オトモダチ



「なあアニキ、つまみ食いってどう思う?」
 車を主体としたバカ映画をポテトチップス片手に眺めていた弟が、日本車三台がカーアクションの犠牲になった場面ののち、唐突に聞いてきた。高橋涼介はその映画の構成のおかしさを頭の中で並べながら、行儀が悪いことだな、とさっさと答えた。カーアクションが凄まじいと名高い映画のDVDの収集は弟の趣味で、涼介は鑑賞によく誘われた。高尚だろうがB級だろうが芸術作品に触れることは心を安らげてくれるので、涼介も暇があれば誘いに乗る。今日は暇があった。そして一時間ほど経過したところで、弟は突然映画と関係のないことを聞いてきたのだった。
「まあ、そうだよな。やっぱこう、美味しいところだけつまみ食いすんのは行儀が悪いよな」
 うんうん、と弟は頷き、片手でポテトチップスを頬張って、片手で炭酸飲料をごくごく飲み干す。健康的にどうかと思われる取り合わせだったが、この弟がジャンクフードを手にするのは映画を見る時くらいだったので涼介はそこは見逃して、映画よりも弟との会話に気をやった。
「美味しいところだけつまみ食いしたいと思ってんのか?」
「美味いところがあるかどうか、とりあえずつまんでみてえっつーの?」
「それは相手に失礼だぜ」
 言うと弟はやっぱりなあとソファに背を深く預ける。『つまみぐい』の相手が人間であることは間違いないらしい。この弟は端整な容姿と人好きのする性格通りに女性からの評判が高く、欲望に忠実なきらいがあるため性的に大胆だった。不良行為を招いたことに関しては両親の教育方針に問題があったと涼介は考えるが、思春期を迎える前から性教育をしっかりと施しておいたことは唯一の正解だったとも考える。弟は妊娠結婚性病の話を一切持ち込まず、ただ多くの女性と交渉を持っていただけのようで、こと性に関しては家族に迷惑がかかることも一つもなかった。ただし、女性を満足させ避妊を完遂するという点では弟は良い成人男性であったが、多数の女性に求められるがまま手をつけていく点に関してはモラルがないと言わざるを得ず、今回の問いも『美味しい』女性に手を出すべきか否か悩んでいるのだと涼介は推測した。
「相手が求めてきているのだとしてもな、お前もそろそろ一人に絞るということを覚えた方がいい」
「いや、求めるも何もねえし、俺も別にそこまでは求めちゃいねえんだけどよ」と弟は決まり悪そうに顔を歪めた。どうやら推測は外れたようだった。涼介はランエボが激しく壊された映画の場面に内心歓喜しつつ、弟の会話に集中した。
「それで、つまみ食いか?」
「あー、何つーかこう、それが微妙なところでよ。ちょっと触ってサヨウナラってやるにも微妙な相手なんだよ、俺が」
「一度関わると深く入り込んでしまうだろうと予想されるが、そこまでいくほどの興味はないということか?」
 さすがアニキ、と弟は感嘆し、ポテトチップスを一掴み食べて、炭酸飲料を飲んだ。両方空になったらしく、ポテトチップスの袋をゴミ箱に入れると、箱のティッシュで手を拭った。なら、と涼介は腕を組んで意見を述べた。
「つままないに越したことはねえな」
「やっぱそう? 俺もそう思うんだけどさ」
「だが、それでお前の気が落ち着くなら、いくところまでいっちまうのもありだとは思うぜ」
「全部食えってか」
「毒を食らわば皿までだ」
 皿まで食えねえって、と弟は首を振る。
「まあ、サンキュ。考えてみるよ」

 涼介はのちに、その弟が考えた結果が妙義ナイトキッズの中里毅と仲良くなることなど、誰が想像ついただろうかとその日のことを回想することになるが、それはまた別の話だ。

 鮮やかなイエローのFDが遠くに停まり、そこから美しい凶暴性を潜ませた風貌の青年が降り立つ。身のこなしは軽やかで、強靭なバネを思わせる重みもあった。
 中里毅以下妙義ナイトキッズのメンバーに緊張が走り、同時に野次馬根性も走った。
 高橋啓介。
 赤城レッドサンズのナンバーツーと声高に叫んでやまない、この妙義山を何年も走り込んでいる中里に勝利を収めた走り屋だ。粗暴な振る舞いと先天的な気品を持ち合わせる、凡人とはどこか違う男。
 さて、単なる観光客もどきは、おおあれ高橋啓介じゃん、え、高橋啓介って誰よ、知らねーよお前以下略というドキドキワクワクの反応をしているが、ナイトキッズのメンバーの高橋啓介の招き方は三通りあった。一つは何だあのいけ好かねえ野郎何しに来やがったという敵愾心丸出しの狂犬的反応、一つはへー高橋啓介だー珍しー走りに来たのかねーという野次馬的かつ平和的反応、最後が何となく気に食わないが邪険にするのも大人げないというある程度平和的反応である。中里はその中でも三番目であったので、目の前まで背中に羽を持っているような非常に軽い足取りで来た青年に、真正面から、何だ、と尋ねたのだった。
 そして青年はごくごく普通の、特に重大な感情も乗せていない顔で中里の睨むような視線を受け流すと、中里、と言った。
「俺、お前とトモダチになりてえんだけど」
 その途端、中里以下ナイトキッズのメンバーは見事に「はあ?」と唱和し、高橋啓介は「ああ?」、と不可解そうに全員を見渡した。ざわめきかけた集団は静まったが、高橋啓介が中里に顔を戻すと、再びざわめき始めた。
 え、トモダチ? 何トモダチって、いやフレンドじゃねえの? だって高橋啓介だろ? 中里だろ。えー、何それ、変なの。
 そこかしこで疑問が囁かれ、おかしいという自覚があるのか高橋啓介は居心地悪そうに唇を突き出し、呆気に取られていた中里は、そこでようやく言葉を発した。
「……な、何だって?」
「あ? ああ、だから俺はお前とトモダチになりたいんだよ」
 中里は高橋啓介をじっと見た。飾りのない顔をしている。冗談を言っているわけではなさそうだ。だがしかし、トモダチというのは一体どういうことだろう。というか、
「トモダチってのは、そう言ってなるぞって風になるもんでもねえだろ」
「まあそうだけど、そういう精神って感じでよ」、と面倒くさそうに高橋は言う。「だってそうでもねえとお前、俺と仲良くしようと思わねえだろ」
 はあ?、と中里は声を裏返していた。
 俺と? 仲良く? 誰と仲良くだって? さっぱり話が理解できない。
 啓介は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている中里を見て、益々面倒くさそうにため息を吐いた。
「っつーか俺もあんまお前と仲良くなりてえとか思わねえんだけど、お前のこと知るには仲良くなんなきゃなんねえじゃん。んで仲良くなるならトモダチになるのが一番手っ取り早いから」
「待て」単純な疑問がわいてきたので、ようやく中里は即座に言葉を発せられた。「何でお前が俺のことを知りてえと思うんだ?」
「つまみ食いって感じだな」
 その高橋の答えに、はあ?、とまた声を裏返してしまったが、高橋は意に介さないように話を続ける。
「目の前に美味そうなもんがあったら、つい食べちまうのが人間ってもんだろ」
 言って高橋は、「違うか?」、と突然メンバーの一人を向いた。指定されたと見えるメンバーは、「え、俺?」、と自分を指差し、「お前」、と高橋は言った。
「えー……まあ、そりゃあ据え膳食わぬは男の恥と申しますし」しどろもどろになりながら天パのメンバーが答える。
「いや女の話じゃなくてよ」
「え? ああ、はあ、まあ、何というか僕もね、かみさんがおりますものでかみさんがまあ料理を作ってくださるわけですね、で僕はついついその料理ができあがる端からこう食べてしまいまして、かみさんはまだいただきますもしてないのに食べるんじゃないと僕をお叱りになりますのですよ、ええ」
 額の汗を拭きながら答えたメンバーから中里に顔を戻した啓介は、
「……ってわけだよ」
 と平然と言った。いやどういうわけだよ、と中里は叫びにも似た声を上げていた。
「こいつが美味そうな料理ってことか?」
 そう言ったのはナイトキッズの中でも口が達者なことと思考が悪に染まっていることで有名な、庄司慎吾だ。普段は他人の言い合いなど対岸の火事として完全スルーか傍観を決め込んでいるが、妙義ナイトキッズの暫定的リーダー格である中里と赤城レッドサンズのカリスマ二号である高橋啓介との関係性はさすがに無視できなかったようで、業を煮やしたように口を挟んできたのだった。
「いや全然美味そうじゃねえけど、何つーか……」
 高橋啓介は十秒じっくり考えた後、言った。
「ゲテモノ料理?」
「で、味が気になると」
「まあそういうことだな」
「いやだからどういうことだよ」
 中里はまた尋ねたが、さあな、と庄司慎吾はそれで満足したように場を去った。おそらく高橋啓介の言い分を理解して、問題ないと判断したのだろう。だが中里には何が何やら相変わらずさっぱりだ。あの野郎、と中里は八つ当たり的に憤り、そしてとりあえず高橋啓介の言葉について向かい合った。
「お前、高橋、俺がゲテモノ料理とはどういう意味だ」
「フランス料理って感じじゃねえだろ。なあ?」と高橋啓介は周囲に同意を求め、うんうんと周囲は同意を示した。中里はぎりりと歯を噛んだ。全員に馬鹿にされたような気がした。これ以上この例え話は続けたくはない。
「……お前よ、GT−Rは嫌いだろう」
 中里は何とか進む方向を変えようとした。は?、と高橋啓介は目を丸くした。
「何、何でそこでRが出てくんだよ」
「いや、だからお前は俺のことも嫌いなんだろうと……」
「Rが嫌いだからお前が嫌いってか。何だそりゃ。それじゃ俺はこの世のGT−R乗りを片っ端から嫌わなきゃいけなくなるじゃねえか。ありえねえっての」
 もっともな高橋啓介の言である。中里は唸った。てっきり自分はこの男に嫌われているものと思っていた。いや、しかし今冷静に考えてみると、嫌われるほど意識をされていたかも怪しいように思えてくる。交流戦では確実に敵視されていたが、それ以後は音沙汰もなく、存在自体忘れられていたと言われても納得できるほどだった。ならば尚更疑問となる。
「……で、しかし、何で俺とトモダチだ?」
「お前は俺の話を聞いてねえのか」
「聞いてはいるが、一つも理解ができねえ」
「頭悪いな」
「うるせえ。妙なことをイキナリ抜かしやがるてめえが悪い」
 睨みつけると、高橋啓介は見返してきながらも、黙った。反論を予期していた中里はうろたえて睨み続けていられなくなった。
「な、何だ。何なんだ」
 ともかく尋ねる。高橋啓介は真っ直ぐと中里を見ていた。窺うように、品定め をするように、意志の濃い瞳で中里を射抜いていた。中里がとてつもない居心地の悪さに襲われ出した頃、高橋啓介は不意に中里から視線を外し、腕を組んで首を傾げた。
「やっぱ、お前とトモダチになるっていう発想に無理があったかな」
「……んなこと考えなくても分かるだろうが」
 ようよう言い返す。何もない状態から急にトモダチになれるわけがない。というかそもそもお前と俺でトモダチも何もねえだろ。というのが中里の本音だが、今更すぎて言う機会を逸していた。
「んじゃ何ならいいんだよ。ライバルか? いやライバルって言うにはお前遅すぎるしな」
「ケンカ売ってんのかコラ」
「けどこのまま放るってのも気持ち悪いし」
「人の話を聞け、高橋啓介」
 高橋啓介はまるきり中里の話を聞いていなかった。自分の世界に入ってうんうん唸っている。考えている。おそらく今後の高橋啓介と中里との関係について、どう進めるべきか考えている。進めなくていいから帰ってくれ、と中里は思った。そして言った。
「いや分かった、放ってくれて構わないから、さっさと帰ってくれ。俺はお前とトモダチになる気はまったくない」
「じゃあ恋人ってのは?」
 思いついたように高橋啓介は言った。瞬間世界の時間が止まったようだった。誰も彼もが声を失い、梢さえもそよがなくなった。妙な空気だった。五秒間続いた。沈黙を破ったのは中里だった。
「殴った方がいいか?」
「何で」
「いや、頭おかしくなってたりするんじゃねえかと、湿度とかの関係で」
 あまりに高橋啓介が真面目に言うものだから、狂っているのではないかと思った。トモダチはまだ分かるが、恋人までいくと常識外が過ぎる。一発与えればまともに戻るのではないか。中里が訝っていると、高橋啓介は面倒くさそうに肩をすくめた。
「条件的な話じゃねえか。マジに取んなよ。俺としちゃ、お前がどの辺までゲテモノなのか気になるだけだ」
「ゲテモノってな」
「ま、考えといてくれよ。今は理解できなくても、三日ありゃできるだろ」
 高橋啓介はそう言って、躊躇なく足を引いた。おい、と中里は話が見えない不安に駆られてつい追いすがった。
「待て、俺には一生お前の言ってることは理解できそうにねえぞ」
「じゃあその辺の奴に聞け、多分お前よりは分かってる」
 中里は周りを見渡した。ぼんやりしている奴、こちらに視線もくれない奴もいるが、にやにやしている奴もいる。確かに流れは把握していそうだ。そう考えている間に、高橋啓介は中里に背を向けFDに向かって歩き出していた。中里はまた慌てて追いすがった。さっさと帰れと言ったことなど忘れていた。
「じゃなくて、考えるまでもなくお断りだ、お前とトモダチなんて。分かったか」
「俺はよく考えたらお断りだ。けどまあ考えたって仕方ねえ。それはそれでいいじゃねえか、っつーか俺も忙しいんだよ、離せ。また来るから」
「何ッ!?」と中里は狼狽した。「離したらまた来やがるのか、てめえ。だったら俺は離さねえぞ、お前がここに二度と来ねえと言うまで離してたまるか!」
「バカヤロウ!」と叫んだ高橋啓介も狼狽していた。「何で俺がてめえに俺の行動範囲を制限されなきゃなんねえんだ。とりあえず今後のことはまた来た時に話すから、今は離せっつってんだ、俺は用事があるんだ」
「いいや、俺は離さん、離さんぞ! キサマがもう二度と俺の前に現れねえと言うまで離さねえ!」
 中里は必死だった。理解不可能なことは追い出したかった。だが必死すぎて節度を忘れていた。高橋啓介の右腕を両手で掴み、去ろうとするその体を引き止めて、離さん離さんと叫んでいた。高橋啓介はうんざりしたような顔をしていたが、それでも中里は手を離さなかった。しかし、突然後方から頭を硬いもので殴られては、高橋啓介よりも何よりも人に危害を加えてきた方に注意が向いた。
「何しやがる、誰だ!」
 叫び振り向いた先には、先ほど去ったはずの慎吾がいた。哀れみの目が中里に向けられていた。
「毅、お前もまがりなりにもリーダーなんだからよ、もう少し落ち着いた振る舞いをしてくれねえか。これじゃ俺たちナイトキッズがカルトだと思われちまう」
 ため息混じりに慎吾は言った。確かに高橋啓介にこれでもかというほどすがっていた自分の姿は、狂信者的だったかもしれない。中里は反省しつつ、しかし慎吾に言い返した。
「俺だって普通なら落ち着ける。だが最も悪いのはこいつだ。人が理解できねえようなことを言った挙句、人の平穏を乱そうとしているんだぜ。とても許しがたい存在だ」
「どいつだ?」
 中里は慎吾を見ながら自分の後方を指差していた。その先へ目をやった慎吾が、不審げに顔をしかめる。
「だからそいつだ。高橋啓介だ。俺をゲテモノ呼ばわりしやがった……」
 とまで言ってから、中里は悪寒を覚えて自分が指差した方へ顔を向けた。途端、独特のエンジンの咆哮が上がり、指差した方向にあった黄色のFDが動き出し、山を下りていった。ああッ、と中里は頭を両手で抱えた。
「あの野郎、まだ話も終わってねえのに! 勝手なマネを!」
「っつーか、二度と会わなくなったらバトルもできねえだろうが」
 いつの間にか横に並んだ慎吾が冷静に言った。何?、と慎吾を見て少し経ってから、中里はその意味を理解した。二度と来るなと高橋啓介に言ったことに対する意見だろう。なるほどそれもそうである。リベンジを果たすためにはどうしたところで会わねばならない。しかし、突然現れてトモダチになりたいと言い、それは自分のことを知りたいからと言い、そしてそれはつまみ食いで、ゲテモノ料理の味知りたさだと言ったような奴になど、もう会いたくはない。
「お前さ、俺はそんな筋の通らねえ話でもねえと思ったんだけど、何がそんなに気に食わねえんだ?」
 中里が腕を組んでまた来ても無視してやると意思を固めていたところ、まだ隣にいた慎吾が問うてきた。何が気に食わないか。
「そりゃお前、あれだ。何でも自分の思った通りになるだろうっていう自信が透けて見えるゴーマンな態度だ」
「それ今考えただろ」
「うるせえ」図星をつかれて中里は声を荒げた。「とにかく俺は気に食わねえ。そんなに仲良くしたくねえのにトモダチになりたいなんて人をバカにしたことを言うような奴、認めてたまるか」
「んじゃ仲良くしてえからトモダチになりたいっつったら良かったか」
 じとりとした目で慎吾に見られ、中里は言葉に詰まった。あの高橋啓介と友人になる。自分のホームであるこの妙義山に兄弟ともども乗り込んできて、自分に敗北の苦々しさを刻み込んだあの高橋啓介と、友人になる。型遅れのFDを手足のように操り見惚れてしまうほどの華麗な走りをするあの高橋啓介と、友人になる。そこからしてまず考えられない。あの男が、自分と仲良くしたいと本気で思うことも考えられない。釣り合わないように感じられる。立場が上だとか下だとかということではない。地盤が違う。言ってみれば、魚が山地に分け入りマシンガン片手に虎を撃つような釣り合わなさだ。口を閉じたままそこまで頭をめぐらせて、本題とは別の部分で気持ち悪さを感じ顔をしかめた中里を見、慎吾はげんなりしたように言った。
「ま、俺はお前に節度のある行動さえしていただけりゃあ、何でもいいけどよ」
「……お前に言われたかねえよ」
「俺が言わなきゃ誰が言ってくれるってんだ、チクショウめ」
 呟くように言って、慎吾はとうとう去った。
 中里は一人取り残された。周囲を見渡しても、誰も彼もがこちらから目を背ける。やはり先ほど高橋啓介に追いすがって離さん離さんと叫んでいたことが、狂気的と取られたのだろうか。だが仕方なかった。あの男はこちらが考えられないことをしようとした。それを止めるのは防衛だ。思考を侵害されてはたまらない。
 あの男と、走り以外の関係を持つ自分。自分を完膚なきまでに負かして、華々しく走り屋としての実力を、地位を上げていくあの男と、走り以外で関係を持つ自分。中里には到底想像できない。それは恐ろしいことだ。知ることができないから自分の手には届かない。
「クソ、ライバルだろうがよ、俺なら」
 中里は舌打ちし、その言葉を裏打ちできるほどの実力がまだ伴わないことを自覚して、癪になりつつ車に乗り込み、この件については忘れることにした。

 そののち中里は、忘れられなかった自分の精神の軟弱さと、忘れていなかった高橋啓介の律儀さ、どちらを恨むべきかと悩むことになるが、それもまた別の話だ。
(終)


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