言いがかり



 兄の優しさは、時に計算し尽くされた媚態にも見える。そんな時啓介は、兄を見る影もなく殴り潰したくなる。先に生まれた者の責任をあくまで取ろうとする兄が、許しがたい存在に感じられる。無視をしてくれれば良いものを、一度手を差し伸べてしまったから、もう捨てられないのだろう。昔からそうだ。啓介の部屋には無駄なものが溢れ返っているが、兄の部屋は整頓されている。だのに、兄は、幼少の頃の写真や描いた絵や卒業文集などを、後生大事に取っている。過去を捨てられず、過去に縛られながら生き、過去に生きている。だから兄は媚びてくるのだ。優秀すぎることを悔い、理解できなかったことを悔い、許しを請うている。その兄の懺悔を無視することが、無法を演じていた啓介にしての、精一杯の誠意だった。
 捻じ曲がった過去が現在を構成する。一連のつながりを啓介は忌み、兄の優しさを思い返すにつけ、暴力的な気分にとらわれる。車の中で、舌打ちをする。いかなる時でも冷静さは確保しておかねばならない。勝負どころを見誤らないためにも。勘は最後の最後で勝利をもたらすかもしれないが、それはあまりにリスキーだ。日頃の精神的な積み重ねが、いざという時にものを言う。そうなのだろう。感覚で押してくためにも、地盤が必要なのだ。兄は間違ったことを言わない。ただ、ウソは吐く。
 爆発するような怒りというよりも、形が明確な恨みというべきだった。不愉快さが延々と続き、果てがない。そんな、腹にこり固まった汚物を持て余し、気の向くままに動いた結果、啓介は今、ここにいる。
「久しぶりだな」
 どんな顔をしたら良いのか分からないというような顔をして、それでも男は言った。啓介は適当に頷いた。その顔が見たいと思った。しかし、実際に見てみると、それはまったく魅力的ではなかった。なぜ見たいと思っていたのか分からない、胸を突くような芸術性もなければ股間をゆするような不当性もない、だが、失望感は、着実に腹の汚泥を押し流した。現実に体が適応していくようだった。
「お前、前もここに来たんだって?」
 間の処理に困ったらしい男が、聞いてきた。誰から聞いた、それ、と聞き返すと、誰からって、どいつもこいつも言ってたぜ、と驚きと不審が混じった顔で答え、俺に用でもあったのか、と続いて聞いてきた。ふと、疑問だらけの表情が、よく似合うと思った。挑戦的なそれよりも、間抜けなそれよりも、何も知らずに悩んでいるだけの、無意味さが似合う。そう、無意味だ。地元でも、啓介が妙義山に行ったことは一日置かずに広まっていた。口封じをしなかったのだろう、あの目つきの悪い、精々万引きか恐喝程度で、人を殺せそうもない男を思い浮かべると、あの男の気に入らないことを、やってやりたくなった。
「俺がお前に用でもあると思うのか」
「うちのチームの奴が、そっちに迷惑かけたとかよ」
「ここがチームなんて言えるほど、体制の整ったところかよ」
 気合を入れてあざ笑うと、疑念に苛立ちを被せた風に、男が表情を変えた。
「高橋、お前、喧嘩でも売りに来たか?」
「お前、バカか」
「ああ?」
「喧嘩ってのは、対等な奴に売って、どっちが強いのか決めるもんだろ。お前が俺に喧嘩売るなら分かるけど、何で俺がお前と今更強さを争わなきゃなんねえんだ」
 当然のことを言っているだけだというのに、虚言を吐いているような気がした。だが、それで男はたじろいだ。
「じゃあ何の用だ。走りに来たのか」
「俺が何しにここに来たとか、お前に関係あんのか?」
「何がしてえんだよ、お前」
 苛立ちを怒りに変えたことを隠さない上で、放り出そうとしないのは、チームの対面を誇示するためか知れないが、ともかく啓介は、自分の言葉の自分への手ごたえのなさに飽き、ため息を吐いて男を見ると、かかってきそうだったので、気合を入れて、聞いた。
「今あの、目つきの悪い奴いるか」
「何だその漠然とした人物像は」
「深夜にやってるドラマで、チンピラ役で出てそうな奴だよ」
「……慎吾か?」
「名前は知らねえけど、そいつだろ、多分。それに話があんだけど」
 男は訝しげなまま、後ろを駆け足で駆け抜けようとしていた大根のような奴を捕まえて、チンピラ役で出てそうな奴の所在を尋ねた。急いでいたらしい奴は、「あ? シンゴ? あーあいつ合コン合コン、ナースとゴーゴーだってようらやましいね、でもレベル低いっつーからそんなうらやましくもねえ感じ?」と早口に言い、んじゃ、とまた駆けていった。男は啓介を向き直した。
「だそうだ」
「そうか」
「あいつに用があったのか」
「責任、取らせようかと思ったんだけどよ」
「責任?」
「でも、責任ってのは、そいつが取ると、つまんねえんだよな。オナニー見せられてるみてえな感じがする」
 男は何かを確かめるような時間を置いてから、あ? と言った。啓介は三流のチンピラ役と、兄を思い出しながら言った。
「どんなに顔が良かろうが、野郎のオナニーなんて見たかねえよ。気持ちが悪いだけだ」
「……何言ってんだ、お前?」
 目の前に焦点を合わすと、相変わらずの、疑念で満たした顔があった。
「お前の顔も、オナニーだな」
 その顔がまともに戻る瞬間と、その先を、啓介は見なかった。



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