毒と毒
残業終えて家に帰って着替えたらそのまま寝ちまって、起きた時にはもう次の日になっていた。慌てて車に乗って峠に来たはいいものの、いつも朝までグダグダやってるヤツらの車は一台もなかった。
代わりになぜか、特撮戦隊よろしくのマッ黄色のFD(レッドサンズのステッカー付)があって、俺はかなり驚いた。変な声を出しちまうくらいに驚いた。走り屋たるもの一つの峠にこだわらず様々な山を開拓しスキルアップと新たな交流を図って当然だし、だからこのFDが妙義に現れようがどこに現れようがおかしなことじゃないが、ただそのFDに、そのボンネットに腰を落として余裕シャクシャクで煙草を咥えている白いパーカーを着たそいつ、高橋啓介に、ここ我が山妙義山で徹底的に負かされている俺としては、そいつがホームでのバトルを控えた時期に、他の峠で油を売るほど緩いヤツだとは思えなかった(思いたくなかった)。だからとんでもなく驚いたのだ。何でこいつがここにいるんだと。
「何やってんだ、高橋啓介」
とりあえず何かあったらいけないので遠くに32を停めて(車に被害が及ぶことがいけない)、歩いて近づいてって邪険にそう尋ねてみると、高橋は煙草を口に挟んだまま、何で誰もいねえんだよ、と不満げに言ってきた。聞かれたところで、今来た俺が知るわけないだろう。だから俺はそのまま言った。
「今来た俺が知るわけねえだろ」
「まだ午前二時じゃねえか、こっちじゃ朝日が出るまで走ってるヤツが絶対四人はいるんだよ。クソ、根性足りねえなここのヤツらは」
高橋は腹立たしそうに舌打ちして、吸っているように見えなかった煙草を地面に捨てて、ボンネットから腰をおろしざまそれをスニーカーの先ですり潰した。
「根性でガソリン代にパーツ代に睡眠時間が補えんなら、そりゃ誰だって走るだろうがな」
実のところ根性でそれを補っている頭のネジが五本くらい外れてるヤツもここにはいるが(俺も人のことは言えた義理でもないが)、今日は都合良く来ていないので、俺は皮肉たっぷりに言ってやった。すると高橋は、意外にもごく普通の顔で俺を見てきた。
「そういやお前、負けたんだってな」
俺の言葉なんぞ聞いていなかったと言わんばかりの普通の顔で普通に聞かれて、俺は質問の不躾さにも怒る隙を見つけられず、仕方なく普通に返した。
「ああ」
「車、イカれたんじゃねえの」
「思ったよりも軽くてな。もう問題はねえ。それがどうした」
「どうもしねえよ、どうかすんのか」
「知るかよ、お前が聞いてきたんだろ」
「俺か? そうか、俺だって別にどうもしねえよ、お前が負けようが勝とうが……」と、苦虫を噛み潰したようになった高橋は、途端にだが、不快度が半分に減少したような顔を俺に向けてきた。
「そういや、そいつと今度俺バトルするんだよ」
そんなことを、こいつに負けた挙句にあのランエボ野郎にまで負けた俺が、知らないとでも思ってやがるのだろうか、こいつは(うちのチームのメンバーは、特にそういった情報を阻む気遣いが不得意な奴が多いのだ)。俺はむっとして、そりゃ聞いてるぜ、と喧嘩腰に言っていた。
「お前らの話が俺に流れてこないわけがねえだろうが。それがどうしたってんだ」
「どうもしねえよ。いちいちどうしたどうした聞くなよ、ただの世間話じゃねえか」
鬱陶しそうに言われると、益々むっとしてしまった。
「何で、俺がお前と世間話をしなけりゃなんねえんだ」
「お前が話かけてきたんだろ」
「俺はただ、お前が何でここにいるのか聞こうとしただけだ」
「そんなの俺の勝手じゃねえか」
「あいつらとバトルするんだろ。だったら地元で走ってるべきだろうが」
「何か今日テンションあがんねえんだよ、だからここ来てお前んとこのヤツらの顔見りゃやる気出るかと思った、んだけど、よ」
高橋は俯いた。けど、の先は簡単に分かった。
「……誰もいなかった、と」
高橋は黙って俯いたままだった。何となく、放っておけないオーラが漂っていた。正直なところ俺は、こいつに負けた上、テクニックの差だと一刀両断されてからまだ完全に自信を取り戻せられていないので(情けない話だチクショウ)、できれば顔を合わせたくはなかったのだが、男たるもの逃げ回ってどうするのか。どうせこのままこいつを放っておいても、居心地が悪くなる一方でもある。俺はこいつが飽きるまで相対することにして、とりあえずは話を振った。
「何で、うちの奴らの顔でお前のテンションの上下が決まるんだ」
ちょっと泣きそうにでもなってんじゃねえかと思ったが、上げられた高橋の顔は先ほどと同じく半分くらいの不快さを持ったままで、俺は少し騙されたような気になって、高橋の発言に瞬時についていけなかった。
「お前ら、俺を恨んでんだろ」
「……あ?」
「俺がお前にガッチリ勝ったからってよ、ここで。だからそういうお前のとこのヤツらの、何つーか、かかってくるわけでもねえのに一丁前に調子乗ってる顔見ると、考えてるだけじゃ俺には絶対敵わねえってようなことを、教えてやりたくなるんだよ。だから」
うちのメンバーを分かったような口をこいつが叩いているということが、段々分かってくるとともにどうしようもなく頭にきて、
「バカにすんじゃねえよ」
と、俺は怒鳴っていた。
「うちの奴らはお前がここで俺に勝ったからってお前を恨むほど、世間知らずじゃねえ」
「俺はな中里、そういう目ェ食らうのは慣れてんだよ、分かるんだ。お前は身内だから分かんねえだけだろ」
「身内だから分かるんだよ。あいつらは、お前がモテまくってる上に金持ちだからヒガむことはあっても、バトルの勝ち負けで恨むことはないぜ」
そう言い切った俺が、ふと気付いて高橋を見ると、高橋も『それ』に気付いたらしく、俺を見てきた。二人して、少しの間見合い、やがて高橋が失望したように、低い声でぼそっと言った。
「……ヒガみかよ」
多分おそらくかなりの確率でそうだとは思うが、あいつらの名誉を考えると同意はできなかった。だが言ってしまったことを取り返しもできない。俺は一つ咳払いをして、とにかく、と話をすり替えるべく高橋を睨んだ。
「お前らに群馬全体の走り屋の名誉がかかってるんだぜ、高橋啓介。こんなところで無駄な時間使ってねえで、さっさと地元に戻れ」
自虐的な言い方が混じってしまうのは、どうしようもなかった。俺はこいつに、負けている。それが俺とこいつの間にある、唯一の事実だ。それを忘れることも、置いておくこともできるわけがない。今でさえ、まだあの古傷がうずいてうずいてたまらないのだ。
高橋はまた俯いた。しばらくそのままだった。俺がこれ以上関わったって、こいつのためになりそうなことは一つもなさそうだった。こいつに必要なのは、こいつを良く知る仲間たちとの交流だろう。こいつを良く知らない俺でもそれくらいは何となく分かる。だから別に俺がここに留まっている必要もないんだが、やはりこいつをこのまま放っておくのも居心地は悪かった。しかし積極的に話しかけるというのも癪に障る。ただでさえブランク作っちまってんだし時間も勿体ねえし、こいつと長々と一緒にはいたくもねえしで走りに行きたい、でも抜け出すにもためらわれる、という風に俺が逡巡していると、突然高橋が、何かを思い立ったようにすっと顔を上げてきて、堂々と俺を見下ろした。俺は気圧された。すねる子供のような幼稚さが鼻についたさっきまでとは違い、大人びた風格があった。だが、見下ろされただけで(この身長差は走りに関係なく腹立たしい)下がってはならないので、俺は高橋を睨み上げ、何だ、と先に問うた。
「中里」
「だから何だ」
「やらせろよ」
「勝手にやれよ、ここは俺の私有地じゃねえんだから、走りたきゃ走れ。お前の邪魔なんてしねえよ。走り屋が走り屋の邪魔するなんざ、走り屋の風上にも置けねえ」
「そうじゃねえよ、お前をやらせろっつってんだぜ」
「何だ、高橋啓介、お前が俺の32に乗りてえってか。奇特だな、誉めてやる。乗せねえけど」
「根性要らずの車に俺が乗るわけねえだろ、お前のケツを貸せってことだよ」
俺はその言葉の意味を理解するまで結構な時間を費やし、理解できた時点で、その真意をくみ取ることは諦めた。いくら時間をかけても無理だという予感があった。ただでさえ、その直接的な高橋のお願い(なのか?)、ケツを貸すということが何を示すのか考えている間、まったく冗談の色を見せてくれない目で高橋にじっと睨まれていて具合が悪く、それ以上の時間をその視線に晒されて過ごすなどはもう御免だった。しかし、本気だろうか。こいつは俺にやらせろと言っていて、その上で俺がこいつに尻を貸すということは、つまりそういうことに他ならないが、いや本気なわけがねえだろ、いくら何でも。でも高橋は真面目な面持ちだ。何か頭が痛くなってくる。俺はこの話の流れが分からず、かといって分かりたくもなかったのだが、分からないと先に進めそうもなかったので、当たり障りのないことから尋ねることにした。
「それは……何だよ」
「ここまで言っても分かんねえのか、お前は」
「いや……ドッキリか?」
「お前相手にドッキリしかけてどうすんだ」
「じゃあ何だ」
「だからやらせろっつってんだろ」
どう尋ねても、多分そこにたどり着くんだろう。何がこいつの頭をおかしくしているのかは分からないが、とにかく本気という面は譲れないわけだ。俺は呆れてしまった。
「おい高橋、仮にお前がマジだとしてもだな、そう言われてハイどうぞって俺がお前に……その、ケツ差し出すとでも思ってんのか」
「思うわけねえだろ、気持ち悪い」
高橋はその整った顔に十割の不快さを示すゆがみを作った。俺はますます呆れてしまった。
「気持ち悪いなら言うんじゃねえよ、俺だって気持ち悪いよ、何考えてんだお前」
「それはお前が言ったんだろうが、俺はそんなシチュエーションは望んでねえよ」
「じゃあどんな、シ、シチュエーションを望んでるっつーんだよ、俺相手に」
「シチュエーションなんざどうでもいい、お前は俺におとなしくやられりゃいいんだ」
「ワケが分かんねえぞ、おい、お前、何で俺なんだ、どうせお前募ればヨリドリミドリのくせしやがって……あ、お前まさか、そうじゃねえ俺へのあてつけか、この野郎」
「あてつけで男をやるとか言うと思うかお前」
「知るか、いい加減おかしなことを言うのはやめろ、しまいにゃぶん殴るぞクソガキが」
俺がこの状況の不条理さに対する怒りのあまり語気を荒げると、パーカーに両手を突っ込んで高橋は、堪えかねたように上唇をまくり、息で笑った。
「おい中里、お前は俺に負けてんだぜ。負けてるくせに何でそんな偉そうなんだ、自信過剰にもほどがある。大体お前俺より背ェ低いじゃねえか、そんなんで俺を殴れると思って――」
考えもせず、みぞおちに拳をそのまま入れようとしたが、ここで背丈の違いが響いて腹筋に当たっただけだった。まあしかしダメージはいくらかあったんだろう、高橋はうずくまった。俺はその高橋を見下ろしながら、思いつくままに言葉を発した。
「何だって、聞こえなかったな。俺を殴れると思って? 思ってるよバカ、お生憎様俺はバトルに負けたからって何でもかんでも卑屈んなるほど真面目でもねえんだ、そりゃお前は速い、俺より速い、それは俺だって認めてんだよ、だからお前が何か頼んできたら俺だって喜んで請け負うぜ、それだけの価値があるってなお前には、俺はそれを分かってる、でもだからってお前それでそんな頼みを諾々と呑むなんて、そうまでしてたまるかってんだ、そもそもがお前なら普通に女の子探しゃあお前普通にそういう、いやそれはそれで不健全とも言えるが男をやろうとするよかは健全とは言えるというか……」
俺がまくし立てても、高橋はうずくまったまま何の反応もしなかった。俺が黙っても何の反応もなかった。拳が当たった感触は硬かった。この程度でこいつがくたばるとも思えないのだが、俺は何となく不安になってきて、とりあえず、「おい」とだけ声をかけてみた。尻を地面につけいている高橋は、頭を両手で抱えて、大きくため息を吐いた。何だ、と俺はこわごわ聞いていた
「クソ、何だはこっちの方だ、マジで殴るヤツがあるかよ。何で俺がお前と喋くって、その上お前なんかに殴られなきゃいけねえんだ、何だよもう」
最初の威勢の良さとは打って変わって、聞き取れないようなか細い声で高橋は呟いた。その変わりようが不可解すぎて、俺はまたも呆れた。
「お前が勝手なこと言いやがるからだろうが、高橋、何だそのいかにも全部、俺のせいだって言い方は」
そう、突拍子もないことを言い出しやがったのはこいつでしかなくて、けれども本当に殴った点に関しては俺の方が悪いという自覚はあったから、俺は語尾を少し気弱にしていた。だがいつの間にか三角座りになっていた高橋は、それを気にする風もなく、
「散々だ、アニキはスドウとバトルするってんでピリピリして俺にまで気ィ回ってねえし、他のヤツらはうるせえしよ、俺がちょっと黙るだけで啓介さんどうしたんですか体悪いんですか調子悪いんですか大丈夫ですか、俺だって黙る時くらいあらァ、何で俺が黙るだけですぐ調子が悪いってことになるんだよ、俺だって黙りたい時はあるしボーッとしたい時はある。そういうことを分かってねえヤツばっかなんだよあそこは、いいんだけどそれでも、いいんだよそれでも。でもそればっかじゃ頭がおかしくなりそうだってんだチクショウ」
と、ブツブツブツブツ念仏みてえに呟きまくった。
何だこれは、と俺は思った。もしかして、愚痴か? 俺は愚痴られてるのか? だとしたら、何で俺がこいつに愚痴を吐かれなきゃいけねえんだ? こういう時は他人じゃなくて身内の出番じゃねえのか、アニキはどうしたアニキは。あ、ピリピリしてるのか。だから俺なのか。いや、何で俺だ? 何でこいつは俺にこんなことを話しやがる。俺も何でこんなことを黙って聞いている。こんなもん、放って走りに行きゃあいいんだ。ピリピリしてるっつったって、どうせアニキでも何でも救ってくれるだろう。俺が世話する必要はないはずだ。
でもコレをこのままほったらかしても何となく後味が悪くなりそうな気がして、俺は高橋の念仏がおさまったのを見計らってから、念のためもう一度聞いた。
「だから、何なんだ」
「やらせろ」
「いや分かんねえ、全然分かんねえぞ高橋啓介、何でそんなことになるってんだ」
小学生でももっと理論的な説明ができるだろう。俺がもう呆れきって首を振ると、高橋は三角座りを解きあぐらを組んで、両手を広げ、叫んできた。
「俺は今エッチがしてえんだよ。女の子が抱きてえの!」
「だったら女の子を抱きに行け、それで解決するじゃねえか」
「一発ヤってサヨウナラってのは、俺のポリシーに合わねえんだ」
「立派な主義だ、それは認める。でも、そこで何だって、俺に話を持ってくる」
「穴に変わりはねえじゃねえか」
疑問を挟む余地もないというような、これこそ自信過剰と言うべき高橋を見下ろしていると、俺ははらわたが煮えくり返っちまって、「だったら道具でも使えよ!」、と普段なら言いもしないことを叫んでいたが、「ムナシイじゃねえか!」、と高橋は叫び返してきた。
俺は立ったまま、高橋はあぐらをかいたまま、睨み合った。殺気に溢れていた。殺伐としていた。だが、どっか間抜けだった。論争のキモが普通ならそこまで熱入れるほどのことでもねえから、叫び合ってんのが滑稽だった。
そんな間抜けさを意識しつつ、さて、と俺は高橋から目を逸らさずに考えた。これは、どうするべきだろうか。愚痴を聞くだけ聞いてやっても、最後にはやっぱりやるかやらねえかってところにたどり着くに違いねえし、女の子を探してやっちまえっつったって、そういうのはどうしてもポリシーに合わないとか言い出すだろうし、それは立派だとも思うし理解もできるけど、そんなポリシーと引き換えに俺はやられたくもねえし(っつーかこいつ本当にできるのか?)、他の男にしろったって、ここから改めて動きそうもねえし、性欲なんて走って昇華しちまえっつったって(俺はいつもそうしてる)、テンションが上がらんだの何だの言いそうだし。
どうすりゃいいんだ、と途方にくれかけたその時俺は、ふと先人の偉大な言葉を閃いた。
すなわち、毒をもって毒を制す。
これだ。俺は飽きずに睨んできやがる高橋の前にかがみこんで、分かった、と頷いた。
「高橋啓介、話はいまだにさっぱり分からねえが、とにかく俺のケツは貸せねえ。が、手なら貸してやる」
「……何だそりゃ」
ちょっと意表を突かれた感じの高橋のジーンズに手をかける。抵抗してくれるかと思ったが、高橋はされるがままになっていた。
「おい、中里」
「何だ」
「お前は何をやろうとしてやがる」
そのジーンズのホックを外しファスナーを下ろし、右手をパンツの中に突っ込んだところで、ようやく高橋が聞いてきた。意外に反応が遅い、ような気がする。案外不意打ちには弱いのだろうか。不思議に思いながら俺は、左手を高橋の背に回して、後ろに下がっていきかける体をこっちに寄せ、今言ったじゃねえか、と右手を少し動かした。
「手なら貸す。一回抜いたらスッキリするだろ、そしたら赤城に帰れ」
「いやそれ分かんねえ、全然分かんねえぞオイ」
高橋が俺の顎に右手を、首に左手を当てて押して引き離そうとしてきた。息が詰まる。だが俺の手中には既にヤツのモノがあるわけで、思いっきり握ってやったら妙な声をあげて大人しくなった。俺はやはり不思議に思った。ちょっとこれは、反応が遅すぎやしねえだろうか。正直俺だって、気の知れた奴のならともかく(非常事態ということもある)、こんな奴のナニをしごきたくもねえから、過剰な抵抗を期待していた節があるにしても、普通に考えてもこれはあまりに遅い上に、手加減されているようだ。何だろう。
しかしまあ、ここまできちまったんだから腹を括るしかない。毒を食ったら皿まで食っちまえ、と先人も言っている。
俺は改めて、高橋の背に回していた左手でこいつの体を引き寄せた。右の肩口に、高橋の顔がつく。俺の顔の横には高橋の耳がある。綺麗な耳だった。高橋の手は俺の顎と首から離れ、俺の背中に落ち着いていた。俺たちが座り込んで向かい合って抱き合っているという状態は何だかおかしかったが、そもそも俺がこいつのアレをしごいている時点でおかしすぎるわけで、黙っていると気までおかしくなりそうだったから、俺は手と同じく、適当に口を動かした。
「さっきからお前、高橋、やらせろやらせろっつってるけどな俺に、お前だけが優位に立ってると思うんじゃねえぞ。俺だって逆にお前をやろうと思えばできないわけじゃねえ、なめるんじゃねえぞこの俺を、俺にだってそのくらいの力はあるんだよ。けどやる気がねえからやらねえってだけで、いややる気になんてならねえけどどうやったって、けどな、お前、自分だけが手札持ってるって勘違いはやめとけって、そういうことだよ。どうせお前だってできねえくせに、できねえだろ、俺相手に勃たねえだろうがよ、チクショウ、分かったか、分かったんならハイとか何とか言いやがれ」
黙ってやっていると音とか感触とかを意識しちまうから、どうしても何か言わずにはいられなかった。そんなわけで、考えずに言葉を出しているから、高橋がどういう風に受け取っているかは、全然分からない。でもどう誤解されようが、この右手に広がるぬめりを実感するよりはマシだと思えた。何なんだよ、俺こいつと同じ状況になっても勃たねえぞ多分、この反応の良さはひでえだろ。どれだけ溜まってたんだよこいつは。
「おい、この、バカ里、誰か来たらどうすんだバカ」
不意に高橋は、俺の肩から顔を背け、荒い息の中そう言った。
「俺は、中里だ」
「んなのどうでもいいだろ、離せ、触るなって」
「すぐに終わらせりゃ済むことだ、誰か来たら来たでそりゃあ仕方ねえ、来ないことを祈っとけ」
そうは言っても、誰かが来たら仕方がないじゃ済まされねえだろう。コトの片付けに頭が一杯で周りを忘れていた。頼むから誰も来るな、俺は必死に祈った。これじゃ俺がこいつを襲ってるって取られかねねえ。高橋啓介に手を出そうとしたなんて思われたら、ギャラリーの女の子から今以上に敵視されるに違いない。ただでさえ俺はモテないのに(ここの最速はまだ俺だというのに、男にしか騒がれないのはチームカラーの問題なのだろうか)、そんなことになったら一巻の終わりだ。困る。
「チクショウ、お前、やっぱそうだったのか」
俺が峠生活においての極めて重大な位置を占める問題について危機を感じていると、何か泣き出しそうな声で、高橋が言ってきた。やっぱ?
「何が、そうだよ」
「ホモ、だった、のかよ」
思わず硬くなっているそれを握りつぶしかけて、俺は何とか耐えた。なるほど、分かったぞ。この妙な大人しさ、無抵抗さの理由が。つまり、よりにもよってこいつはこの俺が、モノホンだと思って怯えていたということだ。何てこった! え、いつからだ。いやいやそうじゃねえ、この野郎め、人の嗜好を勝手に決めやがって。怒鳴りたくなりながらも、俺は何とか静かに言った。
「……んなわけねえだろコノヤロ、お前、人を何だと思ってやがる。ふざけるな」
「フジワラ、の」
「フジワラ、ああ藤原、ハチロクか?」
「こと言ってる時の顔が、なんか、すげえあれ気持ち悪かったからもしかしたらとは思って、うわそこは」
今度は十秒くらい握り潰してやろうかと思い続けて、何とか耐えるため代わりに焦らしてみたが(多分焦らせただろうと思う、同じ男だやり方に大差はない)、早く終わらせねえと俺の立場の方が危ういから、とっとと元に戻した。
「ありゃお前、藤原はすげえヤツだからだ、それだけだ、俺はお前と違って男をやりてえとも思わなけりゃ男にやられてえとも思わねえよバカ」
「俺だって思わね、うわバカヤメ、いや、あ、ちょっとマテマテマテマテそれはヤバイ」
「ヤバくてイイんださっさと終わらせてくれ、こんなことやりたかねえんだ俺は」
「じゃ、やるな、やるなやるなヤメロ、あ、でも今ヤメられても困る、いや困らねえ、いや困る、うお」
「けどお前、自分のケツの無事とをハカリにかけたら、どっちを取るかは分かりきったことだぜ。つまりアレだ、えー、毒をもって毒を制す。黙って流されてたまるかってんだ」
「んな、てめえ、バカじゃねえか」
「そりゃお前だろうよ、そしてえーと、旅は道連れ世は情け、じゃねえ、渡る世間に鬼はなし、でもねえ、えーと、あ、そうだ。毒を食らわば皿までだ。観念しろ」
「いやしたくねえよ、あ、ちょっと、マジで中里やべえタンマタンマ」
「タイムなしだ」
「いやそこを何と、か、あ、あ」
高橋の体が震えて、背中のシャツが強く握られて、手の中に熱い粘り気が当たった。終わった。ああ終わった、これで俺の人生もしばらく安泰だ。残りを搾り取ったところで背中から高橋の手が離れたので、俺も高橋の肌から手を離して、体を離した。ポケットティッシュを尻ポケットからこじり出して右手を拭く。ついでに残った紙を全部取り出してヤツのソレの上に放り投げた。高橋は恨みがましそうに俺を上目で睨んできた。鋭い顔を真っ赤にして、その力強い目は濡れていた。
こんな顔されちゃあ、そりゃ女も男もイチコロだろう。ハッキリ言って普通の女性よりも可愛げがあった。不覚だが俺ですらドキッとした。
しかし俺はこいつがとんでもねえブチ切れたバトルをすることを知ってるし、冗談抜きで相手を罵倒する時の人を殺しかねねえような冷徹さも知っている。こいつは猫の皮を被ってる狼だ。ヘタに近づけきゃ容赦なく噛み付かれて、肉をむしり取られて骨を砕かれかねない。俺はそれを知っているから、睨まれても悪いだとか可哀相だとかはなるべく思わないようにした。ただそれが成功したかは分からない。
高橋はクソ、とかチクショウ、とか何とか恨み言を呟きながらズボンを上げて立ち上がった。俺はこいつの嫌な体液で濡れたティッシュをその辺に捨てたかったが、ゴミは持ち帰るというのが山の鉄則だったので、渋々手に持ったまま立ち上がった。チャックを上げて服を軽く整えた高橋は、相変わらず赤い顔で目を潤ませて、何だかどっか恥ずかしそうに俺を見てきた。そう、こういうところでやっぱり可愛げがある。今までのことを水に流して抱き締めてやりたいような、可憐さとも言えるかもしれない。あの犯罪者顔の慎吾でもたまにこういう可憐さが感じられることがある。普段小憎たらしいヤツほどそれが出た時の衝撃といったらない。
まあしかしそう感じられるのも一瞬のことだから、実際水に流しもしねえし抱き締めたりなんざしないで、俺は高橋の視線を黙って受け止めた。
「お前、何考えてんだ」
高橋が神妙に言ってきた。それはこっちのセリフだと言いたいところだったが、言ったらまた話が面倒になりそうなんでやめた。
「スッキリしただろ。さっさと赤城に帰れ、高橋啓介。俺はお前のツラを、いつまでも見ていたい気持ちになんねえんだ、今は」
俺が顔をしかめながら本音を吐露すると、高橋は悲しそうに顔をゆがめた。そして、う、と呻くと、腹を押さえてうずくまった。
「……どうした」
「腹が」
腹? 殴ったせいか、まさかそんな強くはしてねえけど、と不安に思いつつ俺が横にかがみこむと、高橋は顔を上げて俺を見た。その目は強烈な光をはらんでいた。何か狙っていると気付いた時には時既に遅し、首に手を回されて、顔をひきつけられてキスをされていた。いきなり舌を入れられたもんで防御する間もなく、そのまま地面に押し倒された。形勢逆転というやつだ。俺はかなり驚いて、何も考えられず、されるがままになっちまったが、結局高橋は何もしなかった。いや、俺の口の中を色々と舐め回したり突っついたりと、散々なぶってムスコが元気になりそうなことをしてくれたわけだが、それ以外には何もしなかったということだ。
ようやく唇が離れて、高橋は俺の上に陣取ったまま肩で息をしていた。唇が赤くてらつている。色気はあったが、殺気もあった。
「俺だってやろうと思やァやれんだよ、中里、てめえこそナメんじゃねえ。分かったか」
まだ赤みの残っている顔には説得力がないが、据わった目には説得力がある。だがここまできて大人しく引き下がるほど、俺も諦めは良くない方だし、何より今までのことが積もり積もって、鬱憤が随分溜まっていた。だから唾を飲み込んで、気を取り直してから言ってやった。
「お前こそ、このくらいでいい気になるんじゃねえよ。こっから抜け出すくらい、俺にもワケはねえんだ」
「それなら今からマジでカマ掘ってやるか、知らねえぞケツ壊れても」
「お前がそうしやがったら、俺はどうやってもてめえの金玉二個とも潰すぜ」
想像したのか、高橋は微妙に痛そうな顔をすると、あっさり俺の上からどき、立ち上がった。俺も背中についた汚れを払ってから、立ち上がった。唾を吐いて目頭を親指でこすり、唇もこすった高橋は、歯がゆそうに舌打ちした。
「割に合わねえことはするな、ってアニキがいつも言うんだよ」
「そりゃ、もっともだ」
「割に合わねえ、マジで。何でこうなんだ」
「お前のせいだろ」
「お前のせいだよクソ、やっぱ来なけりゃ良かった。女の子にも手だけでされたことないのに」
「ウソつけ」
「ウソじゃねえよ、口ならあるけど」
ああ、途中で握りつぶしておくんだった、と俺は思っちまった。この野郎、不届き者にもほどがある。俺なんて口でしてもらったこともねえぞ。
そんな苦々しい思いで見ている俺も無視して、高橋は盛大にため息を吐き、
「もういい、こんなところに来た俺がバカだった。やっぱり地元が一番だ」
とトリ頭をガシガシ掻いて、俺に背を向けた。
「気付くのが遅すぎるぜ、お前」
何度も言ったじゃねえかとっと帰れって、という不満を込めながら俺が呟くと、一度背を向けた高橋だが、振り向いてきて、怒りの形相をもって俺を見据えてきやがった。
「おい中里、お前が次に俺の前に姿見せやがったら、タマ潰す暇与えねえうちに犯してやるからな。覚悟しとけ」
「期待しとくぜ」
俺は最後に勝利をおさめるべく、そう言って何とか笑みを浮かべた(かなり強張っていたが)。高橋もそれを受けて笑ったが、これまた殺気に満ちた笑みで、俺はかなり色んなことを後悔した。そして高橋はもう俺の顔を見ることなくFDに乗り込んで、これ見よがしにエンジンを吹かして山からおりていった。
俺はその場に残った独特のにおいを感じながら、もう一つ先人の偉大なる言葉を思い出していた。
すなわち、短気は損気。
しかしエンペラーのエボ4にあいつが快勝したところを聞くと、俺がやったことも間違いではなかったのかもしれないから、まあ良しとしよう。リベンジする時を考えると恐ろしくもなるが、何とかなるに違いない。ヤツのアニキが何も言ってこねえってことが、何もねえってことの何よりの証拠と言えるからだ。
その俺の推測が合っているか間違っているかは、先にならないと分からないが、先になったら分かるんだから、まあそれも良しとしておこう。
先人もこう言っている。後悔先に立たずと。
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