プロポーズ



「お前、ウチ来いよ」
 そいつがそう言ってきたのは、夜中に落ち合った田舎のファミレスで、わびしい食事をとっている時だった。
 俺がしなびたサラダを突っついたまま、瞬き一回分の間だけ考えて、何だそりゃ、と言っても、大盛りのカレーに集中し出した奴の意識は戻って来なかった。
「どういうことだ」
 瞬き五十回分の間考えてもその言葉の意味が分からなかったので、俺は周りに害を及ぼさない程度の大きな声で、再度尋ねた。高橋啓介は俺に注意を向けてくると、口に含んだスプーンから、カレーのルーと飯粒を綺麗に舐め取って、銀色に光るそれを目の前に掲げ、その性格を知らなければ厳しく見える、小難しい顔を作った。
「どこへ遊びに行くのもお前の自由だけどな、親しい人間なら自宅に招待しておけよ」
 高橋はまるでスプーンに言い聞かせるように、朗々と言った。俺は当然、わけが分からなかった。
「はあ?」
「失礼のないように」
「何だ?」
 ともかく俺が話の流れを把握しようとすると、スプーンをためつすがめつしていた高橋は、何でもないように、アニキだよ、と言った。
 アニキ?
「高橋涼介?」
「それ以外に、俺にアニキはいねえよな」
「が、どうした」
「って言われてよ」
「……何だって?」
 俺が首を前に出すと、高橋はスプーンを僅かに残っている飯に突き刺した。そして俺の方へと身を乗り出してきて、幾分潜めた声を出した。
「たまにしか出てねえってのにさ、お前と、でも固定した相手だって思ってるみてえなんだよ。この前、前置きナシに言われたんだぜ、さっきの」
 不満げにゆがむ高橋の顔を眺めながら、俺は濃いドレッシングがかけられたレタスを飲み込んで、考えた。固定した相手。
「……女がいるとでも思ってんのか」
「でも言われた時何つーか、尋問されてるみてえだったから、何か変だとでも思ってんじゃねえかな。さすがにお前と俺がヤッてるなんて考えちゃいねえだろうけど」
 ぼそぼそと言うと、高橋はまたカレーに意識を戻した。俺はサラダを食べ終えたので、水を飲んだ。それは、いくら高橋涼介といえども考えもしないだろう。俺と高橋啓介が、普通に会ったり話したりしているということはまだ、想定の範囲内であるかもしれないが、その上でつまり、そういうことになっているというのは、思い至らないに違いない。思い至っているのならば、正直恐ろしい。大体俺とこいつには、ろくな接点すらなかったのだ。それがどうしてこういうことになっているのかといえば、俺自身よく分かっていない。こいつだってよく分かっていないだろう。だから、多分三ヶ月も続いているのだ。
 しかし、それにしても、
「だからって、何で俺がお前の家に行かなきゃなんねえんだよ」
 高橋涼介は招待しろと言ったというのだから(それはおそらく紹介しろということでもあるのだろう)、その状態で俺がこいつの家に行くということは、ほんのわずかであっても怪しさはつきまとうと考えられる。それだというのに、ということだ。俺が空になった皿の底に残るドレッシングを箸でかき回しながらそう聞くと、だからだよ、と高橋はスプーンを俺に突きつけてきた。
「あ?」
「どうせアニキならいつかは絶対知るからよ。ならいっそバラしちまった方がいいんじゃねえかと」
「良くねえだろ」
 俺は呆れのあまり思わず大声を出してしまった。幸いなことにがらがらの店内では誰の視線も感じなかったが、一度咳払いをして、潰した声で、良くねえよ、と言い直した。良いことなんざ、一つもない。高橋は顔をしかめた俺を、不思議そうに見て言った。
「俺が良けりゃアニキは何も文句は言わないぜ、多分。お前を責めるこたァねえよ」
「責めるとかそういう、ことじゃねえよお前、じゃあお前がアニキから……つまり、同性とそういうことになってるっていきなり言われたらお前、どうだ」
 できうる限り声を小さくして言うと、高橋は話をしながらも軽く平らげたカレーの皿をスプーンでコツコツと六回叩き、不躾な音を立てスプーンを皿に放ってから、椅子に背をだらしなくつけ、引くな、と真面目ったらしく言った。だろうよ、と俺は頷いた。
「だから、これは言うべきことじゃねえ。無駄なショック受けさせるだけだ」
「でも知ったらどっちみち、ショックは受けるだろ」
「知りもしねえだろ、言わなけりゃ」
「俺にアニキに嘘を吐けって?」
「どうせ長く続きもしねえんだ」
 高橋は目をつむった。俺の言ったことを考えているようだった。その間に、店員が空になった食器を下げて行った。
 しばらくして目を開いた高橋は、体を前に出すと、すっきりとしたテーブルに右腕をつき半身になって、俺を下から覗きこんできた。
「終わるって決まってるわけじゃ、ねえだろ」
 挑発的に言われて俺は驚いた。乾いていた口を水で湿らせる。視線を高橋と同じ位置にして、聞いた。
「さっきお前が言ったみてえに、アニキが迫ってくるんだぜ。それでお前は答えを出さなきゃいけない。できるのかよ」
「その時にならなきゃ分からねえよ。考え、変わってっかもしれねえし」
「お前なあ」
 俺はその場当たり加減に呆れたが、高橋は俺の呆れなど意に介さないように、揃っている白い歯を剥き出しにして、でも、と痛快に笑って言った。
「俺は、今は満足してるんだよ」
 やられた、と俺は思った。何がどうやられたとは説明できないが、見事に一本取られたような敗北感があった。何せこいつの笑顔は自信が強すぎた。言っていることに間違いがあっても問いただせないような、強さだ。
「今が良いったってなお前、だからよ、バレたらその今もなくなるかもしれねえんだぜ」
「でもなくならないかもしれねえだろ」
 強い力で抑えつけられそうになった俺が何とかひねくり出した言葉も、簡単に、単純に、明確に言い返された。お手上げしたいところだが、こいつの言い分だけ通すわけにもいかない。
「つったってなあ、こりゃあ、このままずっと続けるようなもんでも、ない」
「本気でにっちもさっちもいかなくなりそうになったら、そりゃ、俺だってやめるよ。やめられる。それは保証してやる。でもならないかもしれないだろ。なるかもしれないけど、先のことは分からねえ」
「しかし」
「それまでは勝手にさせろよ。これは俺のことなんだ」
 高橋は力強く言い切った。こんなことを言いながらもこいつは、いざとなると自分の感情で突き進んでいく男だから、説得力はない。説得力はないんだが、言い方のせいか横柄な態度のせいか強い笑顔のせいか、信じるしかないと思わせられる。こうして俺の心配はいつも強引に跳ね返されて、残るのは爽快なようで粘ついている敗北感だけで、俺はこいつに負ける。
「でもな、俺に、少しは責任取らせろよ」
 俺は仕方なく、コップの底に残った氷で口を冷やしながら、負け惜しみを言った。
「責任はだから、分担で、五分五分だろ」
「年上だぜ俺は。五分五分なら四分六分くらいになっちまうんだ」
「いいじゃねえか別に、一分違うくらい。俺は気にならねえし」
「俺のプライドが許せねえ」
「くだらねえ」
 淡々と言われると、からかわれるよりダメージが大きい。俺はこれ以上傷を増やさないために、伝票を取って立ち上がった。
 店から出ると、ここが郊外だということがよく分かった。周囲に人工的な光は少ないが、遠く見える空はぼんやりと赤くなっている。
 高橋は停車させていたFDを物珍しそうに見ている若い男たちを、手早く追い払った。
「見るのはいいがベタベタ触るんじゃねえっての」
 腰に両手を当て、気落ちしたように去っていくガキの背を満足げに見ている高橋に、俺は会計を済ます間に考えていたことを言った。
「行くぜ」
 おう、と答えて高橋は車に足を進めた。そっちじゃねえ。俺は慌てて高橋を呼び止めた。
「待て高橋、違う違う、お前の家にだ」
「そりゃ俺は家に帰るだろ」
「だから違う、今の話じゃねえ、今後の話だ」
 半身で両手を腰に当てたまま、口を半開きにして眉をぎっちりと寄せた高橋が、慌てすぎて身振り手振りがついてきていた俺を、不審そうに見てきた。
「さっきの話か?」
「そうだよ。お前のアニキに報告する」
 何だってこう大事な時に格好がつかねえんだ、と俺がかなりの後悔に襲われながらも何とか意図を伝えると、高橋は口を曲げてシャツの襟から鎖骨を掻き、そりゃもういい、とあっけらかんと言った。
「何?」
「もういいんだ。バレたらバレたで、その時の俺の考えで、どうするか決めるべきだろ。怒られないために先手必勝、なんてのは卑怯だよな。よく分かったよ。だからもういいんだ」
 普段ならいつでも歓迎するんだが、今の状況でこいつに物分りが良くなられても、非常に困るだけだった。俺の意見が伝えられなくなる。
「いや、だから違うんだよ」
「何が違うんだ。俺はいいっつってるだろ」
「お前が良くても俺が良くない」
「さっきまであれだけ渋ってたじゃねえか」
「渋るに決まってんじゃねえか、言う必要性なんて感じなかったんだ、さっきまでは」
 少し高橋が耳を向けてきた。いいか、と俺はこの際、決まりを捨てて説明に臨むことにした。
「さっきお前と話してだ、俺は考えた。お前がそこまでの度胸があるってんなら、俺だって相応の度胸をもって、アニキ殿に報告するなり何なり、現実に挑むべきだろうと。俺はな、嫌なんだよ。この中途半端さが。余計なことをいちいち考えさせられるような、自由ってんなら聞こえがいいが、結局無駄なことをしてるって意識が離れないような曖昧なこの関係が。だからお前が今いいってんなら、俺はこれをつけられるだけの形にしたいんだ、現実として」
「待て、話がよく分からねえ」
 俺がなるべく分かりやすいようにと語っていたにも関わらず、高橋は戸惑いの色が多く見える目をして、片手を上げてきた。俺は散々自分の意見を伝えきれないことにもう疲れて、結論だけを言ってしまうことにした。
「だから俺はお前が好きだから、責任を取らせろってことだよ」
 俺が言い切っても、高橋は少し眉を上げただけだった。そのまま見合いながら、ああでもこれじゃ前後関係正しくねえんだよ、と二度目の強い後悔に襲われて色々訂正したくなったが、俺はとにかく高橋の反応を待った。
 高橋は一旦俺から顔を逸らして、ポケットをゆっくりと探り車の鍵を取り出すと、それをチャラチャラ鳴らしながら、半身のまましかめっ面を向けてきた。
「すげえ分かりづれえ話のつなぎ方するよな、お前」
「お前が途中で止めるからだろうが、あれにはもっと俺の色んな思いとかが」
 あったんだ、と言おうとしたら、いきなり噴き出した高橋に遮られた。
「何だ、何を笑う」
「いや、おかしいだろ」
「人が真剣に言ってるのに、てめえは」
「だってお前」
 と、顔を伏せた高橋が辛うじて見える口をいびつにしながら、「ヘタなプロポーズみてえじゃねえか」などと笑ってほざいたもんで、俺はそれ以上何も言えなかった。
(終)


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