彼によろしく



 時々こう思う。例えば狭苦しいベッドに横になりながら、規則的に動く黒い頭を見ている時。俺の人生にこいつは必要か。そう思ってすぐ、こう思う。バカらしい。
「アニキが」
 出した声は妙に大きく通り、座っている中里が「あ?」と不機嫌そうなツラを剥き出しで振り向いてくる。失礼な奴だ。
「お前によろしくってよ」
 言って啓介は仰向けになった。マットレスの質の低さが背中に伝わる感触で分かる。安っぽいベッド、安っぽい天井。高い車に釣り合わない部屋にある枕もまた、安っぽい代物だ。
「よろしくって、何が」
「『俺が世話になってるから』」
 別に何をしてもらったこともないのだが――まあ一度個人的なことで加勢されたことはあるが、あれは一人でも十分凌げた場面だった――兄の指示通りにそう言うと、ふん、と中里が鼻で笑う。
「弟と違って、デキたアニキだよな」
 どう聞いても、今のはイヤミだ。むっとしてから啓介は思う。ガキくせえ。確かに兄は自分と違ってデキている。それを比較されるのが鬱陶しくて苛立たしくて腹立たしい時期もあったが、今では素直にいてくれてありがたいと思える存在だ。立派だ何だと比べられてもへえその通りでございやす、というようなものだ。
「まあ、俺のアニキは世界一だからな」
 鼻で笑い返して啓介は言った。中里は舌打ちを返してきた。失礼な奴だが、どうせ負け犬の舌打ちだ。兄に免じて許してやろう。
 部屋は元通りになる。本のページをめくる音と、ペンの走る音と、家主の独り言が聞こえる、安っぽい部屋。中里は何かの資格を取るための勉強中らしい。詳しいことを覚えていないのは、大して説明されてもいないからだが、そこに興味を持てないからでもある。独り言の中身もよく分からない。別の言語を聞いているようだ。聞いているわけではないのだが、耳に届くから仕方がない。
 枕が変わると寝られないほど神経質ではない。だが枕の変化が分かるほどには神経質だ。だから何も気にせず眠れるということは滅多にない。今も意味の分からない中里の独り言は神経に引っかかる。絶対こいつ職務質問されてるよな、一回は、と思う。それでもいつの間にか、意識は途絶える。そう分かっているから啓介はこう思う。
 よろしくどうぞ。
(終)


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