過程
肉体の鍛錬を好むのは、父の影響かもしれない。父の血と、父の存在とだ。
持久力、筋力、心肺機能などを向上するに適切なトレーニング方法を、難解な言い回しで教えてくれた無邪気な父の顔を、今でも啓介は時折思い出す。工事中の道路が隔てられるように、侵入されなかった場所が、解放された、夏の夜、蒸し暑く青臭い庭。家の光に照らされた、目元に皺を刻んだ父の、情熱と親愛が頬を緩ませる、その顔。
そんな顔はもう何年も見てはいない。顔自体を見たのがいつだったのかすら、明確ではない。
薄暗い街の中、硬いアスファルト、踏み固められた土、露に濡れる青草を足で踏み、走り、帰宅した後や、自宅の、あつらえた人間に使われなくなったトレーニングルームで、筋肉に負荷をかけた後は、父に教わった通り、クールダウンをし、シャワーを浴びる。その合間、いつかの父の言葉の一つ一つ、父の顔の一つ一つが、意味をなさぬまま、頭を通り過ぎていくことがある。そんな時、啓介は、アキレス腱を必要以上に伸ばしたり、浴室の鏡を割ったりしたくなる。
父のことを思い出さないのは、クールダウンを介さない、興奮が失われていく過程で、それはセックスの後しかない。
体の、相手の後始末をせず、ベッドに寝たまま、煙草を吸うと、怠惰で広い安らぎが頭を覆い、未来への漠然たる不安も、過去への確然たる憎悪も、現在への当然たる執着も、すべて消え去って、自分だけが、ごく近くに感じられる。
セックスの相手は、人間であれば、誰でも構わない。年下でも年上でも、女でも男でも、全身を使えて、射精できれば、感覚は得られる。相手に左右されない、自分だけの、絶対的な感覚。
裸だと、自分の肉体の隅々にまで、意識が及ぶ。痙攣を待ち構えている筋肉、汗を吐き出している肌、沸騰しているような血流、肉にまで伝わる強い脈動、安定と不安定に揺れ動く神経。それらを感じたまま冷えていく体、明晰になっていく頭が、自分の輪郭を捉える、その時間が、啓介を癒す。
煙草を一本吸い終わる頃には、肉体は運動後の重さを、精神は射精後の気だるさを、思考は現在を取り戻し、次への活動を始めさせる。
体のどこにも異常がないことを確認し、ベッドに腰掛け、床に落ちていた服を、まだ汗の残る肌をそのままに着て、立ち上がる。背筋を伸ばし、酸素を得ようと、体液の臭いの濃い空気を、鼻から吸い込み、肺を通し、口から吐き出す。三回。興奮は失われ、進歩のない世界が啓介を取り囲む。
動く前に、ベッドを見る。そこで寝ている男の体を見る。筋肉の太り方も脂肪のつき方も不均衡で、計画性が窺えない、その体。セックスの相手は、人間であれば、誰でも構わないが、面倒なことも、思い出すことも少ない方がいい。場当たりで、適切な方法など知らなくて、慰めを求めない男がいい。
興奮は、失われなければならない。
ベッドの上の男と、目は合わせない。別れの言葉はかけない。腰の張りを感じながら、啓介はしわぶきすらせず、その部屋を後にする。
体は走らせず、車を走らせる。目的地は想像されない。体液が拭い取れていない指が震え、首の筋が引きつりを訴える。残る重さ、気だるさ、明晰さが、誰でもいい、その相手を思い出させ、啓介はアクセルを踏んだまま、足の指を曲げた。
(終)
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