同じ位置
高橋啓介は、天才だ。
いや、これではどうもしっくりとこない。言い直そう。
高橋啓介には、才能がある。
そう、これだ。
高橋啓介には、才能がある。
才能がある人間を世は天才と言うのかもしれないが、俺としてはアレのアニキやハチロクの藤原のようなバケモノじみた奴らこそが天才と呼ばるべきであると思えてならないし、そして高橋啓介にはそういった意味での人外的要素はあまりないように思えるのだ。つまりは――走りにおいての。
「海行くぞ」
は? 俺はドアを開けた態勢で二秒ほど固まった。だが目の前にそびえる薄いくせに幅広くて背の高い物体の間を通って吹き込んでくる風にすぐに身を震わされて、とりあえず頬と鼻を赤くして息を白くしているダウンジャケットのトウトツな男を部屋に引っ張り込み、さっさとドアを閉める。
「お前、今何月だと思ってんだ」
「十一月」
「それで海かよ」
「誰もいねえし、寒い中でな、砂浜でよ、たき火すんだよ。いいもんだぜ。酒飲みながら月見だよ」
言われて想像するとなかなか良さそうなものだった。黒い冬の海とたき火と月とFDと高橋啓介。絵になる取り合わせだ。だがそこに自分が入り込む気にはならなかった。
「行くなら一人で行け、俺は海は夏しか行かねえって決めてんだ」
「女にフラれて冬の海で泣いた思い出でもあるのかよ」
「お前、たまに変な方向に頭の回転良くなるな」
「お前、すっげえ分かりやすい人生送ってんのな」
「ちげえよ、んなことあるか。寒い時に海なんざ行く気がしねえっつってんだ。行くなら山だろ。何で海だ」
電気ストーブの前に陣取った高橋に入れたお茶を差し出すと大人しく両手で受け取った。そしてちらりと上目をよこしてきた。男のクセにでかくて澄んでる目だ。俺はこの目に長時間さらされてるとイライラしちまうんだが、今回はすぐに解放された。
「何かあったら、やっぱ海じゃねえか」
「山だろ」
「気分的にだよ」
「何かあったのか」
「家飛び出してきちまってな」
「なら山だろ」
「アニキに文句言いまくっちまった」
前までなら――それがいつまでだったのかは覚えてないが――こういう時にいつまでも口をつぐんでいたもんだが、今ではこいつも簡単に白状するようになった。無駄な抵抗、という言葉の意味を学習したのかもしれない。
「そうか。そりゃあ、海だな」
「だろ。山行ったってな、アニキだぜ。頭出てくるっつーの。俺の人生アニキばっかなんだ」
そうだろうな。納得できる。こいつの話にもよくアニキが登場する。ある時はその人生との比較、ある時はその人生の賛美、ある時はその人生の非難。どういう方向からにせよ、こいつはそれから離れられない。兄弟でそれほど深いものがあるなんて俺はこいつらを見るまで想像もできなかったものだ。俺にも兄弟はいるが帰省した時に会うくらいのつながりしかない。守る責任はあるとは考えたが、期待に応えなければと気張ったこともなければそう考えたこともなかった。
「しかし、文句ならいつでも言ってんじゃねえか」
「そこまで俺はクレーマーじゃねえよ。文句っつーか、アニキもアニキで何か色々言ってきたし、何だろうな。ケンカってほどでもねえんだけど。こういうのあったのは数えてみたけど、えーとそう、半年ぶりだ。前は俺がアニキの食べようとしてたプリン食ったのが引き金だった」
お茶をすすりながら高橋は語る。顔に血の気が戻っている。口調も柔らかだ。海には行かずとも済みそうだった。だがこいつが本当に行きたいのならば俺は行ってもいいのだ。そうしたいとは思えるのだ。俺も座って茶をすする。和む一時だ。
「プリンでケンカってのも、またお前ららしいような、そうじゃねえような」
「ケンカじゃねえって、俺が一方的に、じゃねえけど、ああもうとにかくケンカじゃねえんだけど、っつーかアニキもそれは俺に知られたくなかったみてえだったな、プリン。でも何だ、日頃からの色々あるじゃねえか、ムカつくこととかうぜえって思うこととか? そういうのがそれで一気に出た、みたいな。きっかけだけだよただの。プリンだぜ。それで本気で怒るなんて、でもあれわざわざ取り寄せたっつってたからな。まああんま覚えてねえよ。昔ならショックだったけどな、アニキにガーッと怒られるなんて」
「優しいアニキなんだろ」
「優しいけど、こええよ。何考えてっかいまだに分かんねえし」
「今日もプリン食って怒り買ったってわけじゃねえんだろ」
「まあな」
空になった湯飲みをずいっと差し出してくる。もう一杯。俺は立ち上がる。昔ならこいつはお茶も飲もうとはしなかった。これも抵抗の諦めも妥協なんだろうか? やかんを取りながら考える。それとも妥協するまで進歩したということか。丸くなった。だがプロのレーサーになろうとしている奴がそれでいいのだろうか。勝負事において大人になることが必ずしも良い結果を生むわけではない。俺はこいつに好影響を与えてるのか? 疑問は多い。うまくやっているとは思うがこのスタンスでいいのかはまだ決められていない。決めるべきことが多すぎるのだ。
「アニキももう医者だしな。猶予期間っつーの? 終わりだろ。色々やってきたけどよ、車とも趣味のオツキアイになっちまうんだよな。でも俺はいくとこまでいこうとしてるわけだし、何かまあ、あるんじゃねえの」
入れたお茶を熱そうに受け取った高橋が、苦笑いのような自嘲のようなものを浮かべながら言う。心臓を突き破られるような衝撃がくる顔だ。起伏の激しい感情の緩衝地帯。華やぎと哀切が殺し合う場所。ああ、こいつはそういった意味では天才なのかもしれない。床に座って目の前にすると思う。そうとは自分では知らず、意図せず、他人を魅了する空気を作り出してしまうのだ。
「他人事みてえに言うんだな」
「他人じゃねえからな。何かそう言わねえと言えねえっていうか、やっとこんな風に言えるようになったっつーかよ。だって俺アニキのこと分かろうともしてなかったし」
「お前にとっちゃアニキはアニキだろ?」
「そうなんだよ。そこをどこまで越えてくかなんだ。アニキをアニキとしちまってていいのか、何か一人の人間みたいな感じにしちまった方がアニキが楽なのか、って、その辺もう俺が自分がどうだとかねえんだよな。不思議だぜ、自分がこんな面倒くせえこと考えるなんて」
「昔が考えなさすぎたんじゃねえのか」
「成長した? 嫌だなそういうのは。何か変な方向にいっちまってる気がする」
「でもお前らが兄弟だってのが分かりやすくなってきてるぜ」
「好きに言いやがるな。っつっても俺も中二くれえまで絶対俺は貰われッ子だって考えてたが」
「お前の環境なら俺でも考える」
「ガキん時ジッサイ言われたんだよ母ちゃんに、イタズラとかまあヤンチャやったらよ、『お前は橋の下から拾ってきた子なんだからね』だか何だかって。ずーっと信じててな。それ言ったら親父も母ちゃんも、アニキまで笑いやがって。まだ俺は恨んでんだからな」
語る語る。言葉は滑らかで声は落ち着いている。顔は緩んでいる。こいつのこんな顔を見ることがあるとは何年か前までは夢にも思わなかった。そもそもこいつにこんな顔があるとも思ってもいなかった。元々俺にしてみればこいつも人外的存在だったのだ。机に乗せた腕に頬を乗せ白目の艶やかな目を彼方に向け物思いに沈み始めたこいつでさえも、元々は。
「何かな」
「どうした」
「全部、言えなくなってきちまった」
「あ?」
「一応言い合ってはきたんだ。走りのアドバイスとかしてくれんのはいいんだけどそれがしつけえから、イライラしてんじゃねえとか言ったらイライラしてないとか、まあそんな感じでな。でも思ってたこと全部は言えなかった。昔だったらマジで言えてたんだよ。アニキは俺がうらやましいんだろとかな。でもそこまで言えねえんだよな。言おうとしても言えねえんだ。言いたいのに。いや言いたくないのかもしれねえ。だからスッキリしない」
溜め息を出した。悩みは深いんだろう。多分こいつもアニキも分かっている。こいつらの前にある壁は乗り越えられるもんじゃないし、こいつらの間にある壁も乗り越えられるもんじゃない。その壁があるからこそこいつらは兄弟として今までやってこれたに違いないのだ。愛情や嫉妬や憎しみや怒りや、それを認めて消化して、だが抹殺することなくやってこれたのだ。人間であることを放棄せずに生きるには持ち続けるしかない感情に、問題に、そして今やっとこいつは直面した。だが遅くはないだろう。なぜならこいつはもう分かってしまっている。
「俺は何も変わってねえはずなんだけどな。アニキも何も変わってねえはずだ。なのに何で色々変わっちまうんだろ」
「お前もお前のアニキも変わってるから、色々変わってんだろ」
「言われたって現実感わかねえよ。俺はずっと俺で、アニキもずっとアニキなんだから」
「ならそういうことでいいんじゃねえのか。深く考えたって仕方ねえよ。そのまんまいくしかない」
高橋は腕に顔を埋めた。ここでその頭を撫でるべきか俺は悩んだ。机越しには腕を伸ばしても厳しいところだからまず移動しなきゃならないが、それも時間が経つと格好がつかない。だがやりたい。だがやりたくない。難しい。とりあえず後で考えよう。
「海、行くか」
「いい」
「行ってもいいんだぜ」
「行く気ねえよ」
俺は山の人間だ、と続けた。山の人間。その言い草がなぜか気に食わなかった。海をバカにしているように感じられたからか、それを逃げ場にしているように感じられたからか、自分が置き去りにされたように感じられたからか、とにかく気に食わなかった。俺は立ち上がって車の鍵を取って、ぐずぐずしているトリ頭の腕を引っ張り上げた。高橋の目はしっかりとしたものだった。
「行くぞ」
「行かねえよ」
「男が一度言ったことを覆すな」
「お前、冬に海は行く気しねえっつってたじゃねえか」
「それはそうだが、お前が行かねえっつーと行かなきゃならねえ気がしてきた」
「分かんねえよ」
そう言いながらも高橋は立ち上がって、率先して歩き出した。俺は続きかけて慌てて上着を取った。電気を消して外に出てドアに鍵をかける。空気は冷たく体に喉に染み込んだ。寒い。高橋は整然と停めてあるFDの前にいた。
「おい、お前ので行くんじゃねえぞ」
「分かってんよ。俺だって今こいつをこれ以上俺のことに巻き込んでやりたかねえ」
口調にも言葉にも愛情が感じられた。車が好きな奴は山ほどいるが車に自分を投影するだけじゃなく、車を一つの存在として気遣える奴はその中の一握りだ。俺は高橋の後ろまで歩いた。そして靴一つ分上にあるその頭に何も言わず手を乗せた。背の差が格好悪いのを気にしている場面でもない。しばらくそうしていると高橋が鼻をすすり、俺の手から頭を抜けさせ俯いたまま歩き出した。
「さみィっての」
「そうだな」
「こんな時に海かよ」
「こんな時に海だ」
「シャレてんな、俺ら」
「今時はそれがシャレてんのか。変なもんだな」
「それはツッコむべきか中里」
「あ?」
「いや。運転させろよ、お前のR」
「断る」
「いいじゃねえか。減るもんでもないし」
「お前、四駆は嫌いだろ」
「そういうんでもねえけどよ。アテーサ切れよ、ドリフト決めてやるから」
「それなら俺がやってやる。これでやったことはねえが」
「俺はまだお前に殺されたくはねえな」
「俺だってまだお前に殺されたくねえよ」
「いつならいいんだ」
「死んでも嫌だ」
「俺もだ」
車に乗り込み体を固定し活動させる。そして改めて考える。
「海だろ?」
「海だな」
「どう行くかな。っつーかどこ行くよ。考えてなかった」
「無計画でいいんじゃねえの。適当に走ろうぜ、そしたらそのうちどっかには着くだろ。開いてる海岸あんのかは知らねえけど。まあ夜明けが見れりゃ最高だし」
「時間が勿体ねえ。ガス代も」
「細けえことを気にすんなよ」
「お前は気にしなさすぎじゃねえか」
「いいんだよ。お前に殺されるならホンモウだ」
「ああ?」
「アテーサ切ってドリフト決めて、そのままクラッシュ」
「そんなことすんなら最初からFRの方買ってるよ」
「それ答えになってんのか」
「なってるだろ。いやお前の方がなってねえだろ」
何はともあれ俺はこいつを俺のことに巻き込み出した。どうせ一生の付き合いだ。多少の勝手は許してもらおう。大丈夫、横のトリ頭にドリフトを決めさせなんかはしねえ。
「何か今お前、変なこと考えてねえ?」
「変なことは考えてねえ」
「何だそりゃ」
「普通のことだけだ」
「お前の普通が俺の普通ってこともあんまなかったような気ィすっけど」
「俺の普通は俺の普通だからいいんだよ」
高橋が黙る。どこへ行こうか? 海、海、海。行くとは行ったものの本当に行きたいわけでもないのだ。あまり良い考えが出てこない。とにかく普段行かない道を走ろう。そうすれば気分も変わる。無計画もたまにはいいかもしれない。ああ、こういう考えも、昔はなかった。俺も変わっているのか。進歩か妥協か。こいつについていけてるんだろうか。こいつが俺についてきているのか。考えがまとまらないまま車を扱う。それでも不満も漏らさず動いてくれる。時間が経つことも感じられない。ごく自然だ。何もかもはこんなもんなのかもしれない。このくらいでいいんだろう。こうしていられれば、これでいいのだ。
「でも俺、ジツの話な、親父にも母ちゃんにも文句言ったことねえんだぜ」
「不良やってたんじゃねえのか」
「無言の抵抗ってヤツだよ。口きかねえし話も聞かない。全部アニキにぶつけてた」
「そりゃ手間のかかる弟だったろうな」
「そのツケ、回ってきてんだろうな」
「返してけよ。人生は長い」
「走ってクラッシュしちまうかもしんねえだろ。誰だってそうなったら死んじまう」
「そうならないようにしろよ。お前には才能がある」
「へえ」
「何だ」
「中里がそういう風に俺のこと褒めんのって初めてじゃねえか」
「いつも褒めてんじゃねえか」
「いつも卑屈にだろ、言った後に『俺なんか』って続きそうな感じの」
「勝手にそんなこと感じんなよ」
「慰めはやめてくれよ。腹立ってくる、自分に」
「そんなんじゃねえよ」
「そうかな」
「そうだ」
「お前は、天才だよ」
(終)
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