夜明けの方
一人でいても、孤独を感じない時がある。腹の底を濁らせる不安も、ひたすら叫びたくなる恐怖もなく、ただ自分は何もかも分かっていて、正しくて、疑う部分など欠片もないような、平静で、万能な気分になる時だ。ドラッグを使うと、こんな感じになるのだろうか。昔、知り合いに誘われたことがある。結局、一度も手を出すことはなかった。多分俺は、グレきれないんだろう、啓介は思う。憎みきれないのだ。自分も家族も、他人も世界も、壊しきれない。それで良かったと、今なら思える。生きることができなければ、生きようとすることもできない。
夜の山に吹く風は、皮膚の熱と水分を、緩やかに奪っていく。唇を舐めると、ざらついた。今年の秋は雨が少なくて、夜明け前まで峠に居座っていると、肌が乾燥し、喉が渇く。今日は、飲み物を差し入れてくれる仲間もいない。彼らを日付が変わる前に帰らせたのは、啓介だ。その頃から気分は落ち着いていたが、うまく手加減をできそうにないくらいに、力が漲ってもいた。自分の走りについてこれる人間は、仲間の中にはもういない。
下唇をもう一度舐めた。太陽はまだ見えないが、空は明るくなってきている。今の今まで、眠気はない。もしかして、テンションおかしくなってんじゃねえか、俺。疑念を抱いてすぐ、耳が音を捉えた。硬く、重苦しい、山中に響く音だ。下の前歯の裏を舐めると、唇以上にざらついた。家に帰ったら歯を磨いて、シャワーを浴びよう。それからリンゴジュースを飲んで、仮眠する。腹はまだ減っていない。朝飯は、大学に行く前にコンビニで買えば良い。孤独は感じない。この状態を、必要な時に呼び出せるようになれば、誰よりも速くなれるだろう。不可能なことほど、魅力的に思える。
世界は光と色を取り戻す。FDに寄りかかりながら啓介は、闇から離れた黒いGT−Rが目の前に停まるのを、じっと眺めていた。音の通り、硬く重苦しいシャシー、ボディ。鈍い音を立てながら、運転席から男が降りる。ハイネック、デニムシャツ、ブラックジーンズ、スニーカー。黒髪、直線的な輪郭、太い眉、際立つ目。車の通り、硬く重苦しい顔だ。俺はこいつを知っている、啓介は自分に言い聞かせるように、思った。こいつも俺を知っている。
「一人か?」
GT−Rのドライバー、中里毅は笑いながら、聞いてきた。似合わない愛想笑いは、友好的ではなく、挑発的に見えた。だが、怒りは呼ばれなかった。
「俺が一人じゃ悪いか?」
聞き返すと、いや、と中里は笑ったまま、続ける。
「ただ、お前はいつも、誰かしら周りにいるイメージがあってな」
「俺だって、一人でいる時くらいはあるさ」
孤独を感じずに、朝まで峠に居続けられる時がある。稀なことだ。稀な時に、稀な相手に会うのは、かなり稀だろう。今まで赤城山で、中里を見たことはない。
「お前は?」
中里は、均等に頬を上げている。わざと、笑顔を作っているのが見え見えだ。
「見りゃ分かるだろ。一人だぜ」
「こんな時間に、一人で赤城で走ろうって?」
「俺だって、急に違うところで走りたくなることもあるさ」
似たような言い回しだ。中里の、馬鹿にするような笑みは、続いている。だが、喧嘩を売ってきていると取れるほど、それは敵対的な態度ではない。今までに比べれば、よほど友好的だろう。ただし、会話を続けてやろうと思えるほどでもない。わざと、中里はそんな半端な態度を取っている。はぐらかしてやがるな、こいつ。啓介は直感した。喧嘩を売りたくはないが、会話を続けられたくも、ないのだ。
「俺がいるって期待してたか?」
自分と中里の間で、中里側に避ける理由のある事柄は、すぐに思いついた。
「あ?」
固まった笑いが、中里の顔の上に、へばりついたようだった。筋肉の緊張は、余裕の消失を示していた。
「そしたら、俺とバトルできるかもしれねえとかよ」
中里の左の目の下が、一度ぴくりと大きく動き、へばりついた笑みが、過剰に深まった。
「期待なんて、するわけねえだろ」
声に、緊張が乗っていた。へえ、と相槌を打つと、目が逸らされ、続けて顔も逸らされて、背が向けられた。
「お前の邪魔はしねえよ。一人の時間もな」
言い訳じみていた。そのまま、帰らせてやっても良かった。孤独はない。離れかける中里の腕を掴み、顔が顔に当たりそうになるまで引き寄せたのは、ただの、些細な好奇心からだ。
「お前、俺に何か言うことあるだろ」
今年の秋は、雨が少ないが、降った日もあった。その日、啓介は中里のホームで、中里に勝った。走り屋として、上回った。敗北を、蒸し返されたくないから中里は、わざと下手な愛想笑いを浮かべ、はぐらかそうとしたのだと思った。気分は至って平静で、感情は動かなかった。だから、そのまま、はぐらかされてやっても良かったのだ。蒸し返したのも、些細な好奇心からだった。避けていることに出くわした中里が、どういう反応をするのかという、興味だった。それで、別のことが気になった。
「何が」
歪んだ笑みをへばりつかせたままの中里を、啓介は真正面から見据えた。
「ヘラヘラしたって、どうにもならないぜ」
危険性を分かる実力を持った上で、バトルで命を懸けられる走り屋が、バトルへの意欲を否定するのは、嘘くさかった。嘘のはずだ。中里は、期待をしていた。自分がいることを、期待していた。それを否定したいから、バトルへの意欲まで、否定したのだ。ただ、中里が走り屋の領分まで否定する、理由が、必要が分からなかった。それが、気になった。些細な好奇心だ。その分、抑える気も起きなかった。
「何もねえよ。離せ」
俯いた中里の顔からは、へばりついていた笑みが消え、焦燥の強張りが見えた。啓介は、中里の腕から肩まで手を滑らせて、首を越え、顎を掴み、顔を上げさせた。
「こっち見ろよ」
目も合わせられないような、重大な問題があるとは思えなかった。
「俺を見ろ」
だが、中里は、斜め下を見る。黒も白も多い目は、血走っていた。乾燥しているせいか、元からか。
「何も、何もねえんだよ、離してくれ」
声は小さかったが、叫ぶようだった。離せと言いながら、中里の腕は体の横にあるだけで、突き放そうとはしない。触れようと、してこないのだ。離れようとしている。逃げようとしている。だから、触れようとはしてこない。矛盾している。逃げたくなるなら、近づいてこなければ良かった。中里は、近づいてきた。近づいて、きたかったのだ。求めてきたのだ。
求められている。馬鹿げた考えだが、しっくりきた。離れたがっている男に、求められている。馬鹿げた思いだが、妙に興奮した。唇を合わせたのは、求められることを、体が求めたからかもしれない。中里は触れようとはしてこないが、離れようともしない。口は開いたままで、閉じもしない。舌を絡ませても、動きはない。それでも肉は、反射のように、震えている。硬く鈍い反応が、熱を呼ぶ。まだ動かない中里が、どういう顔になっているのか、見てみたくなった。音を立てて唇を離して、頭を引く。視界に収まった顔も、震えていた。血走ったままの目が、濡れている。寒風が奪った水分は、補充されている。
「はっ……」
小さく息を吐いた中里が、歯を食いしばり、目をつむり、右手を大きく払った。顔をぶたれないよう、咄嗟に啓介は中里の顎から手を離し、少し背を倒した。右手を払った勢いのまま、反転した中里が、ついに逃げようとする。その体を、啓介は後ろから抱えた。
「俺に言うこと、あるんだろ」
そのために、逃げたくなるにも関わらず、近づいてきたはずだ。まだ答えは聞いていない。答えを聞くまで、逃がせられそうにない。
「ねえよ」
中里は小声になっている。上半身から下方へ右手を滑らせていくと、中心で、指に硬いものが触れた。
「やめろ」
言うくせに、止めようとはしない。触れようとはしてこない。今度はいつ、逃げるのか。試すように思いながら啓介は、中里のジーンズのホックをゆっくりとはずし、ファスナーをおろし、下着の中に手を突っ込んで、張っているそれを取り出した。直に掴むことに、抵抗はなかった。違和感も、不快感もない。他人の男の、それも中里の男根を握っているのに、自然な行いだと感じられた。肩口から見下ろしたそれは、外気に晒されても、しっかりと勃っている。中里の腹の前で、勃っていた。車のヘッドライトをわずかに受けて、濡れ光る。
「言うことあるだろ」
こめかみに唇を当てながら言うと、中里はあえいだ。声が出てくるまで、時間がかかる。それも、息と変わらない声だ。
「やめろ」
「なら、言えよ」
腹に回している左手を、シャツに潜り込ませて、胸を撫で上げる。はぐらかされてやっても、良かったのだ。何事もなく別れる、それでも良かった。この状況がおかしいと考えられるだけの、理性はある。ただ、考えで動いていないだけだ。こうして昂ぶる中里に触れていると、何もかも分かっていて、正しくて、疑う部分など欠片もないような、平静で、万能な気分が、強調される。自分の感覚が、絶対だという元で、動いている。
「こっち見ろ、中里」
一旦静止し、なだめるように、啓介は優しく囁いた。唾を飲んだ中里が、息を切らしながら、何度も瞬きをしてから、じわじわと目を向けてくる。濡れ光る目、強張る頬。泣きそうな顔だ。また唾を飲んで、瞬きを繰り返し、急にぴたりとやめて、震える唇を開く。声は、かすれきっていた。
「俺は、お前が、好きだ」
それを聞いた途端に、ぞくりとして、啓介は眉を上げ、目を細めていた。予想通りの正解を得た高揚感と、まったく別物の興奮が、体中を駆けて、神経を震わせ、筋肉を緊張させた。手を、動かした。跳ねる中里の体を逃がさないよう抱えて、続ける。
「俺が好きだから、勃ってんのか?」
「高橋」
「イッちまいそうだな」
いくらもしていないのに、中里の全身は、ひどく脈動していた。
「頼む、やめてくれ」
急いた声が、呼吸の合間に漏れる。
「お前に、迷惑は、かけねえ」
泣きそうな顔で、泣きつくように中里は言った。最初の挑発的な愛想笑いが、嘘のように思えるほど、みっともない態度だった。これが正しい中里だと思えるほど、生々しい態度だった。
「お前が決めることじゃねえよ、それは」
何が迷惑で、何が迷惑ではないのか、勝手に決められては、たまったものではない。啓介は、やめなかった。中里は、止めなかった。高橋、と窮まった声を上げて、尻を腰に擦りつけてきたのは、逃げようとしたというよりは、反射だったのだろう。晒した中里の腹に、精液が飛び散る光景を、啓介は最後まで眺めた。それで、勃起した。
「お前がやりてえなら、俺は」
息を乱したまま、重力に従いそうになる中里を、無理に立たせながら、早口に言っていた。
「やってもいいんだぜ」
譲歩ではなく、提案でもない。それは絶対の、答えだった。
(終)
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