復讐
「毅サン、慎吾でも弱点ってあるんすかね」
事の発端は、慎吾がタイムアタックをするというんで、休憩もかねて下の駐車場で結果を見物しようとしていた俺に、横にいた背の低い山瀬という男がそう聞いてきたことだった。
そりゃあるだろ、と言って走りのウンチクを垂れ流しかけた俺を、いやそうじゃなくて、と止めた山瀬が口ごもる。どういう意味だと目で問えば、山瀬の横にいた、奴とよくつるんでいるこちらは背の高い、清水という男が代わりに答えてきた。
「普段の弱点だよ。ほらゴキブリに弱いとか、そういうの」
ああ、なるほど。実生活での弱点か。しかし、それを聞いてどうするってのか。俺が不可解に思ってそのまま尋ねると、だって、と山瀬がばつが悪そうに答えた。
「慎吾って、ホラーとかスプラッタとか脳味噌内臓ドロッドロとか見たって平気なツラしてるし、ゴキブリは普通に叩き潰すし、ケンカだってまあ弱かねえ、っつーか降りかかる火の粉は降りかかる前に逃げるって感じっしょ? それでも弱点あるのかって」
なあ、と顔を見合わせた山瀬と清水相手に、俺は肩をすくめた。
「俺にそんなこと聞かれても、分かんねえよ。そういうことは森に聞け、あいつの方が慎吾とは付き合いが長い」
俺と慎吾も今ではある意味で――あまり考えたくはない意味だ――深い付き合いをしているが、最近までは犬猿の仲と謳われていた。個人的な嗜好を事細かに知るほど長い年月は過ごしていない。森良太郎という派手なアフロヘアーのメンバーは慎吾と中学からの仲だと聞いてるし、好き嫌いくらいは知ってるだろう。そう考えて俺が言うと、でも、と山瀬は頭をカリカリと掻きながら、恐る恐るといった様相で俺を窺ってきた。
「毅サンの方が、何つーか……同類の勘、とかで分かるんじゃないかと」
「あんな奴と同類扱いすんじゃねえよ、お前は」
俺はスプラッタは苦手だし、ゴキブリを見ると瞬間的にビビッちまうし、ケンカは弱いってんでもねえが降りかかる火の粉はちゃんと受けるし、あの野郎ほど底意地は悪くない。不承した俺に、山瀬と清水の二人が、はあ、と納得してんだか何なんだか分からん頷きをする。
少しばかり癇に障りつつも、俺はそして、知っているという自信はまだ養えていない奴について、何となく頭を巡らせた。
弱点。走りの弱点ならば洗いざらいぶちまけてやれるが、個人的弱点と言われてもなかなかピンとこないものだ。目上の者に対する礼節がなっていない。特に俺に対して。それは欠点か。医者は好きじゃない、とか言っていたような気がするが、それは弱点になるだろうか。動物も好きじゃなかったか。でもそれも逃げ出すほど嫌いってんでもねえな。
いざ考えると難しい。弱点。ウィークポイント。つまり、これを前にしちまうと、取るものもとりあえず、脱兎のごとく逃げ出すってもの――。
ああ、と閃いた俺を、え、何です、と目を輝かせた山瀬が見てくる。その期待を無視するわけにもいかないので、俺は思いついたものを言った。
「納豆だよ」
「ナット?」
聞き返してきた山瀬に、納豆だ、と訂正してやる。
「匂いと粘りが駄目らしい」
思い出した。俺が朝飯に食べてたら、人間が食うモンじゃねえだの何だのと散々文句を言われたもんだ。おかげで飯がとてつもなくまずくなった。へえ、と山瀬が感心したように言う。
「意外だな、あいつがそんなショミンテキな品物が嫌いとは」
「でも納豆持ち歩くわけにもいかねえよなあ」
清水が言い、だよなあ、と山瀬が頷いた。
持ち歩く?
俺はその言葉に引っかかって、山芋はどうだ、いやもずくという手も、と言い合っている二人へ、つい口を出していた。
「お前ら、納豆使ってあいつを攻撃しようとでもしてんのか?」
ぎくりと二人が動きを止める。図星か、分かりやすいな。ため息を吐いた俺は、やめとけ、と忠告してやった。
「あいつに痛い目見せたって、三倍返し食らうだけだぜ」
とにかく恨みがましい奴なのだ。俺が声をかけられても気付かなかったというだけで、しばらくそれをネチネチネチネチ、よりにもよって『そういう時』に言ってきやがった。俺はまったくノイローゼになりそうだった。
様子を窺うように再び顔を見合わせた二人は、俺が吐いたものよりも深いため息を吐いた。そして右耳のピアスをいじりながら、山瀬が死にそうな声を出した。
「俺、慎吾に弱み握られてんすよ。このままじゃ安心して夜も眠れねえっす」
「俺も……」
嫌なくらいに二人そろって遠い目をする。元々こいつら自身過激なことをやる方のはずだから、慎吾に脅されようが何しようが身から出たサビってとこだろうが、あまりに意気消沈している姿には、同情を誘われた。しかし、あまり過激なことをされてもチームの名誉にも関わるものだし、一概に慎吾を責めるわけにもいかないかもしれない。そんなわけで、まあ納豆ごときじゃ慎吾はどうにもならねえだろうな、と無難に俺はまとめたのだが、ふとピアスをいじっている山瀬の動きが目について、あ、とまた言っていた。何です、と山瀬が几帳面にまた聞いている。そう聞かれると、答えずにいるのも悪い気がしてしまう。
「耳は弱いぜ。触ると」
俺が耳たぶをつまみながら言うと、二人また顔を見合わせて、深いため息を吐いた。何だ、人が折角提案してやってるのに、お前らは。そういう思いを込めて睨んだ俺に、いやいや、と胸まで上げた手を振った山瀬が、言い訳するように言ってきた。
「そうだとしてもあの慎吾っすよ? 背後取って触るなんて、失敗したら何してたってハナシっすよ、俺」
「大体いくらお前だって、ムリだろ、それは」
清水は首を振り、そうそう毅サンにできないことを俺ができるわけがないし、と山瀬は愛想笑いのような苦笑いを浮かべた。
……何か、気分が悪い。
「俺ができねえと思うのか」
「だって弱いっつーなら触るにしても不意打たねえとアレですし、ねえ」
「お前ができるっつーならできるんだろうけどよ」
山瀬は相変わらず人を馬鹿にするような苦笑いで、清水まで人を見くびっているような薄笑いを浮かべ始めた。これは、どうも、俺は馬鹿にされてはいまいか。慎吾相手にバックも取れねえし、不意も打てねえって? 冗談じゃねえ、あいつだってただの人間だ。人が頬についた髪の毛取ってやろうとしただけでビクッとするような小心者だ。俺の威厳がそんな奴を相手にしたところで奪われるわけがない。
「そこまで言うならお前ら、よく見てろよ。あいつが戻ってきたらやってやろうじゃねえか、この俺が」
俺が怒りと気合を込めて言ってやると、おお、とまた気味悪いくらいに二人揃って声を上げた。コンビでも組んでるのかと思うほどの息の合い方だ。何だこいつら。
その時俺は、そんな違和感だとかたぎる憤りだとかに意識をやりすぎて、ついさっき自分で言ったことをすっかり忘れていた。俺こそが、あの三倍返しという脅威を嫌というほど知っていたというのにだ。
スキール音が近付いてくる。タイムを計っているメンバーの元へ、俺は足を向けていた。
慎吾の結果は二週間前に悲惨な時期を脱出した俺が、調子良く出した最高記録をきっちり一秒上回るものだった。人間の手で計っているから、コンマでの誤差はあるだろうし、この程度は予想範囲内だ。それにしても、こいつもまだまだ速くなるのだと思うと、ガキみたいにワクワクしてくる。実力が拮抗している上で、競い合える相手がいるなんて、とんでもない幸せだ。俺は案外運が良い人間なのかもしれない。
しかし、車から降りてきた慎吾のその愛想のカケラもない粗野な顔をいざ目の当たりにすると、俺の幸せってのはこんなむさ苦しい男にあるのか、と少し寂しくなってくる。華やかさが足りないじゃあないか。でもこいつに華やかさがあっても恐いものだし、これはやはりどうにもならないことか。いやもう少しくらいこう、愛嬌とかそんなものがあっても……良いのかな。どうなんだろう。
「一秒だぜ、どうだ」
記録係に威圧的にタイムを聞いた慎吾が興奮のおさまらない様子で、そんな愚にもつかないことを真面目に考えていた俺に言ってきた。
どうだって、
「俺は最近計ってねえしな」
「負け惜しみ言うんじゃねえよ、どうせお前なんて一年で一秒しか縮めらんねえだろ」
「んなわけあるか」
俺が睨むと、慎吾は上に立ったと慢心する人間特有のいやーな笑みを浮かべた。
「ま、人間言おうとすりゃあ事実も嘘も何でも言うだけはできるからな。言うだけは。お前もよ、毅、しばらく無駄な努力に励んどけ。時期がきたら俺が責任もってその無駄さを、骨の髄まで教えてやるからよ。まあいつくるか分かんねえけどな」
慎吾という奴は、機嫌が良いと口がよく回る。悪くてもよく回る。つまりどっちにしても口がよく回るわけで、そのくせ人の癇に障ることを言い立てるのは、機嫌が良かろうが悪かろうが変わりない。普通機嫌が良けりゃあ出てくる言葉もポジティブになるだろうと思うが、慎吾はどうも致命的に性根が悪いらしかった。仕方ない。それにこいつが気遣いと優しさにあふれる言葉をまき散らしても、やっぱり怖いものがある気がする。だから近頃は俺も、短気を起こしたって不毛な口論が続くだけで実りはない、と割り切るようになった。
さあ、じゃあここからどうやって、俺がこいつの不意を打って耳を触りその弱点を露呈させることで、山瀬と清水の尊敬の目を勝ち取るかという、本来の目的達成のために行動するかということだ。
考えようと、他の奴らと話し出した慎吾をよく見て、俺はようやく気が付いた。
こいつ、耳出してねえ。
これではバックを取って触るにも、見当をつけて行わなけりゃならないわけだから、失敗の可能性が高まってしまう。それはいけない。確実にツボを押さえてこそ、俺の力が信用されるのだ。
で、どうしよう。とりあえず俺は手段を考えるべく、時間稼ぎに不本意ながらも、他の奴らとげらげら笑っている慎吾へと声をかけ、不毛な口論をしかけることにした。
「おい慎吾、そう大口叩いていられるのも今のうちだけだぜ。安心しろ、お前にお教えいただく必要なんざ、俺にはねえからな」
俺を向いてきた慎吾が、はっ、と引きつったように笑う。つくづく悪役じみた笑みが似合う奴だと、どうでもいいところで俺は感心していたが、
「今のうちなら何とでも言えるぜ、中里サン。弱い奴が何言ったって、所詮負け犬の遠吠えでしかねえからなあ」
優越感たっぷりとそう言われると、考えることを脇に置いて、素で食ってかかりそうになり、慌てていきり立つ自分を頭の中で張り倒した。落ち着け、落ち着け。とりあえずは近づいて、耳を明るみに出すことだ。そうすればまあ何とかなる。多分。だからまず、ちゃんと適当なことを言い返しつつ、そのための不自然ではない方法を考えるんだ。
「随分自信があるじゃねえか、お前。俺が次に抜かせないなんて馬鹿な考え持ってんじゃねえだろうな」
「常識的な考え、の間違いだろ」
ああ、この勘違い野郎の頭を一発叩いてやりたくてたまらねえ。だが落ち着け、俺。よく考えろ、こいつの耳を出させる方法が何があるはずだ。例えばゴミがついてるとか言って、髪をよけるとか。いや、そんな古典的な方法でどうにかなったら苦労はしねえな。
……待てよ。
ゴミがついてる。単純ではあるが、ハッタリかませば不自然さを感じられる前にどうとでもできるかもしれない。お、いいじゃねえか。そうだ、大げさに悩む必要なんてない、こいつは腹が立つほど勘が良いが、勢いに呑まれるケもあるから、小細工した方が怪しまれるだろう。よし、そうと決まれば早速行動だ。
「お前な」
と、俺は呆れたフリをしてため息を吐き、一旦慎吾から顔を背けると山瀬と清水を視界に入れた。ぼんやりとこちらを見ている二人に、やるぞ、と視線で合図する。そのまぬけな面に緊張が走った。それを確認して、慎吾に顔を戻し呆れたように言ってやる。
「それが常識的だってんなら、赤信号でも車は進んでくぜ」
「社会の規則持ち出してくんじゃねえよ、話が違う」
慎吾が得意げに言い放つ。俺は怒りで固くなっている顔から、意地で力を抜いた。
あ、と何かに気付いたような声を出して、そのまま一歩進むと右手を慎吾の右耳辺りに伸ばす。山瀬と清水がいるのが俺の左斜め後ろだから、体を少し開くことで俺のやっていることは見えるはずだ。
「ゴミ」
「あ?」
とっさに身を引きそうになった慎吾に、他意を含ませずに言う。
「ついてるぞ、動くな」
慎吾は一度身じろぎをしたが、大人しく動きを止めた。こいつも素早く押し切られると抵抗を忘れる普通の人間だ。怯えず自然に接すれば、そう反抗的にもならない。俺もそれは苦手なのだが、今はとにかく俺の威厳が問題だから、こいつを簡単に扱えるようにしなけりゃならない。
そして俺は慎吾の耳付近に顔を近づけて、ゴミを探すフリをして髪をたぐることに成功した。
その時偶然指が耳に触れたことにすれば、あんな後腐れもなかったろう。潔さには欠けるが、後々のために逃げ道は残しておくべきだった。だが珍しく従順な慎吾を見るにつれ、割り切っているったって、慎吾の悪態に確実にイラ立っていた俺は、当初の目的よりも報復に重点を置いてしまった。その後のことを考えなかったことは明らかな間違いだったが、報復とより隙をついてやる意味では、慎吾の耳を舐めたことは正しかったと思う。
「ッぎゃあ!」
「ぐおっ!」
結果、怪鳥みたいな声を上げた慎吾が振った左肘が、見事俺の左わき腹に突き刺さったのは、そうは思いたくはないにしても、俺が調子に乗ったせいだろう。
慎吾はそのまま左耳を押さえて四メートルくらい飛びのいて、俺はわき腹を押さえて痛みにもだえた。
何だ何だと場にざわめきが起こる。
「てめ、お前、たッ、てめえゴミはどうした!」
切れ切れに叫んで顔を真っ赤にしてうろたえている慎吾に、事態を何となく察知したメンバーたちから哄笑が送られた。
「うるせえてめえら、笑ってんじゃねえ!」
慎吾のその怒号にも、一度ノったら止まらない男どもは、なさけねーなどと余計に笑い声を響かせる。こうなったら凄みも何もない、おしまいだ。俺の勝ちだ。
気分は良かった。かなり良かった。
しかし、わき腹が、痛い。ともかく痛い。ピンポイントでヒットしやがったから涙がにじんでくるほど痛い。これであばらにヒビでも入ってたら俺の方が情けねえ。
だが俺は気力を振り絞り、顔にしわを作らないようにして、どうだ、と山瀬と清水を向いた。
「わあ、さすがっす、毅サン」
「よくやったなあお前、いや俺はお前がやる男だと信じてたよ、うん」
まぬけ面に戻った二人が、感心したように何度も頷く。
「当たり前だ、よく覚えとけ」
俺は声も振り絞って、二人にそう言い聞かせた。これで忘れられたら冗談にもなりゃしないからだ。何せ痛い。洒落にならないくらいに痛い。骨は勘弁してくれ、背骨とかな、あれも痛いんだよ。しかも肘だろ。硬いだろ。
「おいコラてめえふざけんな、俺を騙しやがって、タダで済むと思ってんのか!」
俺がちょっと遠くに思いをはせつつ盛大に苦しんでいる間に、慎吾は俺の目の前までやって来ていて、俺は胸倉を掴まれ怒鳴りかかられた。近すぎる。
「うるせえよ、んな近づいて怒鳴ってんじゃねえ」
「そっちこそうっせえんだよ、イキナリ何しやがる!」
その赤い顔に青筋が立っている。だからってひるむ俺ではない。
「俺は怒鳴ってもねえぞ、おい慎吾、てめえこそ俺に肘鉄なんぞ食らわしやがって、何してんだ」
「てめえのそれは因果応報だろうが」
「いいや、俺の方が分が悪い」
「威張るんじゃねえよ、黙ってろ、今ぶちのめす!」
宣言通りに飛んできた慎吾の右拳を、俺は襟を掴まれたままギリギリ首を振って避けて、その隙に右足で慎吾の腹を押して何とか距離を取った。間一髪だ。俺相手にでも本気でキレたらフェイクも何もなしに殴りかかってくる、こいつの性質が変わっていなかったのは幸いだった。
しかし俺は威張ったわけじゃない。事実を言ったまでだ。このわき腹の痛みは重大だ。
「逃げてんじゃねえよ」
地を這う声で凄んでくる慎吾に、俺は息を落ち着かせてから、逃げたんじゃねえ避けたんだと修正する。
「同じことだ」
「いや違う」
そして、睨み合った。
メンバーたちはいつものことだと傍観を決め込んでいるようだ。その方がありがたい。今の慎吾は善意で差し出された手にすら噛みつくだろう。そうなりゃ始末に終えなくなる。
何だ、そんなにあの恐竜みたいな叫び声を上げたのが恥ずかしかったのか。それとも文明の機器に触れて驚いたサルみたいに飛びのいて、及び腰になったのが気に食わなかったのか。まったく大人げない奴だ。
だが今は慎吾がキレた原因ではなく、どう無傷で慎吾から逃げおおせるか、もとい慎吾を丸め込むかが問題だった。面倒になるから怪我はしたくないし、させたくもない。
まあ話は通じているから、俺が冷静さを保って接すれば鎮静させることも可能だろう。自信はないが、やるしかない。
ならまず、睨み合いで発生した緊張を徐々にほぐしていこうか、と俺が考えて慎吾に声をかけようとしたところで、
「待て慎吾、これには深いワケが!」
と上擦った声で俺と慎吾の間に入ってきたのは、意外なことに山瀬だった。
「深いワケ」
おうむ返しにした慎吾の鋭い睨みにおびえながらも、山瀬はしっかりと一度頷いた。チームの中でその背の低さ以外では目立たない部類に入る山瀬が、ここで慎吾の前に立ちはだかるとは俺も予想していなかった。不意を突かれた形だ。
だが慎吾は片眉を吊り上げただけで、特に驚いた様子もなかった。こいつにしてみれば、今は誰が入ってこようが邪魔者にしか映らないのかもしれない。慎吾はそれ以上何も言わず、うとましそうに山瀬を見た。重苦しい沈黙が浮いた。俺でさえ息が詰まる中、山瀬は尚更なのか、入ってきた時の勢いも格段に衰えて、落ち着かなく視線をさまよわせていた。心意気は良かったが、行動がともなっていない。惜しい奴だ。
それでも山瀬は、迷うように口を何度か開閉してから、意を決したように慎吾に焦点を合わせた。
「えーと、その、これはだね慎吾クン、毅サンがお前の腹いせにやったとかそういうことではなくて、俺らがちょっと一計を案じたというか……」
山瀬は途中で語尾を濁して慎吾の様子を窺った。慎吾は意外そうに目を見開いて山瀬を見た。
「俺ら?」
おどおどと身をすくませながら、山瀬が後ろに控えている清水を見やる。それに気付いた清水はぶるぶると首と両手を振った。無実をアピールしてるんだろうが、あからさますぎて怪しくなってるのは言うまでもない。
「ふうん」
さっきの剣呑さをあっさり消して気のないような声を出した慎吾は、清水から山瀬に顔を戻し、ふと思いついたように唇の端を少し上げた。軽く頷くとその笑みを深めて、気圧され足を引きかけている山瀬の肩に、優しく手をかける。
「まあいいぜ山瀬、俺はこいつと違って寛容だからな。お前らが何しようとしたかは知らねえが、許してやるよ」
「お前のどこが寛容だ」
「てめえは黙ってろ」
山瀬には甘ったるい声を出したくせに、俺には手厳しく言い放ってきやがった。この差は何だ。どうも、嫌な予感がする。もしかしてこいつ、何か企んでないか? だが何を、と考えようとして、わき腹の痛みがぶり返してきたため思考が中断された。
「うん、いやそうじゃなくて、これってのはだから、俺らに責任があるっていうかさ」
慎吾のうさんくさい空気に気付いたのか、山瀬は慎吾から少し身を離して、曖昧な笑みを浮かべて首をかしげた。その山瀬へ、慎吾は更にうさんくさい笑みをやる。
「なあ山瀬、俺はお前らの責任なんて追及しねえよ。くだらねえし時間の無駄だ。だからさっさとこの場は引いとけ、これは俺と毅の問題だからな。邪魔しないでくれよ」
「いやしかしだね、その、何ていうか、きっかけは俺らっていうか――ぐえっ」
丁寧なくせに刺を混ぜ込んでいる慎吾に、引きつった笑みのままながらも律儀に言い返そうとした山瀬の首が、後方から猛烈な勢いで走ってきた清水の両腕に抱え込まれていた。清水はそのまま山瀬を慎吾から引っぺがして、
「すまん慎吾、こいつの言ったことは気にするな! じゃあ頑張ってくれ!」
と、やたら快活に叫び、山瀬の首を抱えたまま俺に振り向いて、「中里」、と輝かしい笑顔で断言した。
「俺は俺の幸せを優先するから、お前もそうしてくれ」
これで俺が何言ったって、もうどうにもならねえだろう。黙って俺は頷いた。そして清水もまた一つ頷いた。
「では!」
「いやちょっと俺は、毅サン、違うって、ぐおっ」
山瀬がアヒルの鳴き声を上げながら、清水にずるずると引きずられていく。この辺の意思統一はなってなかったらしい。しかしあれ首絞まってるだろ。大丈夫か。そうやって遠く去っていく清水と山瀬を、何となく心配になりつつ眺めていた俺に、
「お前、マジでデリカシーねえな」
落ち着いたらしき慎吾が、呆れたように言ってきた。俺は失望感がたっぷりにじみ出ているその顔を見ながら、お前に言われたかねえ、と言い返した。すると慎吾はまた思いついたように口の端を軽く上げ、だがすぐに下げた。何だ。俺は少し身構えた。
「あのよ毅、お前がやったことってのは」
そこで言葉を止めた慎吾が、周囲に素早く目を走らせたので、俺はつられて周りを見た。が、何があるわけでもない。何なんだ、と思った俺が、
「こういう」
続きを言った慎吾を向いた時には、もうその顔が目の前にあって、反射で体を引く前に、ぬるい唇が押し付けられた。慎吾の舌が歯茎をぞろりと這って、すぐに引っ込んだ。俺が何をする間もなかった。
「ことだ」
さっきと変わらない間を取った慎吾は、珍しいほどにからかいの色を落とした、真面目な顔で言い切った。俺は慌てて周りを見渡した。誰もこちらを見ている人間はいない。そりゃそうだ、こいつはこういうことに関しちゃあ、腹立たしいほど抜かりがねえ。仮に見られたとしても、それをどうにかこうにか問題のないことにも仕立て上げられる器用さというか、腹黒さをも持つ奴だ。俺はそうやって俺たちの立場の無事を確認して、一息ついてから慎吾を見たが、奴はさっきと比べ物にならない、恐ろしいほどに落ち着いた空気を放っていた。一瞬その雰囲気に圧倒され、俺は言葉を詰まらせたが、唾を飲み込んで喉を通し、
「お前、それとこれとは」
「違わねえよ」
反論を言い切る前にを即座に言い返されて、また言葉に詰まった。慎吾は俺に少し身を寄せた。俺は引きかけた足を、すんでで止めた。「お前よ」、とほんのわずかだけ近くなった慎吾が、俺にだけ聞こえるくらいの、囁きにも似た声を出す。
「あれで俺が勃ったらどうしたんだよ」
俺は少しばかり、理解に手間取った。そして思わず慎吾の股間に目がいって、見てんじゃねえ、と頭を平手で叩かれた。痛い。
「叩くんじゃねえよ、バカ」
「バカはてめえだろ、勃ってねえけどよ、ヤバイんだよそういうのは。お前だってそうだろ。顔赤くなってるぜ」
体が少し熱くなっていると自覚はあったが、そうやっていざ指摘されると厳しいものがある。顔に手を当てると、額に汗もにじんでいた。
「それでお前、変に勘ぐられたり、こんなことがバレたらどうすんだ。責任取れんのか?」
「そんなこと」
でバレるほど気にされてもいねえだろ、と俺が言う前に、取れねえだろうが、と慎吾は決め付けてきた。
「大体お前がいっつも気にしてることだぜ、毅。走りと私生活は分けるもんだって耳にタコができるほど言いやがってからに、それで何でこんなことできるんだよ。混同してるのお前の方じゃねえの? 信じられねえ」
勝手にふくらませたらしき考えをだらだらと囁き続けたが挙句、慎吾は重いため息を吐いた。慎吾が決め付けてきやがっていることが俺の言いたいことと違っていることは確かで、俺はどうも釈然としないのだが、慎吾の言うことには一応の筋が通っているだけに、うまい反論が浮かばない。うまい言葉が出てこない。
「そりゃお前……違うだろ」
「何が違うってんだ、お前がそういうつもりなくてもよ、やった結果はそういうことなんだよ。それ違うってんならお前、考えなしに行動したってことだぜ。ふざけるなよ、こんな重要なことをそんな単純にやったってのか」
「だから、それは――」
「俺はお前の、そういう優柔不断で無神経なところ、前から不安だったんだよ。こうなった以上もう付き合いきれねえ」
言うことも聞かれずに急激にまくし立てられて、俺は束の間思考停止に陥った。慎吾の話は一応筋は通っている、ような感じだとは分かる。だが俺はその本筋を理解できなかった。場をつなぐ適当な相槌を打ちながら、何をどうすりゃいいのかを考えようとしつつ考えられずに終わっている間に、ポケットから煙草を取り出し火を点けて、緩慢に煙を吐き出した慎吾が、思いついたように俺を見た。
「やめるか」
「あ?」
「お前だって言ってたろ、もっとまともな生活してくべきなんだって。そうだろ。だったらそうしようぜ。別に変わらねえよ、元通りになるだけだ」
慎吾は俺から目を逸らすと、まだ長い煙草を地面に落とし、靴の底ですり潰した。目の前に漂っていた煙が薄くなり、やがて消えた。俺は慎吾を見た。慎吾の顔は変わらず決然としていた。
何だ?
「そりゃ、お前、どういう」
「どうやったって先はねえな、こんなこと。今頃お前の言ってた意味がよく分かったよ、毅。終わりだ終わり。やめようぜ」
すり潰された地面の煙草を見ながら、何でもないように、だがはっきりと慎吾は言った。
やめる。終わる。それは多分、ある意味での付き合いを、やめるということだろう。
いや、多分じゃなくて、そうだ。
――本気か?
そう疑った途端、後ろから頭を金槌で叩かれたような、がつんとした衝撃が頭に広がった。
――本気だったら、どうする。
俺は、自分の血の気が引いていくのが分かった。こいつが本気なら、終わるということだ。今までの、色々なことがすべて、終わるということだ。やめるのだから、もうないのだ。そんなことがあっていいのか? いや待て、落ち着け。これはあまりに展開が早すぎないか。何かしら積み重ねがあったのかもしれないが、ウソとかドッキリとかの可能性は、なくはないだろう。そう、さっきこいつは何か企んでいるような顔をしていた。あの場で耳を舐めた俺への意趣返しということは十分に考えられる。
だが、だったらこの、地面を見据えている慎吾の真剣な表情は、何だ? こんな深刻な、それでいて普通な顔をして、ウソをつけるのか。こいつはそんな奴だったろうか。分からない。俺の中の慎吾と関わってきた経験に裏打ちされた自信は、いつの間にやら――さっきの間にか、ぶち壊されていた。こんな状態じゃあ、何を考えたって確かに思えそうにない。それどころか俺自身さえ疑りかねない。
だから俺は一旦何を考えるのも諦めて、そうか、とだけ言った。それ以外に俺が言えることなどその時はなかったのだが、慎吾は不審そうな顔つきをして、ぼそぼそと言ってきた。
「そうか、ってお前、それだけか」
「そりゃ、お前がもう決めてるなら、今更、俺がどうこう言ったって、どうにもならねえだろ」
「ったく、なっさけねえ野郎だな」
どうこう言う言葉を見つけられない俺に、舌打ちを飛ばしてきた慎吾は、ため息混じりにそう言って、余韻も何も残さずそのまま背を向け、EG−6に乗り込んだ。すぐに発進したそれを、俺は止めることもできずに闇の向こうへ見送って、しばらく一人で呆けていた。現実感がひどく薄くて、何分一人で突っ立っていたのかも分からないほどだったが、次第に頭ははっきりしてきた。
要するに、これは、俺が、慎吾に、フラれた、ということか。
まだどこか漠としている思考をそう組み立てて、俺は顔をしかめていた。フラれた。俺が、あいつに。あいつは俺を見限った。俺はあいつに見限られた。そういうことか。まさか、そんなことがあるだろうか。一週間前にやっちまった時、あいつに変わった様子はなかったぞ。それで、何で、こうなるわけだ。大体俺はまだ、俺の言いたいことをあいつに言ってもいない。一方的に言われただけだ。だというのに終わりもねえ。理不尽すぎる。
だが、実際はどうだ。今のやり取りは、確実に事の終わりを示してはいまいか。
「た、毅サン、大丈夫、でしたか」
事態がどうにも把握しきれず、頭痛を覚え始めた俺の目の前に、息も絶え絶えといった様子の山瀬が現れた。俺の頭はゆっくりと動いた。大丈夫、と山瀬は聞いてきた。誰がだ。俺がか。俺を呼んだから、俺のことか。
「すんません、俺らのせいで、清水の奴勝手に罪をなすりつけるようなことをしやがって、参謀は俺らだったってのに」
大丈夫なのか俺は。多分大丈夫か。大丈夫じゃないこともない。なら、大丈夫だろう。
「だから責任分担って考えがあるし、そもそも俺清水ほど大きいモン握られてもいねえのに……毅サン?」
マジ大丈夫すか、と山瀬が俺の顔を間近で覗き込んできて、俺はようやくこいつが目の前にいることを思い出した。
「いや、うん、別に、お前らのせいじゃねえよ。全然それは関係ねえ、まったく、そう、何もな。うん、私怨が混じってなかったわけじゃねえしな、うん」
俺は動揺のあまり、自分で何を言っているのかほとんど分かっていなかったが、山瀬はそんな俺を気にした風もなく、「でも慎吾、かなりキレてたじゃないすか」、と嫌悪感を少し窺わせる表情で言った。その名を聞くと、喉の奥に嫌な苦味が浮き、俺は唾を飲み込んでから、気を切り替えるように笑った。
「あんなもんは日常茶飯事だ、あれくらいじゃ、キレたなんて言わねえよ」
はあ、と首をかしげた山瀬は、ああでも、とぱっと目を輝かせてはにかんだ。
「話変わるんすけど、まあやっぱりアレではあるけど、凄いっすね慎吾は。さすがに俺も、もう毅サン抜けねえんじゃねえかって思ってたんだけど、だってダウンヒルっつってもね。いや、マジですげえっすよ、慎吾も、もちろん毅サンも、速すぎますよ。俺ゃどうにも敵わねえっす」
人懐っこい笑みを浮かべながら言った山瀬を見て、俺は胸がすく思いがした。
速い。それを、認められているのだ。そうだ。こいつらにも、他の奴らにも、無論慎吾にも。それでいいじゃねえか。威厳? そんなもん、ここじゃ速いことだけに価値があるんだから、速けりゃ勝手についてくる。個人的な振る舞いで獲得しようって方が愚かだろう。俺は、それを忘れていたんだろうか。色々あった末にようやく落ち着いてきたから、安穏として、腑抜けていたのか。何だ、クソ、くだらねえな、変なことにこだわっちまって。上に立つなら、走りでじゃねえかよ、俺らは。
そんな簡単なことに今更気付いてしまうと、今までずいぶん無駄な時間を過ごしたように思えて、体中から力が抜けた。立っていることさえ億劫になる。もう駄目だ、もったいないがこうなったら走るも何もねえ。
「帰る」
「はい?」
唐突すぎたため、山瀬が驚いたように聞き返してきた。俺は妙な罪悪感を覚えて、言い訳がましくなってしまった。
「いや、まあ何にしろ、あいつもまだあれだし、これ以上関わるのもな、火の粉散らすだけだし。十分走ったし、俺はもう帰る」
「お、俺のせいっすか」
「だからちげえよ、気にするな」
何とか笑って、俺より結構低い山瀬の肩を叩いてやる。このしつこさは不必要だ。やはり惜しい。
じゃあな、とだけ言って、もう振り向かずに32に歩いていって、乗り込んだ。慣れたシートが郷愁を呼ぶ。そのままじっとしていると、わき腹がうずいてきた。湿布でも貼った方がいいだろうか。早く帰ろう。帰らなければならない。そして、考えなければならない。これは現実だ。自分に言い聞かせると、突然言いようのない悪寒に襲われた。反射的にエンジンをわかせて、たまらずアクセルを踏み込んだ。
なっさけねえ、と口からこぼれ出た。
そうしてふと気付いたら俺は、電気も点けねえで部屋のベッドに腰掛けていた。
どうやって帰ってきたのか、まったく覚えていなかった。だが五体満足で無事帰宅しているのだから、体に叩き込ませた運転技術はいかんなく発揮されたに違いねえ。そう信じたい。
ともかく、頭は真っ白だった。両膝に両肘を乗せて、組んだ手で顎を支える。考えようとする。考えなきゃいけねえことがあるんだから、考えなきゃならねえ。しかし、真っ白けになった頭は少しも動く気配がない。
いや、そうじゃねえ。頭は動かないんじゃなく、俺が動かせないんだ。
動かせば多分、もうどうにもならなくなって、それこそ情けない状態になっちまう。まだだ。もう少し待っていよう。胃から喉にかけてを鮮明にするこの憤りにも似た感情を、一人だからって表に出しちゃいけない。俺は組んだ両手に力を入れた。
なぜだろうかと思った。高校の時初めて付き合った彼女にフラれた時でさえ、こんなに泣きたくなることなんてなかったってのに、何で今俺はこんなに女々しくなっているんだ。
気持ちを落ち着かせようと緩く息を吐いたら、わき腹が痛み、目の奥が熱くなった。視界が揺らぐ。水道の蛇口ひねるみたいに、水の代わりにするりと涙が出てきた。こうなったらもう止まらない。自制心のなさに自分を殴り倒したくなった。
記憶が、にじむ目の裏にまたたく。
初めて会った時は、こいつと仲良くなることはないだろうな、と考えていた。走りのセンスは悪いとはとても言いがたかったが、陰険で人を陥れることしか考えていないような、くだらねえ常識知らずの今時のガキだと思ってた。知り合ってから、それで俺たちは数え切れねえくらい反発し合って、大人気ないような言い合いを繰り返して、ごくたまに殴り合いにまで発展して、実際友人だとか仲間だとかとは程遠い関係を築いていた。
だが、俺は本当のところ、最初からあいつの実力は、認めていた節がある。速くなる、いや、その当時で十二分、シビックで俺の32に妙義でついてくるというだけで、速いのだと認めていた。こいつなら、俺と対等に渡り合ってくれるかもしれない。そんな勝手な期待をふくらませて、だからあいつと馴れ合ってしまってなあなあな関係になっちまうくらいなら、いっそ敬遠し合ってる方が良いと考えたんだ。意地が悪い奴だとかタチが悪い奴だとかは思ったが、俺は別にあいつが嫌いだったわけではなかった。いや、多分誰よりも最初からあいつの力を認めていたのは、この俺だろう。近づきたくなかったわけじゃねえ、ただ近づいて正しいもんが見えなくなるのが嫌だったんだ。俺は、本当はあいつが、速いの速くねえのとか除いても、あのえげつねえこと何度も繰り返すのに悪人になりきれねえ半端さとか、人の気配を敏感に察知できる繊細さとか、時々見せてくる俺への微妙な捨てきれない優しさとか、そういうものを持っているあいつが好きだったから、内側に入り込んじまえばきっと、ちゃんとした評価をくだせなくなるはずだと信じていた。今思えば、強迫観念が過ぎたとも自覚できるが、当時は本当にそれが、怖かった。
しかし、島村の一件も落ち着いて、冬に入る間際、八つ当たりみてえな感じでだったけど、あいつが俺を好きだと言ってきた時、俺はその瞬間からもう、嬉しかったんだ。常識だの何だの細かいしがらみが浮かぶよりもまず、嬉しかった。本当に、人間としてどうしようもねえくらいに嬉しくて、今みたいに家に帰ってから泣いちまっていた。
全然質は違うってのに、その時のことを思い出し、現状との違いに俺は虚しさを覚えた。あの時と変わらないのは、俺の中で慎吾の存在はかなりの割合を占めてるってことくらいだろう。
何だって、こんなことになっちまったんだろうか。
俺が悪いのか。きっと俺が慎吾に同じことをされれば怒っただろうが、それでも、あれは。
「ありゃあ、ねえよ」
かすれた声が喉から出た。呼吸が少し荒くなっている。涙はもう底を尽いていた。泣いたのは久しぶりだな、と少し冷めた頭で考える。ティッシュを取って涙を拭いて鼻をかんで、一つ息を吐いたら、やけに存在を主張していた心臓はなりをひそめていた。呼吸も安定し、やけに気分がすっきりとしている。
とりあえず、何とか話すとかしねえとなあ、このままじゃやべえ、っつーか勘弁ならねえ、とぼんやり思考がまとまってきたところで、玄関から物音がした。
ドアが開く音だ。ああ、鍵を閉めるの忘れてたな、と思い、あれ、と思った。
ちょっと待て。ドアは開いている。が、家主の俺はここにいる。俺の他に、誰がここに入ってくる?
鍵が開いている家、電気が点いていない、人の気配も薄い。
この状況なら――空き巣か!
俺はそっとテレビのリモコンを取って、居間の出入り口の壁にぴったりと身を寄せた。床板を踏む足音が近づいてきて、気配も感じられてくる。
この野郎、こんな時によくもまあ忍び込んでくれるもんだ。誰が金なんざ取らせるか。むしろ取るぞ、車にどれだけ金がかかると思ってやがる、こちとらいっつも素寒貧だ。
気分がすっきりしたとはいえ、かなりイッパイイッパイになっていた俺は、足音が近づいて人影が現れた瞬間、遠慮容赦なく渾身の力を込めてリモコンを振り下ろしていた。
「ぬおっ!」
その人間が上げた珍妙な声に聞き覚えがあるな、と一瞬頭によぎったが、それよりそいつが俺の一撃をギリギリで体を引きかわしたことに注意が向いた。こいつは、やる。リモコンを振りぬいた態勢から、相手のいる場所に見当をつけてバックブローに持ち込んだが、それを体をかがめてかわしたそいつは、勢いそのまま俺の懐に飛び込んできた。
だが暗闇に目が慣れていなかったのか足を滑らせたらしく、俺を倒す前に勝手に床に沈みこんでいき、腰を引っつかまれているから俺も、つられて床に背中から落ちちまった。響いた音に一階でよかったと思い、倒れたその拍子にわき腹に鈍い痛みが鋭くやってきて、ついうめいた。
そいつはそこで、ピタリと動きを止めた。妙にも思えたが、とりあえず俺はその隙に上を取ることに成功した。
しかしその敏捷だった動きや体の感触やらにおいやら上がる呼吸のリズムや声が、どうも記憶を刺激する。親しさがあり、なぜ親しさを覚えるのかという違和感がある。
暗さに慣れた目が、下になったそいつの顔をしっかりと映し出してくれた。愛想のカケラもない粗野なその顔。
……どうも、見覚えがある。
いや、待て。見覚えがあるなんてそんなレベルじゃねえ。声だってそうだ、そんな軽い話じゃない。今の今まで頭に浮かんでいたんだ。口がその名をなぞった。
「慎吾」
息を止めた慎吾は、どこかぎらついていた目を緩め、「お前、毅か」と確認するように言ってきた。
何でこいつなんだ、って根本的な疑問もあったが、ひとまず俺は、まだ握り締めていたリモコンで慎吾の額を小突き、その体から降りて立ち上がると部屋の電気をつけた。眩しさに目がやられ、とっさに目をつむり指でまぶたを押す。
「てめえ、何いきなり人に殴りかかってきやがってんだ」
同じく立ち上がり突っかかってきた慎吾に、気の抜けた俺が、空き巣かと思ったんだよ、と正直に言うと、小難しい顔をした。
「だったらチャイム鳴らしてまず不在確認するだろうが」
言われて俺は、そうもそうか、と気付いた。いくら電気も点かず家の鍵が開いていて人の気配がないからって、すぐさま飛び込んでくる無用心な人間もいないだろう。それにこの状況でやって来る人間ったら、まず慎吾が思い浮かんで当然だ。俺は自分で考えていたよりも動揺していたようだった。何たって、それまで考えてたのにその存在を忘れていたんだ。どうしたってんだ。
そんな風に俺が自分を不思議がっていると、俺はな、と慎吾がポケットを探りながら、呆れたように言ってきた。
「お前帰ってから一時間経ってるだろ、電気も点いてねえし寝てるのかと思って、わざわざそっと忍び込んでやったんだよ。それで何でいきなり鈍器で殴りかかってきやがるんだ、空き巣かと思ったのはこっちだぜ。強盗かとよ」
……ということは、要するに、互いに互いを不法侵入者だと勘違いしていていたのか。そうか、道理で慎吾の動きに手加減も余裕がなく、俺もすぐに勘付けなかったわけだ。これで筋は通る。
それは良いとして、一つ訂正すべきことがあった。
「鈍器じゃねえ、リモコンだ」
同じだろ、とポケットから煙草の箱を取り出した慎吾が、一本取り出して指に挟み、
「どっちにしろ当たりどころが悪けりゃ命も危ねえぞ、お前もう少し人命の尊さを……」
言いながら口元まで運んで、俺の顔を見て言葉を止めた。息を呑む音がした。黙って見られるってのは居心地が悪い。俺は話を続けた。
「命の大切さは、お前よりもよく分かってるつもりだぜ、俺は」
「泣いてたのか」
ぎくりとした。何だってんだ今日の俺は、それもまた忘れていた。しかしまあ、顔も洗っていないし鼻声だ、ごまかせる材料もねえ。もういい加減俺は開き直って、悪いかよチクショウ、とベッドに腰掛けると、リモコンをもてあそびながらすぐ続けた。
「お前な、大体何だって勝手に人の家上がりこんでんだ。用があるならさっさと言え」
その時に、慎吾が前言撤回してくるんじゃねえか、と考えなかったわけじゃない。だが、その考えには切迫感というか、現実感が欠けていた。泣き終わったらそれまで考えてたことが全部くだらねえような気になって、このまま終わっちまってもそれはそれでいいんじゃねえか、今までの思い出で十分だ、と割り切られちまっていた。
これ以上俺に慎吾を付き合わせるのもどうだ。こいつはそんな、一人の人間にこだわるような狭っこい人間じゃねえだろう。俺もこいつもまだ若いんだし、区切りをつけてもまだ先はある。
もしかしたらそれは、割り切るなんて大層なもんじゃなく、現実とぶつかることを避けてただけかもしれねえが、それでもいいと俺は思った。慎吾がここに、俺に会いに来たってことだけで、妙に満足しちまって、言いたいことを言うとか話し合うとか何だかんだってこと全部が、もうどうでもよくなっていたんだ。
慎吾は煙草のフィルター部分を親指でいじりながら、歯に物を挟んだような微妙な顔をして、そして益々気分をすっきりさせた俺を見下ろしてきた。
「くっだらねえことやってんじゃねえよ。山瀬とな、清水か、話聞いたけどよ」
「確かにくだらねえが、お前に言われる筋合いはないぜ」
「借金あんだよ、サラ金に」
俺は話の唐突さより、その内容に目を見張った。それに気付いた慎吾が、俺じゃねえぞ、と煙草を振った。
「山瀬がな、百万っつったかな、一時期スロットハマってたからよ、それが親バレすっと実家連れ戻されんだと。俺も立て替えたことあるからな。清水は安いフーゾクで性病移されたのを、付き合ってる女のせいにしちまったもんで、まあそれがバレると修羅場になるだろ」
内容は分かったが、その唐突さが分からず俺が口をつぐんでいると、
「それがあいつらの弱みだよ」
と顔を渋くした慎吾は言い、ようやく煙草を口にくわえた。
なるほど、と俺は思った。確かにそれをバラされたくねえ相手にバラされたらと考えりゃあ、夜も眠れなくなるだろう。幸せ崩壊だ。
だが、
「お前、バラさねえだろ、それは」
俺が指摘すると、まあな、と慎吾は煙草に火を点けながら頷いた。細く煙を吐き出して、渋面を保ったまま俺を見る。
「だからくだらねえっつってんだ。あいつらに比べりゃよ、俺らの方がバレたらとんでもねえ」
そりゃねえだろ、と俺は言っていた。今更だ。だが言うと、少しだけやってきた寂しさに喉が焼け付いて、ビールが飲みてえな、と思った。さっさと慎吾を帰して酒を飲んで、ゆっくり寝よう。それでいい。俺が半分マヒした頭でどっかのんびり考えていると、突然慎吾が険を露にした顔で、
「お前、俺が本気かどうかなんて」
と語気荒く叫び、そこで舌打ちして、苛立たしげに煙草を吸って煙を吐いた。次に慎吾が出した声は、その前のがでかかったってのもあったが、やたら小さいものに聞こえた。
「今までやってりゃ分かるだろうが」
早口に続けて慎吾は、うざったそうに髪をかきあげた。
俺は、その真意を判別しかねた。
今までやってりゃ分かるだろう、ってのは、『今までやってんだから本気だって分かるだろ』、という場合と、『今までやってんだから本気じゃないって分かるだろ』、という場合がある。さて、どちらだ。流れ的には前者だと思うんだが、もう割り切っちまってる俺としては、後者の可能性も捨てきれない。ホント、どっちなんだ? 分からねえぞ。どっちもありうるじゃねえか、これは。
悩んだ俺が黙っていると、痺れを切らしたらしい慎吾が、だからな、と片手を腰に当て、煙草を持っている手を上下に揺らした。
「お前のそのマジ殴りつけたくなってくるような鈍感さとか、足引っ掛けたらすぐすっ転びそうな隙だらけの馬鹿正直さとか、肝心なところで抜けてやがるところとか、見捨てちまいたくなることもあるし、そのくせいざって時は、どうしようもねえくらいに頼りになるところとか、気に食わねえってのもあるぜ」
褒めてくれてんだか貶してくれてんだか分かねえことを言った慎吾は、けど、と煙草を持った手で、俺の額をノックするように叩いた。顔に当たったら危険だし灰も落ちそうになっていたが、話が佳境に入っているように思えて、俺は注意できなかった。
「そんなんで愛想尽かしてんならな、最初っからこんなのあるわけねえだろうが。何勝手に解釈してさっさと帰ってんだよ。あの話なんて脈絡ないにもほどがあるだろ、少しは本気かどうかとか突っかかってこいよ。俺も自分で言っててな、あっきらかに筋道ねえよこれって思ってたんだぜ」
ガキじゃねえんだからよく考えろよ、と言って、慎吾は灰皿に煙草の灰を落とした。
俺は、十秒ほど置いてから、ようやくその慎吾の言葉を理解することができた。
途端、体中の血が、一気に温められていく。手先足先から胸や顔まで、どんどんと熱くなっていくのが分かる。
ほっとした。
割り切った、なんて思いもしたが、それでも俺は、こいつと別れたかったわけではない。そりゃそうだ。今までどれだけこいつと一緒に、何気なく過ごしてきちまってる。俺は、そうしようとして、そうしてきたんだ。それを今更、何もなかったことにできるわけがねえ。したくもない。する気なんざ、そもそも心根にはなかった。自分で自分を騙していたようで、気分はまた落下しかけたが、俺はようやく自信を掴んだ気になり、結局ほっとした段階での調子のままになった。
心臓がまた存在を主張し出して、人心地がつく。何だか空気がうまい。喉が渇いた。
「何だよ、そりゃあ、ったくよ」
一際情けない声が出てしまった。慎吾はせわしなく煙草を吸って、左手で俺の頭を再び小突いた。
「いい年こいた野郎がよ、穴だらけの冗談食らってダメージ受けて泣いてんじゃねえよ。なさけねえ」
「うるせえ叩くな、お前の話はな、全体的には確かに話飛んでるところもあるが、一つ一つ見れば筋通ってんだよ」
「だからって考えりゃ分かるだろ」
「考えられなかったんだよ」
結論はそれだ。考えようとしたって頭は回らなかったんだから、それを責められたってどうしようもねえ。
しかしもう、すべて分かった。これは茶番だ。ウソだ。冗談だ。意趣返しだ。俺が諦める必要もしょぼくれる必要も、まったくない。晴れやかな気分になった俺は、一旦話を打ち切ることにして、テーブルにリモコンを置きビールを取りに行こうと立ち上がったら、慎吾はハトがマメ鉄砲食らったような顔をしていた。ずいぶんまぬけだ。何か飲むか、と聞くと、すぐに憮然とした表情に戻し、要らねえよ、とすげなく返してきた。
わき腹はまだ痛む。やっぱ湿布が必要かな、と思いながらビールを取って戻ると、慎吾はベッドに座っていた。俺は仕方なく床に座る。テレビをつけようかと思い、こんな夜中につけても大した番組もやってねえだろ、と思い直して、缶の開けた。何となく慎吾を見ると、慎吾は落ち着かないように煙草を吸っていた。そして、目が合った。浮かない顔の慎吾は、短い煙草を口にくわえたまま、
「ちったあ信用しろよ」
舌の回らない口調で、そう言ってきた。だからだろ、と俺が言い返すと、慎吾はくわえていた煙草を灰皿に放り投げて、何だそりゃと睨んできた。俺のことを鈍感だと言うが、こいつだって部分部分で、似たようなもんじゃねえか。そう思いながら、俺は思考をまとめた。
「信用してなけりゃ本気にもしねえよ、俺は。それに俺は、お前が俺と一生続くなんてうぬぼれてもねえ」
「うぬぼれていいだろ、そこは」
「縛りたくねえんだよ」
慎吾は顔を硬くした。俺はビールを一口飲んで、続けた。
「俺はお前がそれで、お前の勝手に生きられねえようになるのはな、嫌なんだよ。縛りつけたくなんかねえ。俺のためでそんなせせこましい生き方、お前にさせたくはないんだ。困るんだよ、そういうのは」
俺が言い切ると、慎吾は急にうな垂れた。あー、と低くうなり、片手で髪を掻きむしっている。俺はビールを飲みながらその様子を見ていた。頭を掻くのをやめた慎吾は、そのまま両手で顔を覆い、低くかすれた声を出した。
「ガキ扱いしやがって」
「そういうんじゃねえだろ」
「俺がガキなんだ。チクショウ」
その声が揺れていた。俺は立ち上がって火種の残っている煙草を消して、ビールを持ったまま慎吾の隣に腰を下ろした。肩もかすかに揺れている。俺は何も言わずに、しばらくそのままビールを飲んでいた。飲みきった頃、慎吾が一つ大きく息を吐いて、突然立ち上がった。
「顔洗ってくる」
慎吾はティッシュを数枚取ると一気に鼻をかみ、洗面所まで行った。俺は取り残された。ビールはもうない。何となく缶を握りつぶし、折りたたむ。あいつも、ショックだったんだろうか。そんな考えが浮かんで、何だかくすぐったくなった。
俺がすがりついてくるのを、期待してたのか、あいつは。そうだとしたら、俺が本気に取って帰っちまって、追って家にやって来たら空き巣扱いされて殴られかけて、勘違いされたまま流されるってのは、どうだ。結構厳しくないか。その気がないのに俺は、実際のところ慎吾にかなりのダメージを食らわせてたんじゃねえか。
そりゃいくらあいつでもショックも受ける。泣きもする……か?
まあどっちにしろ、女々しいのは俺だけじゃなかったってことだ。
顔を洗い終えた慎吾がサッパリした顔で戻ってきて、俺の前を通ってさっきの位置、左隣に座った。
「汚点だぜ。お前相手に泣くなんて」
「言ってろ」
俺は散々潰したビールの缶をテーブルの上に放ったが、リモコンに当たり跳ね返って床に落ちた。少し腰を上げてそれを拾いながら、言った。
「お前の方こそ、大人気なくキレるんじゃねえぞ。あのくらい、軽く流せ」
「こっちだけ反応するなんざ、シャクじゃねえか」
俺は折りたたまれた缶をテーブルに乗っけて、半分腰を上げたまま慎吾を見た。慎吾も充血した目で俺を見た。先に目をそらした慎吾が、その顔やめろよ、と言ってきた。俺はベッドに腰を戻した。
「無理な相談言うな、生まれてこの方この顔だ。やめようと思ったってやめられるもんじゃねえ」
「泣いてんじゃねえよだから、やりたくなるだろ」
何を、と聞いた俺に、何を、と慎吾が返してきた。イントネーションが違う。俺は頭が下がった。
「お前、何でそっちにいくんだよ」
「人間の本能だ」
もっともだ。もっともだが、この状況であんまりじゃねえか。
「けどよ、俺は努力してな、押さえようとしてんだから、てめえも努力してその面を引っ込めろ」
引っ込めろと言われたところで、どうやりゃいいか分からず、俺はとりあえず顔に力を入れてみた。そして慎吾は噴き出した。
「笑ってんじゃねえよ」
「毅、てめえは俺をどうしたいんだ」
「それはこっちのセリフだ」
肩を震わせて腹を抱えた慎吾を、やっぱ殴ってやろうかと右手を構えかけて、ひねったわき腹が痛んだ。ひねりはだめだ。仕方なく俺は左腕だけを動かし、チョップで妥協した。クリーンヒットして、慎吾は額を押さえて目を剥いた。
「いきなりてめえは、何だ」
「因果応報だ」
慎吾は唇を突き出して何か言おうとしたが、すぐに唇を引っ込めた。そして俺をじっと見てきた。俺も見返した。
始まりもそうだ。古典的だった。なら終わりも古典的でいいかもしれない。元々しかつめらしい理屈並び立てる方が、俺らに似合わねえんだ。
そうだ、これは情緒を重んじただけで、決して雰囲気に流されたわけじゃねえ。先にしかけたのは俺なんだ。あのごつい顔であの目はある意味凶器だった。あ、そうか。つまり慎吾が言ったその面ってのはこういうことだったのか。のしかかられるまでいってから、俺はようやく理解した。
そしてこの件はキレイサッパリ片がついたと、痛む腰を抱えてわき腹に湿布を張りながら俺は思っていたのだが、その時もまた忘れていたわけだ。慎吾の妙なところにこだわりを持っている、その精神を。
その後ピッタリ一ヶ月間、慎吾は腹立たしいまでの抜け目のなさを思う存分に活用し、周囲の隙をついては俺の痛むわき腹を突っつくだとか体に触ってくるだとか、いちいち取り上げるのも面倒になるくらいささいな何やらを事もなげにしかけてきて、俺の走り屋生活は危うく妙義の谷でピリオドを打ちそうになった。
やっと苛立ちと怒りとその他諸々で体が熱くなるその報復が終わった時、清々しさのあまり山瀬と清水の頭をそれぞれ一回ずつ叩きつけ、もう慎吾相手に無謀な仕返しはしないでおこうと胸に刻みながら、俺は確信したもんだ。
三倍じゃねえ。十倍だ。
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