生活



 寝るのは好きだ。冬の寒い朝などは一生ベッドから出たくないと思える。布団にくるまって暖かく眠っていたい。だが気合を入れて一旦起きれば未練はない。後は行動するだけだ。そうしていないと気が済まない。座っていると貧乏揺すりをしたくなるし、立っていても服のしわを微調整したり、髪を整え直したり膝を曲げてみたり、誰かと話してみたり独り言を呟いてみたり、何かしていないと気が済まないのだった。勿論じっとしているべき状況では努力をし、何とかかんとか目的を果たす。あるいは素性が不明だとか気に食わないだとかそういう相手とともにいる時は、緊張や警戒から無駄な動きは削られる。逆に言えば、努力も緊張も警戒も不要な相手とともにいれば、無駄は削られないということになる。
「じっとしてねえ奴だな、お前は」
 不可解そうな顔をちらりと向けてきて、関心したように言った中里に、悪かったな、と啓介は愛想なく返した。指摘は相応だった。先ほどから前を見たり横を見たりとちょくちょく頭を動かしているし、何度も腰を据え直しているし、ジーンズの膝のほつれを指で広げていたりする。じっとしてない、その通りだ。だがそれは隣の運転席でステアリングを握っている中里という男が、啓介にとって努力も緊張も警戒も要しない相手であるためだった。だから無駄な動きは削られない。それにこの日産スカイラインGT−R、四輪駆動車の助手席に座っていることは、どうにもたまらない違和感を啓介に運ぶ。腹に伝わる地を刷くような音も一定の震動も、分かろうとしなくても分かる加速や減速の際の気遣いに溢れた丁寧さも、何回経験しても慣れないもので、シートベルトに阻まれながらも度々尻を座席に据え直してしまう。隣に乗っている人間にこうも細かく動かれては気分も良くないだろうとは思うが、落ち着かないものは落ち着かないのだ。
「別に悪いとは言ってねえだろ」、啓介の愛想のない返答に、戸惑ったように中里は言った。啓介は唇を指でつまみながら、
「俺はガキの頃からずっとそうなんだ」、少し声の調子を軽くして、ウィンドウの外を見た。
「落ち着きがありません、とか通信簿に書かれてたのか?」
「そんなこと書くような担任じゃなかったよ、小学の時は」
 浮上してくる記憶に少しだけ意識をやって、路肩にこびりついている鳥の糞を見て、それから中里を見た。浮かぶ感情を確かめるように啓介の顔を一瞥した中里は、そうか、と頷き、俺の時は、と勝手に続けた。
「少し集中力に欠けるって書かれてたな」
「その担任はよく分かってたんだな、お前のこと」
「良い人だったぜ。今でも年賀状のやり取りはしてる」
 ふうん、と啓介は鼻で言った。どの教師の個人情報も自分は知らない。「お前は?」と五秒走った沈黙を避けるように中里が問うてきて、何が、と啓介はわざと問い返した。
「昔の担任とかと連絡取ってるか」
「俺は教師ってやつが嫌いなんだ」、嫌悪感を表に出して言い、啓介は運転席に座る中里とは逆の方向を眺めた。目に映るのは寂れた農村だった。冬も間近では寒々しさが強い。とても景色を見るような場所には思えないが、中里はこの道が好きらしかった。
「まあ、そんな感じだな、お前は」、中里は当然そうな声を出した。ろくに話もしていない段階で勝手に納得されると、啓介は一言付け加えたくなる。
「偉そうなところがよ、何も、ホントのことなんか分かってねえくせに」
「ホントのこと?」
「実際のこと」
「例えば」
 勝手に納得しておきながらこの男は、どうでもいいことを聞きたがる。一言付け加えただけで満足し、聞かれることには鬱陶しく感じた啓介が睨むように見てやっても、前を向いている中里は、ただ真実意味が分からないというような、素朴な顔をしているだけだ。しつこくはっきりとしている容貌のせいか、感情の変化もはっきりと見える男だった。自分も思っていることが顔に出やすいとはよく言われるが、この男のそれとは質が違うように思える。啓介は普段感情を隠すことに価値を見出さない。危機的状況ならばある程度感情も衝動もコントロールはするが、普段それらを隠して誤解されるよりは、さらけ出して誤解された方が納得できるからだ。だが中里の素朴な顔を見ると、そんなことまで考えて行動していないように思えてくる。考えのない人間に意地を張るのも面倒で、
「しつけえよなお前」、と言いながらも、まあ、と啓介は記憶に中里が介在していくことを許している。「分かってなかったよ、あれは。俺が避けられてたこととかさ」
 緩い坂道の隣には用水路を挟んで何かの収穫が終わった畑があり、中央にトタン屋根の小屋が見える。外側の木材が剥がれかけている。嵐でもきたら吹き飛びそうだ。寒々しい光景だった。
「お前が?」、中里は意外そうに言った。ああ、と啓介は中里を見ずに言った。中里は黙る。啓介は続く畑を見るのを止めて、中里に目をやった。前を向きながら、太い眉をひそめて、わずかに唇を突出し、どこか腑に落ちない顔をしていた。
「何だそりゃ」、つい啓介は言っていた。難しいことを言った覚えはない。ちらと啓介を見た中里は、いや、と少し眉を上げて、またひそめた。
「あんま、イメージわかなくてよ」
「イメージ?」
「お前は、好かれるか嫌われるか、ハッキリしてそうだからな」、中里は考え考え言った。「避けられるってのは、いまいち分からねえ」
 言葉の間に気遣いを感じてしまうのは、この男の運転に気遣いを感じてしまうのと同じことだ。分かろうとしていないのに、分かってしまう。そこまで意識を向けるようになっている。努力も緊張も警戒も要らない相手など軽んじていればいいのに、その行為のすべてをいちいちまともに受け取っている。それは落ち着かないのに、このドライブを断る理由にはできなくて、会話は続く。
「小学生ン時は俺、アニキ以外は信じられねえと思ってたから」
 味方は兄以外にいないと思っていた。誰も信じられるものではなかった。両親の不在を嘆けば周りの大人は都合の良いことを言って宥めてきたが、それを信じたところで状況が変わることはなかった。だから信じなくなった。小学生の時だ。あの頃は今よりもあらゆることを信じてしまえたから、信じなくなったのだ。ただ兄だけは、嘘を言わずに一緒にいてくれた。毎日何とかしのげていたのは、兄のおかげだった。
「なるほどなあ」
 間延びした声を中里は出した。しみじみ得心されたようだ。そこまでこの男が自分を理解しているはずはなかった。啓介はため息を吐いてから、
「お前の思ってること、当ててやろうか」、当てたくもなかったが、言った。
「あ?」
「筋金入りのブラコンだとか、そういうことだろ」
 前にも後ろにも右にも左にも車のいない十字路の一時停止で、きっちりタイヤを二秒止めて発進してから、中里は驚いたように言った。
「よく分かるな」
「分かりやすいにもほどがあるぜ」
「そこまでかよ」、不服そうに中里が眉間にしわを刻む。そこまでだよ、啓介は言って、また景色を見る。整えられた畑は終わり枯れ野が広がる。寒々しいが胸まで寒くならないのは、一人ではないからかもしれない。一人でこの道を走ったら、寒々しすぎて車幅感覚がおかしくなりそうだ。
「アニキ以外?」
 枯れ野の終わりに差しかかり、中里が話を戻した。何分も経っていないのに随分前のようのことに感じながら、啓介は記憶を呼び戻す。
「アニキ以外。人が嫌いだったのかもしれねえ」
「小学生の時か」
「一人でいたかったんだよ」、思い出すと胸まで寒くなってきて、啓介は声を抑えた。「学校でもどこでも、アニキと以外、誰とも一緒にいたくなかった」
「だから避けられてた」、中里が補うように言った。たまにこの男は会話の流れを正確に把握する。まあ、と啓介はそれを更に補った。
「俺が避けてたんだから、当然だ。あの教師はそんなこと分からなかっただろうけどよ。仲良くするのが正義とでも思ってたのかね。俺もあっちもそんな気ねえんだからさ、放っといてくれりゃ良かったのに」
 都合の良い言葉ほど信じられなかった。構われれば構われるほど不信感ばかりが募っていって、時々苛立ちが爆発した。その度に厄介者扱いされ、問い詰められて、責められた。何も分からないのならば、口を出さないでほしかった。口を出されなくてもどうせ不信感は募るのだ。だから教師は嫌いだった。
「アニキ以外か」
 中里の声は間延びしていなかった。しみじみもしていなかった。ただ少し遠く聞こえた。急に車内が広くなったような感じがして、啓介は声を大きめにした。
「今は違うぜ。俺も視野が広くなったし」
「自分で言うか」
「他に誰が言ってくれるんだよ」、啓介は苦笑した。今、この場には自分と中里しかいないのだ。
「アニキがいるじゃねえか、お前には」
 中里は笑わなかった。声は相変わらず少し遠い。いや、小さいのだ。だから遠く聞こえる。そして暗さがある。寒々しい景色には合う声だが、このインテリアが妙に重厚な車内に合うものではない。そんなことも考えてなさそうな男だ。あるいは隠そうとしているのかもしれない。だが、それは空間に漏れ出している。中里の感情の露出は、啓介の尻を落ち着かなくさせ、痒くもないのに頭を掻かせる。運転の質に意識が向くほど静かになっては余計落ち着かないので、啓介は言った。
「拗ねるなよ」
 一定だった速度が緩まり、戻り、中里が低い声を出した。「何?」
「俺がアニキのこと言ったからって。っつーかお前が聞いてきたから答えただけだしな、俺は」
 啓介はまた苦笑した。問われた範囲に兄がいたから言っただけだ。拗ねさせようとしたわけではない。兄は兄で、中里は中里だ。比較はできない。
「何言ってんだお前は」、中里は変わらず声を低める。それはもう遠くない。
「アニキは俺の人生から外せねえよ」、啓介は電線に留まっている鳶を見送った。「けどそれは、お前とは関係ない」
「勝手に話を進めやがって」、中里が苦々しげに舌打ちした。啓介は肩をほぐすように首を縮めた。
「それが嫌なら止めてみろ」
「そういう話じゃねえんだ、そもそも」
 どこからがそもそもなのか見当もつかず、そもそも、と呟く。それはさっきかもしれないし、もっと前なのかもしれない。それは、中里の話だった。
「俺は、兄貴はいねえからよ」、やはり考え考え中里は言った。「そういう風に、頼れる相手がいるのは、羨ましいぜ」
 さっきとも前とも言えない話だった。自分に兄がいることは有名だ。兄が有名人だった。中里も最初は兄を目当てにしていたはずで、初めて会った時には随分見くびってくれたものだ。その頃、話していて落ち着かないことなどなかった。変な心地になることなどなかった。だがこの関係を白紙に戻したいとも思えない。今を手放したくもならない。寒々しい景色には徐々に住宅が増えていく。他人の生活の匂いが漂ってくる。この広い世界には自分が味わったことのない生活の匂いがある。中里はそれを強く漂わせている。
「俺と結婚すんのが一番なんだろうけどな」
 生活の匂いを感じながら、啓介は呟いた。
「は?」
「そしたらアニキがお前のアニキだ。まあ無理だけど」
 ようやく前に車が見えた。スズキの軽トラックだ。中里はそれを抜かしはしない。そういう部分では兄とも気が合いそうだったが、何もない道路でステアリングをしくじるあたりはまだまだだろう。
「お前、変なこと言うんじゃねえ」、中里は焦ったように声を出した。
「変でもねえだろ。婚前交渉はしてるんだし」
 ブレーキは唐突にかけられた。急激に減速し、緩慢に加速する。後ろに車がいないのが幸いだった。いたとして突っ込まれていても文句は言えないほど最悪な減速の仕方だった。障害物があったわけではない。ただ会話をしていただけだ。
「あぶねえな」
 体に食い込んだシートベルトを指で叩きながら啓介が言うと、ギアを戻してステアリングをがっちり握った中里は、がっちりした顔に渋さを加えた。
「どこでそんな言葉を覚えんだよ……」
「常識じゃねえか?」
「どんな常識だ、そりゃ」
「こだわる奴はこだわることだろ、俺は別に気にしねえけど」、言ってから啓介は考え、いや、と言い直した。「気にするかな。お前に昔の男とかいたら」
 今度はアクセルが抜かれただけでブレーキは踏まれなかったが、いずれにせよ唐突な減速だった。近づいた前の軽トラックがまた離れる。サイドミラーには後続車が遠く映る。会話をしているだけでひどい運転をするのは、そろそろやめてもらわなければならない。啓介はため息を吐いて、真面目に言った。
「お前、やっぱそのメンタルどうにかした方がいいぜ」
「うるせえ」
 短く中里は言い、ステアリングを握り直し、物騒な顔で前方を睨んだ。会話は切れた。啓介はそれをつながなかった。中里の集中を邪魔する気にはならなかった。たかが田舎道のドライブで、事故を起こされても困る。死なれては困る。兄は兄で、中里は中里だ。比較はできない。だが、死なれて困るのものは困る。大体GT−Rで出かけたがったのは中里だ。この道を走りたがったのも中里だ。好きなことをやっているのだから、隣に誰が乗っていようがもっと落ち着いたらどうかと思う。しかし落ち着いたらそれはもう中里ではないのかもしれない。それはもう自分たちではないのかもしれない。自分はいつかこの車に乗り慣れる日がくるだろうか。この車に乗ることで落ち着く日がくるだろうか。この男の隣にいるだけで落ち着く日がくるだろうか。それは今でもそうなのだろうか。
「いてたまるか、そんなもん」
 前方に久しぶりの信号が見えたところで、中里が吐き捨てるように言った。ぼんやりしていた啓介はしばらく話のつながりを思い出せなかった。運転している状態でそれを思い出したら、中里のように唐突にブレーキを踏んでいたかもしれない。冷静に考えれば何ということのない話だというのに、不意に聞くと衝撃的なものだった。昔の男がいないことを知っただけでこれならば、結婚してくれとでも言われたら用水路に落ちてもおかしくはない。
「俺もまだまだだな」
 交差点に詰まっている車を懐かしく感じながら、啓介は顎を撫でた。
「あ?」、中里は話のつながりを思い出せないらしかった。
「こっちの話」、すぐに言い返し、啓介は眉間に力を入れた。「そっちの話でもあるか」
「何の話だ」
「言わねえよ。事故られても困る」
「はあ?」
 中里が不審がっているのは分かったが、気を遣って啓介は口を閉じた。死なれては困るのだ。これから再び中里の家を訪れる手筈だった。自分が味わったことのない生活の匂いに満ちている部屋だ。それを思い出しながら啓介は落ち着かない尻を座席に据え直し、会話がつながれるまで、中里との生活について真面目に考えた。
(終)


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