意地が悪い



 高校生活最後の冬に突入しかけていると思っても、特に感慨はなかった。いつも通りの冬だ。木々は禿げていき、少しずつ雪が降り始めるだろう。冷たい風は尚更耳を冷やし、鼻と喉を痛めつけるだろう。それでも相変わらず配達はあるし、学校もあるし、バイトもあるのだ。
 去年と何か変わっただろうかと考えるが、特に変わったような実感もわかないので、多分根本的には何も変わってないんだろう、と思う。
「おい拓海ィ、何ぼーっとしてんだよ」
 教室だった。授業が終わり、帰る支度をしていたが、窓の外、寒々しい景色を眺めていたら、冬であることに気付いたのだ。拓海は授業道具を入れ終えたバッグのファスナーをしめ、肩に持つと、つまらなそうに自分を呼んできた樹をようやく向いた。
「いや、冬だなあと思って」
「えー、まだ秋じゃねえか? ほら、あそこ葉っぱ赤いし。コーヨーだよコーヨー、紅葉狩り」
「でも寒いだろ。俺、寒いと秋って感じしねえよ」
 樹はまだまだ反論をしてくるが、拓海はいつも通りに真面目に聞いたり聞き流したりしながら、樹とともに教室を出、廊下を歩き、階段を降り、昇降口で上靴と外靴を履き替えた。スカートの丈を上げている女子の生足が目の前に来たので、不自然にならない程度に少しだけじっくり見てから、外へ出る。風が学生服を通して冷気を体に巻きつかせる。
「うわ、さみい」
「さみいな。嫌になるよなあ、この季節は」
 ホントだなあ、と樹がゾンビのように虚ろな顔で頷く。よほど寒さが応えているらしい。雨も雪も降りそうにはないが、雲が多く、太陽が出たり隠れたりで、空気はあまり暖まっていなかった。吐く息が白く変じ、歩いていくうちに、後ろへ消えていく。
「おい拓海、これ走ったらあったかくなんねえかな」
「そりゃ、なるだろうけど……多分、疲れるぜ」
「でも俺寒くてマジで震えてくんだけど、あーもう、天気予報じゃこんな寒くなるなんて言ってなかったぞお」
「汗かいて冷えたら風邪引くかもしんねえしなあ……まあ、普通に歩いてたら、ちょっとはあったまるだろ」
 ぐだぐだと言い合いながら、校門を出、いつも通りに左に曲がる。今日も、明日も、バイトはある。それにうんざりすることはない。今、心の中をざわめかせているのは、別のことだ。
「おい拓海、拓海ってば!」
 ぼんやり歩いていると、後ろから樹が呼んできた。同じ調子で進んでいるものだと思っていたが、なぜか樹は五歩ほど後ろで立ち止まっていた。何だよ、と問うと、無闇に慌てた顔をしているその樹の横から、どこかで見た顔が現れた。樹よりも背が高く、額を出している顔は絵のように整っていて、真っ赤なジャケットに黒いシャツ、線の細いジーンズ、そして茶と白とピンクの色が散らばっているマフラーという組み合わせが、とてつもなく似合っている男だった。
「藤原ァ、俺が何度も呼んでたのに、お前今普通に無視しやがったな」
 目の前まで来た男は、面倒くさそうにそう言って、見下ろしてきた。拓海は突然の事態に、咄嗟に対応しかねて、少し間を置いてからようやく、啓介さん、と相手の名を口にした。
 高橋啓介はわざとらしいため息を吐いた。
「お前、俺の名前一瞬忘れただろ」
「いや、覚えてますよ、そんな。この前だって会ったじゃないですか」
「ウソこけ、間があったぞ間が」
 聞き取りやすい早口で言われると、どうしてもペースが掴めず、拓海は益々間を置いて、突然でビックリしたんすよ、と釈明し、「どうしたんですか、こんなとこで」、と続けた。高校の校門前でこの人の姿は、いささか異様だ。下校する生徒、特に女子たちは、囁き合いながら横を通っていく。背も高く、顔も良く、服装も良いのだから、注目せずにはいられないだろう。拓海は特に気後れもしないが、変に見られるのは面倒だった。
「お前を待ってたに決まってんじゃねえか。スタンド行っても良かったんだけどよ、久しぶりに高校生ってのが見たくなってな」
 その面倒さすら感じていないように、啓介はごく普通に言った。はあ、と適当に頷いてから、俺に何か用ですか、と拓海が尋ねると、顔見に来ただけだ、顔、とやはり啓介はごく普通に言い、はあ、とやはり拓海は適当に頷いた。よく分からない人だと思う。こうして山ではない場所で見ると、圧倒されるほどの華美さがあるが、喋るとそれが半減し、結局どれほど華やかで勇ましく、綺麗なのかが分からない。
「お前のテクのえげつなさにはムカつくんだけどよ、藤原」
 少しの沈黙ののち、啓介は唐突に言った。
「お前自体には別に、ムカつかねえんだよな」
 そう言われてもどうしようもないので、はあ、と拓海が頷くと、何でだと思う、と啓介は尋ねてきた。いきなりの質問の意図もよく分からないし、そもそも啓介についてなど拓海はほとんど知らないので、俺に聞かれても、と素直に感想を述べると、まあそうだな、と啓介はあっさり納得した。素直に納得されると、それだけってのも失礼かな、と思ってしまうほどの優しさが拓海にはあったので、「俺は」、と、特に深くは考えないで言っていた。
「自分にできねえことやる奴は、ムカつきますよ」
 自分以上に秋名の山を速く走る奴には、どうしてもムカついてしまう。嫉妬だ。昔から運動会でも、一位になれないと腹が立った。勉強では一番になれなくとも特に何も感じないので、自分が得意だと思っていることに関しては、誰にも譲りたくないのだろう。要するに、負けず嫌いなのだ、と思う。
「じゃあ俺もお前にムカつくのが筋じゃねえか」
 すると、啓介は不当そうに言い返してきた。俺に言われても、と拓海は困った。あんたのことなんか、あんたにしか分かんねえだろ。まったく、分からない人だ。じゃあよ、と啓介は食い下がってくる。
「お前は、俺にムカついたりする?」
 いや、と言いかけ、過去を考えてから、まあ、たまに、と拓海は言い直した。
「何で?」
「何でって……何でこの人こんなに……何だろ、真っ直ぐいけんのかなって」
 いきなり立ちふさがった挙句、人を運転好きだと決めつけたり、人に勝ってプロに行くと一切の迷いも見せず宣言したり、そういった勝手を通せる意思の強さや、行動力に、憧れ、それが羨ましくなると同時に、苛々してくる。怪獣を倒すためならばビルを壊すことを躊躇もしないヒーローも、敵の戦闘員を簡単に倒してしまうヒーローも、子供の頃から好きになれなかった。無駄に派手なことが苦手なのだ。そう、目の前にこうして立ち、あー、と難しそうな顔をしている、この人のような。
「そういや俺も、お前はムカつく時あるな」
 難しそうな顔のまま、不愉快そうに啓介は言った。
「ムカつくんですか」
「そんなテク持ってんのに、何でマジで取り組まねえのかってよ」
 吐き捨てるように啓介は言うと、一瞬目を冷たく細めて、それから何かたまらないように、雲の多い空を見上げた。
「妬みかよ、意地わりいな、クソ」
 そうだ、妬みだ。自分にできないことを、自分にもできるけれどもやらないことをやられると、自分が侵害されたような、けなされたような気分になる。拓海は啓介と対すると、わずかながらでも、それを感じる。つまり――嫉妬だ。その気分は理解できるが、ムカつかれている理由は釈然としなかったので、別に、と拓海は言った。
「マジで取り組んでないことなんかないですよ。マジじゃねえと、バトルとか勝てねえし」
「いやあるだろ。全体的な意味でな、お前には本気ってもんが薄いんだ」
「そうっすかね」
「そうだよ」
 この人に断言されると、そんな気がしてくる。確かに、何かをやる際には集中するが、いつでも何に対してでも本気であることは、ないかもしれない。
「でも、そんないっつも気合入れてちゃあ、疲れませんか」
「疲れるだろうな。だから隙が出るんだよ。お前もあんま、そういう無意識の隙とか見せねえようにな。付け入られっぞ」
 はあ、と頷くと、じゃあな、と啓介は振り向き、校門から出て右に曲がる生徒たちの流れに乗っていった。頭一つ飛びぬけている、赤いジャケットのその姿は、やはりどうしようもなく目立つ。
「なあ、な、何だあれ、拓海」
 会話に入るきっかけを掴めなかったらしい樹が、啓介が去ってすぐに寄ってきた。拓海はいつも通りにスタンドに向かう道へ戻りながら、さあ、と首を傾げた。
「何か良く分かんねえ人だよ、あの人」
「ふーん、高橋啓介だもんなあ。でもよ拓海、お前高橋啓介に顔見に来られるってすげえじゃん」
 話は聞いていたらしい。「そうかあ?」、と拓海は逆方向に首を傾げた。
「あの人、身ィ軽そうだからなあ。思い立ったら誰にでも会いに行くんじゃないかな。俺が特別ってんじゃないと思う」
「拓海ィ、お前もう少し自分の価値に気付いた方がいいと思うぜ、俺は」
「何だそりゃ」
「つまり、高橋啓介に会われて当然なんだよ、お前は」
 熱をこめて語る樹を見て、ああ、と拓海は言われたこととは別のことを思って呟いた。
「俺も、意地わりいってことかな」
「あ? お前が? どこが? 女の子にモテるところか?」
 立て続けに問うてくる樹に、モテねえよ別に、と適当に言ってから、あの人はけど、誰に嫉妬すんだろう、と拓海は思った。そして、家に帰る頃には忘れた。



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