かすれた壁



 今暇か、と聞いたら、暇に見えるか、と聞き返された。むくんだ顔、半開きの目、皺が刻まれたスウェットの上下。啓介は開いた玄関のドアに体をもたせながら、
「見える」、と答えた。
「……まあ、暇だけどよ」、中里はだるそうに頭をがりがり掻いた。「いきなり何だ」
「飯食ったか」
「あ?」
「昼飯」
「飯……」、寝起きのような反応の鈍さが中里にはある。「いや……まだだ」
「じゃあ行こうぜ」、啓介は言った。
 もう午後も一時を回っている。それで互いに飯を食べていない。一緒に行くしかないということだ。
 中里はまた頭を掻いた。そこまで痒そうには見えなかった。
「……どこに」
「どこでもいいけど」
「決めてんじゃねえのか」
「別に」、啓介は肩をすくめた。「この辺なら、お前の方がよく知ってんだろ」
 中里は頭を掻くのをやめて、難しそうな顔で啓介を見た。眠そうな顔でもあった。それからため息を吐き、着替えるから待ってろ、と言った。

 ◆◇◆◇

 座っていて良いと言っても、高橋啓介は立って待つ。前を開いた白いナイロンパーカのポケットに手を突っ込み、壁に背を預け、顎で何かのリズムを取っている。音楽はどこにも流れていない。高橋の頭の中に流れているのかもしれない。
 視線を感じたことはない。見せつけたいわけでもないが、見られて困るものでもないので、中里は躊躇せずに高橋の前で服を脱ぐ。部屋の外で待つという選択は取らないくせに、部屋の中で傍若無人に振る舞いもしない。そういう高橋の、自然で繊細な距離の取り方を感じると、視線を感じるよりも背中がむずがゆくなり、中里はいつもよりも素早く着替えを済ませている。
 セーターとジーンズと靴下、煙草とライター、財布と免許証、家の鍵と車の鍵。車の鍵は不要だ。ただ、持っていないと落ち着かなかった。
「ポスター貼らねえの、壁には」
 何かのリズムを取るのをやめた高橋が、テレビの上あたりを見ながら言う。棚にはカレンダーやポスターをかけている。壁には何もない。
「貼ったらそこだけ白くなっちまうからな」
 それだけが理由でもないが、煙草の脂は全体にこびりついてくれないと、濁った黄色い部屋が元からであるというごまかしが利かなくなる。
「でも物置いてるところも白くなるだろ」
「だから、なるべく壁際には物置かねえんだよ」
「何かケチくせえな」
 返す言葉もないほどその通りだった。高橋を一睨みだけして、中里は洗面所に入った。歯を磨き、ひげを剃る。剃刀の切れ味が落ちている。年々落ちる間隔が短くなっている気がする。ひげが濃くなっているのかもしれない。高橋はこんなことを感じはしないだろう。あの非の打ち所がないほど整った顔に、ひげらしいものも見た覚えがない。
 冷水とローションを顔に浴びせて眠気を叩き飛ばそうとする。徹夜の後の仮眠の後は、それでも全身に砂がまとわりついているような重さを拭えない。
「徹夜か」
 あくびを噛み殺しながら玄関へ向かう途中、高橋が言った。顔を見てみるが、ひげはない。
「まあな」、それだけ言って、中里はドアを開けた。

 ◆◇◆◇

 徹夜で何をしていたかは聞かなくても分かることだ。そういう疑問を挟まないつながりを、疑問に思わなくてはならないように感じることがある。走り屋同士だから、だけで済ませてはならないように感じることがある。感じても、啓介は何もしない。何もできない。どうすべきか分からない。着替えを直視できない時と同様の、据わりの悪さだけがついて回る。
 足取りは自然鈍くなった。中里が駐車場と逆方向に歩き始めたことに、気付くのが遅れた。
「どこ行くんだよ」、啓介は慌てて尋ねた。
「昼飯だろ」、中里は足を止め、不思議そうに答える。
「車どうすんだ」
「車で行くような距離じゃねえよ」、言ってまた歩き出す。「停める場所もねえしな」
「ガス代もねえんだろ」
 言うと、睨まれた。反論はない。図星だろう。そのまま無言で二人、平坦に見えるが起伏の多い、舗装の荒れた道路を歩く。通る車はない。平日の昼間、快晴、田舎の住宅街。馴れ馴れしい雰囲気、今にも止まりそうなほど鈍く進む時間。それが苦手で、夜にばかり出かけていた。車でばかり出かけていた。以前の話だ。
 最近は、晴れた昼間に出かけることも珍しくはない。一ヶ月前もそうだった。買い物の帰り、知人の家に寄り、駐車場まで歩いて戻った。その途中、暇そうな奴らに絡まれた。チャラチャラした同年代の男たちだ。高橋啓介をぶちのめしたら箔がつく、という話が回っていたらしい。都会より二年遅れだった。
「まだかよ」、三分経っても着きそうもないので、啓介は聞いた。
「もうすぐだ」、一歩先を行く中里が、ため息を吐く。「気の早え奴だな」
「車で行くような距離じゃないなら、もういいかと思うじゃねえか」
「そんなに腹減ってんのか?」
「一時半だぜ」、啓介もため息を吐いた。「俺はお前と違って寝起きじゃねえんだ」
「とにかく、もうすぐだ」、中里は話を打ち切りたそうに言った。「我慢しろ」
 そういえば、ボックスティッシュ五箱パックを買うのに片道十分かかっても、車で行くような距離じゃない、と言った奴だった。信じるものではない。その五箱パックのうち二箱は、出したら半ば潰れていた。脳味噌がなさそうな奴でも、頭蓋骨は役目を果たしていたらしかった。
「よお」
 ふと、中里が言った。誰か知り合いにでも会ったのかと思うが、周りには誰もいない。ただ、道の端に猫がいた。こげ茶の猫だ。尻尾は見えない。中里はそのまま歩く。距離が縮まり、猫はさっと横道へ逃げる。中里は頷いて、先を行く。啓介はその後をつきながら、横道を見た。猫はもういなかった。
「今」、啓介は言った。
「あ?」
「猫に挨拶したのか?」
 中里は何の気もなさそうに啓介をちらりと見て、右へ曲がった。
「ああ」
「何で」
「何でって、よく会うからな、あの猫は」
「よく会うからって、挨拶すんのか、猫と」
 餌をやるなら分かる。近づこうとするのも分かる。そういう動物好きは見たことがある。だが、猫にただ一言挨拶をして終わる奴は、見たことがない。
「無視しても、仕方ねえしよ」、言って中里は片手を前に上げた。「あそこだ」
 指差された先に、四角い建物があった。赤く、けばけばしい外装だ。のれんがかかっているのが見える。
「分かんねえ」
 啓介は呟いた。いや分かるだろ、と中里はもう一度けばけばしい建物を指差した。

 ◆◇◆◇

 混雑のピークは越えていたが、客はまだ二組いた。それだけで、店内は狭く感じる。隙間にまで物が置かれ、壁一面にメニューが貼られ、余白がないせいもあるが、そもそも敷地が狭いのだ。
「……これ、大盛りか?」
 二人掛けのテーブルにつき、同じのを頼んでもつまらないという高橋を無視して、あんかけ焼きそばを二つ頼んだ。それが運ばれてきた時の高橋の顔には、未知の物体を前にして、どうにか既知の部分を探そうとするような、妙な必死さがあった。
「並盛りだ」、そう言うものかは知らないが、中里は言って割り箸を割った。「良心的だろ」
 肩幅よりも少し狭い程度の大皿に、麺とあんがたっぷり乗っている。魚介類と野菜が溢れた具に覆い尽くされて麺は見えない。これで七百五十円。昼に食べれば、夜遅くまで胃は萎まない。
「うめえ」
 遠慮したそうに食べた焼きそばを口に含んだまま、高橋は言った。「だろ」、中里は笑った。味が良いのが最も魅力的だ。
 顔を上げもせず、高橋はそのまま黙々と食べ始めた。六十絡みの店主の奥さんに、店に入ってすぐ可愛い子だと表されてから曇っていた顔は、元通りの滑らかさを取り戻す。中里が店主と時折会話をしながら三分の二を食べ終えた頃に、ごちそうさま、と高橋は皿を空けた。
「腹減ってたのか」、早さに驚き、中里は言った。
「朝飯食ってなかったから」、高橋は水を飲んでから、少し苦しそうに言った。「っつーか起きたら時間だった」
「何の」
「店番」
 短く言い、高橋は煙草を取り出し火を点ける。
「終わったのか?」、中里は焼きそばを四分の一まで減らしてから、聞いた。
「いや、休憩中」、高橋は短く答え、煙を吐き出す。質問に気を悪くしている様子はない。店番の休憩なら、終わりはあるはずだ。
「何時まで」、続けて聞くと、
「夕暮れまで」、また短い答えが返ってきた。
「……何?」
「って言われたんだよ」、二本目の煙草に火を点け、高橋は肩をすくめた。「まあ、四時くらいに戻りゃあいいんじゃねえの」
「言われたって、誰に」
「店長に」
 遅れてあんかけ焼きそばを食べ終え、煙草に火を点け、中里は感想を漏らした。「……何か、アバウトだな」
「気まぐれなんだよ」、べたつくビニールのテーブルクロスに肘をつき、高橋は面倒そうに言う。「おかげで飯の時間も読めねえ。おやつったって煎餅とかしか置いてねえし」
「煎餅?」
「かりんとうとか。どっかジジくせえんだよな、趣味が。売ってる服はロックなのにさ」
 高橋はため息に煙を混じらせる。ロックな服屋の店番を任されているということなのだろうか。詳細は分からないが、四時まで休憩なら、すぐに帰らなくても良いのだろう。だが、だからといってこの店に居座る理由もない。飯は食べ終えた。会話は食事のついでに過ぎない。会話のために一緒にいる必要はない。
「行くか」、中里はまだ長い煙草を無理矢理潰し、立ち上がった。ああ、と短い煙草を潰し、高橋も立ち上がった。

 ◆◇◆◇

 腹が膨れている。いっそ抜いてしまいたい、ワークパンツに通したベルトは、緩めるだけで我慢する。空腹なのもあったが、予想以上に美味かったせいで、一気に食べ過ぎた。歩くのも遅くなる。
 気付いているのかただ満腹なだけなのか、往路と違い中里の歩調はゆったりとしている。その斜め後ろを啓介は行く。時間は相変わらず、止まりそうなほど鈍く進んでいる。横に並ぶ築何十年かという家々が馴れ馴れしい中、中里は啓介から距離を取り、間に沈黙を置く。
「よく付き合えるな」、卒然何かの焦りを感じ、思いついたことを啓介は言った。「あんな根掘り葉掘り聞かれてよ」
 店の人間と知り合いらしく、中里は食事中も度々話しかけられていた。昔はこうだった、あの人はどうなった、家族はどうだ仕事はどうだ恋人はどうだ、聞かれる度に中里は律儀に答え、世間話も振り、相手の体調も気遣っていた。そつのない会話だった。黙々と焼きそばを食べながら、無視すりゃいいのに、と啓介は思っていた。自分なら、無視しかできない。
 振り向いた中里が、意外そうに啓介を見て、
「ああ」、思い出したように言い、また前を向いた。「まあ、古い知り合いだからな」
 だから許せるのか、それとも慣れているのか、そこまでは答えない。聞けば答えるのかもしれない。そつのない会話を始めるのかもしれない。同じものはほしくない。ほしいものは分からないのに、ほしくないものは分かる。
 食物をみっちりと詰め込んだ腹が、また落ち着かなくなってくる。足取りがまた鈍くなる。それでも中里には遅れない。距離は取られても、遠ざかりはしない。刈り揃えられた黒い後頭部、平凡な背中。見ていると余計に落ち着かず、横へ目をやる。
 道の端に、猫がいた。こげ茶の猫。尻尾は見えない。歩いている途中で止まったような半端な体勢で、窺うように見てきている。
「よお」
 立ち止まり、声をかけると、つと逃げ出して、思い直したように身を翻し、また見てくる。
「どうした」、横から中里の声がして、猫は今度こそ逃げ出した。曲がり角へ消え、もう見えない。
「いや」、啓介は前を向き、立ち止まっている中里を見た。わけが分からなそうな顔をしている。
 知り合いを、無視しても仕方がない。そういうことなのだろう。だから何を聞かれても答えようとするし、よく会う猫に挨拶をするし、よく会いもしない男に飛びかかろうとした奴の頭を、ボックスティッシュ五箱パックで殴りつけたりもする。
「早く行こうぜ」、歩幅を大きくして、中里の横を過ぎてから、振り向く。「一回寝てえんだよ、俺」
 言うと、中里はわけが分からなそうな顔を、わけが分かったように、これ以上ないほどしかめた。「うちでかよ」
 それがこれ以上ないほどおかしくて、啓介は笑いながら、当たり前だろ、と手招きをした。
(終)


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