百パーセントない
走り足りない、と感じる。
まだ、限界が見えないのだ。自分に飽きることがない。これほど集中できるのは、この峠で車を転がし始めた頃以来だ。時間が足りない、金も足りない。余っているのは、自分の身くらいのものだった。
心地良い充実感に浸りながら、中里は一旦外の空気を吸うため、スカイラインから降りた。
顔に当たる風が、火照った肌を冷やしていく。仲間は帰り、知り合いも帰り、一見の者も去っていった。頂上には誰もいない。
競い合う人間がいる場の、感情がたぎり、血肉がわく時間も良いが、こうして黒々とした空を一人眺める、孤独に耽溺する時間も、中里にとって落ち着くものだった。自分のみであらゆることを決められる、自分のみに責任がまとわりつく、その緊張感、使命感は、刺激的で、生活に安定が続くと、つい求めてしまう。
頭からも体からも、少しずつ熱が奪われていく。星が瞬く空は、それでも闇濃く、遠近感を失わせる。風は止み、梢がそよぐ音すら聞こえず、車の放つ震えは心臓の拍動と重なり、世界に自分だけしかいない錯覚が、全身を支配していく。その恐怖に基づく快さに浸り、中里はただ空を見上げていた。思考は散漫、何かを生み出すことはなく、時間のみが過ぎていった。
そういう場合、考える行為を取り戻すきっかけとしては二つある。自然に我を取り戻すか、山に満ちる静寂が何かの音によって破られるかだ。
今回は、後者だった。
いつの間にか響いていたその浅い、けれども深く腹の底をえぐってくる音に耳を傾け、中里は状況を悟った。排気音、スキール音、エンジン音。刻々と変化しながら近づいてくるそれらは、一つの車を思わせる、特徴的なサウンドだった。巧者でなければ奏でられない、美しく、また中里にとっては忌まわしいことこの上ない音色だった。
最初に考えたのは、煙草を吸うか吸うまいか、ということだ。鎮静効果は見込めるが、その車が現れる前から吸うというのも、まるで待ち構えているようでためらわれた。
次に考えたのは、バトルについてだった。途端、その到来を予期してからただでさえ高鳴っていた心臓が、破裂しそうなほど拍動し出した。熱い汗が噴き出てきて、唾を飲み込まずにはいられなかった。興奮した。もし予想が正しいのであれば、居座り続ける屈辱を打破できる、これとない、良い機会だった。
音楽は一層近づき、やがて32のフロントに腰を預けていた中里の目の前に、ヘッドライトが作る光線を流しながら滑っていく、鮮やかな黄色が映った。いつ見ても人の視覚を蹂躙していくような色合いだ。
荒々しく停まったそのRX−7FD3Sから降りたのは、長身美形の男だった。見間違えようがない整った、凶暴性を浮かせている顔立ち、ずかずかと大股で歩く無遠慮さと、堂々たる佇まい。近づいてくる男の何もかもが、懐かしさと誉れ高さと、不愉快さを一時に中里へともたらした。
「何だ、お前のチームのメンバーいねえの」
開口一番、群馬広しといえど二台はないであろうそのFDのドライバー、高橋啓介は不可解そうにそう言った。これまでの互いの敵対関係を振り返れば当然だが、それでもあいさつも何もないということに対し、不快さを得ながら、中里は言葉を返した。
「もう帰ったぜ、どいつもこいつも」
「はー、マジで。折角遊んでやろうと思って来たのによ」
真っ白なパーカーのポケットに両手を突っ込んだ高橋が、呆れたように顔をしかめる。遊ぶってな、と中里が苛立ちを隠さず睨むも、高橋は中里も見ずに、お前と走ってやるのもいいんだけど、アニキにここかき回すなっつわれちまってるし、と肩をすくめた。タイミング悪いよな、俺も。
「高橋涼介?」
ここをかき回すっつーならうちのメンバーと走るのがそうなるんじゃねえか、と思ってすぐ、高橋啓介にそれを警告したという主の妙さに気付き、中里は大きく顔をゆがめていた。
「お前にちょっかい出すなってよ、何かよく知んねえけど」
そしてごく自然に、至極つまらなそうに高橋啓介は言い、中里はますます顔をゆがめていた。
ならば、バトルは果たされないということであり、緊張と興奮から解放されて安らぐ心もわずかにはあったが、それよりも大きな失望が全身を縛り付けてきたし、こちらのメンバーに手を出すことをかき回すとは取らぬ高橋啓介の理屈は、成り立つと頷けるとしても、そもそもなぜ高橋涼介がんなことを――よりにもよって、自分を名指しで『ちょっかいを出すな』などという単純極まりない注意をしやがったのか、中里には理解が不可能だった。
そのためそのまま、何で高橋涼介がそんなことを、と言っており、それを受けた高橋啓介は、あー、と小難しい顔になった。
「だからお前が、あのエンペラーのあの、あの……」と高橋は眉間を人差し指で数回叩いてから、そこにしわを寄せたまま、何だっけあれ、と問うてきた。中里は九割九分の確信があったが、五分五分の心持ちのように言った。
「……エボ4か?」
「そうそう、あのー、ああクソ名前思い出せねえ、けどまああんな奴どうでもいいや。そいつとお前が白黒つけるまで、俺はお前と走ったら駄目なんだと。何でか忘れたけど」
不満そうに唇を突き出す高橋啓介を、中里は顔をゆがめたまま眺め続けた。注意の要点だけを覚えて過程や理由を忘れるのは、優先順位を無意識にでも明確にしているようなこの男らしく思えることだが、それでは中里の疑問は解消しなかった。
つまり、高橋涼介がなぜわざわざ自分を取り上げるのか、ということである。
あのアニキ殿は、交流戦でこの弟が勝利を収めた時点で、我がナイトキッズなど眼中にも入らなくなったようで、自ら接近もしていない現在、あれ以降中里は高橋涼介と一度も会ったこともなければ、声を聞いたことすらない。そんな男がなぜ、自分だけを取り上げて弟に走行禁止を言い渡し、この弟もこの弟で、なぜ理由も忘れているくせにそれを律儀にまっとうしようとしているのか。
あるいは高橋涼介はただ、現状において弟の成長に悪影響を与えそうな因子を取り除こうとしているだけで、それをまた弟も察知しているのだろうか。
それは妥当な推測にも思えたが、中里に真実が分かるわけもなかった。
よって持ち前の決断力の速さを駆使し、まあどうせこの兄弟のことなんざ、俺には一生関係ねえ、と中里は十割で確信し、じゃあ、と話のまとめに入った。
「お前はあのエボ4に俺が勝つまで、俺と走る気はねえってことだな?」
「いや俺は走ったっていいんだけど、どうせ勝つだけだし」、と高橋は一つの気構えのない調子で言い、でもアニキが言うんじゃ仕方ねえだろ、と一気に表情を曇らせた。「非公式でも駄目だって言うんだぜ、何だったかなあ、俺とお前が走るってのがアニキにとっては何か……何だっけ?」
そうして首を傾げた高橋啓介へ、いやもう高橋涼介のことは別にいいんだが、と思いつつも、この男がアニキを大事にしていることは周知の事実であったのでそれは口にせず、おい、と中里は神経を引き裂かれかけたことについてのみ、言い返した。
「どうせ勝つだけってのは、聞き捨てならねえな」
「今のお前じゃまだ、お前はどう思ってっかは知らねえが、俺には勝てねえよ、中里。独力しか知らねえお前じゃあな」
だが、高橋啓介は特に尊大になるでもなく、冷静に、ただ事実を告げるように言うのだった。中里は怒りと悔しさで、目の下が動くのを止められなかった。それは確かに、事実かもしれない。所詮は独学で、誰の手助けも借りないまま作り上げてきた走りだ、天才と名高いあの高橋涼介の知識と経験に裏打ちされたアドバイスを受け、それを我が物とするだけの精神と素質を持つこの男とでは、立場が違う。
だが、だからこそ、負けるわけにはいかないし、負けるつもりもない。
「そんなこと、やってみねえと分からねえだろうが」
「分かるよ。でもやれねえんだから、どうしようもねえ」
いくら反論し合ったところで、結論はつまりそれであり、互いの意見が挟まれる余地はなかった。中里は舌打ちして、じゃあ帰れよ、と言ったが、何でお前に命令されなきゃなんねえんだよ、と高橋は妙な部分で言い返してきた。命令じゃねえよ、と中里は口ごもりかけながら言った。
「お前……だってよ、だったら他にやることねえじゃねえか、ここいても」
「お前よ、俺ら走り屋だぜ。走ることがあるじゃねえか」、と高橋は言ってから、あ、と大きく目を見開き、「そうだ、お前それに俺を乗せろよ」
「あ?」
「32だよ32、お前俺を隣に乗せて走ってみろ」
と、いかにもナイスアイディア、というような明るい顔で、中里が尻にしているスカイラインを指差した。
様々な疑問が頭を渦巻いたが、中里は断る理由を立てやすくなるだろう問いをまず口にした。
「何で俺が、そんなことしなくちゃなんねえんだ」
「俺は四駆にも乗ったことあるし、アニキのアドバイスもよく聞いてるから、問題点は教えてやれるぜ」
「お前がァ?」
『問題点』を『教えてやる』というセリフの傲慢さと説得力のなさのために、中里は頓狂な声を上げていた。高橋は不愉快そうに目を細め、っつーか、と唇をゆがめた。
「ここまで来て何もねえってのが俺は、許せねえんだよ、自分が。せめて何か残さねえと、もったいねえだろ。付き合えよ」
その独善的な態度も物言いも、この男には不思議と似合うのだった。そのためと、この高橋啓介というドライバーの技術の高さを身をもって知っている立場として、自分の走りを体感して何を言ってくるのかという興味のため、中里は反発を養いそこねた。
それに、確かにここまでこの男が来たというのに、何もなしに返すというのも、もったいないように思える。
しかし、引っかかるところはあり、中里は顔をしかめたまま、お前、GT−Rは嫌いなんだろ、と、互いの関係を決定付けている要因の一つを確認していた。
「GT−Rっつーグレードに乗っかって、調子に乗ってる奴が嫌いなんだ」、と高橋は中里を真っ直ぐ見据えながら、小さく訂正してきた。「でもそれとこれとは話が別だろ。そんなことも分かんねえのかよ、お前」
「分かんねえよ」、と中里は首を振った。この男に実力の裏打ちがあるとは知れきっているが、それでも人を見下しきっていた奴の言うことなど、分かりたくもない。その思いが、大体、と未練たらしい言葉を続けさせた。
「お前、俺のことなんざ歯牙にもかけてなかったじゃねえか。それで何だって、俺の隣に乗るなんて発想が浮かんでくるんだよ」
「シガだかサガだか知んねえけど、いいじゃねえか折角だし、っつーかお前はじゃあ中里、ロータリーが嫌いだからって、俺の隣に乗るのは嫌か? 俺が全力全開のタイムアタックくれてやっても?」
唐突に、真面目に問われ、嫌だ、と断言できない自分に気付き、中里は唾を飲んだ。この男の、あのFDの、最大の走行がすぐ傍で見られる機会を、嫌だと思う走り屋がいたら、拝んでみたい気すらした。少なくとも自分は、その機会がもたらされれば、逃すことなどできないだろう。いくら本人の性格や車種を憎んでいようとも、その速さは非常に魅力的で、近づかずにはいられない。
そして、それを待望する自分と似たような、とても形容しがたい複雑な、けれども期待と興奮ばかりが先にたつ気持ちに、この男も今、なっているのだろうかとふと思うと、途端に背筋がぞわりとした。
二の腕の裏まで走ってくるそのざわめきの元は――喜びだった。
自分の頬を動かそうとするその感情を自覚してただちに、この男が自分に対してそんな気持ちを抱くわけがない、という強烈な恥ずかしさを感じ、分かったよ、と中里は熱くなる顔を、高橋から背けた。
「乗れよ。俺がここでどれだけ速いか、てめえにたっぷり教えてやるぜ」
要らねえし、それは、と冷めた口調で言ってくる高橋に、感情を悟られまいとだけを意識していた中里だが、いざ道へと出れば、あとは車にすべてを奪われるのだった。
指先が重く、尿意を堪えているような緊張が全身に満ちていた。車をアイドリングさせたまま、中里は自信が表れるように、ふん、と鼻から息を吐き、停車してから腕を組みフロントガラスの向こう側を見ている助手席の高橋へ、ご感想は、と尋ねた。
黙ったまま32の走行を味わっていたらしき高橋啓介は、わずかに眉を目に近づけ、細く息を吸うと、まあ、と大きく吐き出した。
「ライン取りはいいんじゃねえの。FRと違ってコーナーでダーッと乗せる必要ねえもんな。抜ける時の速度が違うから」
「まあな」
「そんなムリしてる感じもねえし……」、と高橋は口を開けたまま固まって、数秒してから突然中里に顔を向けてきた。
「でもムラあるだろ、お前」
「――あァ?」
不意を食って目を見開いた中里へ、いやだから、と高橋はよそを見たり中里を見たりしながら大仰に手を振り、思考をまとめずそのまま口から出しているように喋った。
「一つすっげえいい感じにコーナー抜けたと思ったら、次そんなでもねえし、真っ直ぐも何かこうちゃんといくかと思えば、吹っ切れねえ、みてえな。焼きサンマと焼き鮭が並んでて、どっちもおかずって同じ魚じゃん肉くれよ、って感じのくどさがあるっていうかな。くどいんだよ。回りくどい。でこう、ガーッといくかと思ったらだらーってなるだろ。何かこう、まあそれなりに速いのは分かんだけど、リズムに乗れてねえっての? 全部が全部バーッとなんなくても、平均以上であった方がいいのは確かだろ。そこが微妙って感じ」
無駄の多い説明だというのに、すんなりと頭に入ってきて、ああ、と中里はうなるように言っていた。
すべて、自覚している欠点だ。
それをこの男は、一度隣に乗っただけで、こうもたやすく、直感的に理解した。
その才能に瞬間的に嫉妬し、中里が気恥ずかしさを感じて言葉を封じ込めると、高橋は窺うように尋ねてきた。
「俺乗ってたから、緊張したか?」
「人一人乗ったらまた、挙動が違うんだよ」、と中里はもたらされた緊張を認めたくなく、別の言い訳を述べていたが、「それ見越して走るべきだろ、走り屋自称すんならさ」、と高橋はそれを一瞬で論破した。
他に言えることなど、最早何もなかった。高橋啓介の指摘がすべてだった。中里はため息を吐きかけ、弱みをさらすように思われたので呑み込んだ。そうだ、確かにこの男が言う通り、ムラがある。好不調の頂点がいつ訪れるのか、自分でも把握できていない。部分部分で平均値以上はいくらでも叩きだせるが、全体を完璧に平均以上に上げるのはまだできていない。それが欠点だ。問題は技術もあるが、集中力だろう。いくら気合を入れても、長続きしないことが多いのだ。もしかしたら、この峠に慣れすぎてしまっているのかもしれない。
「怒ったか」
と、つらつら考えていると、不思議そうな声が隣から聞こえてきて、何で俺が怒るんだ、と中里はぎょっとしていた。声の主は、いや黙ってるし、と不満げに言う。中里はそこでようやく、大きくため息を吐いた。
「お前に言われたことを考えてただけだ。図星突かれちまった」
「自分でも分かってんだろ?」
思いがけなく優しい調子で問われ、何も考えず中里は、ああ、と頷いており、じゃあ直る、と高橋啓介は尊大な調子を取り戻した。
「直そうとしたらな。俺もそうやって速くなったんだ」、とまで言って、まあ俺の場合、アニキがいねえとここまでこれなかったろうけどよ、と小難い顔になって呟いた高橋を見、高橋涼介か、と中里は眉をひそめてため息混じりに呟いていた。あの男の存在の大きさが、今更ながら身に染みる。
「お前もアニキについたら今以上はいけんじゃねえのかな」、と高橋は思いついたように中里を見た。メンタル面まで強化できりゃあよ。
確かにあの男の下につけば、この弟に近づけるほどの、大いなる可能性を手にできるかもしれない。
そうは思えたが、いや、と中里は首を振り、高橋啓介を見ながら言い返した。
「俺は、俺のやりたいようにやるさ」
この男と同じ土俵からではなく、違う立場から戦いを仕掛けたいという、一抹の自尊心があった。それが、高橋涼介の傘下に入る好機においても、諾々と従う気を中里に露ほども持たせなかった。
ふうん、と高橋は興ざめしたように鼻で言い、じゃあ次、上り行け、と簡単に前方を指差した。言われなくても、と中里はギアを入れた。
上りきって隣の男にご意見を伺い、まあこんなもんだろ、と誉められてるのかけなされているのか分からぬ言葉をもらってから、中里は車から降りた。先ほどは静寂に満ちていた場が、高橋啓介が入り込んできただけで、どこか落ち着きを失っているように感じられる。空気はぬるみ、その存在の周囲に風がまとわりついているようだ。たった一人でこれだけ場が支配できるというのも、この男が持つ力なのかもしれない。
やってられねえな、と清々しく思いながら、中里は煙草を一本取り出した。それを咥えかけたところで、組んだ両手を上げて背を伸ばし、首を回していた高橋が、ああ、と振り向いてきた。
「俺の隣に乗るか?」
問いを理解しかね、何だって?、と中里は煙草を咥えぬまま問い返していたが、それには答えず、妙義は久しぶりだしな、と高橋は得意顔になり、パンッと手のひらを払った。「腕が鳴るぜ」
高橋の意図は理解できたので、中里は出した煙草を箱にしまいながら、その突然の事態を信じきれず、いいのか、と思わず確認していた。お前がいいのかよ、と高橋は笑った。俺がタイム更新しちまっても。
「できねえよ、お前じゃ」
「見てりゃあ分かるさ、できたかできてねえかなんざな」
咄嗟に蔑むように笑い返した中里に、しかし高橋は不敵に笑い続け、軽く言った。
ずしり、と体が重くなった。
緊張だ。
こちらも笑みを浮かべたまま、思わず唾を飲み込むも、喉に何かしこりができているようで、不快感が募った。心臓がばくばくと唸る。
――もしこいつが、ろくにここも走ったことのねえこいつが、五年以上も走り続けている俺よりも速く走れていたら、どうする?
粘ついた汗が全身に浮くのが分かった。手先や足先がしびれていく。呼吸が苦しくなり、この場からすぐさま逃げ出したくもなったが、それでも中里は申し出を断れなかった。その魅惑的な力からは、逃れがたかったのだ。
高橋はステアリングに両腕を乗せ、その上に頭を乗せている。重苦しい沈黙が車内に流れている。杞憂だった、という安堵と失望感を抱えたまま、このまま黙りこくってても仕方ねえ、と、中里は思い立ち、ステアリングに沈んでいるドライバーへと言葉をぶつけた。
「加減したか?」
言うなよ、と高橋は顔を上げてうなるように言い、シートまで一気に背をつけた。
「今俺すっげえ後悔してんだから」
「悪い」
「あーゼッテー変に緊張したマジムカツク、クソもういいや、上りは普通に走ろう」
ぶつぶつ言って気を取り直したらしき高橋がベルトをかけ直しシートに座り直し、一気にFDを発進、加速させていった。それはお世辞にも柔らかい走りとは言えず、中里はアシストグリップを握りながら、てめえの普通ってのは何なんだよ、と内心で呆れた。
「ったく、何でお前で俺が緊張するかなあ」
それでも細かい操作を平然とこなしながら、間延びした声を高橋は発する。中里は少ないながらも身を貫く驚きと恐怖と焦りを勘付かれたくなく、自然体を心がけて言葉を出した。
「知るかよ」
「やっぱお前ごときに限界見せんのは惜しいからかなー、勿体ねえからなあ」
「ごときって何だごときって」
「そうだそうだ、そうに違いねえ。俺って案外ケチだな、クソ」
人の声を聞いた風もなく一人納得している高橋を見ると、言い返すのも無意味に思えてきて、中里はただ車体が生み出す速度と重力と震動に耐えた。
平坦な道をタイヤが擦り始め、車が停止してようやく、大きな安堵感に包まれた。
これまで多くの走り屋の隣に乗ってきたものだが、今回ほど心臓が縮んでいるとまで実感する緊張に襲われた記憶はない。力を入れ続けたためか、体も硬くなっている。
ベルトを外し、中里は肩だけを小さく回してがりがりと関節を鳴らし、それから高橋を見た。高橋はなぜかむっとしたように、しばらくフロントガラスの向こうの闇夜を睨んでいた。とても接触を図る雰囲気は流れておらず、礼でも述べてさっさと出るかと中里が思ったところで、だが唐突にその顔が向けられた。
「……何だ」
と問うも、高橋は黙って見据えてくるだけだった。
改めて真っ直ぐ見ると、それは端麗な顔だった。男らしさを残す程度の太さの眉は綺麗に伸び、その下の目は皮膚を綺麗に割ったように切れ長で、瞳は丸い。通った鼻筋、強い弾力のありそうな唇。左右対称の顎、頬骨、額。見ていると吸い込まれそうなほど、男のくせに整った顔だ。これで女ならばさぞモテるだろう。いや、男でもモテるだろう、というかモテているのだから、それはつまりこの男がどうしたところでモテる顔だということで……。
相変わらず高橋は何も言わず、徐々に思考の方向性を失っていった中里は、流れる停滞した空気に耐えかねて、もう一度、
「何だよ」
と問うも、やはり黙って見据えられるのみだった。汚れようのない目が延々顔を貫いていき、少しずつ居心地が悪くなり、腹の底に苛立ちが生まれ、何の説明もないことから、ついに怒りに変じた。
「何なんだ!」
我慢ならず中里が叫ぶと、高橋はそこでようやく表情を変えた。眉をひそめ、何かを思い出そうとするように口を大きく開け、そのまま声を出す。
「お前、俺のこと好きだろ」
自分がかなり変な顔を作っていることが、中里は分かった。そしてそれを見た高橋が、かなり変な顔を作ったことは余計に分かった。「いやそこでそんな微妙な顔すんじゃねえよ、冗談だって」、と高橋はすぐに続けたが、中里が目の前の青年を不気味に思う以外できないまま見据え続けていると、おいおいマジなわけねえだろ、と面倒そうに片手を振られた。
「別に何ってわけでもねえし。俺、人のこと見る時ってあんま、っつーか全然考え事しねえんだよ」
疑念を抱いたままながら、そうか、ととりあえず中里が相槌を打つと、だから、と高橋はどこか幼い表情で言った。
「そこで何かって聞かれても困るわけだ。何もねえから。分かるだろ?」
ふむ、と中里は頷いた。なるほど、ならば高橋が何かを言いかねているようだったことも納得できる。言いかねていたのではなく、言うことがなかったから、それを探しており、しかし見つからないから、あのような信じがたい決め付けをなしてきたのだろう。考えてみれば、誹謗の類よりはよほど平和な冗談ではある――本気でないと知れきっていれば、だが。
「でもお前中里、その微妙なリアクションもう少しどうにかなんなかったか」
中里が概ね流れを理解したと分かったのか、疲れたような高橋が話を戻してきた。お前がその微妙なリアクションを誘発するようなことを言ったんじゃねえか、と中里は思ったが、その失望感たっぷりの様子を見ると、素直に反論もできず、少し言葉を選んだ。
「……別に俺、お前のこと好きでも嫌いでもねえしな」
「嫌いだろ」
「嫌いだけどよ、お前の走りは認めてるから」
「やっぱ嫌いなんじゃねえか」
「気に食わねえんだよ、お前は」、としつこく限定されるうちに中里は苛立ったので、嫌悪を切り取ってやった。ロータリーも走りの質も何もかも気に食わないのだ。ほら見ろ、と得意げに高橋は指差してきた後、あ、と大きく声を上げた。
「そうだ、気に食わねえんだよ」
「そうかお前もか、そりゃ俺たちは気が合うな」、という中里の皮肉は、「アニキがな」、という高橋の予想もつかない方向からの言葉のために、あっさり流された。
「だから、俺とお前が走るのが気に食わねえんだっつってたんだよ、そうだ、あー思い出した思い出した、うん。ありゃ明らかに気に食わなさそうだった」
腕を組んでうんうんと頷く高橋を、勢いをくじかれた中里は呆然と眺めた。そして滞りかける頭で、『高橋涼介』が『気に食わない』ことについての解釈を、一応行った。
「……俺は、そんなに高橋涼介に悪く思われてんのか」
「あ? あーいや、お前じゃないと思うぜ」、と高橋は軽々しく言った。「多分俺だ。でもお前かな。アニキはあれでいて人間っぽいから――」
そこまで腕を組んだまま続け、ん?、と首をかしげた高橋へ、何だ、とこちらも軽く中里が問うと、腕を解きステアリングに右手を乗せ、左手は何かを掴もうとするように動かした高橋は、深刻な顔を向けてきた。
「こうするっていうのもよ、お前と走るってことになんのかな?」
いざ問われると、完全に否定してしまうのも違う気がして、広く捉えるなら、そう言えねえこともねえかもな、と中里は言っており、それを聞いた途端高橋は、うわやべ、と動かしていた左手で髪を掴んだ。「まじいな、これじゃアニキの冷たい視線食らっちまう」
そして少し間を置いてから、シフトノブに左手を置き、高橋は切迫した様子で、お前このこと誰にも言うんじゃねえぞ、俺がここに来たことも、と早口に言った。
――どうやっても、お前のアニキと俺がお前について話をすることなんざありえねえよ。
そう思いつつも中里は、ああ、と勢いに押されて頷いており、まあそういうわけだ、と高橋は畳みかけてきた。
「とりあえずあの、えーと、何だっけ。まあいいや、あいつにさっさと勝って、俺に負けるように頑張れよ、中里。よし、じゃあ出てけ」
ギアをローに入れると同時にさっと手を払った高橋を、うろんに眺めてから、中里は一応去り際くらいは決めようと、言葉を返した。
「……お前も、俺に負けるまで誰にも負けんじゃねえぞ」
「そりゃ百パーありえねえから安心しろ。俺は誰にも負けやしねえ、お前にもな」
「百パーかよ」
「藤原にも」
ハチロクか、と中里が眉を上げると、ああ、と高橋は一瞬繊細に目を伏せてから、ま、でも、と常の天上天下唯我独尊風情を満面にした。
「お前が調子に乗ったら遊んではやるよ。精々励んでくれ」
「クソッたれ」
「上等」
言って笑みを浮かべた高橋を、すぐに中里はFDに閉じ込めた。出しなに小さくクラクションを鳴らした車が、豪快に消え行く姿を見送ってから、ため息を吐く。
一人に戻ったというのに、空気は奇妙にざわついていた。
まだあの男の余韻が残っているのだ。
気もそぞろになり、先ほどは吸わなかった煙草を口に咥え、火を点ける。煙を宙に吐き出すと、大分火照っていた顔も通常の温度に戻っていくようだった。不測の事態に乱れていた体が、この場に相応しい、安定した状態になっていく。それを感じながら、本当にないのかどうか、見定めなけりゃあな、と中里は思う。そのためには、油断も慢心も大敵だ。せめてあの男の実力を手に取るように感じられるまでは、向上し続けなければならない。そうしてこそ、遊べるというものだ。
走り足りない、と感じる。限界は、また遠のいた。
「舐めやがってな」
自分の身を覆ってくる空気に、一切高橋啓介という男の名残がなくなったところで、中里がそう呟きスカイラインに乗った時、思い出されたのは、最後にその男が浮かべた、華やかで愉しげな笑みであった。それはしばらく中里の記憶から消えることも、更新されることもなかった。
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