暖を取る



 山にはいち早くその使者が訪れ、続けざまに将軍様が御成りになる、乾燥路面との一時の別れを余儀なくされる季節が近づいていた。冬である。まだ峠において雨が雪へと変わることはなく、恋人たちの性なる夜も先の話であるが、刻一刻と迫っていることは確かであるため、一般市民と暴走族との境目でゆらゆらしているいわゆる走り屋と大雑把に呼称される者たちは、世界が白く染まる前に走れるだけ走っておこうとばかりに寒さを押しのけ山へと集まっていた。
 といったところで気温は変わらず低く、吹き付ける風は肌の感覚を奪い、鼻と喉からは水分を奪い、呼吸を難しくする。何枚重ね着しても使い捨てカイロを備えても鼻までマフラーを巻いても腹巻を巻いても、寒いものは寒い。つまりは気持ちの問題である。体を熱くする趣味に没頭すればこそ、極寒の、あるいは極熱の環境にも耐えられるのだ。
 が、皆が皆、おててつないで揃って苦難に耐え忍ぶわけではなく、そこはやはり人間各々の個性が表れるもので、
「だあああああああもうッ、さみいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
 赤城山を根城とする走り屋チーム、レッドサンズの急先鋒、高橋啓介などは、周りにいる者たちが耳をふさぎかけるほどの大音量で、そんな風に思いの丈を叫ぶ男であった。
 黒い長袖のシャツに足のラインを浮き立たせる細身のパンツでじたばたしている高橋啓介の、夏場の出で立ちを知る走り屋仲間は、その中身のほとんどが骨と筋肉のみで構成されていることも知っており、それは寒かろうと悲痛な叫びにも真実を感じたが、しかしならば厚着をすればいいだけでは、という簡単な結論に辿りつき、されど誰もが傍観を決め込んだ。いかんせん高橋啓介は少年の心を持ちすぎている。いわばワンパク坊主なのだ。積極性と攻撃性に富んでおり、行動力と決断力を大いに備えているため、待つだとか耐えるだとか忍ぶだとかの言葉はまったくもって似合わない。待つくらいなら自ら向かう、それが高橋啓介だ。それは良い。それだけ取れば、外見的にも性格的にも粋な男、と誰もが思える。しかしそこはガキ大将、一度意地を張るとテコを使おうとするだけで返り討ちにしてくる暴君ぶりを発揮し、待ちの姿勢を嫌うため敵意を発露してくる者には殴られる前に胸倉を掴みに行き、容赦という漢字は書けず、さすがにあの理論派能弁家高橋涼介の弟だけあって口は達者であり、また感覚派と言ってはばからないだけあって見事なまでに感覚で喋るため、何かもう相手にできない。
 普段であれば道理を奉った結果愛のない鞭を受けることも一つの愛として受けられる認識を持つ走り屋仲間もいるが、そういった輩も寒くてしゃーねー動きたくねーと冬眠に入りかかっているため高橋啓介に背中を差し出しに行くにもためらわれ、しかしそこは安心本日は、彼の偉大なる兄上殿、そして彼らが偉大なるカリスマがこの地にいらしていたのであった。
「啓介、いきなり大声を出すな。心臓に悪い」
 心臓に毛の生えてそうな男が言ったところで説得力のない言葉を用いて、高橋涼介は弟を注意した。だがその顔は手元の大学ノートに向けられたままである。啓介も啓介で兄の指摘に一瞬動きを止めたものの、快晴の夜空を見上げたまま、恨めしげな声を出した。
「さみいもんはさみいんだよ、仕方ねえだろ、チクショウ、何で冬ってのはこうもさみいんだあああ!」
「日照時間が短く、太陽高度が小さいからだ」
 ノートにペンを走らせながら、よどみなく涼介は返す。その隣でメモ帳をたぐっていた史浩は、それに風も強いしな、雪が降った方がマシかもしれん、と涼介と同じく啓介を見ることなく言った。何となく孤独を感じた啓介は膨れっ面をしつつ、情報と格闘しているらしいその二人を睨みつけた。
「誰がそんな、普通に答えてくれっつったよ」
「雪女や雪男が現れやすいようにとでも言った方が良かったか?」
「っつーかそもそも答えてくれっつってねーし! そういえば!」
「少しは頭を使えば頭くらいは熱くなるかと思ってな。寒いんだろう」
 明らかに啓介よりもノートに意識を優先させたまま涼介が言い、知恵熱出させたってしょうがねえだろ、とメモ帳に文字を書き入れながら史浩が笑った。啓介は二人をますます睨みつけ、相手にされそうにないことを悟ると、「よし分かった!」と潔く叫んだ。
「頭使おうが何しようが、これ以上こんなところにいたら俺は凍え死ぬ! うん! 寒いからな! で、アニキ、もう終わりだろ」
「叫ばなくても十分聞こえる。しかし終わりと言った覚えはない」
「よっしゃああ、じゃあ俺出かけてくっから!」
「取り終えていないデータがあるから明後日に回しておくが、来なかったらもうお前の面倒は二度と見ないぞ」
「さッすがアニキ、話が分かる! 伊達にこの俺のアニキじゃねえな! 俺ってすげえ!」
 よく聞いてもキャッチボールにはなっていない会話を行った兄弟の弟の方を、史浩はパチクリさせ終わった目で見た。
「あれ、お前、帰らないのか」
「あたりめえじゃねーか、寒いんだぜ!」
 うっしゃあ、ともう一度気合の雄叫びを上げ、啓介はFDに乗って去っていった。
 俺には分からんなあ、メモ帳を閉じつつと史浩が呟くと、まあ若い頃には色々あるもんだ、とペンのキャップをしめたまだ若い涼介が言った。

 何だ、火事かと中里はがばりとベッドから飛び起きた。だがなぜかサイレンと勘違いしたそれは、ピンポピンポピンポピンポと一定のリズムを刻んで鳴らされていた家の呼び鈴だった。少しの間呼び鈴をBGMにベッドに座っていた中里であったが、かすむ目を指で拭ってから部屋の時計を見ると、起床まではまだ七時間残っていたため、再びベッドに入り、掛け布団を頭から被った。だが呼び鈴は鳴り止まない。最初は子守唄代わりになったそれも、段々と脳にかゆみを誘発してきたので、中里はついに再びベッドから起き上がり、電気を点けたため目がくらみつつああうるせえと頭を掻き、何となく予想はつく深夜の来訪者をあしらうことにした。
「よお、中里」
「よおじゃねえよお前、そう何べんも鳴らしてんじゃねえ、うるせえだろうが」
 声を抑えながら、ドアを開けるとそこにいた男に言う。黒い短靴に黒いパンツに長袖の黒いシャツ、広い肩の中央から伸びる細い首に小さな頭が乗っかっており、その頭から色が抜かれた髪が逆立って生えている。鋭い輪郭と鋭い鼻と鋭い口と鋭い眉と鋭い目を持ちながらも、わりいな、とニカッと人懐こく笑うその男は、何となくの予想通り、高橋家の次男、啓介君だ。
「何、寝てた?」
「ぐっすりとな」
「おはよう」
「おはよう」
「ってかそれ何か中学ン頃のジャージ思い出すぜ、オヤジくせえ。寝癖ついてるし」
「だから寝てたんだよ、俺は」
 言い返しつつ、玄関先でクツクツと笑っている啓介を中に入れると、ドアを閉めて鍵をかける間に、勝手知ったる何とやらでずかずかと進まれた。慌てて続くも、部屋に啓介の姿はなかった。
 こりゃ狐にでも化かされたか、と思いきや、ベッドが不自然に膨らんでおり、その中から、「あーあったけー」、というくぐもった声がした。
 ……とりあえず、冷静にだ。
 中里は一つ咳払いと深呼吸をしてから、布団に向かって「おい、高橋」、と優しく声をかけた。布団がもぞもぞと動き、ああ、という気持ち良さそうな、気の抜けた声がした。それだけだった。
 寝てる間に妙な角度に跳ねた髪を撫でながら、何となく自分の部屋を見回す。何も変わっていない。変わるわけもなかった。現実を理解して、もう一度布団に向かい、おい、啓介、と声をかける。人の布団の中でぬくぬくと丸まっているらしき男は、だが今度はいくら待ってもうんともすんとも言わなかった。不自然なカタマリが動くこともなかった。
 さてこれはどうしたもんか、中里は腰に手を当てて首を傾げた。しかしこの家の主が誰であるかは考えるまでもなく分かることだ。うむ、と一人頷き中里は、拳を組んで関節をペキパキ鳴らしたのち、すっとベッドに近づいて、ぬっと腕を持っていき、鷲掴みにした掛け布団を中の毛布ごとどおりゃと引っぺがした。
 ゴロンと啓介の長い体が一回転し、のわッと慌てた声が上がったが、床に転げ落ちてはこなかった。惜しい。
 ベッドの上に比喩的に丸裸にされた啓介は、おい、と寝転がった体勢のまま、不平そうに見上げてきた。
「何すんだよイキナリ、あぶねえだろ。やるならやるって言えよ、心臓に悪い」
「あのな、イキナリ云々はこっちのセリフだ。お前は我が物顔で何をしてる」
「ぬくもりに包まれようとしていた。中里の」
 厳しく問うも、ケロリと倒置法で言い返された。中里は自分の意思とは無関係に目の下がピクピクと動くのを感じながら、首筋を掻いた。
「……予告もなく人の家に来て、安眠を妨害して、挙句にそれは、ちょっと許せるもんじゃねえぞ」
「だって寒いんだもん」
 だもんじゃねえよ! あまりの素直さにたまらなくなって中里が叫ぶと、あーあーうるさい、と耳をふさがれた。確かにうるさかった。アパートの壁は薄く、今は深夜である。中里は口を閉じ、何だかやたらと疲れたので、引っぺがしたまま持っていた布団と毛布を啓介に乱暴に投げ、こちらはベッドの端に深く腰掛けた。
 すっかり目が覚めてしまった。眠気がぶり返すまで数十分はかかるだろう。とりあえず煙草でも吸うかとテーブルの上に手を伸ばそうとした時、左肩がずっしりと重くなった。布団を被ったまま体を起こした啓介が、そこに顎を乗せ、なあ、と耳元で喋った。
「機嫌悪くすんなよ」
「別に、悪くしてねえよ」
「してんじゃん」
「してねえって」
「お前そんなココロ広くねえだろ」
「……そんなに俺に機嫌悪くして欲しいってんなら、今すぐできるけどな」
「あーウソウソ、俺はこんくらいでスネるようなお前じゃないって信じてたぜー」
 お前調子の良いこともいい加減に、と左肩を引いて乗っている顎を押しのけつつ振り向くと、開いたスペースに啓介が頭から入り込み、器用に布団を被ったまま、左の太ももの上に頭を落ち着けた。
「お前、あったけえな」
 左手で人の足を巻き、右手で人の腰を巻いた啓介が、吐息とともに言った。触れる肌は服越しでも冷たく感じられた。中里はテーブルに伸ばしかけていた右手を引っ込め、その手で啓介の立てている髪を軽く撫でながら、そりゃ今の今までここに寝てたからな、と返した。あーあー俺が悪かったって、と啓介は太ももに顔をうずめた。
「勝手なことすんなって言いてえんだろ? もう二度と、やらないとは言わねえけど反省してるよ」
「別にいい、お前の勝手にゃもう慣れた。好きにしろ」
「それ、いい殺し文句だぜ、中里」
「このくらいで殺されるようなタマならいいんだけどな、お前も」
 ひでえ、と笑いながら啓介は鼻先を太ももに擦り付けた。中里は手持ち無沙汰で右手の指を啓介の耳に這わせた。やはり冷たい。こちらの熱が奪われていくようだ。そろそろ温まっても良いだろうに、血液の巡りが元から悪いのか。健康的に見えんだけどな、と中里が思っていると、啓介が腹に顔を向けてきて、俺さ、と目をつむったまま言った。
「寝つきだけは良いタイプなんだよ」
「見た通りだな」
「お前もだろ」
「まあな。引っかかることがあると、もうダメだが」
「それ同じだ。んでまあ、ガキの頃はもっと良くてよ、そういうもんだよな、ガキの頃って。だからたまにおふくろに抱っこされてる間に、そのままよく寝ちまってな。でも朝目ェ覚ましたら、自分のベッドにいるんだよな。ありゃあ何つーか、妙な感じだぜ。あるはずのもんがない、みてえな」
 夢心地のような口調だった。中里は耳に当てていた指で髪をすいた。啓介は鼻をすすってから続けた。
「何か足りねえような気がしちまうんだよ、いっつも」
 言い終えると啓介はもぞりと動き頭から布団を被った。完全に寝る体勢だ。こんな話を聞かされてどけこのヤロウとも追い出しにくい。人を食うくせに甘え上手で参ってしまう。中里はため息一つで現状を納得することにして、思いつき、いいじゃねえか、と独り言のように言った。
「それだけ、欲しいもんがあるってことだろ」
 飢えこそが人を強くする。欲望こそが人を高みに押し上げる。だが望むものを手に入れるための努力を惜しめば、堕落するのみだ。中里から見た啓介は何事にも誠実をもってあたる紳士では決してないから、ともすれば下層に沈むかと思われるが、車に関しては何者にも劣らない執着を持っており、地獄と天国の狭間でうまくやっている。速さを手に入れながら、異端に惹かれる人心も手に入れている。大した奴だ。これで男の太ももを枕代わりにするようなことがなければ、中里も憧れたかもしれなかった。だが啓介はこうしてここにいる。これが現実だ。そしてこの現実こそが、中里には失いがたいものだった。
 そんな風に浸っている人の気も知らず啓介は、時折居心地の良い場所を探るように大きく動く。
 ……ああ、こりゃあ。
 中里は不意に懐かしくなった。啓介の突発的な動き、大きさ、重さ、それらが記憶を刺激した。目の裏に浮かんだのは、常に威風堂々としていた、実家の番犬だ。父親が大切にしていた秋田犬、啓介の雰囲気はそれを思い起こさせた。シロという名の由来になった真っ白い毛は硬く、腹にも足にも立派な筋肉がついていた。大人しい犬で、よく懐いていたが、散歩に連れて行くと引きずり回された。運動が好きだった。小学校の時から一緒に過ごしていた。記憶がまとまりなく蘇る。肉が好きだった。骨も好きだった。夏場に体を洗ってやって居間にしばらく置いてやると、巨体をこちらに寄せてきた。三年前に寿命がきた。誰にも看取られることなく息絶えた。孤独を苦にもしていなかった。立派で可愛い犬だった。
 しかし、よく考えてみればこの男とは正反対かもしれない。シロは主人に忠実で、真面目で落ち着きがあって、勇ましかった。まさに武士の鏡だった。それに比べてこいつはどうだろう。自分本位の礼儀知らずだ。比較することすらシロに失礼だ。となるとつまり、こいつは犬以下ということか? 中里は思い出にふけっていた状態を引きずったまま、ぼんやりと考えた。いやいや、そもそも犬と比較することが違うのだ。こいつならば、実家の裏庭を巣にして溜まっていた野良猫が合うだろう。与えられるものでも良いもの以外は受け取らず、良いものを受け取っても自力で勝ち取ったような態度を取っていた。必要ないと察知したものは歯牙にもかけない。どれだけ貢いでものれんに腕押し状態だ。だがそれを許せるだけの、何か人の心をくすぐるものを持っていた。この男もそうだ。
 裏庭で餌を食べて残骸と糞を残していった猫たちも、気まぐれに身を寄せてくることがあった。体や耳や喉を撫でてやると、気持ち良さそうに身を預けてきた。だから見捨てられなかった。親父もそうだったのだろう。増えていく猫の病院代を出したのも里親を探したのも、まず親父だった。もう二年も実家に帰っていない。遠いわけではないが、気が進まなかった。どうせあの親父は会えばまだ車に金をつぎ込みやがってだの結婚しねえのかだのと人の痛いところを徹底的に攻撃してくるのだ。しかもそれを楽しんでいる。
 けどそろそろ一回くらい顔見せといた方がいいか、もう年だしな、と中里が真剣に考えだしたところで、寝ていたはずの啓介が、「だああッ!」、と叫んで布団を弾き飛ばすように上半身を起こした。
「……何だ」
 中里は座ったままの体勢で、やっぱうるせえ奴だなと思いつつベッド上であぐらをかいている啓介を見た。何やら知れない感情に顔を赤くし、啓介は尖らせた目でこちらを睨んでいた。
「何だじゃねえよお前、俺が寝かけていたってのに」
「だから寝てたんだろ。だったら寝てりゃいいじゃねえか」
「ああ寝てりゃいいさ、けどな、耳だの髪だのいじくり回されながら眠れるほど、俺は鈍感じゃねえんだよ!」
 あ? と意味を解せなかった中里が思い切り顔をしかめると、「あ? じゃねえって、ったく」、と啓介は呟きながら、自分で飛ばした布団を掴みつつ、起こした身を中里の後ろの空間に横たえた。中里は自分の両手に目をやった。そういえば、シロや野良猫について考えている間に、ついつい彼らを可愛がっていたように指を動かしていたような気がしないでもない。いやする。これは謝るべきだろうか。
 思っていると、啓介が背中に胸をつけ、腰に両腕を回してきた。またのしかかってくると予測し、中里は「いや悪かった」と言おうとして、「いや」まで言ったところで、浮いた。啓介は中里の腰を抱えたまま、元通り、ベッドに横になったのである。背中から胸を合わせられ、首筋に唇の気配がした。おい、と身じろぎするも、軽い力は腕にも足にも通じなかった。
「やっぱあったけえわ、お前」
「……そうか」
「うん」
「……いや、悪かった。つい、考え事をしてたもんでな」
 抜群の機は逸してしまったが、ひとまず中里は謝った。啓介は聞いていないように、首筋を舐めてきた。うわ、と中里は啓介の両腕を振りほどき、勢いで体をくるりと回転させ、首筋を右手で押さえながら、鮮やかに啓介を向いた。
「うわ、早業」
「じゃねえよ。お前、イキナリはお前も同じじゃねえか」
「だって人の意識乱してきたのはお前だろ。責任取ってもらわないと」
 言いながら啓介は布団を中里にかけてきた。それを受けながら、それは悪かったがなあ、と中里が渋ると、啓介は布団をかけた左手を中里の肩に当て、一足飛びに口を耳元に寄せた。
「お前が欲しいんだよ」
 ささやいて、素早く離れ、至近距離で顔を見合った。自信に溢れる笑みを啓介は浮かべた。中里はその顔を見ていられず、仰向けになって、組んだ手で頭を支えた。
「まったくお前は、そういうことを」
「言えるってあたりは、まあ確かにいいんじゃねえかと思うぜ、お前の言う通り」
「あ?」
「欲しいもんは、沢山ある」
「聞いてたのか」
「聞こえてたな」
 啓介を見ると、目を閉じ、力の抜けた顔をしていた。中里は天井に目を戻し、この状況に不満を抱いていない自分に苦笑しながら言った。
「おい、こっちは明日も仕事、それ終わったら走りに行くんだぜ」
「俺も学校。っつーかまださみいんだけど。金玉戻んねえ」
「その身長のくせに、俺と似たような体重してるからだろ」
「痩せてた方が有利じゃねえか」
「なら文句を言うな」
「文句じゃねえよ、事実だよ。寒いんだ。一人でいると」
 言って啓介は布団の中に潜っていき、中里の左胸に頭を乗せた。足を深く折りながら絡めてきている。胎児のように丸くなっていることだろう。
「二人ならいいのか」
「お前といればヤりたくなるし」
「そういう問題じゃねえだろ」
「安心すんだよ。こういうの」
 啓介の声が胸の中にまで染み入ってくるようだった。中里は目を閉じた。孤独を感じる時は一人でいる方が良いと思っていた。誰かといても完全に思いを共有できるわけではない。そして日々を過ごせば嫌でも人には会う。俺は待つことができていた、中里は思った。だがそれは正しかったのだろうか? 耐えているようで、逃げていたのかもしれない。だからこそ、今、待てなくなっているのではないだろうか。
 いじらない甲斐あってか、啓介もこちらの急所をいじってくることなく、既に呼吸を一定にしていた。焼肉うまい、という呟きは寝言だろう。
「朝になったら叩き起こすからな」
 聞こえていないことを承知の上で呟いた。一人で起きたくも、一人にしてやりたくもなかった。
(終)

(2006/01/28)
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