代償
綿パンの前ポケットに入れていた携帯電話が震えたのは、暗い大学の駐車場からFDを発進させようとクラッチを踏んだ直後だった。三秒待ったが、震動は続いている。何てタイミングの良い奴だ、啓介は舌打ちしつつ、ギアはニュートラルのままクラッチから足を外し、携帯電話を取り出して、相手が誰かも確かめず通話を始めた。
「はい?」
「よお、啓介。相変わらずやってるか?」
馴れ馴れしい声が届いた耳を、すぐに携帯電話から離し、啓介は液晶画面を見た。室川直人。昔の知り合いだ。仲間、という分類が正しいかもしれない。鉄パイプの重さと、他人の肉を叩いた時に手に伝わってくる感触が好きと言ってはばからない男だった。馴れ馴れしいのが当たり前の相手だった。
「まあな」、啓介は携帯電話を耳に当て直した。「何だ、久しぶりじゃねえの」
「五月以来だろ。夏は俺、いなかったしな」、唾を飲み込む大きな音を立ててから、室川は言った。「それより啓介、アツシに会いたくねえ?」
「アツシ?」
「立辺篤。偶然街でバッタリ会ってよ、はは、すげえセンスねえ言い方。で、ま、篤お前に会いてえっつーからさ、今日どうよって話」
立辺篤も、室川と同じく昔の知り合い――仲間だった。青春時代を一緒に過ごしたようなものだ。二輪を転がしていた頃、よくつるんでいた。やんちゃがすぎて、立辺は群馬を抜け出したと聞いている。三年近く音信不通だ。
「そうか、あいつな」、少し考えてから、啓介は言った。「別にいいぜ。いつだ?」
「あー、今から俺ら走りに行くんだよな。その後でも大丈夫か?」
走り行くってどこに、と言おうとして、思い出した。室川は二輪から四輪に乗り換えて、走り続けている。立辺は変わっていなければ、二輪を持っているはずだ。そして三年前、奴らのホームコースは同じだった。二人が走るとなれば、そこだろう。
「妙義山か」
「ああ」、と室川はべとついた笑いを思い起こさせる声を出した。「篤は何年ぶりってとこだしな」
瞬間、めんどくせえ、と啓介は思った。昔の連れと、わざわざ時間を決めて会うことがだった。
「なら」、だから啓介は、思いついたことを良い悪いは考えず、言っていた。「俺も今からそっちに行くよ。そこで会おうぜ」
「マジで? いいのかよ」
意外そうな室川の声だった。ああ、じゃあな、と端的に言い、啓介は通話を終わらせた。今日は一度帰宅してから赤城山に行くつもりだった。一度予定を崩す以上、新たに立てるのも億劫だ。それに、久しぶりに妙義山を走るというのも、いいかもしれない。そう思いながら、携帯電話をしまい、啓介は妙義山の情景を思い出した。山の起伏、路面、空気。そこに集まっていた車。黒いGT−Rしか、思い出せなかった。それも、思い出すのはすぐにやめ、ようやく車を発進させた。
中学は、比較的真面目に行っていた。勉強は好きではなかったが、成績は中の中だった。高校に入ると、途端、馬鹿らしくなった。いる人間が変わっても、質が変わらない。うんざりした。先に生まれてきた兄が、優秀な子供で、両親に優秀な人間になることを期待されており、自分にその役回りがこないことにも、うんざりしていたのかもしれない。誰からも、何も、良い行いをなすことを期待されていない。なら、好きにやってやろうと思った。そうして、高校から抜け出すことの多くなっていた頃、サボりグセはつけるなよ、とよく言ってきた男がいた。酔っている時に限ってだ。その男とは、酒を飲む場所でしか会わなかった。詳細については、よく覚えていない。その当時の記憶は、どれも曖昧だ。年下でも年上でも、馬鹿な奴でも賢い奴でも、まともな奴でもいかれてる奴でも、女でも男でも、誰とでも話して、誰とでも遊んで、誰とでも喧嘩して、誰とでもセックスして、時間を潰した。好きなようにやってやる、そう思ってはいたが、何をすれば良いのか、自分が本当に何をしたいかが分からず、心の底から楽しんだことは多くなかった。時間と金をただ、食い潰していた。鮮明に思い出せる事件や、人間も、多くない。サボりグセはつけるなよ。そう言ってきた男の素性も、知りはしなかった。前後に何を言われたかも、覚えていない。その時間だけ、切り取られている。兄が言いそうだと、思った。兄が言ってくれれば、と思った。言わないことが優しさなのだと、信用なのだと、気付く余裕もない頃だった。だから、それだけ、覚えているのかもしれない。ずっと見ていてくれる家族がいることを、見ないふりをしていた自分を、憎みたくなるから、覚えているのかもしれない。
ぺらぺらのグレーのスーツが肌のように馴染んでいる、薄笑いの似合うその男に街で、二年ぶりに会ったのは先週のことだ。サボりグセはつけるなよ、とは言われなかった。甘いところにいるんだな。大して楽しくもなさそうなのに、にやにやしながら、男はそう言った。チームのメンバーと、待ち合わせをしていた時だった。頬を上げて、啓介は言い返した。サボりたくならねえくらいに、楽しいとこですよ。
甘いところ、そうかもしれなかった。走り屋などと自称して峠道で爆走しているが、皆、暴走族のようなやんちゃな振る舞いはしない。女目当てで車を転がしている奴は、走り屋のチームには入らず、個人で動いている。走り屋のチーム。交通違反を重ね続けている集団だが、走るためにこそ集まっているため、それ以外の違法行為はしないようにという、暗黙の了解があった。そこは、確かにそういう意味で、甘いところなのかもしれない。
昔は、そういった上っ面だけ健全でいるような場所は、虫唾が走るほど嫌いなものだった。空っぽのくせに満ち足りていると錯覚したがっている奴、見栄を張るしか知らない奴、保守的であることを自慢したがる奴、そういう奴らと同じ空間にいたくなかった。だが、今は、そこまで嫌いでもなくなった。どんな奴であれ、走り屋としての立場を同じくするならば仲間で、そういった仲間は、簡単に手に入るものではないのだと、そう思える。
夜の峠。暗い空、冷たい風、排ガスのきつい匂い、木と虫の声、車の爆音、走るために群れる人間たち。それがどこの土地だろうとも、啓介は好きだ。甘いところ。それもいい。
ただ、赤城山よりも、妙義山は、甘すぎないところがあった。何せ、昔はところ構わず二輪をぶっ飛ばして、狂人扱いされていた室川ですら、単なる走り屋の一人として見られている場所だ。いくら暴走行為をやめたといえど、ロングTシャツにジーンズという軽装でバイクにまたがるなど、室川にはまだ無茶をしがちなところがあり、赤城山なら確実に浮くと思われた。だが、妙義山には、溶け込んでいる。
その室川の隣にいる立辺にしても、浮いてはいない。中肉中背、短い金髪、ブラウンのレザージャケットに赤いセーター、ベージュのチノパン。峠に、溶け込んでいる。俺はどっちだ、FDからふもとの駐車場に降り立った自分を、啓介は脳内で客観的に眺めてみた。背は高く筋肉質。いい顔――どういう顔だか知らないが、そう言ってくる奴が多い――をしている。立てて流した茶髪。アイロンのかけられたモスグリーンのシャツ、青地に赤の格子縞が入った綿パン。手入れのされている白いスニーカー。大分、視線を感じる。車から降りた直後とはいえ、溶け込めてはいないらしい。他の奴らと特別違いがあるとは思えないから、姿かたちの問題ではないだろう。夏、啓介はここをホームコースにしている、妙義ナイトキッズというチームの暫定的大将を、自分の属しているチームとの交流戦で、負かしていた。黒いGT−R。そのドライバーは、啓介がその場の走り屋に軽く会釈をしたのち、室川らのもとへと歩いている今でも、視線を送ってきている。他の走り屋も、そうだった。体中に、無数の視線が突き刺さってくる。もし、あいつを負かしてなけりゃ、俺も直人や篤のように、ここに馴染めたのか。そんな愚にもつかぬことを思いながら、啓介は待ち合わせをした二人の前まで行った。
「マジで来やがった、ナイトキッズ全員から憎まれてる高橋啓介さんが」
室川が心底楽しそうに言って、げらげら笑う。立辺も、笑っていた。三年前よりは、痩せた感じがあった。目つきの鋭さが、厄介さを増している。まだ、危ないことはやっているようだ。それでも、ここの走り屋たちは、立辺を迎え入れている。おそらく今は、立辺よりもよほどまともである自分を差し置いてだ。わずかな不快感を、二人との久しぶりの再会の楽しさで紛らわせ、啓介は笑ってやった。
「そこまでナイトキッズってのは、暇人の集まりかよ」
一頻り笑った立辺が、おい、と肩を叩いてくる。
「何、いくら速いからって君、毅さん倒しちゃ駄目だろ、啓介君。あの人は俺らのアイドルだぜ」
その言葉には、さすがの啓介も、笑いを続けられなかった。アイドル?
「お前、頭わいてんのか?」
「お、信じてねえな、その目は」
「冗談きついぜ、それは」
夏、啓介が負かしたGT−Rのドライバー、中里毅は、アイドルになりえる男だとは到底考えられなかった。濃い顔に、単純な頭、ださい服装。すぐ後ろにいるはずの、その男を思い出し、ふと啓介は、立辺の発言を不思議に思った。
「っつーかお前、中里知ってんのか」
三年近く群馬を離れていたはずの立辺が、中里を知る機会があるとしたら、それ以前だ。だとすれば、その頃から中里は、立辺の言うところの、奴らのアイドルであったことになる。随分、想像のつかない話だ。
「おお」、と立辺は即座に頷いた。「ま、俺はナイトキッズは入ってねえけど、同じ峠走ってりゃ顔は会わせるしな。あの人はいい人だぜ。今日も思わず久しぶりの再会に感極まって、俺は抱擁しちまったよ。もう何つーの、積年の思いを込めて?」
立辺が楽しそうに、誰か――中里だろう――を抱きしめる動きをし、室川は下品な笑みを浮かべながら、引かれてたけどな、と言い、引かれてねえよ!、立辺は不当そうに叫び返した。この二人の言うことは、冗談がほとんどだった。これも、冗談なのかもしれない。だが、立辺が中里を昔から知っていたというのは、本当のことに思えた。そんな無駄な嘘を吐くほど、こいつらは馬鹿にはなり切れていない。
「引かれた」「引かれてない」の言い合いを始めた二人を眺めながら、啓介は、意表さに浸っていた。立辺は妙義山を二輪で走り出した頃から、長いやんちゃ時代のピークに入り始めたはずだった。つまりおそらくは、そういう曲者からも、中里は『いい人』だと思われるような動き方をしていたということだ。交流戦でも、その前に秋名山で偶然に会った時でも、啓介はあの男を『いい人』だと思えるような態度は、見たことがない。自分の態度も悪かったかもしれない、そうは思うが、自分以上にあの男の態度は悪かったとも、確信できる。だから、そんな男が、この一筋縄ではいかない立辺から、『アイドル』だのと言われることは、意外だった。自分の知らない中里を、この二人、ひいてはここにいるすべての走り屋が知っていて、自分の知っている中里など、本来どこにもいないのかもしれない、そんな気分になった。喉に何かが溜まっているような、重苦しい気分だ。だが、既に負かしている、あんな男のことなどで、重苦しい気分になっていたくはなかった。
「それで、今まで何やってたんだ、お前」
話を変えるために聞くと、引かれた引かれていないとまだ言い合っていた立辺は、それでも大仰に肩をすくめて答えてきた。
「まあ、何だ、色々と、各地を歩いてだな。見聞を広めていたわけだ」
「まだ女の世話になってんのか」
「それをやめようと、努力をする旅に出てたんだよ、俺は。刺されたくねえし」
けらけら笑ってから、それより、と立辺は鋭い目で見てきた。
「お前はえらい出世してるらしいじゃねえか、啓介。群馬の走り屋の、何だっけ?」
「誇りとかいう奴もいるな」、と室川が言った。「ナイトキッズじゃいねえけど」
「そう、それだ。お前、何でそんなにナイトキッズに嫌われてんだよ」
人差し指を突きつけられ、啓介は顔をしかめた。話が戻ってしまった。すっきりとしない気分のまま、啓介は言った。
「俺が中里に勝ったからだろ」
「勝ち負け程度でそんな嫌いまくるほど、全員は馬鹿じゃないぜ、うちのチームも」、室川が笑う。「馬鹿がほとんどだけどよ、はは」
「そんなこと」、と啓介は、笑わずに言った。「俺には分かんねえよ。まあ、気に食わねえもんは気に食わねえってことだと思うぜ」
妙義ナイトキッズがどういうチームであるかなど、啓介はよく知らなかった。今、こうしてこの二人と話している間でも、わずかな厳しい視線を食らっていることは分かるが、ナイトキッズの連中に嫌われているのか、嫌われているのならばどれほど嫌われているかとなると、分からない。知るつもりも、分かるつもりもない。自分はナイトキッズのメンバーではないし、そいつらに嫌われていたところで、どうでもいいことだった。
「何だ、冷てえな、啓介」、立辺が人の顔色をうかがうような、へらへら笑いを浮かべたまま、言う。「走ってくんだろ?」
話は変わったが、それは、気分の変わらない方向にだった。笑えないまま、啓介は答えた。
「ここの暫定的大将さんの、お許しが出たらな」
「お、何だ、お前そんな難しい日本語使えるようになったんだな。感心感心」
「お前より俺は、賢いからよ」
背中を叩いてくる室川の手を、そう言って払いのけ、二人の笑い声を後ろに聞きながら、啓介は歩いた。来た時と同じ場所にある、黒いGT−Rに向かった。その傍に立っている黒髪の男も、同じだ。顔がこちらを向いていたが、啓介が歩き出すと、唐突に逸らされた。興味がない、と言いたげな素振りだが、だからこそ、気になって仕方がない、という様子に見えた。
「よお」
近くまで寄り、声をかけると、今初めて気付いたように、中里は顔を上げた。太い眉、大きい目、削げた頬。アイドルには程遠い、特徴的ないかつい顔貌は、挑戦的なようで、困惑と焦りを浮かせている。本音の隠し方が、下手糞にもほどがある男だった。懐かしさを、啓介は感じた。これが、中里という男だ。先ほどの重苦しさが消え去るほど、現実的だった。
「元気か?」
気分が軽くなり、啓介は軽々しく言っていた。中里は、ぎょっとしたように顔をしかめた。
「何だそりゃ」
「何が」
「何でお前が俺に、元気かどうかなんて聞いてきやがる」
低い声で、中里は言った。凄んできている。喧嘩を売ってくださっている、と取っても失礼がないと思われる態度だった。つまり、むかつく態度だ。だが、喧嘩を買ってやろうと思うには、どこかに無理のある態度でもあった。つまり、ぎこちがない。勇猛な男であろうとして、失敗している。交流戦の前に会った時も、そうだったかもしれない。その時は自分も昂ぶっていたから、そのまま受け取ったが、こうして冷静でいる時に見ると、やはりこの男は、演技が下手糞にもほどがあった。そういう男に対して、懐かしさが募った。
「何だ」
中里が、訝しげに睨んでくる。つい、薄く笑っていたのを、嘲笑にでも見られたらしい。興ざめし、いや、と笑みを消して、感じたままを、啓介は言った。
「お前、俺と話したそうだったからよ」
「ああ?」
ちんぴらのように顔をゆがめた中里は、「おい」、と声を低め、右の人差し指を啓介の顎に突きつけてきた。
「調子に乗るなよ、高橋啓介。誰も彼もがお前のこと好いて崇めるなんて思ったら、大間違いだ」
むかつく態度は変わらなかった。交流戦以前は、こんな態度に出られれば、はらわたが煮えくり返っていたことだろう。だが、今は、怒りは呼び起こされなかった。頭は熱くならなかった。言っていることが、あまりに的外れなせいかもしれない。それ以上に、既に一度、走りで優劣を決めてしまっているから、もう、痛めつける気にならないのかもしれなかった。啓介は、親の敵のように睨み上げてくる中里を、静かに見下ろしながら、「お前よ」、と言った。
「どうすりゃ俺が、そんなこと思ってるなんて考えられんだ?」
「何?」
「俺の頭はそんな勘違いできるほど、めでたくねえよ。俺は、好かれるより嫌われる方が多いしな」、そこまで言って、啓介は思いついて付け足した。「お前も俺のこと、嫌ってんだろ?」
中里は、唖然たる面持ちになり、突きつけてきた指を下げ、その右手で顎を撫でると、啓介の顔から視線を逸らし、瞬きを繰り返した。態度で既に嫌悪は示しているだろうに、そこで何を考える必要があるのか、啓介には知れなかったが、急ぐこともなかったので、中里が言葉を発するのを待った。細く息を吐いた中里は、顎に手をやったまま、意を決したように、再び睨み上げてきたが、その顔にも声にも、焦りが満ちていた。
「相手のこと、好きになるか嫌いになるか、どっちかしかねえと思うのか、お前は」
「答えになってねえな」、と啓介はただちに言い返した。言葉に詰まったように口を何度か開閉した中里は、だが詰まらせず、啓介の問いに、ようやく答えた。
「俺は、そこまでお前のことを、気にしちゃいねえってことだ。お前のことなんざ、俺には関係ねえ」
直接的な答えが出てこなかったのは、意外だった。この男らしくないように、思えた。「そうか?」、啓介は、高い背を利用して、中里を悠然と見下ろしながら、はっきり言った。「ああ」、と中里は、力を込めて、はっきり頷いた。数拍置いてから、啓介は聞いた。
「本気で?」
「当たり前じゃねえか、そんなこと」
慌しく中里が言い切ったことを確かめてから、啓介は頷き、黙ったまま、中里に背を向けた。
「あ、おい」
一歩も進まぬうちに、声がかけられた。案の定だった。啓介は振り向いて、小さく笑ってやった。
「気にしてんじゃねえか」
呆然としたような中里の顔が、ばつの悪そうな顔に変わった。図星のようだ。意固地さを、だが中里はそこで終わらせた。
「お前が嫌いってんじゃねえよ、俺は」、咳払いをしてから、中里は言った。「FDは嫌いだけどな。ロータリー積んでるあの車」
「俺もRは嫌いだ」、啓介はすぐに言った。スピードしか能のねえあの車。
「知ってるよ」、鬱陶しそうに中里は言った。噛みつくような態度を取り、好悪を言うほど気にしていないと言っておいて、粗を指摘されると、嫌いじゃないと言い直す。無駄の多い奴だった。
「でも」、啓介は中里を見たまま、言った。「お前のことは嫌いじゃねえ」
目を見開いた中里は、嫌そうにするか笑うか、決めかねているような、半端な顔になった。軽蔑したくなるほど馬鹿で、へそ曲がりな男だ。無駄が多い。だが、そのくせ、見ていておかしくなるほど、素直でもある。そして、それでも軽んじられないほど、芯の通ったところのある男だった。取られる態度はむかつくし、あまりの頑固さには興ざめもする。だが啓介は、中里を、嫌いとは感じなかった。嫌いではない。それは、広い可能性を持つ感情の決定だった。
「俺も」、とまた口を幾度も開閉した中里が、腹から出した声で言った。
「多分、同じようなもんだぜ」
途端、強い違和感を、啓介は覚えた。本当に、そう思うのか? 聞こうとして、やめた。言葉自体は同じだし、そろそろわざわざこの男に話しかけた目的を、果たしたかった。
「それより、ここ走ってもいいか」
中里は、それには関係しないことを何か言いたげだったが、腰に両手を当てると、「いいぜ」、と答えた。「道は開けさせる。好きにしてくれ」
「そこまでしなくていい」、啓介は言った。「俺も走り屋だ、勝手は知ってる。好きにさせてくれ」
見合っていた。中里の目に、最早敵意は窺えなかった。その顔にはただ、困惑ばかりがあった。しくじった、そう言っているような顔だった。それを見ていると、自分まで、何かしくじったような気になる、そんな顔だった。
「ああ」
困惑を皮膚の下に引っ込め、中里は無理のある、だが見ようによっては挑戦的である、笑みを浮かべた。不思議と、自分が何も知りえないという、重苦しい気分が戻ってくる中、相手と似たような笑みを、啓介は返してやっていた。
よほど遅い車だけは抜かしながら、ドライブとして、上下を走っていると、むかついていた気分も、持ち直してきた。数回走り、駐車場に戻った。室川と立辺は、走っていなかった。今日は肩慣らし程度にしておくという。そして、腹が減ったと言い出したので、そのまま峠を後にして、近場のファミレスに行った。晩飯を食いながら、昔の話をした。青森まで二輪で走り続けたこと、釣りに行って女しか釣れずに終わったこと、骨折まみれの喧嘩をしたこと、思い出話は尽きなかった。懐かしく、面白かった。消えない鬱屈があっても、全身で笑えることが多かった頃のことだった。だが、何か、別の人間の話をしているような気も、していた。
走りの話になったのは、必然だろう。つい先ほどまで、走っていたのだ。改造の話、性能の話、昔のバトルの話。そこまでくると、重苦しい気分が、思い出され、喉に溜まった。
「中里って、どういう奴なんだ」
煙草を一つ吸ってから、啓介は前に座る室川と立辺、二人に尋ねていた。二人は顔を見合わせて、似たようなべたついた笑いを浮かべた。
「ああいう人じゃねえの」、と立辺が言った。啓介はまだ煙の残る息を、窓に吹きかけてから、言った。
「馬鹿で間抜けで単純」
「ひっでー奴」、と室川が笑う。「だから嫌われんだ、お前は」
嫌われてはいない、そうも言い返せたが、窓を見ながら啓介は、傍目に明らかであろうことを言った。
「俺は、お前らみてえにあいつに優しくされたことはねえからよ」
間が空いた。啓介は、二人を見た。軽薄な笑いがある。
「拗ねてんのか?」、と言ってきたのは、立辺だった。
「四年前、お前に貸した三万、返してもらってねえよな、篤」
顎を上げ、見下ろしながら啓介が言うと、「優しくされてんだろォ」、と立辺は大げさに笑った。「お前がそれに気付かねえだけ。もっと広い心を持て、啓介君。三万くらい気にするな」
「お前、偉そうな奴だよな、マジで」
室川があざ笑う。啓介は、ただ笑い、煙草を吸った。それで、その話は終わった。取り戻す気にも、ならなかった。
飯を食べ終え、会計を済ませ、駐車場で二人と別れた。FDに乗り、一つ息を吐くと、笑いの余韻も残していない、冷めている自分を感じた。立場の違いを、感じた。あの二人と、はしゃぎ合う、ぶつかる立場ではなくなっていた。会うことも、遊ぶこともできる。価値観は違うが、一緒にいてつまらないこともない。だが、もう、あの二人と同じ場所で、暮らすことはできないだろう。時間が経った。あの二人とつるんでいた当時とは、一切関わりがない生活が、今はある。高校など、辞めてもいいとすら思っていたのに、大学に通っている。四輪に乗り、兄と同じ、走り屋になった。チームがある。車とともに、より高いところを目指している。これから、やるべきことは山とある。遊ぶことはできる。だが、あそこには戻れない。やるべきことが、山とあるのだ。ここから、積み重ねていかなければならない。ただ、思うことがある。――ここって、どこだ?
赤城山に、行くつもりだった。走り屋としての自分が、始まった地だった。そこをFDで走れば、それだけで、今を体感できる。自律を放棄していた時代への郷愁も、理不尽さがもたらす重苦しさも、呆気なく吹き飛んでいく。
だが、走るには、集中力が欠けていた。走るなら赤城山だが、そうでなければ、どこへ行くのでも同じだった。だから、妙義山に向かった。ただ、気になっているのだった。中里。あの男には、GT−Rには、既に勝っている。再戦もあるだろうが、今ではない。今、あの男を気にする必要はない。必要はないが、気になっている。他の奴らの知っている中里を、自分は知らない。では、自分が知っている中里とは、何なのか――それが、気になり出している。いちいち敵対的な、優しさなど見当たらない、むかつく、しかし無理を感じさせる態度を取る、演技が下手糞な、こちらを、嫌いではないとは言ったあの男が、本当に妙義山にいたのか、気になっている。どこへ行くのでも同じなら、意識を奪われる事柄へ、当たる方が良い。集中力も、戻せるだろうと思われた。
ふもとの駐車場だった。闇に紛れる黒いGT−Rは、残っていた。他の二台の車からは、距離がある。それらよりも近くに、FDを停めた。降りて、十歩もせずに、GT−Rの傍に立つ中里を、見下ろせる位置に来た。
「帰ったんじゃねえのか」
咥え煙草で、唇を妙な形に歪めながら、中里は言った。その上唇と下唇の動きを見ながら、いや、と啓介は言った。
「飯食ってた」
「それで、また、ここで」
「お前がいるかと思ってな」
本音だった。中里は、不審そうに、不快そうに、顔をしかめた。
「俺に、何の用だよ」
「別に」、啓介は肩をすくめた。「お前がいるかと思って来たら、お前がいた。それだけだ。おかしいか?」
中里は黙った。おかしいともおかしくないとも、言いがたいようだった。啓介も黙った。沈黙が生まれた。別段、居心地の悪さも感じられない沈黙だった。何を言う必要も、啓介は感じなかった。中里が、いるだろうかと思って、ここまで来た。そして、中里はいた。それだけだ。他に、何をしようというつもりもなかった。目の前で、GT−Rの横に立ち、煙草を咥えながら、居心地悪そうに顔をしかめている男こそが、啓介の知っている中里だった。それさえ感じられれば、重苦しさも何も、なかった。おかしくとも、構わなかった。
だが、中里は、沈黙に息苦しさを覚えているようで、何度か喉を撫でた。撫でたその手で、咥えていた煙草を持ち、ため息には浅すぎる、吐息には重すぎる息を吐くと、音を立てて息を吸い、啓介を見上げた。
「俺は、お前に負けてるってこと、忘れられねえ」
つながりの知れない言葉だった。啓介は、額面通りに受け取った。
「それ忘れたら、俺はお前のことを忘れるぜ」
「そうじゃねえよ、だから……」、中里は瞬きのごとに目の位置を変え、最終的に、GT−Rのサイドミラーを見ながら言った。「それ以外のこと、出せねえんだ。お前がいくら進んでいこうが、お前がそれを忘れようが、俺は忘れられねえし、ここにいる」
一人頷いて、中里は、再び啓介を見た。
「それが、俺のやり方なんだ」
意志に溢れた顔の中、どこか、許しを請うような色のある、目をしていた。負けていることを忘れられないから、それ以外のことは、出せない。それが、中里のやり方らしい。それは分かった。だが、話のつながりは、知れなかった。
「それで」、と啓介は、中里を見返しながら言った。「お前は何を言いてえんだ?」
中里は、不意を食ったように、眉を上げ、目を見開いた。言葉はしばらくなかった。風の音と、梢の鳴る音、他の二台の車が、駐車場から遠ざかる音が聞こえた。風がやんだのち、中里は、半端に開けていた口から、声を出した。
「分からねえ」
今度は啓介が、不意を食い、眉を上げ、目を見開いていた。中里は、ばつが悪そうに啓介から顔を逸らし、鼻の頭を右の親指で掻き、煙草を吸った。負けていることを忘れられない、それ以外を出せない、それがやり方だと、そんなことを言ったのだから、てっきり、俺とお前は違うだの何だの、そういう益体もないまとめ方をしてくるのだと、そう思った。それが、分からない、ときたものだ。先ほどの発言に、意味をつけることを、放棄したに等しい。あるいは、最初から意味をつけるつもりなど、なかったのかもしれない。単に、間を持たせるために、思いつくままに言葉を並べただけだったのかもしれない。だとしたら、
「素直だな」
そうとしか、言えない男だ。
「うるせえよ」
険しい顔をして、中里は吐き捨てるように言った。歯がゆそうだった。敵対的な態度と、言えたかもしれない。だが、そこから敵愾心は窺えなかった。
――俺はお前が嫌いなんじゃねえ。
その言葉が、本当だと思える、無理のある態度だった。中里は、自分と敵であろうとしているらしい。それはそうだろう、一度負けている相手と、手を取り合って仲良くできる類の、呑気で寛容的で平和的な人間には見えない。だが、そういう人間が、敵愾心を窺わせずに、敵対的な態度を取ってくるというのも、おかしな話だった。もとより、馬鹿と評したくなるほど、素直な男だ。感情のこもらない態度は、似合わないどころか、無理しかない。それが優しさだと捉えるのと同じくらい、無理のあることだ。
強気さと不可解さ、そしてわずかな怯えと困惑を浮かせている、中里の顔を、何を言う必要も感じないので、黙って見下ろしながら啓介は、ふと、胸のつかえが取れた気分を得た。もし、この態度がこの男の優しさならば、すべて、理解ができるような気がした。自分と敵であることが、自分たちにとって、最善だと思っている。嫌いじゃない。だからこそ、敢えて嫌っているような態度を取る。兄がなしていたような、ただ、すべてを見届けるだけの優しさがあるならば、そういう、すべてを演じることの優しさもあるだろう。無理はない。そう考えれば、中里という奴にしても、確かに『いい人』と言えるのかもしれない。自分の感情を操作して、相手に利をもたらそうとしている。
だが、それが例え優しさゆえだろうとも、作られた態度に、触れていたいとは思わなかった。それならいっそ、本気の憎しみに触れる方が良い。情緒がある。感慨がある。興奮がある。血が騒ぐ。生きていると感じられる。本気に触れたい。生身を、感じたかった。
その発想は、唐突だった。触れてみたい。敵であることを貫こうとしながら、再び居心地悪そうに、せわしなく瞬きを繰り返し出した中里の、肉体に触れたくなった。それは唐突な発想で、だが、自然であり、確定的だった。
今、この場に、自分たちの他に誰もいないことは、分かっていた。分かっていたから動いたのか、分かっていなくとも動いたのかは、分からなかった。だが、ともかく啓介は、動いていた。顔を、近づけただけだった。キスは容易かった。中里は避けなかった。唇が触れた。何か、紙くずでも落ちたような音がして、すぐ、胸を押された。目も口も大きく開いた、唖然とした中里の顔に、焦点を合わせられる距離が、開いた。
「何してんだ、てめえは」
どもりかけながら、中里は言った。声は尖り、目は角立ち、顔は強張り赤みを帯びている。大仰なその戸惑いように、啓介は、違和感を思い出し、「同じじゃねえよ」、と言っていた。「俺とお前は」
「あ?」
「嫌いじゃねえってだけで、俺のできることを、お前はできねえ。一緒にするな」
隠す余裕もないのか、中里はその顔に、態度に、戸惑いを露わにしていた。
「お前のできることって、何だよ」
「お前にできねえことだ」
「俺にできねえって、どうして分かる」
「ならできるのか?」、啓介は思いついた範囲を言った。「お前は俺と寝れんのか?」
中里は口を開き、そのまま固まった。間が空いた。啓介は、足元のアスファルトを見た。火種の消されていない煙草が落ちていた。キスをした時に、中里が落としたらしい。それを靴で踏み潰し、啓介は中里に目を戻した。中里は下を見ていた。口は半端に開いたままだ。今にも言葉がそこから落ちてきそうだった。
「お前」、啓介を見ぬまま、中里は唇を痙攣しているように動かした。「できるのか」
「俺はな」
すぐさま啓介は言った。自分のことだ、できるかできないかくらいは分かる。やりたいかやりたくないかも分かる。どこまで触れたがっているかも、分かる。中里が、顔を上げた。血の気の引いた顔をしていた。この男のことは分からない。自分は中里ではない。だが、外見から推量できることはある。
「お前はできるってツラしてねえよ、中里」
「できるからって」
こちらの語尾に被せるように言った中里の顔は、既に血の気に満ちていた。「できるできねえ、できることできねえことで、それが決まるわけじゃねえだろ」
「それって何だ」、分からず、啓介は問うた。中里は不当そうに言った。
「嫌いじゃねえって、その範囲だよ。行動で、全部決まるってのか?」
「行動じゃなけりゃ、何で決まる。何も言えねえのに、何も見られねえのに、何が決められる」
素直な意見を啓介は述べた。嫌いじゃない、そう自分が言った時、中里は、同じようなものだと言った。俺も、同じようなもんだ。そこで覚えた違和感は、つまり、そういうことだ。嫌いじゃない、互いにそうだとしても、その意味とは、各自で違うはずだった。そこで起こせる行動には、違いがあるはずだった。同じなわけがない。現に中里は、唇を触れ合わせただけで、時間が経ってもなお、視点を安定させず、各所の筋肉を不恰好に震わせている。同じではないのだ。啓介は、右手を上げた。胸の位置にきただけで、中里は軽く仰け反り、足を半歩ほど引いた。その頬に触れることなく、啓介は右手を下ろし、肩をすくめた。行動が定める範囲の違いなど、中里は考えもしなかったのだろう。
「まあ、お前は俺のこと、そこまで気にしちゃいねえんだったな」
納得して、啓介は言った。
「そうじゃねえ」
だが、中里ははっきりと、否定した。信じがたく、啓介は顔をしかめていた。
「そうだろ?」
「違う、俺は……」、中里は考えるような間を空けた末、繰り返した。「そうじゃねえんだ」
「じゃあ何だ」
それほど気にしていないから、互いの嫌いじゃないという範囲について考えなかった、この結論は妥当に思えた。啓介にしても、今になるまで違和感の正体は分からなかった。探ろうとしなかったからだ。そこまでの興味を、持っていなかった。頷ける話だ。それだけのことだった。それだけのことの、何を中里が否定しようとしているのか、見当もつかない。だから何かと尋ねたのだが、中里は小難しい顔をして俯き、黙ってしまった。何か言いたそうに、下唇を動かしても、声は出さない。この沈黙には、待つのに飽いて、
「それ以外は出せねえんだろ」、よく分からない話だったが、関係があれば僥倖だという気持ちで、啓介は言った。「俺も別に、出してもらうつもりもねえけど」
「高橋」
俯いたまま中里は、強張った声を出した。だが、その先に言葉は続かなかった。待つのには飽いていた。駄目で元々、啓介はでまかせに問うた。
「それともお前は出してえのか?」
中里は、顔を上げた。そこにはひどい焦りが浮いていた。問われていることの意味を、理解しえず、考えている人間の、思索のある焦りには見えなかった。図星を指された人間の、混乱を処理して体裁を整えようとする、焦りに見えた。
「何言ってんだ」
再度俯き、吐き捨てるように、小さな声で、中里は言った。その中里の顔は最早、『できない顔』としては、啓介の目には映らなかった。この男は、何かを期待している、そう感じる。何かを晒したがっている。それを、しないのか、できないのかは分からない。本当に、したがっているかどうかも定かではない。自分は中里ではない。だが、外見で推量できることはある。見て、感じることがある。明らかな虚勢、不自然な動揺、得たいの知れない期待。欲求が、戻ってきた。血がたぎっている。高尚なことは一つもなかった。暇潰しでも、自分探しでもない。単純な欲望だった。興奮を求めていた。本気を隠す男の本気を、暴いてみたかった。
上げた右手を今度は、途中で下ろしはしなかった。やはり半歩足を引いて、軽く仰け反った中里の、顎を掴んで、唇を合わせた。舌を探り、吸い上げる。腕を、掴まれた。強い力だった。こんなとこで、と啓介は思った。やるもんじゃねえだろ、普通。思いながら、顔の角度を変えて、舌を絡め、左手で後頭部を持ち、顎を掴んでいた右手を、シャツの裾から、背中に回した。素肌を撫でると、一層強く、腕を掴まれた。あざになるだろう、それが分かるほどの、痛みがあった。それでも、受け入れられているキスをやめる気にも、中里の体に触れる手を離す気にも、ならなかった。
そのまま、前方に体重をかけていくと、中里は背を反らせ、ついに膝を崩した。体を支えてやりながら、アスファルトに、押し倒す。そこで、中里は顔を振ってキスを拒み、肩を押してきた。
「何すんだ、お前、何を」
目を、合わせてはこなかった。強張った顔、怯えた表情。だが、嫌悪は窺えなかった。手で押し上げられた肩にも、もう力は込められていない。啓介は、中里を見下ろした。中里は、啓介を見ようとしない。怯えている。だが、目を向けてこないのは、怯えのためには見えなかった。右手で、頬に触れる。中里は、筋肉をより緊張させる。肌は熱い。啓介は、中里を見下ろしていた。そして、合わせられない目の奥に、その強張った顔の、肌の奥に、後ろめたさを、見つけた。
「俺の、できることだ」
問いに答えると、中里が、ついに、目を向けてきた。不安定に潤んだ目だった。
「やめろ」
ゆっくりと眉をひそめ、首を横に振りながら、消え入りそうな声で、中里は言った。啓介は、同じように、首を横に振り、ただし、何も言わず、すぐに中里の首に吸いついた。脈に食いつくように、皮膚を唇で挟む。中里の息が、強く聞こえた。両肩に、手は当てられている。だが、力は込められていない。いくらでも、動くことができた。中里のジーンズの前を開き、中に手を入れることも、容易かった。半ば勃っているものが、そこにあった。既にぬめっている。単純な刺激への反応のみだとは、思えなかった。それを握り、まくりあげたシャツの下にある胸を舐めながら、しごいてやる。
「やめろ、お前、こんな……」
肩を、強く掴まれたが、やはり押しのけられはしなかった。構わず、啓介は中里のペニスをしごき続けた。他に誰かが来れば、やめるつもりだった。車の影になってはいるが、少し近づくだけで、何をしているかは分かるだろう。自分たちの立場上、誰にも見られてはいけないということは、分かっていた。だから、誰にも来てほしくなかった。
すぐに、中里は完全に勃起した。手の中に、剥き出しの中里のそれを感じながら、その荒い息遣いを聞いていると、たまらなくなった。やり方は知っている。昔、その場限りの相手に頼まれて、何度かしたこともある。尻の中の、どこがいいのかも、教えられた。
服の下に、痛いまでに強い欲望を感じていたが、中里の、靴もジーンズも下着も脱がし、まず、尻の穴に唾で濡らした指を入れた。完璧に慣らすには、時間が足りなかった。いくらか中が緩まったところで、啓介は指を引き抜いた。中里は大きく呻き、足をばたつかせた。その片足を片手で抱え、片手で自分のペニスを取り出した。勃起しているそれの先端を、中里の尻の穴に押し当てる。もっと触れたかった。もっと深くまで入り込んで、その時の、この男を見てみたかった。
挿入には、相当な圧迫感と、刺激がともなった。それは、ねじ込む、という言葉が相応しいほどだった。中里は、音を立てて何度も息を吸っていた。瞬いたその両目から、涙が二滴、こめかみに落ちた。泣いているようだった。それだけ苦しいのかもしれない。足が、何かを蹴ろうとしていた。その足を開かせ、胸に押しつけ、腰をゆっくり動かすも、どうにも、押しにくく、引きにくく、円滑にはいかなかった。それでも摩擦は十分だった。
「……う、ん……ぐっ……うっ……」
抜き差しの都度、中里の、喉を閉じている、低い声が漏れてくる。犯している、そう思う。強い抵抗はされなかったが、やめろと何度も言われたし、許可を得ているわけでもない。中里を犯している。だが、暴力的な気分にはならなかった。突っ込む以上に、傷つけるつもりにもならなかった。時折跳ねる体を押さえ込んで、それほど引っかからなくなるまで、ゆっくりと、単純に腰を動かした。徐々に、速度を上げる。快感のためだった。中里は、相変わらず、おぼれているように、喘いでいる。真っ赤な顔に、瞬きのついでのように、涙がいくつも流れている。暴力的な気分にはならなかった。ただ、泣けばいいと思った。泣きたいだけ泣けばいい。無理せず、素直にしていればいい。その方が、この男には似合っている。その方が、見ていると、興奮する。その方が、ずっと触れている感じがする。そうして止まらずにいると、
「高橋、たかはし……」、中里がうわ言のように、鼻声で言った。
「啓介だよ、俺は」、動き続けながら、啓介は言い、そして、ねじ込んでもなお勃起を保っている、中里のペニスをしごいた。「啓介だ」
「ひっ、う、ううっ……」
両手を不規則に動かし、喉を開いた声を、中里は出した。尻の中が、きつくなった。それでも啓介は動き続けた。本来短くはないが、明らかな泣き声を漏らしながら、明らかな泣き顔を晒している中里を見ながらでは、射精の欲求を抑えることが難しかった。中里が、手に触れてきた。中里のペニスを握っている手だった。
「けい、すけ」
中里が、その手で摩擦を止めようとしたのか、進ませようとしたのかは分からなかった。そう言ってすぐ、射精したからだ。そして啓介も、ほどなくして達した。
最中、慎重で、冷静でいたつもりだったが、射精後の頭で状況を見てみると、さすがにひどいと思わざるを得なかった。精液の残滓のある自分の手、中里の剥き出しの腹、胸、股間、尻。涙に濡れている顔。合意のもとと言うには、無残な中里の姿だった。放っておけるものでもなかった。
啓介は、まずシャツを脱いだ。よく着るシャツで、思い入れもあるが、他に適当な布もない。それで自分の手を拭き、次にペニスを拭いて服の下にしまい、他の部分で、アスファルトの上に横たわったままの中里の、体液にまみれている主な箇所を拭いた。中里は啓介の手を、シャツを、払いのけようとしたが、手早く啓介は作業を済ませ、脱がせた下着とジーンズを渡し、立ち上がった。中里はまだ涙と鼻水のわずかに残る赤い顔で、衣服を受け取り、ぎこちなく、だが初めて尻に挿入された人間にしては素早く、身につけた。啓介はそれを、自分と中里の体液が染みたシャツを丸めて手に持ちながら、見下ろしていた。手伝うこともできたが、しなかった。一人でどうにかするという気概が、中里の肉体から漂っていた。誰の手出しも拒むような、厳しさがあった。先ほどまで、尻に突っ込まれて泣いていたことから、離れたそうだった。
自力で服を着直し、立ち上がった中里が、顔を手で拭い、鼻をすすってから、啓介を見た。
「何で、こんなことがお前は、できるんだ」
そう聞いてくる声はまだ、鼻にかかっていた。顔も赤い。だがそれはもう、泣き顔ではなかった。体裁は最低限整えられており、余韻を消さんとしていた。その険しい顔を見据えながら、啓介は思い浮かんだことを、そのまま答えた。
「俺はお前とは、違うからな」
中里は、瞬間目を見開いて、すぐに俯いた。手でまた顔を撫でて、かすれた声で、
「高橋」、と、顔を上げぬまま言ってきた。「忘れてくれ」
少し考えてから、啓介は顔をしかめた。
「難しい話だな、そりゃ」
「頼む」
中里は俯いたままだった。啓介は比較的綺麗である左手で、首筋を掻いた。忘れるには、強烈すぎる出来事だった。厳格さを出そうとするかのように顔を強張らせ、しっかと地面に立ちながらも、泣き声を引きずっている中里を見ていると、もう一度、泣かせてやりたいような気もしてくる。もっとじっくりと、寝てみたい気もする。だが、一回終えてしまった状態では、適切に主張できるほどの欲望も、ついてはこなかった。
「まあ」、と啓介は、あまり使いたくない言葉だが、現状他に選択肢もないので、仕方なく言った。「考えとくよ」
目だけを上げてこちらを見、ああ、と言った中里は、ほっとしたように眉間の強張りをといた。事を強引に運んだのは自分だと、啓介は感じる。暴力は振るわなかったが、似たようなことだったろう。だから、肉体に無理を強いたことは気にかかっている。ただ、それは今、中里の表情の端々から窺えるような、後ろめたさとは違う。同意は得られていない行為だったというのに、罪悪感は、わいてこなかった。なるべくしてなった、そんな風にしか思えなかった。犯した側の自分がそう思っていて、犯された側の中里が後ろめたがっているというのは、妙な話だ。何でそんなツラしてんだ? 本当は、そう尋ねたかったが、二人きりでないと、答えを期待できそうにはなかったので、やめた――スキール音が、間近に聞こえていたのだ。
「運転できるか?」
代わりの問いを、開いた口から出した。慣れている奴に挿入したことはあるが、尻を開発したこともされたこともないので、初めてに際してどれだけの苦痛が伴うか、正確には知らない。それでも、想像はできる。だが、中里は、そんな想像など許さないかのように、きつく睨んできた。
「俺を見くびるな」
今さっき、忘れてくれと、頼んできた男の軟弱さは引っ込んでいた。凄むようにして啓介にそう言ってくると、別れの挨拶もないまま、中里は荒々しく傍の車に乗り込んだ。尻を痛めた歩き方は見せなかった。それがまたわざとらしかったが、妙義ナイトキッズのGT−R乗り、中里のやることだと思えば、いちいち気にするのも馬鹿らしくなってきた。取り繕った態度の奥にある、生々しい部分、見られるものは見られたし、触れられるものには触れられた。気分は悪くない――ただ、黒いGT−Rが去り、違う車が入ってきた空気の冷たい駐車場で、上半身タンクトップ一枚で、藻のような色と手触りがまばらにあるシャツと、皮膚にこびりついているべたつきを手に感じつつ立っていると、若干途方に暮れたような気分にもなった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
大学構内で、ロングコートを着ながら、下着が見えそうなほど短いスカートを履いた、美しい足をしている女を眺めているのも風情はあるが、似たような歳の人間に囲まれているより、叫び出したくなるほど綺麗な青空の下を、一人でぶらつきたかった。講義が昼休みの後一つ飛んであるため、時間が余っている。外のどこかで昼飯を食べて、昼寝でもして戻れば丁度良さそうだった。もう冬も近いこの時期、このくらいの快晴の日でなければ、セーター一枚で、外で昼寝はなかなかできない。
車で出て、店で外食という気分でもなかった。大学近くのコンビニでスパゲティサラダとミネラルウォーターを買い、散歩としゃれ込んだ。
住宅街にある公園でも、家族連れで賑わっているところもあれば、一週間は人は来ていないと思われる寂れたところもある。後者は、ベンチで休むのに最適だった。無邪気な子供への警戒心にみなぎっている母親や、疲れきったサラリーマンなどの人目を気にせず、一つを占領して寝転がれる。そこを、コンビニ袋を片手に、啓介は目指していた。がらんとした感のある団地の間、木々に覆われている公園だ。誰にも教えていない、最良の昼寝スポットだった。
路地に入ると、人通りが一気に途絶えた。頬に冷たい風を感じながら、啓介は人間が通るには広い道を悠々と歩いた。車が二台すれ違えるか怪しい道路だった。交差点に差しかかり、ふと騒がしさを耳が拾った。左を見た。十メートルほど先だろうか、道の真ん中で固まっている男たちがいる。五人だ。一目で、いざこざだと分かった。一人の男が別の男の胸倉を掴んでいる。周りで罵声も飛んでいる。関わり合いにならないに越したことはないが、啓介はそちらに足を向けていた。胸倉を掴まれている男に、見覚えがあった。一週間前会った男だ。中肉中背、短い金髪に、鋭い容貌。立辺篤のはずだった。どうせ女か金か人格か、くだらないことで揉めているのだろうが、一応昔の仲間だ、見過ごすのも後味が悪い。
近づいても、男たちが啓介に気付く様子はなかった。声をかけようとして、だがそうはせずに、啓介は、立ち止まっていた。目を疑った。立辺は分かる、他人に絡むのも絡まれるのも好きな奴だ。いざこざに囲まれた日常を送っている。絡んでいる奴らも、スウェットの上下、ジャージの上下、伸びきったトレーナーにだぼだぼのジーンズ、足元はサンダルかスニーカーと、立辺と同程度なのだろうと推測するに余りある出で立ちだった。だが、その中で、一人だけ、明らかにその場に合っていない男がいた――――清潔感のあるジャケット、丈の合っているチノパン、短い黒髪。その男にも、啓介は一週間前に会っていたが、本当にその男か、いまいち信じがたかった。男は、立辺の胸倉を掴んでいる男に向き合っている。そして、押しのけられた。バランスを崩して、尻もちをついた。他の男たちがそれを笑い、そのうち一人が啓介に気がついた。
その男が、本当に一週間前に会った、中里なのか、確信は持っていなかった。だが、啓介は、目の前に広がる五人に向かって、走っていた。
飛び蹴りをかましたのは、久しぶりだった。こちらに気付いた男の肩を、バランスを崩す程度に軽く蹴り、着地して、三歩間を取った。柔軟体操はしていないが、筋肉も関節も無事だった。一人が背中から倒れ、立辺と、尻もちをついた中里と、見知らぬ男二人が、揃って唖然とした顔で、こちらを見た。倒れた一人も、転がりながら顔を上げた。呆然としていた。
「喧嘩か? なら俺に買わせてくれ。暇なんだ」
五人を見回し、啓介は両手を広げた。中里は唖然としたままだったが、立辺は笑った。見知らぬ男三人は、動揺したように顔を見合わせ、相談したそうに目を泳がせていたが、やがて倒れた一人が、必要に迫られたような焦りに満ちた声で、「この野郎」、と面白みのないことを言い、殴りかかってきた。横に避けるだけで、勝手にまた倒れた。
「闘牛かよ」
その尻を軽く蹴ると、他の二人は何も言わずに、拳で倒そうとしてきた。喧嘩自体、久しぶりだったが、体は適切に動いた。拳も足も、掴みかかろうとする手も動きを封じようとする体も、避けて、避けて、たまにサラダとペットボトルの入ったコンビニ袋で尻を撫でてやり、避ける。間に、立辺に目配せをした。意図は通じたらしく、立辺は笑いながら道の向こうに駆けて行った。一人がそれを追って行き、残りの二人は状況を読めていなかった。避け続けるのにも飽きていた。道の端に逸れながらも唖然としているままの中里の腕を取り、立辺と逆方向に、走った。待て、と後ろから言われた気もするが、待つ義理はなかった。中里には、おい、だのこら、だのと言われたが、待てとは言われなかったので、待たなかった。
もともとの目的地の、公園に着いたところで、止まった。本気で走ったからか、息が切れた。中里も、息を切らせていた。
「何やってんだ、お前」
呼吸の合間に、中里は言ってきた。一週間ぶりだった。その時に起こったことを考えれば、随分呆気のない再会だった。
「絡まれてるみたいだったからよ」
コンビニの袋をベンチに置いて、軽く体を揺すり、クールダウンしながら、啓介は言った。助太刀してみた、とは言わずとも通じたようだった。
「だからって」、前かがみになって、膝に手をつき、呼吸を整えながら、中里は言った。「いきなり蹴るってのは……何だ」
何だと言われても、自然と体が動いただけのことだ。だが、そういう答えを望まれているわけではないだろう。
「どうせあいつの関わることなんざ」、啓介は先の状況に絡めたことを言った。「平和的に解決しねえだろ」
「立辺か?」
「何があったかは、説明しなくていいぜ。興味ねえし」
中里の比較的清潔感のある格好からすれば、どこかへ向かって歩いている途中であの集団に出くわして、知り合いがいたので仲裁に入ったという以外には考えにくいし、そんなことを説明されても何とも言いようがない。問題は、今のことだ。
「大丈夫か?」
啓介が聞くと、「あ?」、ととぼけた顔をした中里は、安定した呼吸をして、「ああ」、と頷いた。「何ともねえよ、俺は。お前は?」
「丸腰の相手から逃げるだけで怪我してたら、生きてくの厄介だろ」
腕を伸ばし、首を倒しながら啓介は答えた。自分の無事を優先することは、相手を叩きのめすよりも注意が要るが、安全性は高い。必要以外のことで命を縮める無謀さを封じようと決めてから、その気配りにも慣れた。今では本気で誰かを痛めつけるより、かかってくる奴をあしらう方が巧くなっているかもしれない。
「そうか」
中里は言い、しゃがんで足を伸ばしている啓介を、奇妙な顔つきで見下ろした。それは実に奇妙だった――まるで今初めて会ったかのような、白々しさがあった。
「何だ?」
屈伸し、立ち上がって逆に中里を見下ろしてやりながら、啓介は言った。「いや」、と中里は啓介から顔を逸らし、口元を撫でた。「立辺の話は聞いてたし、見たこともあるが……お前も、やるんだな」
そして上目で見てきた中里の顔には、白々しさとともに、ほんのわずかの、おののきが見えた。やる、といえばそうだった。やろうと思えばできる。昔取った杵柄だ。だが、その啓介の素性を知っている人間は多くない。当時は地元にはあまり関わりたくなかったから、他の地域で活動することが多かったし、今、吹聴して楽しくなることでもなかった。だから中里も、自分が『やる』ということを知らなかったのだろう。中里の顔にある緊張はしかし、それだけのようでもなさそうだった。
「少しはな」、啓介は呟いてから、中里を見下ろしたまま、尋ねた。「怖いか?」
「あ?」
「俺が」
ぴくりと眉を動かした中里が、素早く瞬きをして、馬鹿馬鹿しそうに、鼻から息を吐いた。
「んなわけねえだろ。何で俺が、高橋啓介を怖がらなきゃいけねえんだ」
笑ってはいなかったが、嘲るような調子だった。意地によって作られている態度だと、感じられる。わずかであれ、中里がこちらに何らかの怯えを抱いていることは、確かなようだった。それはそうだろう、一週間前自分は中里を峠の駐車場で強引に組み敷いた。怯えるなり怒られるなりされて当然だ。そういった感情を抱かれるということは、まだ意識をされているのと同じでもある。
だが、中里はどうやら、びくついていることは隠したいらしい。男としての矜持があるにしても、なら犯し返してくればいいだろうに――役に立たなければ枝でも何でも突っ込めばいい――、そうはせず、ただ、今まで通り、敵対的な、人をむかつかせる態度を取っている。つまり、関係を変化させようとしていないということだ。その方が、中里にとって、良いのだろう。おそらく中里の考える、自分たちの関係にとっても、良いのかもしれない。だが、変化を――衰退はまだしも、発展まで否定するのは、勝手すぎるように思えた。あそこで犯しにかかった自分も勝手だろうが、それをなしにしようと、まだ無理のある敵対的態度を演じているこの男も、同じくらい勝手に思えた。
「お前、俺には『いい人』じゃねえよな」
中里から目を離さずに、啓介は、言った。一方、啓介から再び顔を逸らしていた中里は、わけが分からぬように眉をひそめ、ちらりと見上げてきた。
「何?」
「そんなに俺に嫌われてえのか?」
音を立て、唾を一つ飲んでから、「何の話だ」、と中里は不可解そうにというより、不愉快そうに、そして若干の当惑を窺わせる目元をしながら、啓介を睨み上げてきた。話は通じている、そう断じるに不足がなく、尋ね直さなくとも、答えを察せられる、明白な様子だった。中里は、嫌われたがっている。だから無理のある、むかつく態度を取っている。そういうことのようだと、啓介は感じた。だが、嫌われたがってるくせに、一週間前は、こちらを完全には拒まなかった。あれは、受け入れたと言えるだろう。嫌われたいなら、暴力に訴えてでも逃れればよかったのだ。逆に犯してきようものなら、自分は死ぬまで中里を嫌い通してやっただろう。だが、中里は、大して暴れもせず、啓介を受け入れた。あるいは、受け入れられるから、嫌われたがっているのか――受け入れざるを得ないから、嫌われなければならないとでも、考えているのか。だから、後ろめたいのか。何ともこじれた話だ。煩わしいし、例えばそれまでもが優しさなら、この男の素直さと偏屈さは、度が過ぎている。無理がある。そこまでの無理を、この男にさせたいと思ったことなど、一度もない。考えたこともなかった。だが、今は、考えられる。
「考えとくって言っただろ」
度の過ぎた偏屈さは、話を変えただけで間抜けじみた面を晒し、「あ?」と間抜けじみた声を上げる男には、似合わなかった。
「この前」
啓介は付け足した。正確には一週間前だが、そこまで言わずとも中里は理解したらしく、顔をしかめて、ああ、と頷いた。啓介は似たように浅く頷いた。忘れてくれと頼まれた当日に、少し考えたが、あの時間を忘れるべき理由を見つけられず、合点がいかないことはそうそうできない性質なので、考えないようにすることで、思い出すことを避けていた。つまり、実際ほとんど考えてはいなかった。そしてたった今、ほとんど考えずとも、答えは出せた。
「それは、断る」
「何?」
「でもその代わり」、希望の正しい代替になるかは知れなかったが、他に最適な言葉も思い浮かばなかったので、啓介は訂正せずに、言い切った。「好きになってもいいぜ。俺のこと」
「……ああ?」
こちらの話が聞こえなかったように、汗の浮いている顔を、中里はしかめた。啓介は、聞かれていることとして、続けた。
「責任なら、時間かかるけど、取ってやるよ。お前一人くらい、何でもねえ」
「何だお前、そりゃあ」
「お前なら、好きでやることだろ」
「だから、何を……」
キスをするのはやはり、容易かった。唇に少し触れて、離れる、その程度だ。中里は、徐々に顔をゆがめていき、啓介の胸を唐突に、手で突き、一歩足を引いた。距離を取りたかったらしい。「クソっ」、中里は口元をジャケットの袖口で拭った。啓介は開いた距離は縮めず、同じ場所に立ったまま、少しでも中里の理解を得られるようにと、考えながら言った。
「お前が俺を忘れねえなら、俺もお前を忘れねえんだ」
「調子に乗るなっつっただろうが、てめえ」
「お前が俺のものになるなら、俺もお前のものになる」
再び肩で息をし出した中里が、ぎょっとしたように啓介を見た。単純な話だった。どんな物事でも、場合によってはそういう風に片付けられることを、何かの期待すら封じようとしているこの男は、知るべきだった。
「中里」
その場から、一歩も動かずに、中里を真っ直ぐ見たまま、啓介は言った。
「俺を、好きになれよ」
瞬間、泣きそうに歪んだその顔を、もっと見ていたいと思った。だが、中里はすぐに怒りを表すように眉間を強張らせ、
「馬鹿野郎」
啓介に背を向け、速やかに歩き出した。追いはしなかった。今追いかけても話すくらいしかできないだろうし、そもそもこの公園に来た目的は、昼食と昼寝だった。ベンチに座り、袋からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、蓋を開けて飲み、一息吐いた。久々の喧嘩の後の精神の昂ぶりが、多少の風の冷たさを感じさせなくしている。そしてまた、欲望が、肉体を空想に導いている。本気に触れていたい、それだけだ。妙義ナイトキッズの中里、32のGT−Rに乗る走り屋、その男の、生身の、奥まで触れて、あらゆるものを感じさせてほしい。馬鹿野郎。どっちが馬鹿だ、と思う。それと、車がどうだのバトルがどうだの男同士がどうだの、他のことを関係させたがる方が、馬鹿ではないのか。
ともかく、その日啓介は、中里を追いかけなかった。どこから来て、どこへ行ったのかも気にしなかった。どうせ近いうちに、会うことになる。その時には、準備は終わっている。できることが、できる。そう思った。いずれ時機がくれば――近いうちだ――、中里がどこにいようと、啓介は会いに行くだろう。それが、なるべくして、なることだと、感じるからだ。
俺はここにいる、そう、思えるからだった。
(終)
2008/04/25
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