伏在放射



 車通りの少ない寂れ気味の路地の脇に32を停め、交差点の角にある店に入る。ウィンドウには黒を基調にした革製の衣服がドクロやコウモリやヘビやクモの模造品に囲まれる形でおどろおどろしく展示されていて、中の内装はその場末のライブハウスのようなホラーハウスのような暗い雰囲気を五割増しで反映しているのだが、そこは服屋相応に、陳列されている商品の色味がはっきり見える程度の光は保たれていた。
「いらっしゃいませ」
 相変わらずよく分かんねえな、カッコイイんだろうが、多分、入り口すぐ横、黒地に血しぶきが描かれている壁に貼られているヘビメタバンドと思わしきポスターを見ながら思っていると、かけられた店員の声に聞き覚えがあるような気がしたので、前を見た。
 胸ほどまでの高さがある、三段のステンレスの平棚の一番上に、男が豹柄のシャツを並べていた。逆立てられた煤けた金髪、凶暴なほど若さの漲っている、鋭利に美しい横顔。一見ヤンキーのようでありながら、鋲のたっぷり打ち込まれた暗灰色のデニムジャケットも、長く細い足を包んでいるファスナーの目立つ黒い革パンもウェスタンブーツも、海外老舗ブランドのファッションモデルのように非現実的な清潔感をもって着こなしている、店員らしきその男が、不意にこちらを見る。たっぷり十秒は、そのまま対峙していただろう。
「……中里?」
 店員らしき男は疑わしそうに顔をしかめながら、若干高めの声で言った。中里も似たような、それよりは驚きの勝った顔をしつつも我に返り、よお、とようやく声を出した。
「……久しぶりだな、高橋啓介」
 何でお前がこんなとこ、と思いながら、お互い挨拶したに違いなかった。

「お前、ここで働いてるのか」
 棚の上の服を次々畳み直していくその顔見知りの男に、驚きを消化できないまま、続けてそう声をかける。
「働いてるっつーほどでもねえけど」、店員としては実に愛想の欠ける、赤城レッドサンズのFD乗り、高橋啓介は並べた服を一つ手で叩くと、先ほどよりも怪訝な顔を向けてきた。「お前こそ、こういうとこで服買うのか?」
「いや」、趣味を誤解されたくはないので、首を軽く横に振る。「違えよ、大塚さんにちょっと用があって来たんだが」
 店主の名前を出すと、ああ、と高橋は頷いて、レジの方へと向かう。
「大塚さんならインスピレーション求めて散歩してくるっつって外出たぜ、あー、三十分くらい前か。そのうち帰ってくるとは思うけどな」
 なるほどあの人ならやりそうだ、放浪者と浮浪者の狭間という雰囲気を持っていた店主を思い出しながら、高橋の比較的広い背中に完璧にフィットしている、スペイン語のようなものがダークグレーの生地の上に白字で書き殴られたデニムジャケットを追うように歩き、そうかと頷いたところ、レジの奥の椅子に腰を下ろした高橋が、まあ、と見上げてきた。
「あの人ケータイ持たねえから連絡取れねえし、用があるなら言伝するけど」
 黒い机に据えられたメモ用紙の上で、既にボールペンを構えている。こういうことがよくあるのかもしれない。あいつに直接連絡取んのは至難の業だからな、と今は東京にいる走り屋の先輩も電話で言っていた。手紙も確認しやがりゃしねえし、直接会える奴に伝言頼むのが一番確実なんだよ。おそらく高橋啓介も、その店主の傾向を経験で理解しているのだろう、言伝を引き受けようとすることも、言葉遣いはさておき、仕事でしかないという淡泊さがあった。それは遠慮も気遣いも誘わぬものだったが、中里はそういった高橋啓介へ、個人的な事情を説明することに、漠然としたためらいを覚えた。癪、のようにも感じた。
「とりあえず、少し待たせてもらう。それでも戻って来なかったら、その時は頼むぜ」
 見下ろしながら言えば、高橋は興味もなさそうに軽く頷き、指の間で黒く細いボールペンをくるくると回した。その骨張った細い指に、煙を生み出す白いもの以外が挟まれている様は、何か不思議だった。
「煙草」
「あ?」
「吸えないのか、仕事中は」
 ぼんやりと言ってから、脈絡のない話だったと気付く。
「ここじゃあな」、高橋啓介は、だが不都合もなさそうに、言葉を返してきた。「でも店の前にあるだろ、灰皿と椅子」
 ああ、と中里はドアの横に置かれていたそれらを思い出した。腰までの高さのある黒い筒状の灰皿と、通行量調査で使われていそうなパイプ椅子。
「大塚さんが吸いたきゃいつでもあそこで吸えって言うんだよ。俺が表に出てれば宣伝になるって」
 つっても固定ファンしか来ねえけど、ペンを回し続けながらつまらなそうに言った高橋が、ぴたりと指の動きを止めて、再び見上げてくる。いくら端整であっても日本人でしかない顔にある、薄い茶色の、逸らすことを許さぬ強さをもった真っ直ぐな目が、こちらを捉える。
「っつーかお前、大塚さんのこと知ってんのか」
 その目と、それに合うような合わないような軽い声に、どんな固定ファンがいるんだ、と想像しかけていた頭が、現実に戻された。
「ああ、まあ、ちょっとチーム絡みでな」
 長々説明するほどのことでもなし、それだけを言うと、高橋啓介は濡れた雑巾でも投げつけられたかのように、顔をしかめた。
「まさかあの人、ナイトキッズか?」
「いやメンバーじゃねえぞ」、変な解釈をされては大塚に悪いだろうから、慌てて付け足す。「先輩方の知り合いで、たまに山に顔出すってだけだ」
「ふうん」、椅子に体を預けながら、高橋は顔のしかめ方を、乾いたぞうきんを投げつけられた程度に緩めた。「何か想像つかねえ」
「走るわけじゃねえしよ、あの人は。ちょっと喋って、うちの奴らに要らねえ服やって、それで帰っちまう」
 そういえば、チームのメンバーにも大塚のファンがいる。ステアリングが握りづらいだろうに、両手の指にごてごてとした指輪をはめたがる、二十歳のS14乗りだ。大塚に貰った服を、神からの恩寵のように崇めていた。ああいうのが、固定ファンになるのかもしれない。中里には、理解ができない。
「お前も貰ったのか」
 関節の浮き立ちが目立つ指に挟んでいたペンを、トノサマガエルを模しているらしいペン立てに突っ込んだ高橋が、話の続きのように聞いてきた。
「……一応な」
 少し考える間を置いてから答えると、着てねえな、と素早くすげなく返される。お見通しらしい。レジの横の壁に燦然とかけられている、濃いオレンジと強いシルバーのストライプジャケットを横目に見つつ、趣味じゃねえんだよ、と呟くように中里は言った。「こういうのは」
「お前見てりゃあ分かるけどよ、それは」
「何が」
「趣味に決まってんだろ。九十年代だよな」
 自然に高橋は言って立ち上がり、左手へ進む。その先にはハンガーラックに吊られた服が並んでいる。大体は黒や灰色といったモノトーンだが、それだけに赤や黄や白が混じっていると、目を引いた。それにしても、九十年代。
「そうなのか?」
「服自体は新しいから、見れないってこともないけど」、高橋は吊られた服を何やら選びながら、続けて言ってくる。
「でもそのブルゾンは、かなり古いんじゃねえの」
 祖父から貰ったものだから確かに古いが、今まで見抜かれたことなどなかったので、驚いた。
「分かるのか」
「良い味出てるよ。欲しいって奴、結構いると思うぜ」
 混沌とした服の列から白いジャケットを抜き出しながら、淡々と高橋は言う。くすりともしない。その愛想のなさは店員らしくないが、かといって赤城のロータリーブラザーズと賞賛された、高橋兄弟の弟らしいわけでもない。あの血気盛んな走り屋なら、アウェイで負かした気に食わないGT−R乗りには、居丈高で不敵な態度を取るのが自然だろう。それがこの淡泊さだ。なら今のこの男は一体何なのか、そもそも今の自分はどういう立場でそれと接しているというのか、九十年代の服の趣味とやらについて考えつつ、据わりの悪くなる疑念を拭えずにいると、時間をかけて服を選んでいた高橋啓介が、それらをいきなり突き出してきた。
「これ」
「何だ?」、中里は瞠目した。
「着てみろ」
 胸元に押しつけられたのは、赤白黒、三枚の服だ。
「……はあ?」
「ほら、試着室はそっちだ」
「いや、何で俺が……」
 展開についていけずにいるうちに、真っ黄色なカーテンの引かれた試着室に追い立てられ、靴を履いたままだというのに、あっという間にその中に押し込まれていた。おい、と入り口を向くと、カーテンを開いている高橋啓介は、どこか退屈そうに細い顎を上げ、床と試着室との段さなど関係ないと言わんばかりに堂々と見下ろしてきた。
「どうせ待ってるだけなら、客らしく振る舞え」
 店員らしくもない男が、傲慢な言いぐさだった。他に客もいねえのにか、と文句をつける前に、中里の目の前は真っ黄色になった。

 ◇◆◇◆◇◆

 靴も変えさせりゃ良かったな、どうせなら、パンツの裾と比べると随分くすんで見える白いスニーカーを見ながら思っていると、これでいいのか、とドスの利いた声がしたので、頭を上げる。
 パンツは白のフェイクレザー、インナーは性質の異なる赤が縦に不規則に走るシャツ、アウターに黒のショートジャケット。その上に、不機嫌そうな男の顔。その更に上、黒く短い、触ると肌に刺さりそうな髪が、額の中央に幾房だけのこしてきっちり左右に分けられていて、全体に致命的な野暮ったさを漂わせている。
「……その髪、もうちょっと何とかなんねえ?」
 その顔と渡した服を着るだけは着ている体とを数回見比べて、二十代で活動休止して四十路を迎えて復活したロックバンドのような、物悲しい生活臭が感じられ続けることを確認してから一応聞いてみると、中里はひくりと頬を引きつらせた。
「具体的に言え」
「かっちり固めすぎだろ」、腰に両手を当てつつ、非難めかせて啓介は言った。「仕事でもないくせによ」
「固めねえと、ガキ臭くなるんだよ」
 更に不機嫌そうに眉をひそめた中里が、自分の頭を見ようとするように目を上にやりながら、額に垂れている毛筆のような髪を後ろへ送る。言われてみれば、前髪が少しあるかないかだけで、老け具合が変わっている。輪郭も眉も鼻もしっかりしているのだが、鋭いようで柔らかみがあるし、重力に従い太い眉の辺りまで前髪がかかってくると、骨っぽい険しさが薄れて、目がやや大きめで唇が厚めな童顔じみたところが、強く表れてくるのだろう。
「へえ」
 納得して呟けば、髪をいじるのをやめた中里が、何だ、と顔に不審を載せてくる。そのガキ臭さについて、類推はできるものの、実際が気になったので、啓介は中里の頭に両手を伸ばすと、その整えられている髪の毛を、思いきり掻き回した。
「わっ、このっ」
「動くなよ」
「てめ、高橋ッ」
 短く叫んだ中里が、勢い良く手を払い落としてくる。だがその時にはもう、中里の髪の毛は無残に乱れきっていた。それでも一応、何とか成功した無造作ヘア程度には見られる形になったのは、付着していた整髪料が新たな衝撃に柔軟に対応した結果だろう。見た目よりも軽い質の髪の毛は、長いところでは目にかかるほど長さがあるのだが、全体的に動きもあるから重くは見えず、若々しさが伝わってくる。
「なるほどねえ」
 手に移った整髪料を自分の髪で処理しながら、啓介は嘆息した。これは確かガキ臭い。だがその分、先ほどのような世帯染みた匂いも、感じられなくなってはいた。
「……納得したか」
 髪型が変わっても、中里は不機嫌そうな顔を変えもしない。その奥に見える試着室の鏡で髪の跳ね方をチェックしてから、ああ、と幾分の野暮ったさも変わらない顔に、目を戻す。
「けど、そっちの方が似合うぜ、その服には」
 こちらの言葉を受けて、中里は不機嫌そうな顔を、居心地悪そうにしかめた。そういう顔をしていても、その男は世代遅れではない、今時の、パンクかぶれの人間に見えた。峠でR32を振り回している男には見えにくいが、そもそもそれは、ここにこの男が入ってきた時からそうだった。あの癇に障る車のノイズを聞いて、ふと思い出した男が目の前に現れても、最後に会った時の感覚を、啓介は咄嗟に取り戻すことができなかった。雨に湿った体も、悔しさと怒りに歪んだ顔も、奥にお門違いの心配がくゆっていた目も、ひと月経ってもなお生々しく脳裏に焼き付いていたからこそ、平然と店の中に入り込んでいたこの男を、妙義ナイトキッズのGT−R乗り、中里毅として、正確に受け止められなかったのだ。
「もう、着替えるぜ」
 むず痒そうに肩をすくめた中里が、言うや否や試着室にUターンしようとする。
「おい、待て」
 反射的に声をかけ、思考を挟まずジャケットのポケットに入れていた携帯電話を手に持って、カメラを起動させていた。
「あ?」
「はいチーズ」
 そう言うと、人は止まってしまうものだ。斜めに振り向いた中里の、驚きと不審と油断の混じった顔を含めた、普段決してしないであろう服装の画像が、記録される。
「おい」
 その声と共に、伸ばされた中里の手に奪われる前に、携帯電話をジャケットのポケットにしまいながら、何か間抜けなツラだったな、と啓介は言った。「元からか」
「んだとコラ」
「まあでも、悪かねえよ」、素直な感想を続けて、思いつきを追加する。「これなら大塚さんも、気に入るかもな」
「あ?」、中里は伸ばした手を半端に上げたまま顎を引き、しかめ面で見上げてきた。「何で大塚さんだ」
「俺のスタイルだと服は一番格好良く見せられるけど、タッパ百八十超える野郎ってそんないねえだろ。お前くらいの方が、買う奴の参考にはなる」
 すらすらと、思いつきを計画的犯行のように言っている自分が不思議だった。だが、違和感もなかった。中里が、しかめ面のまま腕を組み、首を傾げる。
「……つまり、これを客の、参考にさせるってことか?」
「まあ大塚さん次第だけど、あの人の考えてることってよく分かんねえからな」、興味を持つか持たないのかすら、推測できなかった。「お前は分かるか?」
 中里の顔のしわは、彫刻刀で下手に削ったように、ますます深くなる。
「……分かんねえな」
「アーティストってのは、みんなあんなもんなのかね」
「俺に聞くな。大して素性も知らねえんだ」
 中里は、眉の付近に掘っていたしわを消し、お手上げというようにため息を吐いた。自分の方が中里よりも、大塚については知っているのかもしれない。高校の時からの付き合いだ。当時の仲間の知り合いで、暇なら店番しててくれ、と頼まれた。素性を聞いたこともある。だが、そういう大塚がどういう人間かはいまだによく分からないのに、目の前の、田舎道では悪目立ちしそうな格好を嫌々している、ロックを装っても野暮ったさの抜けない男について、そこまでの不可解さは覚えない。
 改めて、中里を見る。大人しめのパンクファッション、ウニのように爆発しつつもモップのように収束している頭、多少迫力はあってもガキ臭い顔。峠でR32を振り回している男には見えにくい。だが、この男が妙義山で、自己流のドライビングから抜け出そうと足掻いている姿や、ナイトキッズのメンバーと妙な距離感で接している姿が、想像できないわけではない。いや、それはもう、鮮やかに想像できるのだ。
 やっぱりこいつは、ナイトキッズの中里だ。思った途端、気分が不思議とすうっとして、啓介は笑っていた。
「人の顔見て、何笑ってんだ」
 再びしわの刻まれた中里の顔が、余計な笑いを誘ってくる。
「減るもんじゃねえだろ、お前の顔なんて」
「減るんだよ、クソガキめ」
「えっらそうに」
 笑ったまま言ってやると、中里はむっとしたように舌打ちしたが、不意に険を薄めた顔で、悪かったな、偉くて、と泥臭く笑った。何がだ、鼻で笑うように返しながら啓介は、あの人戻って来なかったらどうするかな、と考えた。
(終)


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