洗面器で溺れる



 一人でいる時、啓介は、自分のこれまで歩んできた道が、すべて無と化しているのではないかという、恐怖を覚えることがある。それはとても突然で、強烈で、わずかな時間で過ぎ去っていくものだ。やがて残るのは、首筋がざわめいた感覚と、心臓を握り潰しそうな不安だけだった。
 一人で長くいるのは、いけない。確認ができない。自分が今、どの位置にいるのか、進んでいるのか、残されてはいないのか。昔は、その曖昧さが、特別なものだと感じられた。自分にしかないもので、誰にも理解はできないと、優越感と陶酔感を抱いていた。どんなことでもいい、自分でしかないものを手に入れたかった。特別になりたかったのだ。
 啓介はベッドに寝転がったまま、煙草を吸った。肺に煙をおさめて、吐き出す。一人で煙草を吸う時には、喫煙の害について語っていた、兄のことを思い出す。そして、胸糞が悪くなる。生命を、倫理を、人権を尊ぶ正論はいつでも、啓介の生き方を否定してきた。愛という名の檻に、進んで入り込む気にはならなかった。
 紫煙はいつまでも部屋に残る。自分の部屋には、通常、他人は呼ばない。兄や両親や従姉妹は用事があれば入ってくるが、脂まみれで、物だらけの空間には、留まろうとはしない。啓介だけが、いつまでもいられる空間だった。それが、最近では、牙を剥いてくる。部屋に溢れる物、そこに付随する思い出が、我関せず、という態度を取る。今まで捨ててきたくせに、今更すがるなと、突き放してくる。
 啓介はベッドから起き上がり、窓を開けた。春のやわらかい風が髪を、顔を撫でていく。部屋にこもっていた紫煙が逃げていく。酸素が濃くなった気がした。
 以前は、追いかけるだけだった。ただ、追いかけているだけで良かった。捨てられることはない。切り離されることはない。いつまでも、ついていくだけで良かった。
 切磋琢磨する相手がいるというのは、刺激的だ。以前より、やり甲斐は増した。緊張の連続で、自分の力で生きている実感も増した。そして、以前より、焦りも増した。油断をすれば、置いていかれる。慢心すれば、期待に応えられなくなる。力を伸ばせなくなれば、切り捨てられる。その過酷な環境に、心は昂ぶる。愉悦も感じる。そして、たまさか恐怖も感じる。先に進んでいく流れについていけず、やがて淘汰されるのではないかという不安が、一人でいる時、ひしひしと迫ってくる。
 啓介は窓を閉めた。寸断された空気が、自分を取り囲んで圧迫してくるように感じられた。
 何もかも、進んでいく。その先頭に、昔は立っていられた。ただ、進んでいられた。後ろを考えさせるような、気にかけさせるような、自分と同じ位置に立つ奴がいなかった。今はいる。とても刺激的だ。愉しくて仕様がない。そして、時に、恐ろしくて仕様がない。
 啓介は煙草を灰皿に捨てた。一人で長くいるのは、いけない。かといって、後ろを気にさせる奴には、会いたくない。前しか見せてくれない奴にも、会いたくない。賢い奴も、馬鹿な奴も、良い奴も悪い奴も、要らない。
 ただ、進めも戻れもしない奴に、会いたかった。
(終)

2007/11/24
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