その時
手で頬を撫でるも、輪郭を確かめるまではいかない。感覚がどこか、あやふやだった。思考はまとまらない。物事は、始まりがあって、終わりがあるべきだ。だが、今は途中しかないように、中里には思えた。何とも知れない事態に放り込まれたような、不安と苛立ちが入り混じった、妙に落ち着かない気分だった。頭痛がした。他人の気持ちを理論的に考えようとすると、いつもこめかみがじくじくとする。瞬間瞬間で、済ませたいのだ。
「くだらねえ」
呟くも、しこりは消えなかった。むしろ、大きさを増して腹を占めていく。くだらねえんだ、と考えた。俺には関係ねえ。俺の責任でもねえ、俺は何もしていない、俺には何もない――考えるうちに、鉢が軋んでいった。ため息を一つ吐き、天を仰ぐ。もう、終わったことだ。この感情は、長引かせるべきではない。
「何だこの空気」
三十分後に現れた遅い男は、怪訝そうにそう言った。中里は長引いた感情を抱えたまま、分かりやすく答えた。
「高橋啓介が来てたぜ」
「へえ、お前の顔を見物にか」
「お前に責任取らせるだの何だの言ってたが」
あ? と庄司慎吾は悪い人相を一層悪くして、ああ、と納得したように頷いた。
「何だ、暇人だな、あの野郎。他には?」
「でも責任ってのはそいつが取ると……」
中里は表現をそのまま使うことをためらい、結局、「……つまんねえってな」と割愛した。
「だから……どうでも良い、みてえなことを言っていた」
ふうん、と慎吾は鼻で言い、それだけか、と不思議そうに聞いてきた。中里は思い出すような間を置いて、ああ、と肯定し、「しかし」、と切り出した。
「責任ってお前、あいつに何をやったんだ?」
「お前にゃ関係ねえよ」
言下に捨てた慎吾は、後ろから飛んできた、非常に楽しげな「お前合コンどうしたのよ!」という声に、「負けだ負け!」と言い返してから、中里に向き直り、あ、間違えた、と言った。
「お前に関係ねえんじゃねえや、俺に関係ねえんだ。お前に関係あるんだよ。うん、あ? でも責任云々は俺の関係か? いやありゃオアイコだと思うがな」
何だそりゃ、と中里が顔をしかめると、まあ俺もよく分かんねえから気にするな、と慎吾は無責任に断言した。中里は釈然としないまま、頬を撫でた。この顔が、どうした。分からないことばかりだ。苛立ちだけが溜まっていく。
慎吾は服のポケットを探り、曲がった煙草を一本取り出して、それを眺めながら、出し抜けに言った。
「お前、あいつにナメられてるだろ。高橋啓介」
「なぜ」
「なぜって、負けたからじゃねえの?」
ますます顔をしかめた中里を不意に見て、いや悪い、と小声で慎吾は言った。いや、事実だろう、と中里は返した。負けたのも、あの男がこちらをナメているのも、相違ない。慎吾は曲がった煙草を伸ばしていた。中里は諦めの境地に達しつつ、走らねえのか、と声をかけた。慎吾は含みのある目を向けてきた。
「あいつ、また来るんじゃねえか」
「高橋か?」
「暇人だし」
「さあな。まあ、来たところで何でもねえさ。こっちに喧嘩売るほど、バカでもねえだろうし」
実力が明白ゆえに、売るにも値しない、と言い切った男だ。ただ、そういった下にいる人間を、なぶりたいだけなのだろう。あるいは、それすら惰性なのかもしれない。そう思わせるほど、あの男の攻撃性の底に、愉悦は見当たらなかった。八つ当たりという言葉が、最もしっくりくる。中里は自分の顔から手を離せなかった。慎吾はそれを訝る風もなく、尋ねてきた。
「お前はあいつをどう思う」
見られると、何かばつが悪く、中里は慎吾から顔を背け、どう思うって、と答えた。
「速いだろ」
そういうことじゃ、と言いかけ、動きを止め、まあお前はそうか、と慎吾は諦めたように言った。中里は横を向いたまま目だけで慎吾を見た。まだ曲がっている煙草をポケットに戻し、通じねえよな、と呟いていた。
「あ?」
「いや。考えの、あれだ、基本が違うんだよな。基準っつーか」
「高橋か?」
「俺ともお前ともよ。だから通じねえ。俺は別に通じたくもねえけど」
「俺も別に積極的に通じてえとも思わねえな」
「どうだかな、お前は」
「何だその言い草は」
「俺の時だって……」
そこで慎吾は言葉を切り、また動きを止めると、舌打ちし、くだらねえ、とため息混じりに呟いて、中里に背を向けた。くだらねえってな、と中里が言うも、慎吾は背を向けたまま首を振るだけだった。俺の時? 慎吾はそのまま歩いていき、車に乗って、荒々しく峠道へと行った。お前の時が、どうした? 中里は顔から手を離し、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
「くだらねえな」
そうして中里は呟いたが、思いと言葉は甚大に離れており、深いため息を吐くに至った。
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