補習
外は暗さを保ったままだ。電気の点いている一つの教室に、中里は入る。一番前の席に、一人だけ机に突っ伏している。立った金髪と薄緑の作業着。持っている紙でその頭を叩くと、いて、とうめき、恨めしげに見上げてきた。
「ほら、寝てんじゃねえよ高橋、始めるぞ」
「あークソ、いい夢見てたのに、邪魔しやがって」
「夢の続きが見たけりゃさっさと終わらせろ。採点終わったら後は好きにしていい」
「帰っていいのか」
「いや、最後までいてもらう。補習だからな」
げえ、と高橋は心底嫌そうに、つくりの綺麗な顔をしかめた。精緻な容貌と高い背丈、明るさと素直さ、活発さと意外な利発さで、この青年は生徒間で人気が高い。ただ、成績も出席状況も壊滅的で、学期末の判定で体育以外のすべてにおいて補習が課される生徒であるため、教師の中での評価は二分される。不真面目な奴と、不真面目だが根は良い奴、ということだ。副担任である中里としては、直接話す機会もなくはないので、根は良い、という部分は理解ができた。
「難しいの出してくんじゃねえだろうな、中里」
「計算をするだけだ。解法さえ分かってれば、中学生でもできる」
前の席に座って挑発的に言ってやると、シャープペンシルを握るように持った高橋は、バカにすんじゃねえっての、とプリントに向かった。二十分はかかると思われたが、十分で終えた。中里は採点し、一つも間違いがないことに驚いた。
「高橋、お前できるじゃねえか」
「中学生でもできんだろ」
「テストじゃ散々だっただろ」
「あの時三日徹夜してたから、最初っから寝ちまったし」
何でもないように言われては、ため息を吐くしかない。中里は首を回すついでに、教室の時計を見た。補習の時間はあと三十分も残っている。午後十時前までは拘束していなければならない。
「な、帰っていい?」
「駄目だ」
「ケチだよな、中里」
呼び捨てにするなよ、と再度ため息を吐き、中里は目をもんだ。教師と生徒という立場でなければ、許せるのかもしれないが、ここにいる以上、そうではないのだ。
「そのくらいいだろ、マジでケチだな」
「ケチでいいぜ、お前よ高橋、真面目にやりゃあできる能力持ってるじゃねえか。あと少しくらい、学校に気を向けること、できないか」
鼻の頭にしわを寄せた高橋は、俺、勉強嫌いなんだよ、と心底嫌そうに言った。見てりゃ分かるけどな、それは、と中里は苦笑する。
「あと少しでいいんだ。別に授業に集中しろとは言わねえよ、他の奴らもまあ好きにやってる部分あるからな。ただ、もう少し、余裕を持って出席した方がいい。今は補習で何とかなるが、単位が認定されなきゃ最悪留年だぞ、この環境で」
「留年するくらいなら辞めるっての」
「お前、高卒の資格は取りてえんだろ?」
「高卒じゃねえと正社になれねえんだとさ、あそこは」
「ならギリギリでもやれよ。誰のためでもない、お前のために」
「考えとくよ」
考える気もなさそうにシャープペンシルを指で回し始めた高橋を見ながら、中里は鼻から息を吐いた。教師に対する口の利き方はなっていないし、学校の勉強に対しては不真面目だが、この生徒は、確かに根が良いのだ。それは三年間のそう多くない交流の中でも、理解できることだった。せめて卒業する手助けはしてやりたい。だが、本人にやる気がなければどうしようもない。高橋はまだ十九歳で未成年だが自我は強固で自活もしている。手のかかる子供として扱うのは避けたい。できる限り大人として接したい。
「なあ、中里」
回していたシャープペンシルを机に置いて、改まった調子で見てきた高橋を、中里は同じ机に頬杖つきながら見返し、聞いた。
「高橋、俺の苗字より『先生』って方が呼びやすくないか?」
「俺、中里の名前好きだから」
何の躊躇もせず、この青年はそれを言ってのける。剥き出しの好意に慣れていない中里は、咄嗟に多くの言葉を返せない。
「そうか」
「中里のことも、好きだし」
真っ直ぐ、汚れのない目を向けてきて、高橋は言うのだ。中里は顔が熱くなるのを感じながらも、高橋を見たまま動けない。
「だから、多分、辞めねえよ」
この熱意を、勉学に向けてくれないかと思いたくなるほど、真剣な高橋だった。大人として接しきれず、中里はつい顔を逸らすと、椅子に腰を深く掛け直し、高橋との距離を少し取りながら、とりあえず頷いた。
「そうか」
「ああ」
高橋はシャープペンシルを指で再び回し始める。それを一瞥してから、暗い窓ガラスを向いて、長い補習だと中里は思った。
(終)
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