彼らのこだわり



 指定された時間に行くと、その家の鍵は開いている。鍵は開けている、と言われていた。
「泥棒とかこねえのか」
 と以前に尋ねたところ、京一は真顔で、
「盗まれて困るもんは、全部寝室に置いてある」
 と答えた。
「なるほど」
 それ以外、清次には何も言えなかった。
 京一がその自宅を無施錠としておくのは、寝室にいる時のみだった。だから清次は指定された時間の五分前に京一の家を訪れたら、迷わず寝室へ行く。
 初めて呼び出された時には、玄関のドアを一応ノックした。声もかけてみた。返事はなかった。恐る恐る、中に入った。靴一つない土間。光に照らされている、ほこりの見当たらない、つるつるとしたフローリングの廊下。黒と銀とで家具が統一されているリビング。その右手側に寝室があるはずだった。午後十一時五五分。引き戸の前に立ち、清次は硬直した。細々と聞こえる、艶やかな声。木が軋むような音。考えるより先に、下腹部が反応した。待つべきかと考えた。しかし時間厳守と言われていた。結局、指定された時間に、戸をノックした。途端、あえぎ声がやんだ。三十秒よりは長く、一分より短い時間が過ぎたように感じた。戸を開けてきた京一は、服を身につけており、息は切らせておらず、若干肌が汗ばんでいるように見えたが、顔色は正常だった。その後、リビングでチームについての報告や、相談をし、車について語った。午前一時三〇分、帰るように言われた。最後、気になってつい、
「俺が来ちまって良かったのか」
 と尋ねた。京一は不可解そうでも、愚問を呈した清次を軽蔑するようでもなく、あくまで普通に、
「お前が先約だ」
 と答えた。
「なるほど」
 それ以外、清次には何も言えなかった。
 人が来るというスリルを楽しんでいるのか、と思ったことがある。だが、いつ訪ねても、京一の顔に、特別な愉快さは浮いてこなかった。
 勿論、週に一回行く度に、寝室の戸の奥から、女性の性的な悦楽を感じさせる声が、響いてくるわけではない。精々、月に二回だ。
 もしかしたら、単にアダルトビデオを見ているのかもしれない。そう考えて、ノックをして、名乗ってから、開けていいか、と聞いたこともある。すぐに、ああ、と、戸の向こうから許可が下りた。やっぱり、と安心しつつ、戸を開けた。ジャージを履いており、上半身は裸の京一が、部屋の奥、ベッドの傍に立っていた。ベッドの上には、横になっている女性が見えた。頭、背中、尻、足。むき出しの、滑らかなライン。清次がそれに目を奪われた間に、京一は黒のタンクトップを着ていた。
 須藤京一について、たまに清次は考える。頼りがいのある男だ。顔は厳つい。ごつごつとした頬に鷲鼻、無駄な動きをしない唇。鋭く細い目からは、感情が読み取りにくい。刈り揃えられている金髪は、不思議な清潔さを生み出しており、その体躯がスーツに包まれても、水商売や暴力の匂いはほとんど感じさせない。総じて、強い威圧感がある。一見すると朴念仁のようだが、つっけんどんなどではない。走りについても、チームについても、指示は的確で無駄がなく、話は理論立てられており、語彙も比喩表現も豊かで、説明はとても分かりやすい。規則を破った人間には厳格に、感情に左右されない処分を下し、一定の功績を挙げた人間は適切に評価する。車に関する豊富な知識を有し、努力を惜しまず、技術の高さは公的なレースの結果で裏打ちされている。走り屋のチームのリーダーとして、これほど欠陥のない人間はいないように思えた。
 個人としてどうなのかまでは、清次には分からない。
 その日も呼び出されていた。駐車場の空きスペースに、自分の車をねじ込む。ふと、違和感を覚えた。いつもよりも、余分な空間が少ない。隣に駐められている車が、目についた。黒光りするボディ。群馬ナンバー。一目で走り屋のそれと分かる。日産スカイライン。今までここでは見たことのない車だった。ここに置くということは、定住者ではあるまい。だが清次には関係がなかった。歩いて約十分、マンションへ入る。二階の角部屋。小奇麗な共用の廊下。京一には似合うと清次は思う。泥臭いようで、清潔感に溢れている部屋。玄関のドアを、もうノックはしない。一つも靴がない土間。照明を反射する廊下。いつも通り、リビングの黒革のソファに座る。それは座ってからだった。体中の毛穴が開き、どっと汗が染み出した。心臓の鼓動が速くなった。目が勝手に泳いだ。そうしてようやく、清次はいつもとは違うことに気がついた。
 寝室側から、性的な悦楽を感じさせる声が響いてくる。小さな声だ。切れ切れで、掠れている。一年以上も続いている、月に二回のことだ。今月はまだ一回もなかった。考えられることだった。
 性的な悦楽を感じさせる声だった。
 だが、女の声ではない。
 男の声だ。
 途絶え、唐突に上がり、消え、地響きのように続く声。低い。いや、この低さならば、女もありうる。そうだろうか? あえぎ声は、時折獣のごとき唸り声に変化する。清次は混乱した。男? 何で京一が、男を連れ込んでんだ?
 指定された時間を三十秒過ぎてから、清次は我に返った。慌てて立ち上がり、寝室の前で立ち止まる。初めてこの部屋に来た時と同じ逡巡をした。待つべきか。だが、もう指定された時間を一分過ぎていた。腹を据えて、戸を三回叩く。
「俺だ」
 声をかけてから、何もなかったようにソファに戻るという選択肢は、思い浮かばなかった。いつも、考えずに行動していたからだ。これは、いつもではない。いつもではない状況で、いつもの行動を取れるほど、清次は臨機応変たる人間ではなかった。
 一分が一時間にも感じられた。やがて木目が光っている戸が開かれる。京一が目の前に現れる。黒いジャージに白いTシャツ。隆起し、汗ばんでいる筋肉。そこまでは、いつも通りだった。汗で濡れている金髪。色のある顔。荒い呼吸。それらは清次にとって、初めて見るものだった。
「遅かったな」
 声はいつも通りだ。どこにも甘さを潜ませない、低く厳しい声。清次は自分の腕時計を見た。指定された時間を、三分過ぎていた。
「悪い」
「構わねえよ。一分や二分」
 京一は寝室の戸を閉め、リビングのソファに座った。事実は言う。責任の追及は、必要な場合にのみ行う。そういう男だった。対面するソファに清次も座り、チームの現状について、動向が怪しい人間について、車について、一通り話す。
 最後、今後の予定をまとめた後、京一が言った。
「いつになく落ち着きがなかったな」
 清次はつい、居間と寝室を隔てる戸へ目をやっていた。話をしている時も、聞いている時も、その奥が気になって仕方がなかった。
「気になるか」
 京一は、はっきりと尋ねてきた。清次は唾を飲んだ。まさか話を振られるとは思わなかった。こういう時、何を言ってはいけないのかを、清次は考えない。何を言えば良いのかだけを考える。だが、考えても分からない。口から出てくるのは、結局その場で思いついたことだけだ。
「女か?」
 京一はわずかも表情を動かさなかった。声もまた、わずかも揺るがなかった。
「男だ」
「男?」
「見てみるか?」
 何を言われているのか、清次は咄嗟に理解しかねた。見てみる? 何を? 清次が言葉を返す前に、京一はソファから立ち上がった。清次はつられて立ち上がっていた。京一が寝室に向かう。その後につく。いつものことだ。自分が何をすべきか知れない時には、後に従い、指示を待つ。そこに、思慮はない。思考は、大分遅れてからやってくる。
 リビングと寝室を隔てる戸が、京一の手によって、無造作に開けられる。京一が中に入る。電気は点けられている。
 それは、清次の目には奇怪な光景に映った。ベッドの上に、人間がいる。男だった。裸だから、そうとたやすく分かる。角張った骨と肉。豊かな毛。平らな胸。ペニス。裸の男が、京一のセミダブルのベッドの上に仰向けになっている。両手はベッドのパイプに白い紐で括られている。両足は膝を立てて開いている。ペニスは勃起していた。顔はよく見えない。黒い布で目隠しをされているからだ。髪は黒かった。肌は白い。赤らんで、汗ばんでいる。荒い呼吸音が響いてくる。
 確かに、それは男だった。男以外には見えなかった。予想通りだ。だが、清次は奇怪さを覚えた。
「気は済んだか」
 男から顔を上げて右を向く。そこに立つ京一と目が合った。いつでも動揺を見せない、細く鋭い、猛禽類のような双眸。それに捉えられると、反抗心など影もなくなる。元より反抗心はない。ただ、奇怪さを覚えた。尋ねてきた声と同様の、冷静な目、冷静な顔。気が済むだって? 言葉をうまく理解ができない。誰の気が済んだんだ?
 だが、清次は頷き、寝室を後にした。それを隔離する戸が京一の手によって閉められる。玄関まで送られる。予定の確認。清次は他に、何も尋ねなかった。京一も他に、何も言わなかった。清潔感のある共用の廊下から、その部屋のドアを見る。夢でも見たような心地だった。狐に化かされたのだと言われても、信じられそうだ。
 男がいた。京一のベッドの上。両手を縛られ、目隠しをされていた。京一が寝室から出て、三〇分は経過していた。男は確かに勃起していた。
 愛し合ってるんだろ。
 そう思った。あの奇怪な光景をまとめるには、うってつけの言葉だ。愛し合っているから、拘束もするし、人に見せもするし、文句も言わない。すべては愛だ。それ以上、清次は考察する気がなかった。
 駐車場の空きスペースは相変わらずいつもより狭くなっている。自分のランエボの横、群馬ナンバーの、黒い日産スカイラインR32GT−R。見ていると、脳味噌の裏側を引っ掻かれているような感じがした。記憶がうずいている。二分ほど、その車を睨んだまま、それが何であるのか思い出そうとした。無理だった。清次は諦めて、自分の車に乗り込み、帰宅した。

 思い出せないことは、大したことではない。ゆえに、覚えていることが、重要だ。

 夜の山にいくら寒さが募ろうとも、京一に変わりはない。いつも通り、周辺に気を配り、チームの人間の動向に注意し、自分の車の調子を細やかに確認している。誰もが京一に意見を請い、京一に指示を仰ぎ、京一を信頼している。
 その京一が、昨夜、自室のベッドの上に、裸の男を置いていた。清次の感じる奇怪さとは、つまりそれだった。こうして隙なく走り屋をまとめ、自身も高い技術を保持している京一が、どこにでもいそうな男を、自室のベッドの上で、裸にし、目隠しをし、ベッドに縛りつけ、勃起させていた。そして、それを清次に見せた。まるで、新しく買った家具の一つでも紹介するかのように。
 愛し合ってるのか?
 疑念はある。ベッドに置かれた男の顔は、とても恍惚としていたようには見えなかった。むしろ、苦しげに歪んでいた。それでも男のペニスは、京一を待ち構えるように勃起していた。何が正しいのか、分からない。だが、結局それ以上、清次に考えるつもりはない。それは京一のことで、清次とは無関係だ。
 いつも通りに運転し、愉悦に浸る。毛細血管が拡張し、収縮する感覚。緊張が快感に変わる瞬間。金属が絡まり合い、摩擦を生じ、作り出される重力。清次の動機は単純である。他人を見下すためには、自分が上に立っていなければならない。その手段が速さだが、目的も速さだった。要するに、楽しいから走るのだ。
 余計な記憶は、こうして吹き飛んでいく。残るのは、この先欠かしてはならないと、肝に銘じてるものだけだ。認識はそうだった。映像は、意思とは無関係に蘇ってくる。唐突で、脈絡はない。ただ地に立ち、峠の空気を吸っている時でも、侵入してくる。傷一つない氷のように冷ややかで、透明な京一の目と、肉が強張っていた男の体。脳味噌にこびりついているようだった。
「クソ、気になんのかな」
「何が」
 独り言に反応されると、それが同期にチームに入った男であっても、身構えざるを得ない。いつの間にか横に立っていた、黒いひげに半分覆われている男の顔が、不思議そうに歪んだ。
「そんなに驚くことねえだろ。さっきからいたぜ」
「いたならもっと前に声をかけろよ」
「そんな雰囲気でもなかったからよ」
 言いながら、男は煙草の箱を清次に向けてきた。清次はそこから一本取った。口に咥えると、ライターの火が目の前に現れる。煙草の先端に火を移し、吸ってから、煙とともに言葉を吐いた。
「何でもねえよ」
「あ?」
「何が、って聞いてきたじゃねえか」
「ああ。そういやそうだったな」
 男も煙草を唇で挟み、火を点けた。二本分の紫煙が目の前を過ぎる。その奥に、ボンネットを開けた車の前で、メンバーの一人と話をしている京一が見える。頭には白いタオル、ベージュのフライトジャケットとジーンズ。遠めからでも、威圧感のある風情だ。格好と、立ち居振る舞いの問題だろうか。表情までは分からない。
「もうすぐ冬だな」
 男が言った。清次は煙草を指に移した。
「そうだな」
「一年ってのは、どうしてこうも早いかな。あっという間だ」
「早いと思うから早いんだろ。遅いと思やあ遅い。そういうもんだ」
「そういうもんか」
 そういうもんだ、と清次は繰り返した。

 気にすれば、気になる。気にしなければ、気にならない。そういうものだ。

 先週と同じ場所だった。黒い日産スカイラインは、空きスペースにこじんまりと駐車されている。群馬ナンバー。数字は同じに見えた。清次はその横に、適切な間隔を開けて自分の車を入れた。降りてから、横の車を眺める。約一分、後頭部はじりじりとしたが、思考には何ものぼってこなかった。これだけ思い出せないのならば、うずいているのは、重要な記憶ではないのだろう。だが、思い出せないことには苛立った。奥歯にものが挟まっているようだ。もどかしい。
 苛々を消せぬまま、いつも通りに歩き、マンションに入り、二階の角部屋に向かった。玄関のドアをノックせずに開け、靴を脱いでリビングに入る。自分のため息は、しっかりとは聞こえなかった。右側から、苦悶の声が被ってきた。先週と同じ声のようだった。
 息として消えていくそれは、性行為における快感を反映している。高まり、低まり、断続的に上がる声。その合間に、こもった音が入る。人の声のようだが、正確には聞き取れない。裏には何かが軋み続ける音。誰かが誰かの名を呼んでいる。誰かが誰かに助けを求めている。快楽が苦痛となり、苦痛が快楽となる。その淵にあるような声が、耳に伝わってきた。胸が痛むような、切実な声だった。
 その切実さが、戸にぴったりと右耳をつけている自分とはあまりにかけ離れたものだったので、清次は途端、何もかもを馬鹿馬鹿しく思った。高く甘い音の部分で、少しばかり反応していた下腹部も、すぐに鳴りを潜めた。忍び足で戸から離れ、リビングのソファに座り、ため息を吐く。気にしていないようで、気にしているらしい。腕時計を見た。電波時計だ。指定された時間まで、あと十秒。十五秒数えて、ソファから立ち上がった。戸を叩く。
「俺だ」
 すべての音が止まり、耳を刺す静寂が流れる。清次は戸から離れ、元通り、リビングのソファに腰かけた。これも、ガラス製のローテーブルも、薄型のテレビも、冷蔵庫も、洗濯機も、包丁もまな板も食器もカーテンも、盗まれても良いものなのだろうか。どうでも良いことを考えた。
 寝室を隔離する戸が開き、京一が現れる。銀のジャージに黒のTシャツ。ねっとりとした汗に覆われている肌。水気を含み、まとまっている短い金髪。息は荒れていない。顔に色はない。先週とは違う。うまく指摘はできないが、何かが違った。声も、調律が行われていない楽器のように、時折乱れを感じさせた。それでも話はいつも通りだった。各メンバーの講評。車の仕上がりの分析。企業についての、他愛のない批評。十二時三○分まで、会話は無事に続いた。
「何だ?」
 玄関だった。土間で靴を履いてから、清次は廊下に立つ京一をじっと見た。京一の顔には、不審の表情が浮かんだ。それを見て、清次は慌てた。
「いや、何でもねえ。じゃあな」
 早口に言い、玄関のドアを開け、部屋の外に出て、ドアを閉める。ナイロンパーカーのポケットに両手を突っ込み、急いで歩いた。あの顔は、いつも通りだ。片眉を少し上げて、目はわずかに細め、唇をあまり動かさず、問いを発する。他人を追及する、準備段階の顔。ただ、自分の言動に不備があったのではないかと、不安だったから京一を見ただけだった。そこで、京一は、臨戦態勢の一歩手前に入った。何かを危惧したのか。何かがあったのだろう。その何かまでは、清次には分からなかった。
 明日も仕事はある。早番だった。仕込みがあるが、うまくいけば掃除は避けられる。忙しければ駆り出されるだろう。正社員の待遇のくせに、残業代など不明瞭な点が多い店だった。それでも給料は良いし、雀の涙ほどだがボーナスもある。保険もある。有給休暇もある。文句はない。だから、首にならないように働かなければならない。
 清次は自分の車の中で待った。寝不足になるかもしれない。手先が鈍るかもしれない。ただ、今日、明らかにできる可能性があるなら、それを逃せば、後悔と苛立ちで、余計に手先が鈍りそうだった。
 清次は待った。隣の車の持ち主が現れることを、硬いシートに座り、腕を組み、冷たい空気の中、待ち続けた。
 目の前に、模様が浮いた。うずまき、閃光、星、四角、三角、円。
 突然、緑が現れる。草原と森。青空を過ぎていく、雲、鳶。
 草原が土に変わり、アスファルトと化し、森が山肌に変わる。青空が、夜空に変わる。
 アスファルトに立つ男がいた。後姿だ。誰かは分からない。
 男の前に、人間がいる。誰かは分からない。
 空間が歪む。音がする。切実な音だ。救いを求める音。誰かの悲鳴。それが、獣の唸り声に変わる。
 爆音がした。
 清次は跳ね起きた。
 車のフロントガラスの向こうは明るかった。空の青さが分かる。街並みも分かる。朝だった。ばくばくと鳴る胸を押さえながら、ウィンドウ越しに辺りを窺う。どこかが爆発した様子はないようだった。
 爆音ではない。
 外の、車のエンジン音だ。
 清次は車から転げ落ちるように降りた。横にはまだ、自分のものとは正反対の、黒に包まれた車がある。その車の前に回り込み、清次はフロントガラス越しに、運転手を見た。うるさい心臓が、視覚までを邪魔しているようで、はっきりと中が見えない。
 爆音がやみ、その車の運転席から、黒いセーターとジーンズを履いた男が降りてきた。清次はその顔を見た。眉まで下りた、太そうな黒髪。太い眉。太い目。太い鼻と太い唇。どっしりとした、しかし鋭角的な輪郭。白い肌。頬の肉が極端に薄い。どこかで見たような男だった。
「俺に、何か用か?」
 男の声は掠れていた。元々掠れているにしては、病的だった。清次は自ら寄ってきた男を見据えた。どこかで見た男だった。どこかで会ったはずの男だった。ベッドの男は黒髪だった。
「京一のこと知ってるか」
 尋ねると、男は迫力のある目を、たまらぬように細め、口は大きく開いた。
「あ?」
「須藤京一だ。知ってるか?」
「だったらどうした」
 答えた男は、手持ち無沙汰のように、髪を掻いた。その時、清次は息を止めていた。映像が脳裏に浮かび、消えた。群馬ナンバー。走り屋仕様の黒い日産スカイラインGT−R。額が露わになった男の顔。屈辱に打ち震えていた男の顔。ようやく、思い出した。
「お前か」
 清次は我知らず呟いていた。男は怪訝そうに眉根を寄せ、舌打ちした。
「そこをどけ。邪魔だ」
「お前、京一と寝たのか」
 ぶしつけな問いをしたと、その瞬間には気付かない。致命的な時間が過ぎてから分かる。分かっても、うろたえはしない。いつものことだ。
 男は目を泳がせ、頭をぐるりと動かすと、車に肘をつき、手で目を覆った。言葉はない。
「おい」
 清次は声をかけた。
「何だってんだ、クソ……」
 男は歯がゆそうに呟いた。問いは否定はされていない。清次は念のため、もう一度尋ねた。
「京一とやってたのは、お前かよ」
「だったら何だ!」
 低いが、耳をつんざくような鋭い叫び声だった。雀が一羽、駐車場と道路とを隔てる柵から、まだ薄暗い空へ飛び立っていった。憤怒に染まった男の顔の、肉が、骨が、悲鳴を上げているように、歪んでいた。清次は少し気圧されたが、何もないように肩をすくめた。
「どうもしねえよ。気になっただけだ」
 男に体を向けたまま、自分の車へと足を動かす。
「じゃあな」
 言って、運転席のドアに手をかけた。
「それだけか」
 意外そうな男の声が、背中にかかってきた。清次は男を振り向いた。車越しに立つ男は、怒りを抑えた、意外そうな顔をしていた。ああ、と頷こうとして、清次はふと思いついた。思いついたことは、すぐ口に出た。
「お前、あいつが好きなのか?」
 途端、男はぎょっとしたように目を見開いた。距離があっても分かるほど、表情の変化は大きかった。口を開いた男が、何度か深く呼吸をし、それから目をさまよわせ、遠くへ焦点を合わせながら言った。
「初めからそうと知ってりゃあ」
「あ?」
「それで良かったのかもしれねえ」
 よく分からない言葉だったが、そうか、と頷き、清次は車に乗り込んだ。疑問は解消した。隣のスカイラインGT−Rは、以前にチームで群馬に遠征した際、最初にバトルをした相手だ。確か、妙義山だった。峠の名前は覚えている。好きだからだ。チームの名前までは覚えていない。ドライバーの名前も覚えていない。どちらも好きにはなるものではない。ただ、顔は覚えていた。だから、思い出した。群馬ナンバーのGT−Rというだけでは、印象に残らないほど、遅いドライバーだった。
 腕時計は、午前五時四五分を表示していた。今から家に帰れば、一時間は寝られる。清次は迷わず車を発進させていた。バックミラーにスカイラインが映った時間はわずかだった。
 あのドライバーが、京一と寝ている。京一のベッドで、京一とともに、狂い出しそうな声を上げている。
 愛し合ってるんだろ?
 男の返答からは、京一に対する好意は読み取りにくかった。だが、あの態度からは、執着が見て取れた。京一にしても、あの男に対して、のっぴきならない何かを抱えているようだった。でなければ、あそこまで素早く警戒はしない。肉体関係を含んでいて、互いに拘泥しているのならば、愛としても差し支えないだろう。何にこだわっているのかは知れないが、清次にそれ以上考えるつもりはない。疑問は解消した。夜は明け、朝が訪れる。一日の始まりだ。

 思い出せないことが気になるなら、それは重要なのか?

 いつも通り、変わりはない。平坦な日々。朝がきて、昼が過ぎ、夜は更け、また朝がくる。運転技術を磨けば磨いた分だけ、記録が伸びる。それが次第にいつもとなり、ふと過去を振り返れば、随分進んだように感じられる。だが、何が大切かといえば、現在だ。今、どうであるか。変わりはない。だから、問題もない。
 京一にも、変わった様子は見当たらない。そこに奇妙さを感じないわけでもなかった。表情に感情は浮かばず、声は厳格で、動きに無駄はない。平常過ぎる。何か事情があって、敢えてそうしているようにも見えた。しかし、他のメンバーや知人が気にした風もない。自分の勘違いだろう、と清次は決めた。一週間、変わりもなかった。冬も近い。一年は早くも遅くもない。早いと思えば早いし、遅いと思えば遅い。そういうものだ。一週間も、早いわけでも遅いわけでもなかった。
 いつも通りの道順、いつも通りの地面の感触、いつもより少し肌寒い空気、そして、リビングのソファに座っている京一。玄関のドアをためらいなく開け、靴を脱ぎ、廊下を行き、清次は平らな床で、足を踏み外しかけた。ジーンズにタートルネックのシャツ。峠から去った格好のまま、京一がリビングの黒革のソファに腰掛けている。
「どうした」
 目が合った。清次はバランスを取るため、壁に肩を預けていた。いや、と首をすくめて、壁から肩を離し、歩く。目の端に、寝室が入ってきた。戸が開いている。暗い空気が流れてきている。人の気配はない。対面するソファに座る。目は合ったままだ。京一は確認するように清次を見ている。清次はただその京一を見返している。やがて、京一が口を開き、何事もないように会話が始まる。
 京一の話の進め方も、いつも通りだ。前提を明らかにしてから、疑問を提示する。回答、対策、結論。明確な理論。清次は二日後に、全部を理解できる。その場では三分の一だ。話を合わせ、たまに質問するだけなら、その程度で上々だった。大体、京一が自分に明晰な頭脳を求めているとは、清次も思っていない。求められないのも寂しいが、求められても困る。
 始まりは、終わりを示唆するのかもしれない。始まりが早まった分、終わりも早まり、始まりがいつもと違った分、終わりもいつもと違った。〇時二五分。今後の予定の確認を終え、清次は立ち上がった。京一も立ち上がった。玄関へ行き、靴を履く。
「これはチームとは関係のねえ話だ」
 別れの挨拶をしようと振り向く前に、声がやってきた。清次が振り向いた時、京一は壁に腕をつき、清次を見下ろしていた。平常の顔だ。平常過ぎる顔だった。清次はうなじがひりつくのを感じながら、なるべく自然に声を返した。
「何だ?」
「お前、ナカザトに何か言ったか」
 ナカザト?
「誰だ、そいつ」
 聞いたことのない名だった。京一は何も言わず、ただ見下ろしてくる。眉間が狭まり、目が細まる。知っているはずだ、とその顔が、その存在が言っていた。ちょっと待て、と清次は慌てて記憶を探った。ナカザト。名前ではないだろう。そんな苗字の人間と、どこかで会っただろうか。人の姓名を覚えるのは苦手だった。だが京一がこれだけ黙って見てくるということは、覚えていなければおかしいのだ。思い出さなければならない。思い出せない。大した人間ではないのか?
 清次は顔に当てていた手をゆっくりと外した。京一を見る。京一は、何かがばらついた顔で、清次を見下ろしている。間違いない。自分は知っている。そして、それは大した人間ではない。声が自然に出た。
「GT−Rの男か」
 ああ、と京一は頷いた。清次はほっとしてため息を吐き、それからまだ自分から京一が視線を外さないことに気付き、なされていた質問を思い出した。
「別に、何か言ったってほどでも……」
「何を言った?」
 語尾に被せるように京一が言う。清次は口ごもった。
「言ったっつーか、聞いたっつーか」
「何を言った」
 ぶしつけな問いをしたと、その瞬間には気付かない。致命的な時間が過ぎてから分かる。分かっても、うろたえはしない。いつものことだ。だが、それを他人に暴かれると、うろたえる。
「……京一と寝たのかってことと……お前が好きなのかってことを」
 言い終えると同時に、シャツの胸倉を掴まれていた。引っ張られる勢いで、框に足をついた。京一はそんなことなど構わぬように、睨んできた。至近距離だった。生ぬるい息がかかり、喉を絞っているような声がかかった。
「何でお前がそんなことをあいつに聞く。どんな必要があった?」
「い、いや、気になったからつい」
 それ以外、説明の仕様がなかった。あのスカイラインが気になった。あの男が気になった。両方が重ならなければ、それを聞きはしなかっただろう。完全にあのドライバーを忘れていれば、意識もしなかっただろう。だが、かすかに覚えていた。そして気になった。
「気になったからって、わざわざ本人に聞くことか。そのくらいも分からねえのか、お前」
「け、けど、聞いただけだぜ、俺は。それが悪いとか良いとか、何も言ってねえよ。非難もしてねえ」
「清次。お前は何様だ」
「だから俺は聞いただけだ、あの野郎だって答えただけだ、知ってりゃ良かっただの何だのと」
 顔をしかめた京一は、不意に窺うように清次を見、静かに言った。
「何て言ってた」
「あ?」
「何て言ってたんだ、あいつは」
 いざ問われると、全体を思い出すまで、十秒ほどかかった。清次は頭を後ろに引き、京一から何とか距離を取りつつ、慎重に言った。
「初めから、そうだと知ってりゃ、それで良かったのかもしれねえ……だったかな」
 京一は口を開いたまま、清次から視線を逸らした。どこか遠くを見ているようだった。胸倉は急に離された。土間の中でふらつき、玄関のドアに手をついた。体勢を整えてから京一を見ると、額に手を当てていた。
「京一?」
「黙ってろ」
 震えた声だった。清次は息を呑んだ。京一の手には筋が浮いており、指は白くなっていた。震えていた。全身が細かく震え、そして止まった。額から手を外した京一は、平常の顔だった。
「悪かったな。もう帰っていい」
 声も口調も顔も動作も、すべて平常だった。いつも通りの京一だった。ああ、と頷きつつも、清次は奇怪さを感じずにはいられなかった。先ほどまで震えていたと思えない京一を見ていると、つい、口が動いた。
「俺は何か、まずいことしちまったのか」
「いや」
 そう言い、京一は清次に背を向けた。それ以上何を聞いても答えを得られないことは、清次にも察せられた。だが京一は、一歩進むと、そこで立ち止まり、独り言のように言った。
「どうせそのうち、こうなるはずだった」
 おそらく、独り言だったのだろう。京一はそのままリビングに消えた。清次は框についた足跡を見、それを手で少し払ってから、玄関のドアを開け、その部屋から出た。
 愛し合ってたんじゃないのか?
「何だありゃ」
 自分の車の前に立ち、清次は呟いた。駐車場の空きスペースには余裕がある。もう一台は入れる空間。何だありゃ、ともう一度呟いてみる。群馬遠征の初っ端だった。妙義山。ヒルクライムでたやすく下せたGT−R。そのドライバーが、京一と寝ていた。男だ。清次はそれを見た。男の裸。苦しげな顔。勃起しているペニス。冷凍庫よりも冷たそうな、京一の顔。奇怪だった。あの程度のドライバーを拘束して、涼しい顔をしていた京一が、奇怪だった。あの程度のドライバーの言葉のために、戦慄した京一が奇怪だった。
 だが、それが本来の京一なのかもしれない。あのドライバーもまた、そうなのかもしれない。清次には分からない。個人間の事情など知らないのだ。分かることといえば、両者は少なくとも、両者にこだわっているということだけだった。

 自分の尺度で捨てたものが気になるのは、捨てたものを気にする他人がいて、その他人が気になるからだ。

 翌日、京一に変わりはなかった。翌々日も、京一に変わりはなかった。他のメンバーが、京一の様子について囁くことはなかった。何もないはずだ。それを奇怪に感じるのは、思い込みかもしれない。以前の印象を引きずっているだけかもしれない。ただ、目がくらむまで近くにいたつもりはないし、何も見えないほど遠くにいたつもりもない。自分の感覚を端から否定する気もなかった。
 その次の日、存外早く仕事は終わった。恐ろしいほど客の少ない日だった。売り上げは厳しかっただろうが、すぐ帰宅できるのはありがたい。直行したのは自宅ではない。隣の県だ。
 一ヶ月は経っているが、三ヶ月は経っていない。道順は覚えている。経験から得た情報は忘れにくい。頭を使う理論は反復が必要だ。でなければ一日で抜け落ちる。
 午後九時、峠の駐車場には派手な車と地味な車が混在していた。数えるほどだ。清次は適当に車を置いてから、おい、と手近な男に声をかけた。
「ここにGT−Rに乗ってる奴はいるか」
 グレーのパーカーを着た長髪の男が、うろんげに見てくる。
「ナカザトか?」
 そんな名前だったかもしれない。清次は曖昧に頷き、繰り返し尋ねた。
「いるのか」
「今は上にな。三〇分以内には下りてくるだろ」
 男は上り口へ顔を向けながら言った。来ていないこともありえたはずだった。いるだけで上等だ。三〇分待つなど軽い。
「何か用かよ、あいつに」
 愛想のないその男が、愛嬌のない顔を向けてきて、つまらなそうな声を出した。どこかで見たような顔だった。遠征の際に、ここのどこかにいたのかもしれない。何にせよ、じっと見ていたい顔でもなかったので、清次は男を一瞥するにとどめ、上っていく道路に目をやり、言った。
「話がある」
「今更どんな話だ」
「てめえにゃ関係ねえだろ」
 言った途端、空気の流れが停滞したようだった。清次は男を見た。男は鼻白んだような顔をしていた。清次は顔をしかめた。何だ?
「チームの話なら関係はあるけどな」
 相変わらずつまらなそうに、男が言った。清次はますます顔をしかめた。
「チーム?」
「お前、あいつに個人的に話があるってことか?」
 出し抜けに問われ、清次は答えに詰まった。個人的? それほどあのドライバーとは親しくない。だがチームとは関係がない。ただ、京一とは関係がある。微妙な線だ。考え込んだ清次を見て、男がため息を吐いた。
「いいよ、分かった。多分あいつももう下りてくるだろ。好きに話してくれ」
「なら聞くんじゃねえよ、人が答えづらいことを」
 毒づくと、男は億劫そうに、またため息を吐いた。
「答えづらい質問だなんて思わねえだろ、普通」
「こっちにも色々事情があるんだ。本当にもう下りてくんのか?」
「下りるために上ったようなもんだ。上るためにも上ってたが」
 男の言葉にどれほどの信用性があるかは知れなかったが、そこまで言うなら二分は待とうと清次は決めた。腕時計を見る。同時に、遠かった車のエンジンの咆哮が、近まってきているのが分かった。タイヤと地面が削れる音、燃焼物が飛び出る音。スピードの乗った車が影のように過ぎ去っていったのは、それから間もなくだった。その車が清次のいる駐車場まで戻ってくるまでには、もうしばらく時間がかかった。
 墨汁を塗り込んだような、スカイラインGT−R。そこから、男が降りてくる。距離はおよそ五メートル。ジーンズのポケットに両手を入れている男が、足早に近寄ってきた。造りのはっきりしている顔に、怪訝が溢れている。
「話があるんだとよ」
 その男が口を開く前に、清次の横にいた長髪の男が言って、すぐにかったるそうに去っていった。おい、とGT−Rの男が長髪の男を呼び止めたが、長髪の男は振り向きもしなかった。清次はGT−Rの男を見た。あの日の夜よりは、生気に満ちた顔に見えた。
「よお」
 声をかけると、男は迷惑そうに顔をしかめ、来い、と顎をしゃくった。命令されるのは癇に障ったが、アイドリングしている車のやかましい音、騒ぎ立てる野郎どもの声が近い場所で、話をしたくもなかった。人気のまったくない方へ移動した男が、迷うような間を置いてから、清次を見た。
「何の話だ」
 清次はその問いに答えるまで、一拍置いた。
「確認しときたくてな」
「何を」
「お前、京一と別れたのか」
 男は迷惑そう、というよりは、困惑した風に眉を寄せ、首を掻きながら、それでも淡々と言った。
「別れるとか別れねえとか、そういうことじゃねえよ。元に戻っただけだ」
「そりゃ、俺が聞いたことのせいか?」
 真に確認しておきたいことは、それだった。男は落ち着かないように、手を首や顎や腰へと動かしていた。その目は地面から離れなかった。その声は、どこかにつっかえながら出てきているようだった。
「どうせ、いつかはこうなるはずだった。お前は関係ねえ」
「それ、京一も言ってたぜ」
「須藤が?」
 男の目が、清次を捉えた。少し血走った目だった。
「どうせそのうちこうなるはずだった、とかな」
 つまり、京一もこの男も、終わりを予期していたということだ。肉体関係を交わしながら、あれだけ執着しながら、自分たちのつながりに、どうせ、という投げやりな言葉を冠していた。それならば二人は、別れるして別れたのかもしれない。だが、自分のために清次がなした問いが、それに利用されたということは、清次にとっては不可解なことだった。一体なぜ、あの単純な質問で、濃密な交感を想像させる関係を絶たねばならないのか?
「俺の何がまずかった?」
 だから、眉をひそめて黙している男へ、清次はそう問うた。男はふと思い出したように、清次を見、訝しげな表情をした。
「それを聞いてどうすんだ、お前」
「どうもしねえよ。ただ、気になるだけだ」
 反省も謝罪も改善もするつもりはない。この男に直接の関心はない。ただ、京一には関心があるし、京一が執着しているらしいこの男については、関心はある。男はまた地面を見た。
「何もまずかねえさ。まっとうだった」
「けどお前は京一と別れたんだろ。俺が何も言わなけりゃ、いつかもそのうちも、こなかったかもしれねえ」
「まっとうなこと聞かれて、まっとうに答えらんねえことなんて、続けてたって仕様がねえんだ。俺がそれに気付くのが、早かったか遅かったかってことだ。いつかそのうち、きたことだぜ、こりゃ」
 割り切ったような男の言葉は、歪んでいる男の顔とはそぐわなかった。それを見て、清次はつい、もう確認するつもりのなかったことを確認していた。
「お前、京一が好きじゃなかったのか」
「好きだぜ」
 地面を見たままの男が、何の疑念も後悔も逡巡も含まない声で、地面に落とすように言った。それは顔に似合う声だった。数秒後、清次を見てきた男の顔が、自分よりも驚いているように清次には思えた。慌てたように半身になった男が、目を手で覆う。
「悪い、聞かなかったことにしてくれ。クソ、よりにもよっててめえに言うことじゃねえのに」
「無茶言うなよ。このシチュエーションだぜ、そんな簡単に忘れられねえ」
 重要でなくとも、衝撃が強いと忘れられない。経験優位の記憶方法は、こういう時に厄介だ。手で顔を撫でた男が、苦々しそうに言う。
「そうか」
「聞かれたくねえなら答えるな。答えねえことを、そこまで言いもしねえよ、俺も。まあ、もう聞くこともねえけど」
 いつかはいつか、そのうちはそのうち来たのだと、この男が主張するならそうなのだろう。京一とて、それが分からぬはずはない。互いのその思いが、こういう結果を招いた。清次の言葉は、くっつきながらも離れようとするその思いの勢いを、増しただけのようだった。それならば納得できる。
「そうだ、最後に一つだけ」
 清次が人差し指を立てると、まだ半身になっている男が、不思議そうな顔をした。
「二人してお前ら、何にそんなにこだわってんだ?」
 くっつきながらも、離れようとしていた。意識しながら、無関心でいようとしている。そこには何かのこだわりがあるはずだった。
「こだわる?」
「何か、一つ手前にでっかい壁でも自分でこさえてるって感じだぜ」
 男は不思議そうな顔のまま、不思議そうな声を出した。
「プライドかな。いや、義理かもしれねえ」
「義理?」
「あいつの場合は違うんだろうが……」
 地面を見ていた男が、そこで清次を見た。ただ物体として見られているように清次は感じた。
「分からねえな。あいつのことは、俺には分からねえ。はっきりしたことは、もう一つも見えなくなっちまった」
 男はすぐに清次から視線を逸らした。その弱い目、弱い声音に、清次は奇怪さを感じた。京一に感じたものと同じだった。この弱々しさは、この男にはひどく似合わない。演技のようだ。そしてまた、諦めしかない男の態度は、京一を否定しているようだった。それに対しての不愉快さと、奇怪さが、清次に拳を握らせた。先ほどまで、少なくとも熱を込めて喋っていた男の、今の白々しさが嘘であると暴きたかった。
 清次は男をじっと見た。清次から顔を背けていた男は、清次の視線に気付く。顔が向き合う。目が向き合う。清次は男を見たまま、右の拳を胸までゆっくりと上げる。男は清次を見ている。納得しているような顔。余裕がある。動きは大げさにした。四秒、避ける間を与えた。清次の右拳は、男の左頬にぶち当たり、綺麗に抜けた。男は背中から地面に落ちた。男は避けなかった。清次は唖然とした。仰向けに倒れた男と、自分の拳を数度交互に見た。いや、ありゃ避けるぞ、普通。信じられない思いだったが、男が何事もなかったように立ち上がるのを見ると、こちらだけ動揺するのもおかしなものに思えた。唇の端に指を当てた男が、真っ直ぐ清次を見据えてくる。何か、うまい説明はないか。清次は考えながら、考えを反映させず、口を動かしていた。
「何か見えたか?」
 男は瞬間ぼんやりとした目つきになり、すぐに清次に焦点を合わせた。
「ああ」
「そうか。そりゃ良かったな」
 清次は右手を左手で包みながら、なるべく泰然となるように言った。周囲の音が、そこで急に入り込んできた。静まりが、突然ざわめきに変わる。清次は男に向き合ったまま、言葉を続けた。
「俺なら、一度こだわっちまったらこだわり尽くすぜ。何があってもよ。途中でやめる方がめんどくせえ」
「おいてめえ、何やってんだ」
 肩を掴まれ、振り向かされていた。愛想のない長髪の男が、眼前で睨みを利かせていた。
「やめろシンゴ、そいつと俺の問題だ」
 長髪の男の厄介な気配が、途端緩まった。清次は肩に乗っている長髪の男の手を振り払い、その男を抑えた声の主を向いた。
「話は終わりだ。じゃあな」
「ああ。ありがとよ、よく見えたぜ」
「感謝はあいつにしてくれ。どうせ、あいつのおかげだろうからな」
 そこで初めて、清次は男の笑みを見た。小さいが、先ほどの弱々しさが嘘のような、獰猛で、強烈な笑みだった。騙しやがって。思いながら、清次はその男に背を向け、まだ厄介な気配を消していない愛嬌のない顔の男を一瞥し、足早に歩いた。
「あ、逃げた」
 どこかで呟きが聞こえた。清次は立ち止まり、辺りに長々とガンを飛ばしてから、ようやく車に戻った。

 平日だ、もう皆いないだろうとたかを括っていた。京一は、皆で括れるドライバーではない。ランエボ三台に囲まれた中で、清次は直立不動で京一と対した。
「一応聞いとくか。何で連絡を寄越さなかった」
 京一は興味もなさそうに聞いてきた。清次は少しだけ考え、端的に答えた。
「プライベートの問題だ」
「なるほど」
 声と同時に、頬に衝撃がきたような気がした。左目が自然と閉じた。
「いって……」
「何であれ、遅れるなら連絡を入れろ。分かったな」
「ああ、分かってるよ」
 痛みのせいで涙が出てくる。この平手打ちは強力だ。京一の手は硬い。振り抜きは素早い。良い音もする。分かっていたことだ。痛みと歯がゆさしか感じない。清次は頬を押さえつつ、舌打ちした。
「クソ、俺には何も見えてこねえけどな。まさかブラフか?」
「何?」
 独り言のつもりだったが、京一には聞こえていたようだった。清次はぎくりとした。今のを反抗と取られたくはない。警戒をもって視線を送ってくる京一へ、清次は居住まいを正し、咳払いをしてから、声をかけた。
「あのよ、京一」
「何だ」
「いや、チームとは関係ねえんだけど、あるかもしんねえから、謝っといてくれよ。そうそう見えるもんじゃねえのに、悪かったって」
 京一は目を細めた。置かれた間は、珍しい戸惑いを感じさせた。
「……何言ってんだ、お前?」
「多分、そのうち来るはずだ。いや、来ねえかな。分からねえ。けどまあ、こだわってんならこだわってるだろうからよ。プライドだか義理だかしんねえけど」
「おい、頭大丈夫か」
「頼んだぜ。俺は当てるつもりはなかったんだ、ホントに」
「清次」
 不審と心配とが半々に入っている京一の声に、清次はくるりと背を向けた。急いで歩く。京一なら、まくし立てたことも、三分もかけずに何がどうであるか、理解するだろう。問い詰められたくはないから、今のうちに距離を取っておく。そそくさと離れ、一人になり、張られた左頬に左手をやった。ひりひりとする。腫れてるかもしれない。
「また平手か」
 今度は足音が聞こえていた。声のした方に、清次は頬に手を当てたまま振り向いた。あごひげを蓄えた男が立っている。続けて言ってきた。
「赤くなってるぜ。お見事」
「だろうな。自分じゃなきゃ拍手してえところだ」
「痛いか?」
「これだけは慣れねえよ」
 連絡を入れずに集会に遅刻すると、どれだけ長くチームに所属している人間でも、処分を食らう。京一の平手打ちだ。規律を乱した人間にも容赦はされない。清次は両手両足合わせても数え切れないほど、この痛みを味わったことがある。あごひげを蓄えた男は、変な風に苦笑した。
「お前がサボるのも珍しいよな」
「そうか?」
「ああ」
「そうかもな」
 事情を説明すれば、京一も柔軟に対応してくれたかもしれない。だが、勝手なことをしたと、怒り狂うということも想定された。黙って処分を受けて、それで終わらせる。最もたやすい方法だった。
「まあ、俺には関係ねえことなんだよな」
 あごひげ男は不思議そうに見てくる。別に言葉に続きはなかったのだが、清次は思いついたことを言った。
「一年過ぎんのは、早いとか遅いとかよ。そんなのは人それぞれだ」
「まあ、そうだな」
 同意した男が差し出してきた煙草を取る。ライターで火を点け、煙を吸い込む。
「関係ねえんだ」
 呟きが、紫煙とともに闇夜に消えた。

 思い出せないことが、気にならないわけではないし、どうでもいいわけでもない。だから、どうにかしたくなるのかもしれない。

 後に、他チームの人間を殴ったことが明るみになっても、清次が咎められることはなかった。個人的な問題として、京一が処理をした。それはつまり、その時点で既に、京一の問題であった。
(終)


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