嘘にまみれた偽りと
高橋啓介は寝つきは良いが、寝起きが悪い。目覚まし五個を同時にかけても、それぞれ止めてまた寝ようとする。二つ年上の兄に、お前はベッドが恋人かと叩き起こされても、やはりまた寝ようとする。半分はその寝起きの悪さが響いて、高校の卒業が危ぶまれたほどだ。ただ、寝つきが良く寝起きは悪いが、徹夜は得意だった。二日くらいならお手の物、二十歳の誕生日を挟んで三日間覚醒し続けたこともある。だから起こしてくれる人がおらず、寝過ごせない用事がある時は、眠らないことに啓介はしている。眠らなければ寝坊はしない。簡単な理屈だった。
不眠時間が四十時間を越えていても、まだ自信があった。その頃になると、もう既に神経が昂っており、そう易々と睡眠には落ちなくなっている。問題ない。そう思っていた。相手の家を訪れる約束の時間は午後一時で、その時はまだ午前八時だった。休日だった。峠で愛車のFDを新しいセッティングに馴染ませるため走らせた後、昔の仲間と徹夜でゲームと麻雀をし――二万勝った――、帰宅して、シャワーを浴びて自室に戻った。ベッドに座り、煙草を吸いながら、借りたは良いが時間を取れずに見ていなかったDVDをハードにセットした。シリーズもののアクション洋画だ。それがいけなかったのかもしれない。過去の作品とつなげるための説明のセリフがやたらと多く、アクションは派手さはあるがスピード感がなく、登場人物は年を食って動きに精彩はないし、B級的なエロさもなかった。フォローの仕様がないほど、つまらなかった。啓介は、徹夜が得意だ。だが、寝つきが良かった。やばい、と思って煙草を消した時にはもう遅かった。世界は暗闇と化した。
時計は残酷だ。いや、時間が残酷なのだろうか。ためらうことも止まることもなく、一定間隔で進んでいく。啓介はぼやけた目に映る、携帯電話の液晶画面に表示されている時刻を眺めたまま、一分ほど固まっていた。確か、DVDを三十分ほど見ていた段階では、まだ朝の八時半くらいだったはずだ。約束の時間は午後一時。携帯電話が示している時間は、午後七時。
「……夢か?」
呟いてみて、んなわけねえよな、と一人でツッコみ、啓介はベッドから起き上がり、その辺の床に落ちている服を拾って急いで着込んだ。迷彩柄のカーゴパンツにタンクトップ。夜でも十分暖かいから、捕まらなければ何でも良い。携帯電話と財布と車の鍵をパンツのポケットに突っ込んで、部屋から飛び出し、二段飛ばしで階段を下りる。玄関で靴を履き、家を出、ガレージにとめてあるFDまで走った。そこにFCがあるということは、兄は家にいる。何も言わずに来たが、車の音で出かけることは分かるだろうし、今日の集会までまだ三時間ある。啓介は迷うことなくFDに乗り込み、発進させた。
チャイム三回でその部屋の玄関のドアを開けてきた男は、驚いたような顔をしていた。
「何だ。来るなら来るで、連絡してくれりゃあ、こっちから行くってことも……」
「お前こそ」
その声を遮り、土間に入ってドアを閉め、啓介は部屋着の中里を睨みつけた。
「何で電話の一つも寄越さねえんだ」
電源を入れっぱなしにしていた携帯電話には、誰からの着信もなかった。起きてそれを開いて、液晶画面に表示されている時間と、何の通知もないことを見た時、啓介は目を疑い、約束を疑い、夢かとも疑った。だが、今日のはずだった。何か、もやもやした。直接会って、確かめずにはいられなくなった。
「いや……寝てるとかなら、起こすのも悪いと思ってよ」
啓介の視線を受け止めながら、真面目腐った顔で中里は答える。そこには、何ら責める色はなかった。約束を六時間も寝過ごした上、謝るよりも先に詰め寄った啓介を、怒っているようでなく、かといって投げやりになっているようでもなかった。ただ中里は、思ったことをそのまま言った、それだけのようだった。だが、正当な責める権利を持つ人間に、責められないことへのやましさと、理解を示しているような気遣いが、啓介の苛立ちに火を点けた。
「今日あの時間に会うってことは、お前と俺で決めたことじゃねえか。悪いとか、そういう問題じゃねえだろ」
「そりゃまあ、そうだが……」
何か言いづらそうに、中里は語尾を濁らせる。
「何だよ」
啓介が睨み続けると、ついに目を逸らした中里が、困惑したように言った。
「県外遠征とかでお前、時間もねえだろ。だってのに、俺とわざわざそんな……」
「わざわざァ?」
大声を上げた啓介を、中里は相変わらず戸惑ったように見、そして半分ほど面倒くさそうな声音で、いや、と言った。
「だから約束忘れたにしたってそりゃ、俺は別に気にしねえんだよ」
「……何言ってんだ、お前」
この男は何か、勘違いをしている。互いの条件を承知の上でわざわざ約束を交わしているのだから、それはわざわざ果たされるべきものなのだ。啓介はそう言おうとした。だが、それより先に、変わらずどこか億劫そうに中里が言ったことのため、開けた口から声を出せなくなった。
「俺もまあ、お前に会わなけりゃ会わねえでやることはあるしな。別に付き合ってるわけでもねえんだしよ、俺らは」
耳が一瞬、おかしくなったのかと思った。だが、自分の感覚がすべて正常であることは、すぐに分かった。分かって、途端、どろどろとした熱い塊が腹の底を埋めた。
「分かったようなこと、てめえが言うんじゃねえよ、中里」
喉に熱いものが突っかかっていて、開きっぱなしの口からは、それしか声を出せなかった。啓介はそれを言ってすぐ、玄関のドアを開け、外に出た。おい、と中里の慌てたような声がしたが、無視をして、FDに乗り、躊躇せず発進させた。どこへ行くかと考えたのは、大きな通りに出て、信号を二つ越えてからだった。赤城山以外、思いつかなかった。
腹が熱い。胸が熱い。指先が熱い。怒りの炎が肉を焼いている。勢い任せで街中でアクセルを踏み込んでも、すぐに赤信号にぶつかってしまう。啓介は舌打ちをして、ギアをニュートラルに入れ、唇を指でつまんだ。
『――別に付き合ってるわけでもねえんだしよ』
中里は事実を言った。付き合っているわけではない。その通りだ。間違いない。付き合ってはいない。同じ群馬の走り屋で、月に何度か会って、世間話をして、セックスするだけだ。中里が下になり、啓介が上になる。だが、付き合ってはいない。どこからどう見ても、それが事実だ。それはいい。
『お前に会わなけりゃ会わねえで――』
会わなければ会わないで、やることはある。これはどうだ。約束をした。互いに確かめてだ。会おうと決めた。だが、それをすっぽかされたところで、敢えて会うほど気にかけていない、ということではないか。寝過ごしたのは自分だ。謝ってもいない。悪いとは思う。だが、あの男にせよ、こちらが時間を過ぎているのに、連絡一つ寄越さなかった。寝起きが悪いことには自信があるから、電話一本で起きたとは啓介も言い切れない。しかし、何も行動を起こさず、そのくせこちらが六時間遅れて訪ねたら、来るなら来るで連絡をしてくれたら、などと言ってきた。じゃあ何でお前は連絡をしてこなかった。起こしたら悪い? わざわざだと? だから、わざわざした約束なんだ。わざわざ守らねえでどうするってんだ。人にばっか行動させやがって。ああ、腹が立って仕方がない。ムカツク。ムカツクムカツクムカツク。
青信号、ギアをローに叩き込んで発進する。運転が荒くなる。車は労わりたいが、プライベートの感情の揺れはどうにも止められなかった。とにかく腹立たしいのだ。あんな奴に、自分たちのことを勝手に決められたくはなかった。
――あんな奴?
思った瞬間アクセルを抜いており、啓介は慌てて踏み直した。街中で物思いに耽ってはいられない。山でなどは命取りだ。啓介は進行方向を変えた。折角街に入ったのだから、すぐに帰宅するのももったいないように思えた。
啓介の性欲を刺激する男は、かつても今も、中里毅ただ一人である。綺麗な男ではない。体には適度に筋肉がついていて、毛がたっぷりと生えており、撫でるとよくざらざらする。顔にしても、美しさとは程遠い、むさ苦しさがある。眉も鼻も唇も太く、目は無意味に大きくて、頬は特徴的な削げ方をしている。髪は真っ黒、長くはなく、上げているのか分けているのか下ろしているのか決めがたい、中途半端なセットのされ方だ。太ってはいないが、痩身というわけでもない。ただ、全体として中里は、整っていた。バランスが良かった。そして何より、中里毅という男はその顔でなければならないような、強い自然さと一体感があった。
そこにあるいは自分は欲情するのかもしれない、啓介はそう感じる時がある。例えば男にしても、啓介の兄である涼介は美麗な顔立ちと無駄な肉やたるみのない肉体を持っているし、ライバルである走り屋の藤原拓海も割合可愛いと言える顔と、毛の少ない体つきだった。二人とも、女性的だと見ようと思えば見えなくもない。啓介は元々女性と数多く性交渉を重ねてきた。だから、男といっても、女性的であるなら範囲ではあるかもしれないと思う。それでも、兄や藤原拓海を仮想相手としても、まったく息子は反応しない。組み伏せたくなるのは中里毅、その男だけだ。ならば、あの男の何かが自分の欲望を掻きたてるとしか考えられない。顔や肉体もあるが、中里という男は、中里でしかなかった。何をやっていても、その上をいくことはないし、その下をいくこともない。平凡なくせに、いつでも揺らいでいるように見えるくせに、存在自体がぶれる不安定さは感じさせない。だからもしかしたら、中里にならば、それができると、自分は判断を下したのかもしれない。可能性の一つだ。他の可能性は、考えたことがない。好きかというと、また違う。少なくとも、愛してはいない。話していて楽しい時もあるが、腹の立つ時もある。抱きたくはなるが、全部を欲しいとは思わない。ただ、嫌いな奴に勃ちもしないだろうと思う。それは明確だった。
――やりてえもんは、仕方ねえだろ。
妙義ナイトキッズとの妙義山での交流戦以来で中里に会ったのは、秋も夜も更けた頃だった。赤城山には啓介と、レッドサンズのメンバー数名しかおらず、そこへ黒いGT−Rがやって来た。群馬でわざわざその車に乗っている走り屋を、啓介は一人しか知らない。降りてきたのは、知っている男だった。それが中里で、啓介は初め、バトルをしたことのある走り屋として接したが、すぐに赤城レッドサンズの代表者として話をしなければならないことに気付いた。
「どうも、うちのメンバーがお前らのとこの奴に、ちょっかい出したらしくてな」
挨拶もそこそこに、中里はばつが悪そうにそう言った。一度啓介にそのホームに負けているためだけではない、不祥事を抱えているという後ろめたさがあるようだった。メンバー同士のいざこざなら、啓介と中里との個人的な話は余計だ。偶然その時、中里の言うあちらのメンバーにちょっかいを出されたらしい奴がいたので、啓介はそのメンバーを呼び、事情を聞いた。アテンザに乗っているその男によれば、妙義山に遊びに行った際、つい気が大きくなってそこにいた奴と口論をしてしまい、人気もなかったのでそのままバトルになだれこんだところ、途中ステアリング操作を誤って、一人でスピンしたということだった。自業自得なのと、勝手な振る舞いがバレるのが恐ろしく黙っていた。中里側のメンバーは、勝手な振る舞いがバレることではなく、そんな些細なことからレッドサンズとトラブルが起きて死闘が繰り広げられることを恐れたために、中里に報告したらしい。どちらも臆病だが、ナイトキッズのメンバーの方が筋は通している。
啓介はとりあえず、怯えた風に両の手のひらを擦り合わせているメンバーに、
「お前、来年までここには来れねえぞ、多分」
と言ってやった。チームとしては、勝手な振る舞いをした挙句、黙っているような奴をメンバーとして易々と受け入れてはいられない。それに、もうすぐ冬だ。春になれば戻れるというだけ、処分は軽い。まだチームの責任者ではある涼介はそうするだろう、と啓介は考えていたが、
「そこまでしなくてもいいんじゃねえか」
と、中里が言ってきた。この男も、チームをまとめている走り屋だ。まさか他のチームの内情に口を出してくるとは思っておらず、啓介はいささか驚きつつ、言い返した。
「お前に関係ねえだろ。どうするかってのは、こっちのことだぜ」
「それは分かるぜ。けどな、一連のことってのは、先にこっちの奴が仕掛けたことなんだよ。そいつは元々意地が悪くてな、誰だろうと煽ってバトルに持ち込むのがうまいんだ」
「相手がどうだろうが、自分の感情セーブできねえ奴に、チームの名前を簡単には使わせらんねえよ」
「そうは言うけどな、そいつは特別なんだ。本当に意地が悪くて仕様がねえ。いや、根は悪い奴じゃないんだが、どうも口がうまくて……」
中里に引き下がる気配はなかった。敢えて口を挟んでくるからには、それ相応の覚悟があるのだろう。いずれにせよ、啓介の一存で処分は下せない。ここで強行しても、禍根が残るだけだ。分かったよ、と啓介は言った。
「そういうこともあったってことで、どうするかは後で決める」
「本当か?」
「保留にするだけだぜ、おい」
念を押したが、勝手な振る舞いをしたメンバーよりも、中里の方があからさまにほっとしたような顔をした。それを見て、啓介は気が抜けた。藤原拓海と涼介とのバトルの前に偶然秋名山で会った時や、交流戦の時の、触れようとすると即座に払いのけられそうな厳しい雰囲気は、見る影もない。何だか拍子抜けだった。
「そういや、久しぶりだな」
緩んでいる顔が、すぐに絞まったかと思えば、中里から出てきた言葉はそれだった。啓介は処分を保留にしたメンバーを下がらせてから、言葉を返した。
「今更って感じだけどな」
「ああ……お前、元気か」
「無理に話題作ってるって感じだぜ、それ」
「いや……」
図星だったらしく、中里は気まずそうに顔をしかめた。
「お前こそ、元気か」
「……ああ」
問えば、返答には間があった。啓介は笑っていた。
「って聞かれると、結構微妙だろ」
顔をしかめたまま中里は、確かにな、と頷いた。そして沈黙が浮いた。居心地悪そうに、組んだ腕を解いた中里が、じゃあ、と履いているジーンズの脇に両手を当てながら言った。
「俺は、失礼するぜ」
「何だ、少しは走ってかねえのか」
啓介に他意はなかった。わざわざ峠まで来たのだ、走り屋なら多少は走るだろうと思っており、そうはしないらしい中里の言葉に、驚いたまでだった。それが、中里を引き止めることになったと気付いたのは、相変わらず居心地が悪そうながらも、そう言うならと頷いた中里がスカイラインでコースに出てからだった。もう朝も近いが、結果的に引き止めてしまった以上、勝手に帰っても後味が悪い。ガスも切れてきたので、啓介はともかく中里が戻ってくるまで、煙草を吹かして待つことにした。兄は勉強、史浩は用事、ケン太はバイトだ。他の面子は今のうちに帰らせた。一人、まったく会う機会のない相手を待つというのも、悪くはなかった。
途中で立ち往生でもするのではないかと少し思っていたが、無事に中里は戻ってきた。煙草は二本消えた。
「一回でいいのかよ」
スカイラインから降り、微妙な顔をして寄ってきた中里に尋ねると、ああ、と微妙な顔のまま頷いた。
「これ以上走ると、帰りたくなくなっちまうからな」
「へえ」
「それよりお前、俺を待ってたのか」
微妙な顔の原因とは、その疑問にあるらしかった。まあな、と啓介は適当に答えた。
「一応、俺から話振った以上、帰んのもどうかと思ってよ」
「そうか」
中里は啓介を見ずに頷いた。その後、言葉はなかった。中里は何かを言いたげに、時折ちらりとこちらを見たが、すぐに目を逸らし、何も言わなかった。やはり、居心地が悪そうだった。啓介は何を言う気もしなかったので、黙っていた。かといってすぐに帰る気もしなかった。不思議だった。この男と一緒にいて、居心地が悪くならない自分が不思議だった。
GT−Rは嫌いだった。ストレートの速さは認めるが、コーナーリングにキレがないし、Rのステータスを自分の実力と勘違いしている奴が多いという偏見があったからだ。だが、この男は、どうも違う。中里毅。32のGT−Rで、ハチロク相手にコーナー勝負を挑むような奴だ。度胸のある走りをする。啓介はこの中里に、そのホームである妙義山で勝っている。実力の差を知らしめた。その時、自分に負けた中里には、挑んできた際の厳しい雰囲気など欠片もなく、今のようにひどく人間臭い空気が発せられていて、だからどう接すれば良いか、混乱した。その姿が視界に入ると、居心地が悪いことこの上なかった。
だが今は、バトルを介さない単なる走り屋同士での接触だ。だからまだ、普通の中里を相手にしても、普通でいられるのかもしれない。多分、バトルなどを除いてしまえば、この男はそうも、一緒にいるのに悪い相手ではないのだろう。そう思えた。
普通の中里は、何度も口を開いたり閉じたりしていた。帰りたがっていることは伝わってきた。啓介は助け舟は出さなかった。敢えて引き寄せることも、突き放すこともしたくなかった。ただ、じっとしていることにも飽いたので、中里を見た。開いたり閉じたりされる、その唇を見た。厚めの唇だ。乾燥しているらしく、皮が剥けていた。見ているうちに、口付けていた。硬くなった皮が引っかかり、少し痛かった。
「……あ?」
近くなった中里の顔は、間抜けそのものだった。眉が上がり、目に力はなく、口がだらりと開いていた。啓介は、考えずの自分の行動を妙に思いながらも、衝動を抑えられずに、尋ねていた。
「ダメか?」
中里は、口元をわななかせ、目を泳がせ、掠れ切った声を出した。
「な、何が」
「俺は、そんなダメじゃねえんだけど」
妙だった。妙だったが、事実だった。それほどダメではなかった。唇の感触は、表皮に熱をもたらした。中里は益々目を泳がせた。
「だ、ダメだろ。多分。ダメだ」
「本当かよ」
「……待てよ、高橋……何なんだ」
揺れている目を、中里は向けてきた。顔は険しいが、混迷が浮いていた。それは啓介にも波及してきた。自分が何を言っているのか、分からなくなってきた。自分がなぜ中里の頬に手を滑らせているのか、分からなくなってきていた。
「このままいくのは、ダメか」
啓介の声も掠れていた。中里の目は濡れているようにも見えた。その唇は震えていた。
「何言ってんだ、お前」
「試しにな。まあ、ダメならいいけどよ」
「何の話だよ、おい」
「セックスだよ」
カチリ、と音がしたように、中里は固まった。生命活動自体が止まったようでもあったが、触れている頬は熱かった。やがて、中里はゆっくりと口を動かした。
「……俺とか?」
「他にいねえだろ」
「……ど、どうやって」
「いや普通に。……知らねえの?」
「いや知ってる、知ってはいるが……何で俺とお前が、そんな……」
俯いた中里の顔を、頬に当てた手を顎に滑らせ、上げさせる。信じられないものを見る目で、中里は啓介を捉えていた。体温が上がっていく感覚を啓介は得た。衝動は抑えがたかった。だから啓介は、言っていた。
「やりてえもんは、仕方ねえだろ」
その言葉の何が中里を動かしたのか、啓介には今もって分からない。諦めはなかったと思う。中里の動きには、戸惑いが強くあっただけだ。中里自身が、中里の意思についていけていないような、甚大な混乱があっただけだった。啓介もまた、混乱していた。混乱しながらも、直感を信じて行動した。頭をこねくり回して立てた予想は大抵外れるが、直感的に思ったことは大抵当たるのだ。その時もそうで、確かにそのままいけたのだった。地元から離れたホテルに連れ込んで、キスをして、体を撫で回して、尻に挿入した。時間をかけたためか、中里も、さほど苦痛はなさそうだった。我慢していたのかもしれないが、抽送中に達したのだから、快感はあったのだろう。実際それ以後も、苦痛に呻くようなことはない。
そうして、月に何度か会うようになった。会って、世間話をして、セックスする。その繰り返しだ。中里のことを、好きだと思ったことはない。いつでも頭は冷えていて、胸が焦げることもない。ただ、その裸体を見て、想像して勃起するということは、嫌いではないのだろうと思う。GT−Rはやはり嫌いだが、GT−Rに乗っているあの男は、嫌いではないのだ。
『別に付き合ってるわけでもねえんだしよ』
だというのに、あの男は何のこだわりもなさそうに、そう言った。確かに、付き合ってはいないのだ。付き合ってはいないが、だからといってセフレと割り切っているわけでもない。啓介にしてみれば、走り屋で、GT−R使いで、濃い顔貌で、どこからどう見ても男でしかない体をした男を、たまにとはいえ抱きたくなる時点で、それなりの注意はある。だが、中里はこちらと会う約束が果たされずとも、それはそれで構わないと言った。互いに確認して交わした約束だ。それが無となっても良いということは、あの野郎が、こっちを蔑ろにしてるってことじゃねえのか?
「……それってノロケか、啓介」
馴染みの喫茶店には先客がいた。街の中心部にあるのに大草原にあるログハウスのような佇まいのこの店で、仕事帰りに文庫本を読みながらコーヒーを飲むのが好きだと言っていた男だ。しょっちゅう峠で顔を合わせるのに、何の因果かここに来ると対面する確率が高い。どうせなので、ジャズの流れる店の片隅で、一人文庫本ではなくA4の書類をたぐっていたスーツの男の前の席に、啓介は堂々と陣取り、マスターにカレーを頼んでから、事の顛末をかいつまんでまくし立てたのだった。
「俺はお前の耳を疑うぜ、史浩」
人の話を聞いているような聞いていないような相槌を打っていた挙句、史浩が出してきた第一の感想は、ノロケときたものだ。啓介は話す相手を間違ったかと冷めた目で史浩を見たが、優しそうな風貌の割に腹に一物抱えている色を持つその男は、だってお前、と真面目に言い返してきた。
「お前が約束を一方的に六時間もすっぽかしかけたのに、怒りも投げやりになりもしねえで出迎えたんだろ? 休日だったろう、走りにも行けたのに、連絡もせずにその家にいたってことは、お前が来ると信じて待ってたとも考えられるじゃねえか。ノロケだノロケ」
真面目なのは最初の方だけだった。最後の方になると、そんなことを考えさせるな、という気が見え透いていた。啓介は納得いかず、カレーを口に入れ、飲んでから喋った。
「だから、すっぽかしかけたにしても、あいつが電話してくりゃ俺だって気付いたかもしれねえんだぜ。それもしねえで、俺が来ねえなら来ねえで他にやることあるから別にいい、とか言うってことは、俺がどうでもいいっつってるようなもんだろ」
喋っているうちに、腹立たしさが戻ってきて、啓介はカレーを次から次へと飲み込んだ。史浩は間を取り持つようにコーヒーをすすり、ソーサーごとカップを端に寄せると、テーブルに肘をついて、身を乗り出してきた。
「お前、啓介、つまりあいつに自分がどうでもいいって言われたようなもんだからって、腹立ててんのか」
先ほどと同じように、真面目な顔だった。だが、度合いが違った。詰問される気配があった。啓介は警戒しつつ、空になったカレーの皿を同じく端に寄せ、こちらもテーブルに身を乗り出した。
「ああ」
「じゃあ、何で付き合わないんだ」
予想外の問いだった。答えは明白だった。だが、啓介は返答に詰まった。史浩が、なぜそう問うてきたのかが、分からなかった。
「俺もあんま、お前個人のことに干渉はしたくねえんだけどな。付き合ってもねえのにそこまで腹立てる権利ってのは、ないような気がするぜ。それで腹立てるくらいなら付き合えば良いし、付き合わないで関係続けたいなら、我慢するしかないだろ」
言って、史浩は疲れたように顔を緩め、また椅子に深く腰掛けた。端に寄せていたソーサーを中央に戻し、カップに口をつける。啓介はテーブルに両腕をついたままでいた。店員がカレーの皿を下げていき、香りだけが残った。史浩の言は正論だった。そうだ、恋人同士でもないのだから、どうでもいいと言われたようなものでも、我慢するしかない。だが、今まで我慢などせずに続けられてきた関係なのだ。中里にどんな態度を取られようと、FDの欠点を指摘されようとも、セックスを拒まれかけようとも、ここまで腹立たしくなることがなかった。なぜ、今、ムカついてたまらないかが分からない。だから、尚更ムカついてしまう。啓介はグラスに入った水を一気に飲んでから、場つなぎに、詰まる必要性も感じられなかった答えを言った。
「だって俺、あいつのこと好きじゃないんだぜ」
「は?」
史浩は、顔も声も素っ頓狂なものにした。
「何で付き合わねえのか、って訊いたろ」
「あ、ああ。……そうなのか」
てっきり唐突に言ったからうろたえたのかと啓介は思ったが、違うようだった。史浩はテーブルを指でかつかつと叩き、そうか、とバランスの悪い表情になり、呟くように言った。
「知らなかったな、そりゃ……まあ、それなら付き合うまではいかねえか」
「何であいつを抱いてんのか、とかまでは訊くなよ」
「そこまで入り込みたくねえよ、俺も」
コーヒーの香りの混じった史浩のため息には、疲労が染み渡っているようだった。この男には粗方を告げてしまっている。男同士の肉体関係をはらむ付き合いだ、誰に言うつもりも露ほどもなかった。ただ、中里と性交を重ねるようになってから三ヶ月近く経っていたある日、確かその時もこの喫茶店で偶然会ったのだ。変に隠し立てしても怪しまれると思ったから、中里と何度か会っていることだけは伝えていた。ごく普通の会話の流れだった。意外だな、と史浩は言葉通りの感情を顔に浮かべて言った。GT−R嫌いのお前が、中里と会ってるってのは。そう言われて、何だか急に、嘘を吐くのも真実を言わないのも、面倒になった。セックスしてんだよ、と啓介は言った。それを聞いた時の史浩の顔も声もそういえば、先ほどと同じ素っ頓狂なものだった。
「涼介が、こういうことに鋭けりゃいいんだけどなあ……」
疲労を息に染み出させたまま、史浩が呟く。啓介は苦笑した。
「アニキは無理だろ。俺が中里と、ダチになってると思ってんだから」
「お前らのこと一から聞かせても、頼りにはならないか?」
「まず、何で俺があいつとやるのかってことが、説明したって理解できねえと思う」
ポーカーフェイスが素顔である兄を思い出す。理論家のくせに、一か八かに出ることが多い。だがやはり、理屈が好きな人だった。
「何だ、その説明ってのは」
「そこまで入り込みたくねえんだろ」
「そこまで言われちゃ気になるだろ」
啓介はもう笑ってもいなかった。史浩は苦笑しながら、諦めと好奇心を半々ずつ顔に乗せていた。それを見据えながら、啓介は答えた。
「やりてえからだ」
史浩の苦笑が引きつり、またコーヒー色のため息が吐かれる。
「……理解できないだろうな」
「だろ」
なぜやりたいのか、までの説明を欲しがるのが兄だ。啓介はそんなことまで考えない。走りたいから走り屋になるように、走り屋だから走りたがるように、抱きたいから抱く。相手が男だろうが何だろうが関係ない。やりたいのだから、できるのならば、やるしかない。兄はそれを条件としか思わない。だが啓介にとってはそれが答えだ。だから兄に何を話したところで、理解は望めない。啓介もため息を吐いていた。あの人は、何事も難しく考えすぎる。
「中里なら、涼介も納得させられるのかな」
「あ?」
その呟きは、急に耳に突き刺さってきた。それまで話題に出てきていたのに、初めて名前を聞いた気がした。啓介が目をやると、顔面筋を緩めた史浩は、いや、と鼻の頭を掻いた。
「説明だよ。お前らがつまり、その、そういう関係だってことのさ。お前よりは、分かりやすい説明できんのかと思ってな」
中里の説明、と啓介は思った。なぜ自分と中里が関係を結んでいるのか。中里という男は大体が感情的で、気合だの根性だの、精神論で片付けることが多々あるが、常識は持っているし、信念のあることを言う。確かに、兄相手でも筋を通せるかもしれない。自分と中里と、関係を結んでいる原因。中里の理由。
――中里の理由?
「あ?」
啓介は立ち上がっていた。史浩は唖然としていた。カーゴパンツのポケットから財布を取り出し、札をテーブルに置いて、わけが分からぬようにこちらを見上げている史浩に言う。
「悪い史浩、俺、あいつにもっかい会ってくる」
「いや、まあそりゃ全然いいけど……山には来るんだろ?」
「ああ、時間は守る。じゃあな」
「お、おう」
首を微妙に傾けている史浩を置き、そのまま急いで店を出て、啓介は駐車場のFDに素早く乗り込んだ。イグニッションキーを何度もつっかえさせながらも、車を発進させ、中里の家へ向けて走らせる。とんでもない事実に、今更気付いた。それこそ今更だ。史浩に言われるまで、まったく考えたこともなかった。
――中里の理由。
中里が、なぜ自分に抱かれるのか。中里が何を考えているのか。何を思って、自分と会うのか。一つもだ。一つも考えたことがなかった。
会話だとか、セックスの最中、楽しいかとか、何が好きなのかとか、どこが感じるのか、考えたことは何十回とある。だが、中里がなぜ自分と一緒にいるのかなど、疑問にもならなかった。初めて抱いた後、これからもこうして会うかと啓介は訊いた。別にいいぜと中里は言った。その言葉を額面通りに受け取った。別にいい。会う日は二人で決めるが、どうしても会いたいと言われたことはない。抱いて欲しいとせがまれたこともない――焦らした挙句、入れて欲しいとまで言わせたことはあるが。別にいい。そういうことだと思った。思って、忘れた。中里の意思について、惰性だとか、暇だからとか、抱かれる快感が忘れらないからだとか、そういった推測すらしなかった。それはただ、する必要を感じなかったからだ。別にいい。それすら、どうでも良かった。中里の意思など、気にもしていなかった。どうでも良かった。
会えなくともそれはそれで構わないというようなことを言われた時、あんな奴、と思った。あんな奴に、自分たちのことを――自分のことを、決められたくない。そう思った。
「……ひどくねえか、俺」
長い赤信号だった。啓介は呟いていた。幾度も抱いた相手の意思をまったく気にもしなかった。兄のことをどうこう言える立場ではない。難しくも何も、考えてすらいなかった。そのくせ、中里がこちらを取るに足らないもののように扱えば、腹を立てた。それは、自分があの男を軽んじていたからだ。自分こそがあの男を蔑ろにしていた。だから、あの男に蔑ろにされることは、許せなかった。自分の方が上にある。自分がすべてを掌握している。自分があの男を支配している。普段、考えてはいなくとも、そういう意識がどこかにあった。あの男が反抗するわけがない。自分に負け、自分の下で喘いだあの男が、自分を捨てられるわけがない。それは前提だった。それを当然として、今まで中里と接してきた。
「ひでえ」
理由も問われず、好きとも言われず、自ずからは近寄ってこず、中里はなぜ、今まで抱かれてきたのだろうか。もっと早く、考えるべきことだった。考えずに、中里を使い、欲望を晴らしていた。最低だ、と啓介は零した。久しぶりに、自分という人間が大層嫌いになった。
アパートの駐車場にはまだ、GT−Rがあった。啓介は急いで停めたFDから降り、中里の部屋へ駆けた。その途中で、玄関のドアが開けられた。黒いTシャツにブルージーンズを履いた中里が、うお、と小さい声を上げてアパートの壁に手をついていた。
「な、何だ。どうした。何か用か」
間抜けなことを言う奴だ、と思った。今日、約束をしていたのだ。何の用も何も、普通に考えたらそれしかないだろう。だが、啓介は何も言えなかった。言葉が出てこなかった。口は開くのに、喉から息は出ていくのに、声が出ない。
「おい……そんなところ突っ立ってねえで、とりあえず、入れよ」
言われて、ようやく足が動いた。一歩ずつ、進んでいく。ドアを開けたままにしている中里の前に立つ。中里は啓介の姿を認めて、頷くと、ドアから手を離し、部屋の中に入った。
「丁度、走りに行こうとしたところでよ。タイミング良かったな」
啓介は中里の後に続いて、部屋に入った。言いたいことがある。言いたいことはあるが、何をどう言えば良いのか、何を言いたいのか、頭がまとまらなかった。中里は普通だった。普通すぎた。だから、普通で良いのではないかと思う。だが、言いたいことがある。
「何か飲むか。水か、お茶か、ジュースか。酒は出せねえけど」
「中里」
思い切って、力をこめたら声が出た。台所に行きかけた中里が、止まる。蛍光灯が眩しい八畳の部屋で向かい合う。中里は怪訝な顔をしていた。普通だった。普通にすれば、普通に終わる。これまでも、自分はそうしてきたに違いない。気付かぬうちに、この男の多くを無視してきたのだ。
「中里」
「何だ」
「中里」
「だから何だ」
繰り返し、その名を呼ぶうち、喉が自由になってきた。こめかみが熱く疼く。腹が軋んでいる。中里の顔は、見ていられなかった。見ていると、気持ちが鈍った。
「ごめん」
頭を下げ、啓介は言った。沈黙が場に落ちた。耳に静けさが入り込んできて、脳味噌を攪拌する。今すぐ逃げ出したくなると同時に、ここから一歩も動きたくなくなった。
「……何だよ、改まって」
相変わらず怪訝そうな、中里の声がした。啓介は頭を下げたまま、言った。
「ホント、ごめん」
「いや……別に、んな謝られるようなことでも……あるっちゃあるが、その……俺もまあ、何というか……卑屈っぽくなってたというか、いやそんな気はねえんだが……」
「俺、お前のこと、全然考えてなかった」
「あ?」
中里の声が止まる。啓介は思い切って、顔を上げた。静寂。中里の顔にはまだ不審があるが、何かを予期しているような鋭さが潜んでいた。ようやく、こちら側に引き込めたようだった。啓介は唾を飲み込み、乾く唇を舐めてから、まとまらない思考を言葉にした。
「お前がどう思うかとか、何考えてどうしてんのかとか、そういうこと、全然何も、考えてなかった。お前の理由なんて、どうでもいいと思ってた。何か、色々偉そうなこと言っちまってたけど、俺は俺のことしか考えてなかったんだ。だから、ごめん」
今度は目を合わせたまま、そう言った。中里の顔の底には、感情があふれ出ていた。それを押さえ込んでいる中里がそこにいた。押さえ込んだまま、震える声を出す中里がそこにいた。
「お前がよ、高橋」、そこで中里は俯き、啓介から目を逸らして続けた。「どんくらい俺のこと……お前が、確かにそういう……何だ、考えてもねえような感じだったのは、俺だって分かってたぜ。でも、俺はそれでも良かったんだ」
分かっていた。この男は、分かっていた。そのことは、啓介も予想していないわけでもなかった。だが、それでも良かった、ということは解せなかった。
「何で」
「んなことは」
すぐさま中里は言い、だが口を閉じた。その先の言葉を求め、啓介が見続けると、やがて中里は観念したように、眉間を狭くしながら、吐き捨てるように言った。
「好きだからに、決まってんだろ」
今度こそ、自分の耳がおかしくなったのかと啓介は思った。だが、電光のもと、中里の目元は赤く染まっているし、それならば、価値がないように接せられようとも、良いとできる理屈も納得はできる。できるが、しかし、やはり信じがたかった。
「……な、何だ、その顔は」
不可解さを拭えず、啓介が変わらず見続けていると、中里は怯えたように一歩足を引いた。つなぎ止めねばならないと思った。何か言わなければならない。
「お前、俺のことが好きだったのか」
中里は更に引きかけた足を止め、頬まで赤くして、居心地悪そうに言った。
「じゃなけりゃ、お前、お前といちいち……あんなことしねえよ、クソ」
そこで、啓介は初めて、中里の発言を認識した。好き。この男が自分を好き。ということは、史浩の言っていたことも、間違いではないのかもしれない。ノロケ。中里は本当に、こちらの負担を考えて連絡を入れてこず、ただ思い出して来た時のために家にはいた。だから怒りもしなかったし、投げやりにもならなかった。だとしたら、付き合っているわけでもない、というのは、こちらが負い目を感じないようにという、中里なりの気遣いだったのか。そうだ、この男は変なところで、変な気遣いをしやがる奴なのだ。
「……おい、高橋」
中里の声で、啓介は我に返った。今は会話中だ。細かいことを考えるのは後でもできる。
「ああ、っつーか……何、いつからお前は俺のことが好きだったんだ?」
今この男が言った、好きでなければいちいちしない、ということは、好きだからいちいちしているということだろう。いつからだ。いつからこいつは俺のことを好きだった?
「ま、待て、高橋。何で俺が、それをお前に言わなきゃなんねえんだ。俺らは別に……」
慌てたように言う中里との距離を、啓介は先ほど引かれた分の一歩、詰めた。
「そうだ、俺らは付き合ってるわけじゃねえ。けどな、俺、知らなかったんだよ。知らなかった。今まで全然気付かなかった。ありえなくねえ? お前だぜ? お前のことを、何で俺が気付かねえんだよ」
「そりゃ、お前にとって俺がその程度の人間だったって……」
呟くような言葉を、中里は途中で呑み込み、ぎょっとしたように啓介を見、すぐに顔を背けた。分かりやすい男だった。分かりやすすぎるから、そこに裏があるかも、疑おうともしなかった。啓介はいくら舐めても乾く唇をまた舐めて、頭をがりがりと掻いた中里に言った。
「お前はそれまで、分かってたんだな」
「いや……」
とは言ったものの、中里はそれ以上何とも言いようがないように、口を閉じた。顔は背けたままだ。啓介はもう、うんざりとしてしゃがみ込んでしまった。ここまで自己嫌悪に陥ったことなど、数少ない。
「マジ悪い」、と顔を手で覆って呟いた。「俺、何やってんだ。最低の男じゃねえか」
いくら同性とはいえ、こちらを好いている相手を、こちらは好いてもないのに何度も抱いて、その意思は考えず、見くびっており、気遣いをされたことに腹を立てた。その上、中里自身に、こちらの意識を言わせてしまった。そもそも、約束を六時間もすっぽかしている。最低最悪だ。
「お、おい、そんな気にするなよ。何というか……こう、俺も、その、何だ。ハッキリさせなかったのが悪いっつーか……」
歯切れの悪い中里の声が降ってくる。啓介は俯いたまま、首を振った。
「お前は何も悪くねえだろ、中里。俺のこと、好きなだけだろ。クソ、こんな俺なんかの何が好きなんだ?」
「お、俺に聞くな、そんなこと。俺ゃ最初から好きだったんだ、お前のことは」
再び静寂。分かりやすい男だった。問い詰めれば、何でもかんでもボロボロ零していく。それすら啓介はしてこなかった。する気がなかった。無視していることに気付かない限り、一生零れるものを集める気にもならなかっただろう。
「最初から?」
啓介は顔を上げ、静寂を破った。立ったままの中里は、何も言い返してこなかった。啓介は立ち上がった。視線は合わなかった。顔が背けられていた。自分の冷酷さが、この男の優しさが、こうして真実を遠くしてきた。めまいにも似た厄介さを感じながら、啓介はつい声を大きくしていた。
「何で言わねえんだよ、そんな大事なこと」
「言ったからってどうにかなるのかよ、そんなこと」
中里の声も大きくなっていた。地鳴りのような響きがあった。目が合った。顔が合った。中里は険相に、少しずつ後悔をにじませていき、その顔を手で隠した。
「悪い、そうじゃねえ。俺はただ、そんな、普通じゃねえだろ。お前、男だぜ。そんなこと……だから、お前には知られたくなかったんだ。このままで良かった。お前はどうだったか知らねえけど、俺は結構、楽しかった――」
絞り出しているようなその声を聞いても、慈しみの感情は生まれなかった。ただ、居ても立ってもいられなくなった。顔を手で覆ったままの中里を、啓介は両腕で抱きしめていた。うろたえたような中里が、お、おい、と体を押しのけようとしてくる。反発する力ごと抱いたまま、啓介は言った。
「ごめん」
「いや……」
「ごめん」
「謝るなよ、おい」
「ホント、ごめん。ごめん」
「高橋」
「俺、お前のこと、まだ本気で考えらんねえよ、中里」
少し低い位置にある耳に、啓介はすがるように言っていた。兄のためにも、自分のためにも、完遂しければならない計画がある。それを進んでいる間、走りに関すること以外、考えてはいられない。胸の中でこまごまと動いていた腕が、背中に回ってきて、軽く叩かれた。そして、ため息混じりの、若干投げやりな声が、耳元でした。
「何言ってんだ。いいんだよ、どうでも良くったってよ。俺だって、そんくれえなもんだ。お前のこと、俺は背負う気もなかったし、お前に背負って欲しくなんかもサラサラねえや」
分かりやすい男だった。嘘も上手く吐けやしない。その嘘を、本当にするつもりであることも、丸分かりだ。
「なあ」
啓介はその体が逃げないようにしっかりと抱きしめたまま、言った。
「お前のこと、好きになれるかどうかは分かんねえ。今はまだ、付き合うとかもできねえ。けど」
中里の呼吸音が、耳に触れる。心臓の音が重なっている。啓介は出ていない唾を飲み込んで、からからの口を開いた。
「今まで通りでいてくれっつったら、怒るか」
腕の中の体が、ぴくりと動いた。耳にかかる、やってられない、というようなため息。背中を叩く手。
「んなことで怒ってたら、俺はとっくの昔にお前をぶっ殺してるぜ、多分」
冗談の色のない冗談だった。笑えそうもなかったが、啓介は笑っていた。今は、抱いてはいたいが、抱きたいとは思わない。だが、また抱きたくなるだろう。この男を組み伏せたくなるだろう。それでも、まだ、中里のことは考えていられない。好意にも応えられない。それでもいいと、この男は言っている。啓介の思いも考えも踏まえた上で、無情な諦めも卑屈さも感じさせない、潔い感情の、信念の通った声で、言葉で、肯定している。この男がこの男のことを、決定している。それだけだ。それだけのことができる奴に、好かれている。それだけのことができる奴を、抱きたくなるのに、どうでも良いと思える。笑えているのに、泣きたくなった。
「……笑いすぎじゃねえか、お前」
耳元で、むっとしたような、相変わらずやっていられないというような声がする。笑うのをやめると、まだ感情が抑え切れそうになくて、啓介は笑ったまま言っていた。
「わりい、止まんねえ」
「そうか」
「ああ。もう少し、待ってくれ」
「なら、そりゃいいから、ちょっと離してくんねえか。苦しくなってきた」
「ごめん、それもムリ」
首筋に顔を埋めながらそう言ったら、この野郎、と一際強く、背中を叩かれていた。
(終)
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