入手済み



 常の生活で過去を振り返ることのない高橋啓介にとって、消失していた記憶を反映する夢は呼吸を忘れてしまうほどの衝撃をもたらすものだった。自分が傷つけた者や自分が蔑ろにしたものが怨恨に満ちた二つの瞳を暗闇の中で光らせているのが見えるようで、心臓は苦しみ、手足はしびれた。そうして全身に染み出した焦燥感を紛らわせるために煙草を吸うと、その行為を覚えたきっかけである身が縮こまる感情が脈絡もなく心に浮かび、啓介は結局噛み跡のついたそれを汚れのこびりついた灰皿で潰した。投げ捨てられていた記憶の箱が夢に呼応するようにそのふたを開けたのだった。誰もかもを見下ろすような冷徹な顔をした兄、失望と諦念を潜めた形の良い微笑を崩さない母、人間の本質とやらについて充血した目でくどくどと語る父、そして箸の持ち方を覚えられずに出された食事に手をつけられない自分、四人が食卓にきちんとついて、それぞれ誰とも目を合わさずに独自に存在していることが現実とも想像ともつかぬ生々しさで目の裏を焼いた。ぞぞぞと鳥肌が立ち、啓介は自分の体を自分で抱えた。布団をかぶっていたのに、ジーンズで包まれた足もトレーナーでくるまれた体も温かみなどは持っていない。この家は何だ? 冷え切った両手を顔に当てて啓介は思った。この家族は何だ? 俺は今、どこにいる? クソッタレと大声で叫んで物の散乱している部屋を更に崩壊させたくなった。鼓膜を破るほどに音楽を鳴らしガラスをぶち破りたくなった。だが啓介は徐々にぬるくなっていく顔と手の湿り気を味わいながら、じっとしていた。自分が足蹴にしていった親切な子供たち、壊した家庭たち、奪った幸せたち、それらを自覚するのはほんの一瞬だ。この短い夜を越えれば自分が何もかもを忘れられる(忘れてしまう)ことを、ここまできてようやく知った。単純な仕組み、単純な精神、単純な後悔。だが、忘れていいのか、と問いかける声がある。なかったことにしていいのか、と確認する声がある。そして、いいんだよ、と啓介は答える。今はいいんだ。明日また取り戻せる。取り戻せるものを俺はもう持っている。突然平衡感覚が失われてしまうような、予測のできない恐怖に満ちたこの豪壮な家にはない、確実な不安定さのある存在を、既に手に入れてしまっている。太陽のように暖かでぬるま湯のように冷たいあのものを。だから啓介は跳ね上げた布団をかぶり直して弾力のあるベッドに再び埋もれる。今はいいんだと念じながら、襲いくる幻の復讐者を殺しながら。



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