避ける



 自分が負かした、ということをいつも忘れてしまう。
 多分、そのせいだろうと啓介は考える。中里がこちらを見た時、苛立ちとは違う、似合わぬ粘ついたものを窺わせたのは。結局、会ったのは最初の一度だけだったから、最初の一度しか、その目で見られはしなかった。ただ、印象的だった。
 啓介は彼に、そのホームでのバトルにて勝利を収めている。勝つ自信はあったが、最後まで決着はもつれこんだ。一歩間違えれば、誰かを轢いていたかもしれない。しかし勝ちは勝ちだった。決して軽くはない、記憶に深く刻まれた勝利だ。だが、中里を前にしても、勝ったからどうこう、とは思わなかった。
 中里毅という男が、妙義山で日産スカイラインのGT-R規格を乗り回し、粋がっていることは知っている。ある程度の速さを持つ走り屋だとも知っている。それでも、どうしても忘れてしまうのだ。
 負かした相手をお前はいちいちどうこうすんのか。
 最初の一度、唐突にそう言いたくなったが、脈絡がなさすぎたし、空気を壊すのも面倒だったので、喉まで浮いた言葉は呑み込んだ。そしてその顔、暗澹とした目と一瞬合うと、それは消えていた。
 不器用な奴だ、と思った。もっと喧嘩腰でくればよかったのに、何か微妙な遠慮をした。微妙だった。完全に下がるわけでもなく、いかにも構ってくれという遠慮。だが、本人が構ってほしがっているかといえば、それも違うようだった。意識と無意識が、ばらばらなのだろう。
 兄が言うには、惜しい奴だそうだ。速い時は速いのに、アベレージを保てない。落ちるととことん落ちて、格下にも負ける。自分のやり方にこだわる。余計なことまで気配りする。だから、いつまでも真っ直ぐ上にいけない。
 兄は明晰だ。何でも知っている。というか、知らずにはいられないのだろう。いちいち観察して、分析する。おそらくは、すべて正しい。兄が推量する時は、確証がある時のみだ。
 だが、啓介がそれを確かめることは、今のところない。事前に行く日にちを告げると、その日に中里は妙義山には現れないからだ。冬になる前に、様々な峠に足を運んでいるのは、兄の勧めだった。経験があるからこそ、応用も利かせられる。
 今日は、妙義山だった。相変わらず、中里はいない。
 道を作らせ一つ走ってから、次はどの目標をもって臨むかと考えていた啓介に、
「タイム、計んねえのか?」
 近づいてきたその男が、言ってきた。
 ここで啓介に声をかけてくる人間は、この男以外にいない。ここの連中は騒々しく無頼だが、興味のないことは一切を無視できるという冷淡さも持っているようで、啓介の周囲にまとわりついてくる、構われたがりの人間たちとは違った。おそらく、中里とも。
 その筆頭であるように見える、分離しかけている長い茶髪と爬虫類のようなねっとりとした顔を持つこの男は、それでも啓介に逐一話しかけてくる。啓介個人に興味がある風はない。ただ、完全に無視できるほど、見かけによらず個人主義でもないらしかった。
「タイム計ったが最後、歓迎されないならまだしも、追い立てられるだろうからな」
 煙草を吸おうか吸うまいか、今日は三本吸っちまってるし、と思いながら啓介が言うと、男は独特の、人を嘲るのに長けた笑みを浮かべた。
「お前にも遠慮ってもんが備わってたんだな」
「まあな。中里の面目潰しちゃあ、そっちだって困るだろ」
「あいつの面目潰れても俺は困んねえよ。むしろ清々する。多分そうなったら、困るのはお前だぜ。あいつを信奉してる奴は、少なからずお前に殺意を抱くだろうしな」
「シンポウ」
「元々お前の歩道走行をいまだに根に持ってる奴はいるんだ」
「それなら直接文句言いに来りゃいいんじゃねえか。何でも俺は聞いてやるぜ。暇あるし」
 ここにたまに来る、と宣言してから、一度もここの連中に絡まれたことはない。まるで揃って躾をされたように、誰もが啓介に触れようとはしない。
 男が小ばかにするように一つ笑ってからその後に言ったことは、その仮定を正しいものとした。
「お達しが出てんだよ。一回でもお前に絡んだら罰金五万。隠してたら連帯責任、一人一万」
「何だそりゃ」
「優しさだろ」
「気持ちわりい」
「まったくな」
 この男との会話は存外心地良かった。いかに核心に触れず、核心にたどり着くか。それも、動揺を見せぬままに。
「前にお前、聞いてきただろ」
 男は出し抜けに言った。「あ?」、と啓介は意味が分からず睨むが、男は平然と続ける。
「お前がここに来る時に限って、あいつがここに来ない理由」
 ああ、と啓介は思い出した。宣言した日から、二日続けて中里とはここで会わなかった。単純に疑問に思い、手近にいたのでこの男の尋ねたが、俺が知るかよ、とでも言われたような気がする。
「俺が気に食わねえんだろ」
「そう思うか?」
「別に、どうでもいいしな」
 中里がどう考えて、同じ時間に峠に来ないと決めているのかなど、啓介には関係がない。関係があるのは、今、この場にいる人間だけだ。
 吸うのかよ、と男は言い、その目は啓介が手に持っている煙草の箱を見ていた。いつの間にか癖で取り出していたそれを、吸うか、と啓介は男に差し出しながら言ったが、いや、と男が首を振ったので、パンツのポケットにしまった。
「バトルがしてえんだよ、あいつは」
 吸うのかよ、と言ったのと同じ調子で男は言った。啓介はパーカーのポケットに両手を入れ直してから、男をじっと見た。男は啓介を見、何も言われないことを悟ると、つまらなそうに続けた。
「お前と。ここで。もう一度」
「何だ、その変な告白みてえなの」
「でもまだしたくねえんだ。負けるのが怖いから」
「ふうん」
「顔会わせりゃ、嫌でもそれを考える。だから来ない」
「よく分かってんだな、あいつのこと」
「顔に書いてあることを読んだまでだ。誰でも分かる」
 男は皮肉にも動じない。啓介は、湿り気のない風のせいで乾いた唇を舐めた。そこまで臆病だとは思わなかった。競い合いの機会が数回しか与えられないと信じているとも。力がつく限り、時間が許す限り、情熱がある限り、挑戦は永遠に続く。それを知らない男には、見えなかった。買いかぶってたかな、と啓介は思い、何か違うような気がしながら、ため息を吐いた。
「いつでも勝負にゃ乗ってやるけどな、こっちは」
「数打ちゃ当たるの精神は取りたくねえんだろ」
「当たれば何でも同じじゃねえの」
「百回のうちの一回と、一回のうちの一回とじゃあ、貴重さが違うんだよ」
 ふと、中里毅という人間が、目の前の男によって定められているように感じられ、啓介は溜まった唾を地面に吐き捨てていた。男は顔をしかめ、きたねえな、と顔に似合わぬことを呟いた。きたねえよ、と啓介が言うと、男は不可解そうに顔をしかめた。
「ならやるなよ」
「ああ。あとは赤城で十分だ」
 そう言ってから啓介は、十分という言葉の物足りなさに気付いて、「地元が一番だからな」、と付け足した。男は顔をゆがめた。
「もう来ねえってことか」
「あと二回走る。課題はそれで終わり。ここには当分来ねえよ。目新しいもんもねえし」
 二回で修正を行える自信があった。メモを取ることは、兄に強く命じられている。改善点が次々見つかり、次々消えていった。残りはあと三つだ。
 なるほど、と男は頷いた。啓介はFDに向き直ってから、ふと気付き、男に向き直った。
「お前は俺とバトルしてえか?」
 男は数秒してから、突如笑った。
「してやるってか?」
「やりたきゃな」
「やりてえけど、殺したくなるからやめとくよ」
 男は笑ったまま言い、啓介が見続けると、笑みを消し、感情の読み取れない顔をして、元気でな、と白々しいこと別れの言葉を告げた。男は目を逸らさない。啓介は男を見たまま、ああ、と言って、FDに戻った。普通にしてりゃあいいものを、と思いながら発進し、わずかな空虚感はあったが、走る頃にはすべては満たされ、何も失われはしなかった。



トップへ