名前
車を一般とは違った角度から愛する者たちが舗装された山道に集まる理由としては、第一がその性能をいかんなく発揮させトップギアの世界を公道において体感することであるが、昼間の生活で出会う機会の少ない同好の士とローカル線の列車をひたすら追い求め撮影する人間の情熱をもって会話を交わすことも、その一つである。
さて、同好の士であるがゆえに趣味だけではなくプライベートでもシンパシーを求めることは人間としてしかるべきことかもしれず、往々にして会話は本筋から逸れるのかもしれない。
こういったケースがある。とある四人の男たちが山のふもとの駐車場にてタイヤ専門店について語り合っているうちにその近所にあるうまい焼肉屋の話になり、更にその近所にある花屋が会話をしていた男たちの一人の苗字と同じ店名だという話になり、そしてそれぞれの名前にまで話が及んだ。
つまり、それは名前の話であった。
「しかしよく考えてみれば、俺の方が慎吾という名前は似合うんじゃねえか」
腕を組みつつ神妙にそれを切り出したのは、四人の中で最も男くさく黒いシャツが濃い顔にしっくりきている男、中里毅であり、
「あー、なるほどねー」
「何か分かるな」
と、納得を返す二人とは打って変わって露骨に拒否感を顔に表し、
「そこまでお前、若々しい名前の顔じゃねえだろ。毅でも今時すぎて勿体ねえくらいだぜ」
と、唯一鋭い切り返しをはかったのは残る一人、中里に名を取り上げられた、触れれば切れるような危うい気配を肌の上に漂わせており、白いパーカーが驚くほど似合わないあまりにちょっと通り越した域で似合ってしまっている、深夜ドラマのチンピラ役に出ているような剣呑な顔を持つ男、庄司慎吾だ。
中里と庄司はここ妙義山で一般客の合間を縫って走っている者たちの中では有名だった。運転技術が並ではないのだ。共に柄の悪さで名高いナイトキッズという走り屋のチームに所属し、共にその重鎮であるから、トラブルは多いながらもチームは安泰だった。
この二人と他の二人は趣味を同じくする世に言う走り屋でありチームメイトであり、二人との付き合いは一年以上であり、彼らの出会いから今に至るまでの関係を大まかに把握していた。
彼らは出会った直後から反目し合い憎まれ口を叩き合い一触即発状態で、犬猿の仲という言葉が合致する関係だった。一時的に完全な不和に陥ったこともある。だがその後様々な事件が起こった末、表向きには敵対的だがいつの間にやら互いの背中を預け合うような信頼感をかもし出すようになっていた。挙句まれに他人には入り込めない脳内的な会話を繰り広げるまでの親密さを築き上げ、しかも本人たちは二人一緒の場面では絶対にそれを認めないため、現在に至っては周囲から『ああ仲良いよなあ』とほのぼのした気持ちで見られているのだが、彼らが知る由はない。
というわけで、中里に面白くなさそうに反論した庄司を見て、他の二人がいつも通りに『ああまた痴話喧嘩が始まるぞ』と多分に間違った感慨に浸っていることを知る由もない中里と庄司の会話は、じっとりと続いていく。
「俺はいいんだよ。お前だお前、慎吾。お前に慎ましいって漢字が使われているのが、俺にはどうもしっくりこねえんだ。慎ましいに吾だぜ。お前ほど慎ましやかとか質素とか素朴とかいう言葉が似合わない奴もいねえだろ」
「黙って聞いてりゃ失礼な奴だなお前も。俺が節制を心がけていることを知らねえのか」
「知らねえよ。何やってんだよ」
「人に言われるまで財布は出さない」
胸を張って言った庄司に、「そりゃケチなだけだろ」と中里が即座に返し、庄司はそれに「堅実なんだよ」と嫌らしく笑って返した。
「そう言うお前の方こそ毅、って、毅然のキだろ。お前のどこが毅然としてるのか教えてほしいもんだぜ」
「見れば分かるじゃねえか」
「分かったら聞いてねえよ。名は体を現すって言葉、ありゃお前に限っちゃウソだな。ちげえねえ」
てめえな、と中里が強烈な一重で庄司を睨みつけるも、庄司はいびつに笑ったまま受け流していた。
以前ならば睨み合いから罵詈雑言が飛び交うことになることもままあったが、ここ最近どちらか一方が怒りを表現している時には必ずもう一方が冷静さを保っている。それは偶然とは言えぬほどの正確さであったから、彼らの喧嘩勃発の恐ろしさを彼方に忘れている二人はやはり、『ああ仲良いよなあ』と平和ボケに浸るのだった。
「まあ、それはいい」
他人などどこ吹く風といったように煙草を取り出した庄司を見、ため息を吐いて腕を組んだ中里は首を振りつつそう言った。
「俺が言いたいことはお前がどれだけケチかってことじゃねえ。お前には慎吾という名よりもっと似合う名前があるはずだってことだ」
「人の親がつけた名前をコケにして威張ってんじゃねえや」
煙草を噛みながら舌足らずに庄司が言うと、心外そうに中里が眉をひそめた。
「慎吾という名前自体を俺は、悪いとは思わねえよ。語感もいいし字も綺麗だ。だからこそ、お前には少しばかり荷が重い」
「重くねえっつーの。勝手に決めてんじゃねえよ、それにもっと似合う名前ったってな、お前思いつくのか」
例えば、と中里が言い、例えば? と煙を吐き出し庄司は目で詰め寄った。中里は今まで考えてもいなかったことを示すような沈黙の後、重く言った。
「……一郎、とかな」
「……庄司イチローか」
「似合うだろ」
どこがだよ、と煙草を大げさに口から外しながら庄司は言下に否定した。
「そりゃお前、犬にポチだのハチだのつけるのと同じレベルのネーミングセンスじゃねえか。黒い犬いたらお前はクロって名付けんのか、白い犬だったらシロで猫だったらタマかよ、首輪に鈴でもつけるか。単純すぎる、ダサすぎるぜ」
確かに庄司一郎はそのまんますぎるな、と二人が内心頷いていると、「そんなに悪いか」と中里が少しばかり傷ついたような顔をして振ってきた。そのまま悪いと言うにもあまりに良心が痛む顔を中里がしていたため、二人が反応に困ったところ、
「古典的っつってんだよ、頭が旧世紀なんだ」
と庄司がいささか大きな声で早口に付け足し、中里はむっとしたように顔をしかめ、二人は中里の注意が庄司に逸れたことに安堵した。
「古典的だろうが何だろうがいいじゃねえか、庄司一郎。締まったもんがある」
「あのな毅、今は江戸時代じゃねえんだ、昭和でもない、平成元号なんだよ。もっと格好良い名前バンバン出てきてんだろ。ショウとかコウジとかフミヤとかタツヤとか、とにかく色々だ」
中里は腕を組んだまま考え込むように顎を引いたが、なら、とすぐに顎を上げた。
「リュウジってのはどうだ」
「……微妙に韻踏んでるし、漢字によっては道踏み外しそうな名前だな」
庄司が短い黙考ののち煙草を咥えたまま目を細めて呟くと、中里は面倒そうに舌を打った。
「贅沢言うなよ、だったら大人しく慎吾にしとけ」
「元はお前が似合わねえっつったんじゃねえか」
図星を突かれた中里は言葉に詰まった。庄司は呆れたようにため息を吐いた。
「人にイチャモンつけてるお前だってな、毅よりも、太郎とか虎次郎とか幸三郎とかそっちの方が相応しいだろ。そこまで言うなら自分がまず改名しろ」
そうだ、と中里ははたと顔を上げた。
「最初の話はこっちじゃねえか」
「あ? 改名か」
「しねえがな、俺の方が慎吾って名前は似合うんじゃねえかと」
中里は言いながらポケットを探り出した。庄司は彼らの会話をぼんやり聞いていた二人の様子をなぜかちらりと確認してから、ジーンズのポケットに手を突っ込んだままの中里に目を戻し、眉間にしわを寄せた。
「……なーんか若すぎるってのもあるが、字面がな」
「字面?」
「左右対称すぎる」
『中里慎吾』と頭の中に思い浮かべ、なるほどな、と二人は納得したが、中里はポケットから手を抜き腕を組み直し、ゆっくりと首をひねった。
「まとまってていい方だと思うがよ」
「いや、四角が多くて目に悪い」
「悪いのかよ」
「カタすぎるしよ」
ナカザトシンゴは、とその名を棒読みに言い、ああ、と庄司は何かに気付いたように指に挟んだ煙草の先端で中里を示した。
「ってことは、俺がお前んチの養子になったら中里慎吾になるってことか。うわカタっ、信じらんねえ」
「……どういうことかは分かんねえが、そういうことにはなるな」
「で、お前が俺んチの養子になったら、庄司毅になると」
ショウジタケシ、と呟いて中里は、おお、と感嘆の声を上げた。
「いいなこれは。簡潔だ、なかなかくる」
「そんなにかよ」
「まあ俺も自分の苗字には愛着があるが、庄司ってのはこう、言いやすい」
「あー、ナカザト、は言いづれえか」
「電話に出る時自分で噛む時あるな」
ふむ、と庄司は顎に右の親指を当て頷き、真面目ったらしい顔で中里を向いた。
「ならお前、俺の姉貴の婿にでもなるか」
「何でそういう話になるんだよ」
「したら庄司毅になるぜ」
「したらお前が俺の弟になっちまうじゃねえか」
げ、と庄司は苦いものを食べてしまったように舌を出した。
「お前が義理の兄か。嫌だな」
「俺も嫌だよ。お前が弟だって考えるとまったく気が休まらねえ、何しでかすか分かったもんじゃねえし」
「俺もお前が兄だと考えると、いつ警察にしょっ引かれるかと心配で夜も眠れねえよ」
お前の方が確率たけえだろ、と中里は庄司をすがめ、庄司はその目に肩をすくめ、煙草を咥えたまま、まあでも、と言った。
「お前をお兄さんって呼びたくもねえなァ、俺は。いや、毅お兄ちゃんとか?」
うわ、と中里は青い顔で両腕を抱えた。
「すげえ、一気に鳥肌立った。お前すげえぞ、ものすげえ気持ち悪い」
それで誉められてもな、と冷めた顔をして煙を地面に吹きつけた庄司が続ける。
「何だったら兄上とでも呼んでみるか。ニイサマとかよ」
「その辺は何となく許せるが」
「許すかよ。お前の感覚は俺分かんねえな」
「お前が俺に言うと思うと清々しいじゃねえか、兄上、ニイサマ」
それを受けた庄司が案の定、「毅オニイサマ」と棒読みで言った。中里は厚い下唇を親指と人差し指で軽くつまみながら、品定めするように庄司を見た。
「……訂正する。ちょっとだけ恐ろしい」
「だろ」
「しかしお兄ちゃんよりゃマシだよ。お前のその顔でお兄ちゃん、はな、さすがの俺も肝が冷える」
「毅お兄ちゃーん」
再び庄司が棒読みで言うと、オイ、と中里が小さく怒気を帯びた声を出した。庄司は「こりゃダメだ」と肩を揺らし愉快そうに笑った。
「俺も鳥肌もんだぜ。かなり心臓に悪い」
庄司の喉での笑いが消えると、沈黙が浮かんだ。
振り返るに何とも言えないやり取りだ。その時四人は、何やってんだろう俺ら、と不必要な部分で一体となっていた。
まあ、とそんな無情に満ちた沈黙を、中里を見ながら厳粛に聞こえる声を出した庄司があっさり消した。
「お前は大人しく、中里毅でいろってこった」
「お前も庄司慎吾のままか。納得いかねえが仕方ねえ」
こだわるなお前も、と庄司が短くなった煙草をちびちび吸っていると、腕を組み直した中里がしみじみと言った。
「いっそ俺がお前と結婚できりゃあ丸くおさまんだがな」
急角度からの中里の言葉に、二人は呼吸を止め、庄司は口から離した煙草を手から落とした。中里は固定された空気に気付き、眉根を寄せうろんげに四人を見渡した。
「何だお前ら、その顔は」
「……どこが丸くおさまんだ」
最も早く反応したのは慎吾だったが、言葉の端には動揺が見られた。
中里は太い眉を険しくしながら当然のごとく答える。
「顔も知らねえお前のお姉さんと結婚するよりゃマシだろ。名前も変わる。一石二鳥だ」
「マシかよ」
「しかし庄司姓を名乗るためにゃ、どっちにしろそっちの籍に入らなきゃなんねえから、まあねえけどよ。俺長男だし」
「長男とかいう問題でもねえだろ」
「あ?」
「野郎同士で結婚ってな」
「……まあ、できるところあるんじゃねえか。外国かどっかなら」
「ここは日本だ」
「そりゃそうだろ」
「そうじゃねえ、だからまずありえねえだろうが、そんなことは」
珍しく歯切れの悪い庄司を見て、中里はにわかに目を見開き、当ッたり前だろ、と慌てたように両手を広げ声を荒げた。
「ありえねえ、ありえねえよ。だから冗談に決まってんだろうが。お前らまさか、本気に取ってたのか」
また珍しく言葉を返さず微妙な顔つきになった庄司を見て、中里は広げた両手を振りつつ力説した。
「少し考えりゃあ分かるだろ、俺と慎吾が結婚だぜ、野郎同士、それもあるが何より俺がこいつと結婚するってことを丸くおさまるって言うことがもう、あれだろ。それで何をお前ら本気に取って、いやお前ら、どう考えたらそれが冗談にならねえってなるんだよ」
顔を考えると冗談になりません、と思ったものの無論二人は言わなかった。何とも言いあぐねている庄司と、何か言って逆鱗に触れることを回避している二人を再び見渡し、中里は釈然としていない様子のまま広げた両手をぎくしゃくとポケットに突っ込んで、思い出したように顔を上げ、
「煙草ねえし、そろそろ走ってくる」
誰にともなく言い訳し、何度も首を傾げながら己の車へ歩いて行った。
その常の不抜な様子と裏腹な飄々という言葉の似合う後姿を見送りながら、「毅さんって」と二人は小さく呟き合った。
「たまにシャレんなんねえ冗談言うよな、あの人」
「いや、シャレんならない顔して冗談を言うんじゃねえか」
「シャレんならない顔でシャレんならない冗談を言う?」
「じゃなくて、シャレんならない顔で冗談言うからシャレになんねえ」
「え?」
「あれ?」
「っつーか」
二人が言葉を飽和させてしまい混乱していると、落とした煙草を拾いながら庄司が唐突に明確に口を挟んできた。
「冗談の本来の意義を知らねえんだよ」
「本来の意義?」
「場を和ませる」
ああ、と二人が納得の息を吐いて、でもこいつの冗談も冗談になってねえ時あるよな、と庄司を見て考えていた間、結婚という言葉から中里がエプロンをつけて台所に立って自分の帰宅を待っている場面を想像して恐ろしいほどのある種の調和性を感じ、逆ならまだマシかとエプロンをつけた自分が中里の帰宅を待っている場面を想像し、けれども再び嫌な調和性を感じてしまい、まだ吸える煙草を落としてしまったこととは比べ物にならないとてつもない虚しさを庄司慎吾が覚えていたことを、二人が知ることはなかった。
(終)
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