仕方がない



 昼間の住宅街、すりきれかかった黒いジャージに、伸び放題の白いTシャツという後ろ姿は、何だか珍しいような気がしていた。プラス、底が剥がれかけているこげ茶のサンダルだ。というか、実際剥がれてて、バタバタ鳴ってんだけど。
 ドアを開けて出てきた中里は、そんな格好で寝ぼけたツラで、髪だけはちゃっかりセットしていやがった。連絡入れたのが近くに来てからだったといっても、もっと他にやりようがあるだろうと思って、そりゃねえだろ、と俺は言いかけたけど、よく考えなくても俺も俺だったから、何も言わないでおいた。
 しかし中里はそんな俺の気づかいにも気づかないで、いつもの半分しか開いてなかった目をいつも通りの大きさにすると、何だそりゃ、と叫ぶように言ってきた。何だも何も、と俺はつい舌打ちしてから、今日の朝に起こったことだけを説明した。
「おふくろが俺の服、全部洗濯しちまったんだよ。休みだからって」
 前に、俺のおふくろは洗濯好きで、みんなそろっての休日は家族全員の洗濯物を洗っては干し洗っては干ししないと気が済まないタチだ、って話したことがあるから、そうか、と中里はそこでは納得したみたいだったが、まだ何か言いたげだった。俺にも中里が何を気にしているかくらいは分かっていた。でもそれは今更どうしようもないことだったのだ。こいつの背は俺より小さいから、こいつの服を俺が着たってつんつるてんになるだけだし。
 ラーメン食おうぜ、とだけ言うと、中里はやはり何か言いたそうだったが、玄関からようやく離れ、そうして俺の先を歩き始めて、今も歩いている。
 この組み合わせはさすがにおかしいだろ、とは俺も思う。みすぼらしいようなショミン的なような格好で、黒いままの髪は営業マン風にセットされて、顔はむくんでいるくせにキビキビと、しかしサンダルの底をバタバタいわせながら歩く中里と、その後ろをついている、今風っぽく仕立て上げた髪(一応俺も流行には敏感な方だ)をしていながら、まッピンクの半袖開襟シャツ(しかもやけにてかてかしてる)に、白地に紫の牡丹が描かれた(正直赤じゃなくて良かったと思っている)コーデュロイパンツ、そしてレッドウィング(これはブラウン)を履いているという、この俺。何だろうな、この二人は。今は前後に並んでちょっと距離が離れているからまだいいが、これで横に並んで歩いたら、……俺でも想像つかねえや。
 それでも狭い道を通る人に、何度となくぎょっとされたが、中里行きつけのラーメン屋のパートのおばさんは俺を見て、「あらイカした格好ねえ」と言ってくださった。これには俺も思わず普段出さない営業スマイルを炸裂させてしまったものだ。昼飯時を大分すぎていたからぎょっとするような客はいなくて、エビスサマみたいな顔した店長とその奥さんと娘さんは苦笑いをしてくれて、中里は意味もなく他人の振りを決め込んでいたが、それも帳消しだった。分かる人には分かる、この服装を着こなせる俺のイカし加減というわけだ。凡人には理解できねえ。俺も理解できねえけど。
「なあ」
 座敷に陣どって、違いが分かるおばさんに赤味噌ラーメンとネギラーメン醤油大盛を注文し終えたところで、中里が何でかひそめた声で、言った。
「その服は……」
「アニキのだよ」
 止まりかけた先のセリフを言ってやってから、俺のでたまるか、こんな無意味に派手なやつ、と続けると、いや、と中里は煙草を出しつつ、何に遠慮してるのか、かなり言いづらそうに言った。
「あいつのでも俺にはいまいちその、センスってものが分からねえというか……よくもまあ、そんだけのもんがそろったな」
 俺も分かんねえって、と俺はシャツの襟をぱたぱたやった。
 アニキが持っている服には三種類ある。一つはカンペキフォーマルで通用する、ビシッとしたスーツ系。これはカンコンソウサイ全部に対応できるだけの種類と形と色がある。次に地味なジャケットとかパンツ、セーターとかシャツとか、そのまま雑誌に載れそうな感じの優等生系。アニキが外出する時の服は、大体ここから選ばれる。そして最後が問題だ。目がチラチラしてくるような色と模様、インナーアウター諸々の、独自のセンスでイッてる系。ヤーさんかチンピラか典型的なオバサンが着そうな感じの原色加減と縞模様に格子柄、花、豹、はてはヒョウタンカタナに『愛』の一文字、もう何を狙っているのか分からない、アニキもたまにしか着ない、観賞用といっていいシリーズだ。
 おふくろに上下の何もかもを洗濯されてクリーニングに出された俺は、俺とタッパが変わらないアニキに服を借りに行ったわけだけど、モチロンアニキの服もほとんど洗いに出されていた。しかしアニキは事前にそれを知っていたから、優等生系のだけはちゃっかり確保しておいて、でも俺はラーメン食うのにネクタイつきのシャツにスラックスってのもどうかと思い、まともなのはないかと聞いたんだ。まともなの。そして微妙に不機嫌そうになったアニキがタグつきのまま差し出してきたのが、この何ていうかもう勘弁してくれよ春なのにすんげえ暑苦しいってという服で、俺はそれを確かめる間もなくアニキの部屋から追い出された(というか逃げた)のだった。
 そこまでコトのテンマツを話すと、煙草を灰皿に入れた中里は、何を目的としてあいつはそういうものを購入するんだ、と本気らしい疑問をぶつけてきた。俺は水を飲んでから、
「アニキって、自分がどういう格好すりゃあ映えるかってのを分かってるから、敢えてそこを外してどんくらいになるかってのを試したい人なんだよ。実験好きっつーの? だから、これがどういう具合に似合うのか、そのうちやろうとしてたんじゃねえかな。人前で」
 そう教えてやって、ある意味はた迷惑な人だな、と中里はいかにも関わりたくないという顔をして言った。ある意味なあ、と俺は苦笑した。
 俺もたまに、あの人が『俺』の『アニキ』じゃなけりゃ、絶対一回ノしちまってるよな、とは思うけど、アニキはアニキだし、俺のアニキである以上、アニキはとても信用できて、信頼できて、すごい人でしかないのだ。まあそれでも、カブトムシを揚げたモノを突き出されて見かけ的に食べたいと思うかどうかを聞かれた時や(そのあとアニキがそれを実際食べたのかはいまだに謎だ)、夜中にいきなり部屋に入ってきて血縁関係におけるうんぬんかんぬんでチンコを見たいと言われた時は(俺がいや意味分かんねえと言ったらそうかと言ってさっさと部屋に戻っていった)、この人やっぱイッちまってる、と思ったけど、それをこいつに言うのもアニキに悪い気がするので、ある意味、というところで俺は同意しておいた。ある意味だ、ある意味。他は宿題を手伝ってくれたり、俺がイジメられてた時に助けてくれたり、道を思い切り間違えかけた時なんかはそれでもついていてくれた、間違いなく普通以上にイイアニキなんだから。
 アニキについての話は長く続かなかったけど、ラーメンが届くまで、中里はプロジェクトのことを聞きたがったり、他に関係のない自分のことを喋りたがったり、とにかく何かを話そうとした。こういう、腹立つような気持ち悪いような、けど何となく気分も良いような必死さを、こいつが持つようになったのは確か、俺がアニキに中里とのことを話して、そしてアニキが中里と話をしたと俺に話してからのことだ。アニキも中里も、ただ、軽くアイサツしただけだ、と白々しく言うだけで、俺が聞いても何を話したのか、正確には答えやしなかったけど、こいつの反応を見ていれば、何となく予想はつく。多分アニキは俺のことを中里に任せるとでも言って、中里は任せられておくとでも言ったんだろう。だから、こうして俺の機嫌を取るように、俺の話を聞きたがるに違いない。
 俺も話をすること自体は嫌いじゃないし、俺とタイプは違っても、クルマとか遠征の話とかを共有できるアタマと技術を持ってる奴はそうそういないから、例え中里がどんな義務感を持っていようが、こうした時間は楽しかった。
 たまにこうして喋くって、飯食って、たまのたまに、そのあとセックスする。全然多くはない。月に一回あるかないかだ。だから今まで、四回しかヤッてはいない。ただ、俺が勃っちまってヤりたくてどうしようもなくなった時だけ、一応了解を取って、やる。多分、俺の欲情のポイントが、いつかの時期に、こいつの何かに反応するから、こんなことになっちまうんだと思う。正確なことは分からない。俺だって何でこんなむさい顔の野郎を見て勃つのか分からねえけど、カチンコチンになっちまうもんはなっちまうもんで、仕方がない。
 最初、そういうことを俺が説明したら、こいつは嫌そうな顔をしながら、仕方なさげにうなずいた。俺はその時も中里相手に欲情していて、それはとても突発的で、どうしようもなかった。キスがしたくて、体中を舐めたくて噛みたくて、入れたかった。一回ヤると、何でこいつを抱けたのか、俺には全然分からなくなるんだが、その一ヵ月後とかになると、また突然、こいつのことが頭に浮かぶのだ。
 だから初めて抱いたあと、俺はどうしようかと途方に暮れかけた。裸のこいつを見ても、もうムスコはうんともすんともいってくれなかったんだ。だからといって、俺がホテルまで連れ込んだのに俺だけ先に帰るわけにもいかないから(そんなのはいくら男同士でもマナー違反だろう)、俺はとりあえず、寝るのも忘れて、出る時間になるまで、とにかく必死こいて、走りとかについて、色々話をした。何というか、こいつが走り屋の中里、32のGT−Rぶん回している中里だということを、俺は忘れたくなかったんだと思う。そしてまた会おうと行って、また会って、その時は何もしなかった。何も感じなかったからだ。ただ話をした。それからも、ただ会って話をした。俺の話、クルマの話。時間があれば、アニキの話、親の話、ダチの話、チームの話、他に別に話すほどのことでもないところまで、話した。中里は不思議そうに、興味深そうにそれを聞いていて、そのうちこいつも色々話すようになってきて、そのあと一ヶ月くらいして、俺はまたムラムラしてきて、セックスを持ちかけたんだけど、中里も何か、ムラムラしていたみたいで、その時ほど何が何だか分からなくなったセックスはなかったと思う。あのくらいのは、もうないだろう。中里がムラムラしないからだ。しなくていいんだけど。
 中里が、景気について語っているところで、違いの分かるおばさんがラーメンを持ってきた。飯を食っている時は、うまい、とか以外、喋らない。俺は食べる時は食べることに集中してしまうし、中里もそうらしかった。だから俺たちがまた話し始めたのは、ラーメンを食べ終わって、ギョーザを追加注文してからだ。今度は中里は唇をティッシュで拭いてから、煙草はやめたのか、と聞いてきた。やめたってんじゃねえよ、と俺は答えた。
「ただ、吸う機会は減ったかな。吸うタイミングが掴めなくなったのかもしんねえ」
「吸うタイミング?」
「食後の一服とかさ、何で俺吸うんだろ、って思い出したら、別に吸わなくてもいいんじゃねえかって思えてよ。まあイライラする時は吸っちまうけどな」
 なるほど、とマジメたらしく中里はうなずく。拭かれた唇が、ちょっと赤くなっている。まだ、俺のムスコは目覚める時期じゃないらしい。けどまあエロさもなくはねえかなあ、とは思った。分かる人は分かるんだろう。俺は微妙だけど。
「ならお前が煙草を吸い出したら、イライラし出したってことか」
 コムズカシイ顔をして中里は言う。そればっかじゃねえけどなあ、と俺はテーブルに片肘ついた。気がついたら吸ってる時もあるし、気がついたら煙草が減ってる時もある。気分の問題ではなく、習慣でだ。みんな大体そんなもんだろう。でもそこまで言う前にギョーザが来たので、俺たちは話をやめてギョーザを食って、それからさっさと店を出た。食べ終わったらすぐ帰る、それが暗黙の了解だった。食事を挟まないと、会話のやめ時が分からなくなるからだ。
 来た道を、歩いて戻る。やはり通りすぎていく人が、俺たちを眺めているような気がする。目立ってるよな。それを言うと、
「お前がな」、と中里は付き合いきれないという風にため息を吐く。お前のサンダルだってうるせえだろ、と俺はむっとして言い返す。お前の格好ほどじゃねえよ、と中里は更に言ってくる。俺はつい舌打ちしていた。
「俺だって目立ちたくて目立ってんじゃねえって。文句ならこんな服しか取っておかないアニキに言ってくれ」
「お前が自分の服を確保しておけば良かっただけじゃねえのか」
「おふくろの行動は急なんだよ。俺には読めねえ」
 おふくろは、急に俺のことを抱きしめて、愛していると泣いてきたこともある。俺が喧嘩相手の頬骨を陥没させて、肘の靭帯をねじ切ったあとのことだ。俺はその時初めて、もうどうにもならないことが多すぎることを知ったような気がする。
「お前は何したって目立つんだからよ、他の奴には」
 中里の声も、急に俺の耳に飛び込んできた。もっと自覚しろよ。そうも言われたけど、俺は特に言い返すことも思いつけなかったので、ああ、とだけ言っておいた。中里がため息を吐いた気配がする。気配だけだ。また前を行き始めたから、俺には本当に中里がため息を吐いたのか、確かめられなかった。そして俺は急に煙草を吸いたくなって、けどここで吸ったらイライラしてると思われるんだろうなと思うと吸えなくなったわけだが、手をパンツのポケットに突っ込んだまま中里の後ろ姿をながめていると、その首筋に、何かどうにもならないものを感じたのだった。



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