言われるまでもない
高橋啓介が勤勉実直な人間を目指さなかったのは、既にそれを実践している兄がこの世に存在したからである。先に出た奴に真面目を地でいかれちゃあ、ひねくれる他ないのが人間ってもんじゃねえか、と思うは啓介だ。おそらく兄がいなければ自分だって親の期待に沿えるよう学業に専念し、品行方正を貫くための努力をしたはずだ。はずなのだ。なぜなら先に兄ができたおかげで、次に産まれた自分は塾に行かされもせず習い事をやらされもせず躾もロクすっぽされず、放任され通しになったのだから。
まあ元々デキが違うってのもあるんだろうけど、と啓介は秋の夕焼けが照らす雑多な街中を一人歩きながら思いをはせる。もしあの兄が、自分の立場であればどうしただろうか。あの兄だ。遊びも控えて勉強し、正しい礼儀作法を身につけ、しかし運動はさぼらず、運転技術すら自分のはるか上をいった兄だ。何に束縛されることもなく、やりたいようにやっていれば、とんでもない人材になったのかもしれない。少数派になりたがる天邪鬼な部分は程よいエッセンスとなっただろう。
人ごみをひょいひょいと抜けつつ、俺のせいかなあ、とぼんやり思う。幾度考えたか分からない。立場が違えばもっと兄は幸せになったのではないか。俺はもっとうまくやれたんじゃねえのか。そしてそれを真面目に考えていた頃こそ、理不尽な世界に嫌気が差して、グレたものだった。だから今では考えない。ただ、思うことがあるだけだ。俺のせいかなあ。
兄が言いそうことは分かっている。『誰のせいでもない』。他人の責任にしないのが立派な我が兄だった。清廉潔白。計算高くえげつなさを見せる時もあるが、結局は完成された人間だった。だから尚更啓介は思うのだ。俺は余計だったよな、明らかに。もう家族の愛情を疑うことも家庭環境を恨むこともないし、自虐的になりたいわけでもない。同情されたいとも思わない。ただ、自分が余計であることを思うと、冷静になる。だから思う。さっさと俺はあそこから出るべきだ。
街中を歩いているのは決して夕暮れ時に散歩をしたかったからではなく、大学の友人の知人とやらに貸した金を返してもらうためだった。車で行くような距離でもなし、そして車体にイタズラをされる危険性を忌避して自分の足を使ったが、呼び出された先は築何十年という木造アパートが立ち並ぶ一画で、呼び出した当人は五人の屈強な男を従えていた。
やっぱ余計なんだよなあ、とその時でもぼんやり啓介は思っていた。話は聞かずとも分かった。都合により金は返せないのでお引き取りくださいということだ。余計、余計、余計。悪いことは一通りした。よく警察のお世話にもなった。車の免許を取ってからは身を正した。だがこれは性分なのだ。努力をすれば抑えられただろう、目的意識があれば方向転換できただろう。しかし啓介にはそれらはなく、性分は性分として残っていた。だから脅迫じみた要請は断った。
勝つ自信も負ける自信もなく、ただ夕焼けに染まる橙色の街が鮮やかで、気持ちは随分と落ち着いていた。すぐに動けるような体勢になりながら、余計なもんが多すぎる、と改めて思う。これもそれもあれもどれも、全部余計だ。通行人が来たら一旦逃げようと心に決めて、五対一の喧嘩が始まった。
「高橋?」
馬鹿正直に丸腰でいっぺんにかかってきた三人を適確にのしたところで、通行人が来た。それも知り合いだった。
「中里?」
啓介は束の間ぼんやりし、その隙に立っている一人に左頬をゴツリと殴られていた。懐かしい頬骨の痛みだった。喧嘩を良く知らない人間ほど、鼻っ面でも耳の裏でも顎先でもなく、一番打ちやすいそこを狙う。啓介の体の芯が揺れると、ここだとばかりに二発目を狙ってきたが、軌道は簡単に読めたので、カウンターは入れやすかった。四人目が脱落して、金を貸した奴だけ残っていた。
「返せよ」
言うと同時にその男はアパートに逃げ込んだ。追うのも面倒だったので、取立ては次の機会にしようと思ったら、後ろで人間が地面に倒れる音がした。振り向くと、知り合いの男がいた。そしてその下には先に倒した二人目がうつ伏せになっていた。啓介は夕日を背にしている男を、強い郷愁に襲われながら見た。
「よお、お前か」
「ああ、俺だ。……こんなところで会うとはな」
「この辺に用事か?」
男は黒いポロシャツにベージュのチノパンを履いていた。仕事ではないだろう。
「知り合いと晩飯食う予定でな。……お前は?」
いちいち置かれる間に些細なイラつきを感じつつ、啓介は痛む頬ではなく、赤くなった右の拳をさすった。
「貸した金を返してもらいに来たんだよ。そしたらこんなに豪勢に出迎えられた」
「何で金を返してもらうのに、お前がこんなことをされるんだ」
「まあ、色々あるんだろ。世の中。だからおもしれえ」
パン、と一つ拳を掌に当てた。男は難しそうな顔をした。峠で見るよりも普通の男だった。拍子抜けだ。
「気をつけろよ。相手が武器でも持ってたら命が危ないだろう」
「分かってるさ。それが当然だろ。それだけ場数は踏んでる」
「お前は大事な人間なんだから」
拳を掌に当てた状態のまま、啓介は男を見た。真面目たらしい雰囲気だった。啓介はその言葉には何の反応もしなかった。
「そいつ、復活してたか?」
うつ伏せの二人目を顎で示すと、男は顔を逸らしてうなじあたりをバリバリ掻き、五秒ほど置いてから、「まあ気をつけろよ」、と繰り返して、啓介を見、背を向けた。
「ありがとよ」
素直に啓介はその背に声をかけた。男は不思議そうに首をひねて見てくると、わずかに口端を上げ、通行人に戻っていった。啓介は周囲を見回してから、左頬に手を当てつつ、何事もなかったように来た道を歩いた。夕日はまだある。いい加減鬱陶しく感じながら、真面目たらしい通行人が自分の立場だったらと考え、意味ねえなあと思った。走りを介してしか、互いを見ていないのだ。だから大事だなどと言える。走りしか知らないからこそ、その価値だけで断じられる。
意味ねえな、意味がねえ、と何度も思いながら、そして啓介が帰るは我が家だった。
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