終わらない話
1.
金持ちの子供という種類の男には、度々会う。峠に来て、外車やら高級車やらを振り回そうとする奴は、大体そういう系統にあるのだ。特徴がある。皆、どこか物腰は柔らかく、のん気で、スカしていて、無意識のうちに自信がにじみ出て、それが妙な具合に他人を圧倒する。それが、大金持ちの息子だ。小金持ちの息子になると、変にセコイ真似をしたり、癇癪持ちだったり、かと思えば誰にも危害を加えないような人種だったりと、ふり幅が多くなる。
いずれにしても、死に物狂いで寝る間も惜しんで働いて、働いた金を一銭残らず車につぎ込むような奴に窺える、狂気は持っていなかった。順風すぎる人生にスリルを加えたいだとか、ドライビングのテクニックを遊びながら磨きたいだとか、他人より勝っていたいとか、そこらの走り屋と変わっていたり、変わらなかったり、しかし特に目新しくもない理由を口にして、奴らは他人にいじってもらった車を使っているのだった。
俺が、初めてそいつを見た時に不思議だったのは、そいつの目には、車とともに破滅をしていく類の奴が持つ、とても恐ろしいが、とても甘い、狂気がほの走っていたからだ。そいつは、高橋啓介は、金持ちの息子のはずだった。大金持ちか小金持ちかは、俺にはよく分からない。財産がどの程度など、今もって聞いたこともない。ただ、医者の息子(それも病院を手堅く経営しているらしい)であり、兄弟そろってあの燃費の悪いロータリーエンジンを積み込んだスポーツカーを所有するならば、それなりに持つものを持っているのだろう、とは容易に想像できる。そんな息子が、なぜ強烈な光を、綺麗に開かれている目に乗せているのか、俺は不思議だったのだ。
最初は、単なる若造だと思った。我慢を知らずに育ったように、歯に衣着せぬ物言いをし、態度は喧嘩腰だった。世間の風がどういうものか、人間の悪意がどういうものなのか、そんなことを気にすることなく生きてきたのだろう。だが、漠然とそう思っただけで、俺は別に、そいつを見下したり、軽蔑する気にはならなかった。あの忌まわしいロータリーサウンド、スカイラインの栄光を奪ったあの車は、その孤高の歴史に優越を持って所有されるばかりだと俺は考えていたし、あのデザインも元から好きではなかったから、それを巧みに操る高橋啓介にしても、俺は気に食わなかった。嫌いだった、と言えるだろう。しかし、それとその人間の真価を否定するとかは、まったく関係のないことだ。たまに俺自身、忘れてしまうことがあるが、その時はきちんと、分別をつけていた。
ただ、実のところ俺は、次に会った時にも、やたら整った顔の中に、刻々と浮かび上がってくる、あの背筋を震わせるような暗い色を見つけたのだが、それをどうにかして見逃したかったから、単なる若造だと思ったのだ。思い込もうとした。高橋啓介とは、単なる金持ちの息子で、イエローのFDを傲岸不遜に乗り回している、世の中の酸いも甘いもよく知らない、若造にすぎないと。そして安心しようとした。俺の方が腕は上だと。だがその単なる若造に、俺は負けた。
2.
三歳も歳は違わないのだから、若造というのもおかしなものだが、俺からすれば高橋啓介という奴は、とにかくガキだった。子供だった。そのくせぞっとするような狡猾さも持っていて、しかしそれもまた、どこか幼稚な匂いがあることは、否めなかった。
そいつがなぜ、俺と寝たがるのか、それも俺にはよく分からないことだ。俺だって、同じ男に抱かれたくはなかった。抱かれたくはなかったが、そいつに請われると、断ることができなかった。俺は怖かった。断ること自体が、ではない。俺が断ったら、そいつが俺以外の奴にどんなことをするのかが、怖かったのだ。
峠には色んな事情を抱えた奴が来るから、俺はキレる奴にも度々会ったことがあるが、そういう奴らにも、二パターンがある。一つは見境なく、誰彼構わず食らいつく、狂犬みたいな奴。もう一つは、静かにキレて、狙った奴以外に目もくれない、一番殺しをしかねない奴だ。
高橋啓介は後者のような、前者の色を持っていた。つまり、一度始まったら、自分の気が静まるまで、目につくものを襲いまくる奴。俺は、そういう奴が一番怖かった。チームのトップを張って、諍いごとの仲裁なんかもよくするし、俺自身、殴ったり殴られたりもお手の物だが、本当にキレちまっている奴には、できるだけ関わりたくなかったのだ。走っている時以外で死にたくはないし、他の奴らに手を出してもらいたくもなかった。
俺は、今の自分の立場が好きだった。熟練した腕を持つ者から、素人に毛が生えた程度の腕しか持たない奴まで、皆が何となくでもつながっていて、時に上を目指し合い、競い合い、楽しみ合う、そういう奴らを見ていられる今の立場を、捨てたくなかった。俺が断ったことが原因で、こいつが他の奴らをぶちのめしでもしたら、俺の信用はどうなる? それほどしっかりしたことは考えなかったが、それに近い危機感は抱いた。今でもそれは変わらない。俺が断ったら、こいつは他の奴らに、女に、どんなひどい真似をするだろうか? ありえないことだとは分かっていた。なぜなら、そこまで高橋啓介が非現実な奴ではないことを、俺は既に知ってしまっているからだ。それでも思いは消せなかった。俺はそうして、そいつにはまっている自分を、正当化しようとしているのだ。
3.
初めて俺が、そいつに屈した時のことだ。バトルでではない。バトルは遥か昔に終わっていて、俺のRも昔と変わらない姿で、俺の手元に戻っていた。
それは、風の噂で、秋名のハチロクがエンペラーのエボ3を破ったと知った頃だった。俺は久しぶりに負けすぎて、自分の限界ばかりを探していた。ここまでしかいけない、というところを見つけて、それで諦めたかったのだ。無論、その時はそんなことを意識してはいなかった。自分では、速くなろうとしていただけだ。欠点を洗い出し、一つずつ改善していく。今までのコーナー脱出のタイミングを、少し遅らせてみる。二速まで落とすところを、三速で流してみる。些細なことを変えては記録を取り、変えては記録を取った。タイムは一定しなかった。速くもなれば遅くもなった。当たり前だ。何も身につけないうちに次々変えていくのだから、安定するはずがない。俺は変わりたかった。速くなりたくもあったが、同時に自分に見切りもつけたかったのだ。
よほどその頃の俺はピリピリしていたのだと思う。仲間はほとんど話かけてはこず、慎吾にしても用件を伝えにくる程度で、揶揄すらも挟まなかった。俺はそれを気にする余裕もないほど、自分にのめり込んでいた。
そんな時に、完璧な敗北を食らった相手にやって来られては、俺も冷静ではいられなかった。元々熱くなりやすいという自覚はあるが、どうしても感情の奔流は止められない。抑えは効かなかった。
俺は当時、いつ眠っていたのか分からないほど峠に通い詰めていて、走り込んでいて、また燃料代やパーツ代を稼ぐために働いていた。異常だった。少なくとも、正常と言えるほどの精神状態ではなかった。そんな俺に付き合うくらいに異常な奴はそうそういなかったので、夜半もすぎると、大概俺は一人で山を走っていた。だから、誰かが夜半すぎにここに来れば、俺と一対一になるシチュエーションが、かなりの確率で成立していた。例えそれが高橋啓介だろうとも、だ。
何の因縁がついたのか、詳しくは思い出せない。本当に、取るに足らない言い合いをした。まず、突然現れ、しかしゆっくりと俺の目の前まで来たそいつが、何でお前がいるんだよ、と俺に言ってきた。誰もいねえと思って来たのに。そんなことを言われても、ここに誰がいようとも、誰が文句を言う筋合いもないだろう。俺はその時点で、かなり苛立っていた。一人で走ることでも、現状の打開策を見つけられなくなり、何もかもに段々と苛立ち始めていた頃で、こちらを一刀両断してきた高橋啓介を目にすれば、何もされなくとも怒りが燃え盛る始末だった。そこで俺は、失態を犯した。そいつの個人的なことをなじってしまったのだ。走り屋同士で、走り以外のことを喧嘩のネタにするのは、誰にでも軽蔑されることだった。しかしその時俺は、怒りを抑え切れなかった。のうのうと、傲慢な雰囲気を保ったまま、自分の意思にそぐわないことなどこの世にないというような顔をしているそいつを見ていると、もう駄目だった。それからは、くだらない言い合いだ。そこにクルマのことも混じってきたから、収拾はつかなくなった。俺は手を出しかけ、その綺麗なツラを一瞬目に入れると、何か勿体ないような気がしてしまい、途中で止めていたが、俺が殴りかけた時点で、そいつは攻撃は最大の防御だと知っていたらしく、俺の腹をしたたか拳でぶってきていた。腹筋をしばらく鍛えていなかった俺は、呆気なく胃液を吐いた。晩飯は食べていなかったから、透明な液体しか出てはこなかった。
よええな、という呟きが聞こえて、俺は這いつくばりながら、そいつの両足にしがみついた。みっともないと分かっていた。分かっていたが、このまま帰しては、もっと自分が惨めになりそうだとも思っていた。顎をつま先で蹴られていた。そいつが履いていたのはスニーカーで、それほどためもなかったから、骨が砕かれるようなことはなかったが、痛くてたまらなかった。髪を掴み上げられたのは、そのあとだ。真正面に、そいつの顔があった。ぞくりとした。そいつは一つも汗をかいていなかったし、一つの疑問も含んでいないような面をしていたからだ。
そこで俺は、太ももに股間を擦りつけられて、その硬さにおののいた。やらせてくれよ。高橋啓介は、そう言っただけだった。俺は、考えようとした。色々なことを考えようとした。だが、もう何も考えられなかった。小便を漏らしそうなほど、俺は、恐ろしかったのだ。S13にも乗る前、高校の先輩から貰ったボロ車に乗っていた頃に、オーバースピードでコーナーに突っ込み、一回転し終わった時と同じくらいに、恐ろしかった。自分がどうなるかということよりも、そいつが何をするのかということが、ナイフを内臓の前に突きつけられているみたいな、嫌な緊張を生んだ。俺はその場で決断を迫られた。そしてそのあと、それまで味わったことのない痛みを経験し、俺は、逆らうことも走りのことも、すべてをもう、投げ出してしまった。
それが初めてそいつに屈した時のことで、俺はそれを思い出すと、今でも胃液が逆流しそうになると同時に、とてつもない冷静さを得られる。あれに比べれば、失恋の痛手も軽いものだった。軽すぎた。痛みも、屈辱も、解放感も、あれの比ではなかった。俺はすぐに立ち直っていた。気を遣ってくる周りの奴らが奇妙に思えるほど、俺は普通だった。それが、本当の失恋ではなかったからということと、本当の恋という禍々しいものに俺が気づくのは、それからまだしばらくあとのことだ。
4.
機械に乗ってて何が楽しいんだよ、とそいつは言う。人を食うように、自分の発言に少しの疑いもないというように。俺は奪われた挙句、まずいと捨てられた煙草を拾い、残りを吸う。そいつは自分の煙草をベッドの中から探しながら、続ける。
「俺は、自分の手で隅々まで分かる車じゃねえと、燃えねえな」
枕の下に煙草があるというのもおかしな話だが、枕が枕として機能していないこの部屋では、おかしなこともないのかもしれない。俺はライターだけ貸してやって、灰皿も床からベッドの上に乗せ、そうしながら言い返す。
「機械を自分の手で操ることの楽しさを、お前は知らねえんだ。それにレースにもなってくりゃあ、市販車だってマシンに変わらざるを得なくなる。速さを追い求めるってことは、人間の手から一旦車を離して、それをどうにか人間の手におさめようってことじゃねえか」
「それをお前じゃなく、エンペラーの須藤とかが言うなら納得できるけどな」
痛いところを突かれて、俺はつい顔をしかめる。それをそいつは見もしないし、『けどな』のあとに言葉も続けない。俺はフィルターまで焼けかける煙草を灰皿に押しつけ、ベッドの端から立ち上がる。パンツは履いているから、シャツを着る。ジーンズも履こうとして、後ろから腕を取られ、元の位置に座り、背中から抱かれるようになる。耳に、その明快な声が響く。
「お前、あのエボ4と、決着つけてねえんだろ?」
ぎくりとして、冷や汗が一気に浮く。ごくりと喉が鳴る。粘る唾で口をうるおし、それから口を開く。
「時間がなかった。冬にやるわけにもいかねえ」
「もう春だぜ」
「そうだな」
「やれよ」、と脅迫めいた調子で言う。布地の上から、肉体の熱さを感じる。やるよ、と応える。
「だが、まだ調整ができてねえ」
「その調子じゃあ、いつまで経ってもやりそうにねえな」
「俺はお前と違って、いつでも使える金がねえんだよ」
「俺に金を出せって?」
「誰がそんなことを言った?」
無理矢理顔だけで振り向くと、興ざめしたような顔が現れる。おそらくそいつは、俺がまだやらない別の理由を、知っているのだ。別の理由。金ではない。調整ができていないのは、ひとえに精神が不安定であるためだ。ただ、それがなぜかということは、知らないだろう。俺は嫌な気分になる。自分の想像で、いつも不愉快になる。
「出してもいいんだけどな」
本気にも取れるような声で言い、俺の腕を取りながら、ベッドに倒れこむ。俺はそいつを見下ろす。つまらなそうな顔のまま、手でしてくれよ、と言われる。裸には、見惚れる。美しい筋肉のつき方をしているのだ。また、体毛も薄く、肌には張りがある。俺は請われるまま、掴まれている手を、その裸に乗せる。もうそいつは目を開かない。だから俺がどんな顔をしてそれをするかは見られない。それが唯一の救いかもしれない。見られた時点で終わる予感がある。そしてまだ終わりはしない。
トップへ