残らない。代わりに、無数の百足が路面を削っていく。足は二つ、あるいは四つ。アスファルトを剥がし、防護柵を傷つけ、清涼な山に排気ガスを充満させる。それは季節によって、そう変化がないのが普通だ。
その峠が普通であるかどうかまで、中里は知らなかった。興味もなかった。
群馬か、と、ソバージュじみた髪型の、暗い顔貌の男が笑った。あいつは負け犬は相手にしない。
手段を問うた。戦いに持ち込む方法。目的は明確だった。この地であの男とバトルをする。ただ一つ、それが果たせられれば、何の禍根も残さぬつもりだった。
「土下座だな」
緩い目元をした男が、一言で答えた。周りには、十人には満たぬ男どもがいる。何かに飼い慣らされているような従順さと、それにそぐわぬ陰湿な雰囲気をもって、中里を見ている。言葉はない。
いや、そぐわないことなどないのかもしれない。何かに従うということは、何かに圧されることであり、何かに縛られるということだ。内部の戒めに耐えるには、外部に対して陰湿にならざるを得ないのかもしれない。
中里は目を細めて、自分の前にいる男どもを眺めた。研がれた顔を持つ者、垢抜けない顔を持つ者、感情を浮かせぬ顔を持つ者。そこいらの表面に、致命的に広がっている従順さと陰湿さ。止める人間は、いないようだった。
他者を縛ることの危険性を、中里は目の当たりにしたような思いだった。地元の男どもは自由奔放で、内輪では犯罪と隣り合わせの行いをしがちだが、その分外部に対して意識を注ぐ者は少ない。だから、評判の墜落を、崖っぷちで留めている。
土下座、中里は思った。少しも愉悦を表さず、それを命じる男どもの、抑圧された欲望を思った。だが、手に掴めるものではなかった。所詮、他所の事態だ。
膝を、地面についた。周りにいる男どもの、ジーンズやチノパンに包まれた膝、太股、股間しか、視界には入らなかった。
土下座、中里は思った。慎吾あたりなら――庄司慎吾、性根が悪く、だがどうしようもなく繊細な男――下卑た笑みを浮かべなら、そうさせるに足る、隙のない理屈を並べ立てるのかもしれない。目の前の男どもは、それすらしない。だから、中里は、汚れたアスファルトに膝をついた。手もついた。屈辱はなかった。疑念があった。慎吾は自由だ。自由だから、多くの言葉を弄し、他者を追い詰める。この男どもは、それをしない。自由がないのだ。何かに制限されている。何かに従い、何かに圧され、何かに縛られ、何かに戒められている。
おそらく、何にも制限されていないからこそ土下座ができるということが、この男どもには分からないだろう。
分からなければ、当て付けにもなりやしない。だが、それでも構わなかった。目的さえ果たせられれば、何の禍根も残さないと決めている。
頼む、その言葉が喉を上ろうとした時だった。
「何をしている」
近くからではない、男の声が飛んだ。周囲がざわめいて、すぐ、静かになった。空気が乱れた。従順さは保たれたまま、陰湿さが切り裂かれた。
地面に膝をついたまま、中里は石塊が皮膚に食い込んでいる両手を、膝頭に置いた。周りの人間の足が、焦りに踊っている。やがて、道ができた。その道を、男が歩く。こちらに向かってくる。頭に白い布を巻いている。無地のシャツに余りのないジーンズ。緩みのない服装だった。
感情の見えない目が、中里を見下ろした。男の相貌には、他の男どもにあるような従順さも、あった陰湿さも見当たらなかった。ただ、厳格さが、頬に刻まれている。この男が、おそらくこの場のすべてを制限していた。
やがて男は興味もなさそうに、中里から目を逸らした。何にも縛られることのない、自由な動作だった。
「これがどういうことか、説明したい奴はいるか?」
静かな男の問いに、答える者はいなかった。沈黙が続いた。その問いの対象者に、自分も含まれているかどうか、中里は判断をしあぐねた。場の雰囲気は完結していた。口を挟むには、相応の理屈が要りそうだった。それを用意するだけの時間を、男は与えなかった。
「いねえなら、いいよ」
男がどうでもよさそうに言い、片手を払った。それで、周りの男どもが散った。
中里は座ったまま、去っていく男どもの背を見ていた。従うことによって、何らかの恩恵を得られるのだろう。それが何か、統率の取れた背中をいくら見ても、中里には分からない。だが、結局のところ、飼い主がいてこその、飼い犬なのだ。飼い主を無視しては、生きることも敵わない。
その中里の目の前に、飼い主が現れた。男は、目線を合わせるようにしゃがみ込んできた。
「それは、あんたが願ってやってるのか?」
目が、同じ高さで合った。強靭さを底に秘めている、鋭い目だ。誰をも、その男の意思ではないものでも縛っておけるような、そんな強さが感じられる。
「いや」
それだけ中里は声にして、立ち上がった。あの男どものようには、なりたくなかった。この男に、縛られたくはなかった。先ほどとは逆に、男を見下ろす形になる。男はこちらを見上げている。不可解そうに、値踏みするように。見下ろされているよりも見上げられている方が、癪になった。優位に立つと、反発を削がれるのかもしれない。中里は、頭上を見た。暗いのに、灰色だ。
「岩城清次とバトルがしたい」
そのまま、呟いた。男に聞こえたかどうかは知れないが、男の立ち上がる気配がした。そして中里は、再び男を見た。男の方が、僅かに目の位置が上だった。それも癪になったが、反発は削がれなかった。
「あいつは今日、来ねえよ。あれで忙しい男でな」
男は中里を見据えたまま、言う。自然、見詰め合う。男の目は鋭い。敵意は見えない。だが、好意も見えない。当然だろう。こちらは不審者に違いあるまい。
「そうか。俺は中里だ。中里毅。あんたらと、揉め事を起こすつもりはない」
言葉を受け取ってから、素性を名乗る。布地に隠れぬ男の眉が、ぴくりと上がる。そして下がる。そして、手が差し出される。
「須藤京一だ」
中里は、その手を見た。肉厚だ。須藤京一の顔を見る。厳めしい。須藤京一。すべてを制限する者。統率者。飼い主。エンペラーの、リーダー。
「よろしく」
言って、中里はその手を取った。ぬるく、触れる汗は、どちらのものとも知れなかった。手は、すぐに離した。風が掌を撫で、冷たさを呼び、汗が渇く。再度、見合う。須藤の目が、こちらを捕える。それを、見返し、突き放す。何かを探られている。何かをぶつけている。言葉にはならない。時間が過ぎる。不意に、風が髪を揺らす。肌に触れ、顔の筋肉が反射的に動く。
「何を考えている?」
須藤の声が、耳を打つ。低く、骨を巻くような声。何を考えている?
「あんたこそ」
何も言わずに、見合っている。岩城清次。妙義山で自分に勝ち、チームのステッカーを切り裂いた男。栃木の走り屋チームに属している。須藤京一の、チームだ。この地で岩城とバトルさえできれば、何の禍根も残さないと決めている。だが、岩城は今日、ここには現れない。ならばこの場を辞せば良い。中里はそれをしない。須藤と見合っている。須藤が見てくるから、見返している。須藤が探ってくるから、跳ね返している。あるいは、こちらが須藤を見ているのか。こちらが須藤を探っているのか。始まりは、中里にはもう知れない。
「清次は来ない」
「そうらしいな」
「なら、俺とやるか」
「まさか」
即座に、中里は否定した。須藤京一とバトルをして、どうなるものでもない。須藤の眉が、再び動く。今度は明確に。そこに乗っている感情を、だが中里は見抜けない。そして沈黙。そこらの車のエンジンよりも、緩い風の音が、やたらと耳についた。岩城清次は来ない。ここに居座る理由はない。須藤は目を逸らさない。耳に、風が吹き込んできて、中里は目を閉じた。頭の中で、風が巻いた。
「帰るぜ。また、来る」
目をつむったまま、須藤に背を向ける。目が合っていては、何も言えそうになかった。数歩進んだところで、ひゅう、と、風が鳴った。風ではなかった。人の、吸気だ。
「手ぶらで帰るのも何だろう。余裕があるなら走ってきゃいい」
中里は足を止めた。言葉の意味を理解してから、振り向く。須藤が立っている。鋭い目。底の見えない顔だった。
「いいのか」
「どうでも」
須藤が目を閉じ、興味もなさそうに呟いた。何かが、分断された気がして、中里はそれ以上、須藤を見なかった。
悔恨と、安堵、怒りだ。決意を果たせぬ悔いと、決着を先延ばしにされた安堵。そして、ほっとしていることに、怒りを覚える。それを、走りにぶつける。
急勾配を緩和するためのつづら折りは、憎らしいほど似通っており、極端な操作を要求する。一度目は手探り、二度目は慎重に、三度目はその改善、四度目からは大胆に。最高の速度、最高の距離を体得するべく、下り、上る。緊張は体を常に支配し、集中力は徐々に削がれていく。
何か、別のことを考えていたのかもしれない。何か、思い出せないほど些細なことだ。だが、意識はそちらに向いていた。時間が飛んでいた。考えもせずステアリングを回そうとした時、手が、滑った。汗だ。拭う暇もなかった。タイヤは摩擦を失い、アスファルトを削る。すべては反射で行われた。全身が、一つの目的のため、別々に動く。後頭部が冷えたまま、立て直した。鉄塊は公共物を破損することなく車に戻り、道路を走る。
片手ずつ、掌の汗を、ジーンズで拭う。いくら拭っても拭っても、粘つく汗は次々と噴き出した。頭、額、鼻、首、脇、腰、膝、足。昂りが、冷めていく。
集中が、切れた。危険だった。これ以上は、いくら走っても惰性になるだろう。向上は望めない。事故を起こす確率が高くなるばかりだ。引き際だった。
須藤京一の姿は、たやすく見つかる。開けた場、黒光りしているランエボの傍、頭に白い布を巻き、緩みのない出で立ちの男。その隣の、短髪の男と、話をしている。二人だけだ。何を話しているのかは分からなかった。車から降りた中里が近づいていくと、須藤と男は話をやめた。男が中里に気付き、まず、言葉を止めたようだった。次に、須藤が、中里を見てきた。見られると、言葉を発することに、ためらいは生まれなかった。
「そのままでいい。俺は帰る。邪魔したな」
「どうだった」
右手を突き出しながら言った中里が、背を向けるより先に、須藤が問うた。中里は端的に、感想を述べた。
「慣れねえな」
「慣れたいのか?」
続けざまに問われ、言葉に詰まる。須藤の意図が読めなかった。隣の男も、不可思議そうに須藤を見る。須藤だけが、平然としている。平然と、中里を見ている。答えを求められている。須藤こそ、意図を読めずにいるのかもしれない。お互い、理解に苦しんでいるのかもしれない。だが、探られるほどの厚く太い腹を、中里は持っていない。素直に答えるだけだった。
「慣れねえと、ろくなバトルにはならないだろう」
それを聞いた須藤は、視線を落とした。
「そうか」
アスファルトを睨んだまま、呟く。短髪の男が、それをやはり、不可思議そうに見る。何か間違ったろうか、中里は冷たい汗がまだ粘っている首筋を、掻く。須藤の言動は、よく分からない。敵対的ではない。好意的でもない。公平、と言えるのだろう。だから、決め手がない。底が見えない。強い目に、厳しい顔。そこにぶつけるべき感情を、中里は抱けない。決め手が欲しかった。須藤に対し、明確な感情をぶつけられる、決め手が。
「何か、文句でもあるのか」
地面を見ている須藤に、尋ねる。須藤が視線を上げる。中里を捉える。見上げられる。須藤の目は鋭い。一分の迷いもない。
「あると思うのか?」
「分からねえから聞いてんだ」
「俺も、分からねえから聞いている」
須藤は顔色を変えない。決め手は見当たらない。少し、苛立ちを覚える。眉間に力が入るのを止められない。須藤は平然としている。自分との違いを意識させられ、余計に苛立つ。質問が方向性を失っていくのを、止められないほどに。
「分かりてえのか?」
その時須藤が浮かべた表情は、奇妙だった。表には決して出てこないあらゆる内側での筋肉の動きが、模様のごとく透けて見えるようだった。だが、表には出てこないのだ。何かが示されているのに、何の判断も下せぬ表情だった。
「清次は来ない」
声は、機械のようだった。抑揚がない分、不気味さを覚える。少し前、同じ言葉を聞いた覚えがある。帰れ、と言外に匂わされていた。帰ろう、と中里は思った。そもそも挨拶をしたら、帰るつもりだったのだ。だが、帰る、その一言がもう出せなくなった。須藤はまだ、奇妙な表情を浮かべている。裏側に、模様が見える。意味を作らぬ模様、意味を隠す模様。それが何であるのか、気になった。
「あんたの走り、見せてもらえねえか」
そう言えば、何か染み出てくるかと思った。実際、須藤の顔には模様が刻まれた。眉が少し上がり、まぶたが感情によって上がり、唇がかすかに絞られる。裏から染み出てきた、模様。だが、その意味は見透かせなかった。こんな他人の顔を、見たことがない。経験がない。比較ができない。把握ができない。
「隣に乗るか?」
その顔のまま、須藤は言った。隣にいる短髪の男が、顔を歪めた。その顔は、見た記憶があった。人は驚いた時、そういう表情を浮かべる。須藤の顔は、やはり見た記憶がない。人はどういう時、そういう模様を浮かべるのか。意図を、意味を把握できないまま、あるいはだからこそ、中里は頷いた。
無言だった。ただ、エンジンの唸り、機械の呼気、タイヤの悲鳴、排気の軋みが、耳に、腹に響いてくる。そして圧力、慣性力。
自分で運転する場合、いつどのような形でそれらが体に負荷を与えるか、経験に裏打ちされた反射的な予測が可能だ。衝撃が加わる前に肉体は防護を固め、集中力、体力持続のための緊張と弛緩の均衡を保つ。
だが、他人が運転する車に同乗する場合、予測の精度は落ちる。それどころか初めての場合、自らの経験を前提としてしまうから、実際に加わる力の差異が予測とかけ離れ、肉体は簡単に衝撃を受ける。ランエボとGT−Rでは性質が違う。ブレーキングのタイミングも回転の度合いも、益々予測がしがたい。三半規管はくたびれ、内臓は圧迫され、筋肉は疲労する。それに耐えながら、相手の運転技術を観察することは、難しい。難しいが、折角の機会だった。絶対的な参考にはならないだろう。それでも、包括的な参考にはなりそうだ。
中盤、中里は、瞬きを繰り返した。集中力が、切れかかっていた。底を打ちそうだ。だから自分の運転をやめたのだ。他人の運転に意識を向けるにも、万全の状態とは言えない。時折、何の考えもなしに、須藤の指を見ている。ステアリングを握る手だ。左手の、中指の爪だけ形が僅かにいびつだった。他は整っている。揃って切られている。関節は硬そうで、手の甲には筋が浮いている。手首の際に小さなほくろがある。
そこまで見て、須藤の動きを見ていないことに気付く。強く瞬きをする。こめかみに、眉間に力を入れて、目を開く。須藤の手がステアリングの上を滑る。シャツの袖、一本、二ミリほど糸が出ている。もう一度、中里は目をつむった。そして前方を向いて、開く。闇夜を割る光はヘアピンカーブの存在を浮かび上がらせ、負荷の到来を明示する。反射が肉体を縛る。予測の精度は高まっていた。だが、影響は大きい。久方ぶりに、胃には液体が広がっているということを、意識した。
速度が緩まるほど、背中に重いしこりが上がるようだった。中里は呼吸を抑えていた。胃酸が喉を突いている錯覚がある。錯覚ではないかもしれない。出発地点と同じ場所に駐車される。
すぐには動けなかった。考えていたよりも、体力も集中力も失われていたらしい。腹がむかつき、喉はむっと焼け、首と頭蓋骨の間は重く、耳の奥に金属音が響く。完全な車酔いだ。
「何か、分かったか」
耳鳴りの中、須藤の声が小さく聞こえた。途端、一つ波が来た。喉に力を入れ、唾を飲み込み、やり過ごしてから、念のため眉間に力を入れたまま、運転席を向く。ステアリングに右手をかけながら、須藤がこちらを見ている。動かない目。堅そうな顔。見覚えのない表情。決め手のない模様。何を考えているのかは、分からない。
「あんたは、さすがだな」
だが、運転についてならば、分かる。安定した走り。危険を感じさせず、速さを感じさせる。同乗者を意識しながら、自分の技術を主張しすぎず、しかし明確に提示する。さすが、と言う他はない。今、それ以上の言葉を吐くと、胃液まで吐きそうだ。
「あんたは、分からねえ奴だ」
こちらを見たまま、須藤が呟く。平然とした顔。分かりやすい、とはよく言われるが、分からない、と言われたのは、生まれて初めてかもしれない。不可解さが、腹を巡る。喉を開けとせっつく。須藤の顔は変わらない。冷たい目。厳しい頬。堅い口元。そこに何が表されているのか、まったく分からない。おそらくお互いに、分かってはいないのだろう。分からなくて、何の不都合がある? 眉間に力が加わるのは、自然なことだった。
「俺は、あんたの犬じゃねえからな」
だから、分からずにいられようと、分からなかろうとも、気になったところで、問題はない。禍根は残らない。中里はベルトを外し、車から降りる準備にかかった。馴染みのない車中は、酔いを際立たせるだけだ。
「犬?」
耳鳴りは去っており、須藤の声が間近で聞こえた。中里は須藤を見た。眉も目も頬も鼻も口も顎も、同じ位置にある。だが、違和感があった。皮膚だ。皮膚が、強張っている。それは、見覚えがある変化だった。肌を覆う緊迫。筋肉を動かすまでには届かず、だが広がらずにはいられぬ電波。
苛立ちだ。須藤は苛立った。言葉が、足りなかったかもしれない。そもそも適切な発言ではなかったのかも、しれない。酔いは消えない。集中力は欠け、体力も足りない。須藤は苛立っている。それだけは分かる。その奥は相変わらず、見えない。どうしようもない。苛立ちが、伝染したようだった。舌打ちが出そうになり、代わりに声を出した。
「ありがとよ、乗せてくれて。良い経験になった。参考にもな」
声以外のものが出ぬよう、中里は口早に言って、頭を下げ、助手席のドアを開いた。車外に出ようとした。左足が地面をついて、体が止まった。止められた。右の手首を留められた。車内を見る。須藤の左手が、自分の右手を掴んでいる。整った爪。いびつな中指。筋の浮いた甲。袖の糸。運転席の須藤。こちらを見ている。薄暗い中、こめかみの強張りが、何故かよく見えた。苛立ち。降りるに降りられず、体をひねると、胃もねじれる。苛立ち。むかついた。
「どういう意味だ」
声は低く、鼓膜を殴る。手首を掴む力は強く、骨の周り、神経を痛めつける。
「ここの奴らは飼い犬だ。あんたはその飼い主だ。俺はそうじゃねえ。それだけだ」
言って、右手を引く。手首を掴む須藤の手は離れない。離しも、引きもしない。同じ場所に留まる。胃がねじれている。喉もねじれている。吐き気しか出てこない。気持ちが悪い。気分が悪い。
「ふざけたことを、言いやがる」
須藤の顔の筋肉が動き、表情を作る。模様が浮かび上がる。表に刻まれる。苛立ち、そして怒り。それは、見覚えがある。一般的なものだ。決め手だった。苛立ち、怒り。ぶつけられれば、ぶつけ返せる。
「悪いな。けど、思ったことを、言っただけだぜ。その方が、分かりやすい」
「詭弁を使うな。ここの奴らが、犬だって?」
「あんたに縛られてる」
縛られてるから、土下座を求めてきたのだろう。縛られてるから、命令を聞くのだろう。そして中里は、縛られてはいない。それだけだ。それだけのことで、須藤は顔に、驚きを浮かべた。今日初めて見る顔だった。しばらく見合う。動かぬ間に、胃は一旦落ち着いたようだった。手首は痛い。骨が軋む幻聴が頭に響く。
やがて、それも消えた。須藤は顔を平然と戻し、掴んでいた手を離した。中里は須藤を見ていた。言葉はない。ただ、見られている。だから見返す。何も見えない。既に、須藤の顔は、見たことのない色を作り出している。怒りも、苛立ちもない。喉の奥に溜まっていたものが、胃に下りた気がした。中里はそのままの体勢で、声を出した。
「悪かったよ。本当に、邪魔をしたな」
須藤は、やはり無言だ。ただ、右手で、頭を覆っていた布を外した。それを伸ばし、紐状にする。一連の動作は、無駄なく、隙なく行われた。中里の右手は須藤に離された時点と同じ位置にあり、それを須藤が再び捕えるのは容易かった。須藤の頭を覆っていた白い布が、自分の右手首を縛るのを、中里はただ見ていた。無駄はなく、隙もなかった。
布が巻かれたところで、神経を押されていた手首の痛みは消えない。縛られて、増すだけだ。嫌がらせのようだが、布の取られた須藤の顔は、何も説明していない。何かの模様を隠す顔。記憶にある顔。それはしかし、分からない、という記憶だ。どんな時にそんな顔をするのか、してしまうのか、何が隠されているのか。何がぶつけられているのか、何をぶつけるべきなのか。既に決め手は失われていた。そこでまた、気分が悪くなった。
「帰るぜ」
宣言して、車から出る。今度は止められなかった。助手席のドアを閉めると、須藤の姿は視界に入らない。喉の奥に、また何かが溜まっていた。胃液か、消化物か。舌打ちして、自分の車に戻ろうと足を動かし、視界の端に人がいるのを見つけ、驚き、歩調が乱れた。男が立っている。ここを出る前、須藤の隣に立っていた、短髪の男だ。男はこちらを見ていた。不思議そうな顔をしていた。
「お疲れ様」
不思議そうな顔のまま、男が言う。中里も、不思議な思いだった。この男はずっと、ここにいたのだろうか。須藤を待っていたのだろうか。それは皮肉だろうか意地だろうか、献身だろうか忠義だろうか、あるいはすべてを超越しての、愛情なのだろうか。
「邪魔をしたな」
いずれにせよ、その関係に割って入るのは、邪魔をしているのと同じように思えた。中里はそれ以外の言葉は見つけられず、男に背を向けた。男も止めなかった。車に戻る。GT−R。何の変化もない。ほっとする。吐き気は続く。だが、この車の中では吐かないだろう。汚したくはない。もう、緊張する必要もない。あとは帰るだけだ。岩城清次はいなかった。バトルはできず、禍根は残したかもしれない。相手の邪魔ばかり、したからだ。
相手。須藤京一。よく分からない男だった。だが、速い。それが分かっていれば、十分なのかもしれない。吐き気は続く。右手首には布が巻かれている。縛られている。痛みが走る。ほどこうとしたが、結び目は強く、固く、片手では困難だった。指が震え、爪が剥がれそうになる。体力も、集中力も足りなかった。諦めて、そのままにしておくことにした。そして中里は、車を動かす。後は過去になる。骨が折れそうなほど、近い過去に。
(終)
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