そこを行くのは誰だ
夜中降り続けた雨は、朝、アスファルトのへこみに水溜りを残していた。家の窓からよく見える。土は黒々と湿っており、朝日の中、草は緑色を鮮やかにしている。
「何つったっけ、緑色」
啓介は窓から外に身を乗り出したまま、声を出した。
「あ?」
後ろから帰ってくる声は、間抜けそのものだった。馬鹿じゃねえの、と思いながら、光合成、と啓介は言った。
「草とかやるやつ。植物か。あれ、緑色の」
「ああ……葉緑体か?」
それだ。葉緑体。葉緑素。緑色。光だけでエネルギーを作れるやつら。平和なやつら。啓介は鼻で呼吸した。湿った空気。湿った土と草の匂いがする。夜とは違う。朝の匂い。かったるい朝の匂いだ。
「それがどうした」
間抜けな声が引き続き後ろからやってくる。馬鹿のくせに。惰性で思いながら、啓介は指に挟むだけになっていた煙草を口に咥え、吸い、窓を閉めた部屋の中に紫煙を吐き出した。
「どうもしねえよ」
秋口の空気はどこか人間に冷たい。その空気が入った部屋はどこかよそよそしい。自分の部屋ではないようだ。それとも最近出歩いてるからだろうか。自分の部屋が自分のいる場所ではないような気がしてくる。
「そうか」
間抜けな男の声。馬鹿でもねえのに。啓介は思いながらベッドに戻る。馬鹿でもない男がそこに寝ている。裸でだ。その隣に入り込む。中はあたたかい。人のぬくもりがある。よそよそしい冷たい空気がそこに溶けて消えうせる。
「中里」
背中を向けている男に啓介は声をかけた。中里は動かない。
「お前、ちゃんと考えてんのか?」
中里が動く。振り向いてきた。顔色が悪い。夜から朝までしこたまセックスした。俺も似たような顔になってるかな。啓介は煙草を吸いながら思う。
「お前にそんなことを言われると、自分がひでえ馬鹿みたいに思えてくるぜ」
深刻そうに中里が言う。啓介は煙草の灰を枕元に置いた灰皿に落とした。
「質問に答えてねえあたり、俺にはひでえ馬鹿にしか思えなくなるけどな」
沈黙。冷たい空気に啓介は煙を吹きつける。この冷たさも日が昇れば跡形もなくなる。アスファルトの水溜りのように。何もなかったことになる。
「考えてるぜ、俺は」
啓介が煙草を吸い終えてから、中里は言った。深刻そうな声。考えすぎている奴の声。やっぱり馬鹿じゃねえのか。啓介は灰皿の底で煙草を押し潰した。
「考えてんだ」
独り言。応えて欲しがっているとも無視して欲しがっているとも思える声。啓介は無視をした。光だけではエネルギーを作れない体。太陽を浴びても成長できない体。他人との些細な関係ですら解決しかねる体。平和ではない。だが、それが欲しくなる。
「考えてんだよ」
独り言。応えて欲しがっているとも無視して欲しがっているとも思える声。啓介は灰皿をぶつける代わりに、何回同じこと言いやがる、と中里の足を布団の中で蹴り飛ばした。
(終)
2008/11/07
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