君が好きになるならば
中里は、行為の間、ずっと歯を食いしばっている。顎でも鍛えたがっているようだが、そうではない。声を、出さないようにしているのだ。
中里の住んでいるアパートは、壁が薄い。隣の部屋に、人がいるのかいないのか、簡単に分かる。隣の部屋の住人が、見ているテレビ番組も、聴いている音楽も、かけている電話の内容も、筒抜けだ。連れ込んでいる女のあえぎ声さえも、筒抜けだった。
向こうが遠慮していないのだから、こちらが遠慮する必要もないと、啓介は思う。だが、中里は、決して声を出そうとはしない。いつもは気合の入った声で喋り、驚き、怒る男が、歯を食いしばり、呼吸音すら抑えようとすることは、行為をひどく、真剣で、特別なものに感じさせるのだが、本人は、それを意図していないだろう。
啓介の部屋の壁は、隣の部屋に、人がいるのかいないのか、簡単に分からない程度には、厚みがある。今、物音は伝わってこないが、隣の部屋に兄がいることは分かっている。兄のFCが、ガレージにあったからだ。兄が起きているか寝ているかまでは、分からない。どちらにせよ、大騒ぎをすれば、迷惑はかかるだろう。だが、普通に喋るくらいなら、大丈夫のはずだ。それでも中里は、声を出そうとはしない。行為の間、歯を食いしばることが、習性になっているのかもしれない。
「もう少し」
最中に、会話もない。啓介は、延々黙っているのも性に合わないので、話しかけるが、中里は答えない。ただ、目は向けてくる。大きくて、興奮に濡れている、充血した目。
「楽しそうにしても、いいんじゃねえの」
見てくるということは、無視をするつもりも、ないのだろう。声を出そうとしないのは、ただの習性なのだ。意図はもう、そこにはない。
「お前、俺のこと好きなんだろ」
言葉が返されずとも、中里の体は雄弁で、これでよく、不良な走り屋たちをまとめているものだと思う。立場が、肩書きが、責任が、峠にいる中里に権威を与えているのかもしれないが、それらが捨てられた状態を見ている啓介は、欲情せずにいることが、いつでも難しい。
「なら、もう少し」
話しかけても、答えはない。その方が、反応は露骨だ。
「喜べよ」
そして、それが答えになる。
(終)
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