始まり



 女だてらに機械に只ならぬ興味を持っていたお転婆な幼なじみに事あるごとに連れ回されたため、慎吾は高校入学の時点で同年代の少年たちとは比較にならぬ機械知識を有していた。その頃には興味は走行するものに限定され、思春期をも近しく過ごした幼なじみとの関係への嘲弄に神経を尖らせながらも、共に行動することは減らなかった。
 多々の走り屋のご多分に漏れずバイクを手始めに、十八になると同時に車の免許を取得した。慎吾は父親が下取りに出す予定だったシビックを直談判で我が物とし、幼なじみは企業秘密とやらでシルエイティを入手しており、変わらず共に夜な夜な峠へ繰り出すようになった。一端の走り屋を気取るようになったのは、仮初の受験戦争を終え、高校卒業大学入学と一通りの行事を終えた後のことだ。そして地元に飽いて近くの別の峠へ物見へ出かけたのは、いくらか生じた速さへの壁を独力で乗り越えられるようになった頃、木々が徐々に潤いを欠いていき、日照時間が短くなっていた、夏の終わりのことだった。
 とりあえず新たな山へ来たはいいものの、いきなり走るのも無謀だと思え、実地調査として、そこらにいた常連らしい走り屋の男に峠の特徴を聞いてみたが、さしたる収穫はなかった。そればかりか喧嘩を売られかけたため、ロクな奴いねえんじゃねえのか、という疑念を抱いたものの、一応は周囲に目を走らせた。
 そうしてある男の姿を認めた時、慎吾は何か、不穏な気配を感じた。不正が暴かれるような嫌な緊張が背中に走り、首の後ろに汗がにじんだ。男の、骨格のはっきりとした顔の輪郭、削げた頬、太く凛々しい眉、剥き出されている白目の強い目、定規で測って切り取ったような鼻、厚く血色の良い唇、真ん中で分けられた短めの黒々とした太い髪、筋張った首、細いが隆々とした腕、胸を張りしっかりと地に足をつけている佇まい、そのどれもが、腹の奥に泥が溜まっていくような不快感を生じさせた。
 慎吾の過去において、初めて会って数秒足らずでこいつは嫌いだと合点できた相手はそう多くない。その瞬間、その男、中里毅はそう多くない一人に組み入れられた。
 しかし不快さ無視をするには感覚が強烈過ぎたため、駄目で元々、仕方なく事を尋ねてみると、中里のコース解説は、大まかな全体像、次いでいくつか注意点を述べ、最後に「あとは気合で何とかなる」と締めるという大雑把なものでありながら、実際に走るとそのアドバイスの効力に驚くほどに分かりやすいものだった。素直にそれを認めるのも癪だったため、何度か走った後に首尾を聞かれてもはぐらかしたが、少なからず慎吾は中里の速さに期待をし、頃合を見てバトルを打診した。中里は露骨に渋ったが、試しに軽く挑発してみるとあっさり乗ってきて、あれよあれよという間にいざ尋常に勝負と相成り、最新鋭大排気量の車を初めて前にしたその勝負は、機械の性能差をまざまざと見せ付けられた結果に終わったものの、慎吾に手応えはあった。
「勝てっこねえよ、馬力が違う」
 バトル後にその言葉を言われた時、行動に起こしはしなかったが、慎吾は一瞬中里の存在を抹消したくなるような激情にかられた。よく知りもしない人間に否定されることほど不愉快なことはない。手応えはあったのだ。だからこそ、不当な決め付けを覆さずにはいられなかった。今から考えれば、それはS13でR32に負けた中里が中里自身に言った言葉だったのかもしれないが、その時は何を思って中里がそれを言ったのかなど考えもしなかったし、それからも言葉通りの意味しかないと、むしろ決め付けていた。
 ともかく、それから慎吾は、中里に勝つまでその山を離れられなくなったのだ。

 職業柄か、山へ来る時間帯がずれていたため、顔を合わせる回数は週に一回程度であり、それすらも不快さからなるべく回避しようと心がけていたが、中里の言動は否が応でも目につき耳についた。動作が大仰で大言もよく吐くのだから、意識しないわけにもいかなかった。
 とかく中里は自信に満ちていた。そこには経験による裏打ちがあると見え、更に硬質な外見は基盤が確立されている印象をもたらし、図太く鈍い強者であると決めない理由もなかったが、笑いが漏れ出る他人との会話、一人でいる時の気の抜けた顔、走りの不安定さを見聞きしていくうちに、疑心が生じる。一体楽観的なのか悲観的なのか、無神経なのか神経質なのか、鈍感なのか繊細なのか、強いのか弱いのか。疑ううちに悪い面が拡大されるようになり、性質を一定化するに足る根拠はなかったが、次第に慎吾は中里を、煽りに弱くおだてに弱く不意打ちに弱く理論武装に弱い、まったく滑稽で愚かな男だと決めるようになった。
 そして、あんな奴に負けたんだ、と思うことで、慎吾は苛立ちをしつこくした。

 秋が深まり紅葉が終わり、冬の足音が聞こえかける頃には、慎吾が中里に抱く腹立たしさは根強いものとなっていた。疑う余地はなかった。山を全力で走る時だけは冷静になれたが、それでもGT-Rの地面を刷くような排気音を聞くと、暴力的な気持ちが腹の奥でじわじわと鳴き、精神がかき乱された。平常時では慢性的に苛立っていた。
 するともう、中里を思い返す度、あいつ死なねえかな、と思うようになる。そうなれば峠にR32GT-Rが現れることは当分なくなり、本人が来ることはもうなくなり、いちいちその言動に苛立つこともなくなり、精神に安息が訪れる。良いこと尽くめだ。ガードレールにでも突っ込んで谷に落ち、顔が分からぬほどに潰れて死んでしまえばいい。
 そんな単純なミスをあいつがするわけがない、いつも他人に気を付けろ気を付けろとオウムのようにやかましく繰り返している奴が、そこまで無謀に走るわけがない。可能性のない想像だと諦めていたが、それでも、いなくなってくれりゃあいいのに、と、願っていた。
「毅なら、ムチウチで出てこれねーってよ」
 そしてじめじめとした雨降りの翌日、来る時間帯が被っていた快晴のその日、中里の姿は見えず、慎吾の心中には類ない解放感と、しかし一抹の、掴みどころのない焦りがにじみ、それに駆られるように、仲間の一人に揶揄まじりで中里の動向を聞いていた。
「ムチウチ?」
「事故ったんだよ、あれ」
 仲間は笑いながら、単なる交通事故で、交差点の信号待ちで後ろから追突されて首を痛めただけだと、明日の天気を話す時ほどの重々しさもない口調で続けた。慎吾の顔に、苦笑にも嘲笑にも似た、意味のない笑いが浮かんできた。小さく耳鳴りがし、頭には空白が浮かんだが、話に適当に相槌を打つことはでき、仲間は訝る風もなく、そのうち他の仲間と事故の話に花を咲かせ始めた。それにも適当な相槌を挟みながら、冷えた顔と首を幾度か撫で、死んでもないのに、と思い、慎吾は己の間抜けさに心底から笑いそうになった。死んでもないのに、ほっとしてるぞ。
 そして、中里の不在にも精神に安息が訪れることはなく、途方もない不安だけが残り、見舞い、という選択もしばらく頭にちらついたが、考えるまでには至らなかった。恐怖からだ。何に対する恐れか、何に対する不安か、慎吾は答えを出さなかった。出そうともしなかった。
 怪我は重症でもなく、一ヶ月もせず中里は峠に舞い戻り、進歩のない滑稽さをまき散らしたが、慎吾は以後、中里との距離を測りかねた。今更初対面の直感の真偽など見極めたくもなかった。どうしようもなくなり、結局は徹底的に顔を合わせず口も聞かず、以前以上の無関心を装い、周囲はそれを当然関係の悪化と見なしたが、そうこうしている内に雪が降り積もり、山は開店休業状態となって、慎吾が中里と再会したのは、春、陽光柔らかになってからだった。
 山での最速決定戦なるものが行なわれることとなったのは、その直後、幾ばくかも置かない頃だ。その実はナイトキッズで中里の独擅場に倦んだ者たちが、下りだけでも対抗できる走りの速さを持つまでとなった慎吾を持ち出し、現状を打開せんとした権力闘争と、陽気が誘ったお祭り騒ぎに他ならなかったが、慎吾はバトルに異論を持たなかった。何であれ、中里に勝たねば何も始まらないと、また、中里に勝てば、何もせずとも何かが変えられるかもしれないと考えていた。
 しかし結果は慎吾の敗北であり、変わったことといえば、慎吾がチームに入り、中里への挑戦者かつ反乱者という立場に据え置かれたことで、慎吾も無視するよりは積極的に食ってかかる方が鬱憤も晴らせ清々したため、それから今になるまでその立場に安穏としていたが、気が付けば、からかいも挑発も、嫌悪から行なうことはなくなっていたのだった。


 風が鋭さを増し、空気は透きとおり、喉に厳しくなっていた。雪が近い。乾いた路面を走れるのがあと僅かであっても、峠に来る走り屋の数も、質も変わらない。毎日は平凡に過ぎていく。秋名のハチロクに中里と慎吾が負けたことも、その後中里が高橋啓介とエンペラーのエボMに続けて負けたことも、箱根の島村栄吉との偶発的なごたごたも、既に過去となっている。中里は変わっていない。負けが込んで大人しくなったのも束の間、一旦勝つとまた天狗だ。高橋啓介にもエボMにもリベンジを果たしておらず、自分とのバトルも棚上げされているというのに、そんなことを忘れたように山へ来ては能天気に走っている。
 煙草を吸っていると、数メートル離れた位置で他の走り屋と会話をしている中里が視界に入ってくる。天気がどうこうと言っているが詳しい内容までは分からない。ただ低い声が車のエンジン音や風の音の間を縫って、耳に滑り込み、深く響いてくる。時折眉を動かすくらいで、表情は一定している。愛想の悪さも変わらない。黒いタートルネックの長袖に、履き古されているストレートジーンズという格好で、長袖の生地は薄そうに見えた。下着の上に長袖を着てその上にパーカーを着ている慎吾としては、寒くないのかあいつは、とどうでもいいことを考えさせられる。やはり見た目通り、体温が高いのだろうか。一度も肌に触れたことはないため分からない。
 なら触ってみりゃいいけど、と思ったところで慎吾は思考を止めた。以前ならば思い立ったが吉日で、すぐさま行動に移していたが、今となっては想像するのみだった。そこに別の意味が不可されるのが恐ろしく、それも深くは考えられない。視界から中里を外し、持っていた煙草を改めて大きく吸った。血液が一瞬止まったような錯覚の後、目の奥に光が迫った。めまいがした。口を大きく開け、息を肺の底から吐き出しながらしゃがみ込む。強く目をつむると、風で乾いた目に水分がわく。こめかみが軋んだ。それを親指で押さえながら、やってらんねえ、と思う。目を開き、煙草を地面に落とし、足を少し動かして、踏み潰す。しばらく立ち上がる気がしなかった。
 中里の事故の知らせを聞いたのがこの時期だ。他のあらゆる記憶がただただ郷愁しか呼び起こさないというのに、あの時受けた衝撃はいまだ生々しさを失わず身に蘇る。わずかな安堵と強い緊張、地に足がつかないような不安だった。それ以外でも、中里にまつわる感覚は今でも鮮明に神経を焼いてくる。そろそろその理由を見極めなければならない。
 しかし、それもバトルをしてからだ。そんな理由などは付属に過ぎず、真に重要なのは、どちらが勝つか、どちらが速いか、それだけなのだから、棚上げされているバトルをして、白黒つけてからでも遅くはないだろう。いや、そちらが早くあるべきだ。慎吾はそう考えていた。だが行動は伴っていなかった。やってらんねえ、という思いが常に付きまとっていた。
「どうした」
 考えにふけっていたため、突然降ってきた頭上からの特徴的な強い声に、慎吾はぎくりとしたが、平静を保ったまま、両膝に両手をついて、頭が揺れないようにじっくりと立ち上がった。目を地面から前に移し、声の主である中里を見ると、不可解そうなしわを眉間に作っていた。
「顔色悪いぞ。貧血か」
「献血、してきたんだよ」
 そう答えて、へえ、と力のある目に更に力を入れて感心を示した中里に、間髪入れず、ウソだよ、と言うと、数秒置いてから、くだらねえウソついてんじゃねえよ、と凄まれたが、いつものことなので気にせず、慎吾はパーカーのポケットに手を入れて、右手で小銭、左手で紙くずを、指でいじりながら、バトルだ、と思い、息を吸い込んだ。
「みんな帰ったけど、お前は」
 声を出す前に中里に不意を突かれ、ああ、と、慎吾は返事にならぬ返事しか出せなかった。中里は一つ息を吐いてから、「調子悪いならさっさと帰って寝ろよ」と言い、手持ち無沙汰のように何度か首を動かし、周囲を見た。去る気配がした。ただならぬ焦りを感じた慎吾は、何か言わなければと慌て、
「去年の今頃だろ」
 と、つい先まで考えていたことを口にした。
 中里は顔を慎吾に据えると、不思議そうに瞬きを二回した。
「何が」
「お前が、カマ掘られたの」
 考えるように目を細めた中里は、ああ、と数回軽く頷いた。
「そういやそうか」
「雨の日だよ」
「そうだ、あの時は本当に首が回らなくなった。よく覚えてんな」
 喉の奥で空気が絡まった。咳をしてから、インパクト強かったからな、と当り障りのない事実だけを言った。それを受けて中里は、俺だって好きで追突されたわけじゃねえよ、と不服そうに当時の事故の状況を語り始めたが、慎吾の意識は別の方向へ飛んだ。
 当人は思い出そうとしなければ思い出さないようなことを、これほどよく覚えている理由は、決して中里が事故を起こしたという一部分にあるのではなく、それに対し自分が得た感覚にあった。それを無視することは最早できなかった。潮時だった。
 だがまずバトルだ。バトルを先に考えるべきだ。俺は走り屋で、こいつも走り屋で、それ以外に何もない。勝ってからでも遅くない。いや、だから、勝ってからでなきゃならない。
「聞いてんのか」
 不審そうに中里が聞いてきた。考えにとらわれ聞いていなかった慎吾は、聞いてねえよ、と率直に答えた。怒るかと思われた中里は、しかし何か複雑な、少し刺激を加えただけで消し飛びそうな、似合わぬ繊細な表情をした。これは、心配してんのか。思った途端、胃から熱い塊が沸き、喉を押し上げてきた。ともかく何かを言いたい衝動に駆られ、バトルだ、と慎吾は言葉を吐こうとして唇を動かしたが、声は出ず、代わりに意味のない笑いだけが浮かんだ。そのうち中里は、いつもの分かりやすい怪訝そうな顔になった。
「どうした、お前何か変じゃねえか」
 慎吾は一呼吸置き、頬が動きそうになるのも、唇が震えるのも押さえ込み、顔を整えた。バトルの提案をするだけだ。唾を飲み込んで、息を吸い、中里の顔をしっかりと見て、言った。
「好きなんだよ」
 用意していた、そろそろバトルしねえか、という言葉は、今か今かと頭ではやっていたが、まったく出なかった。代わりに出てきたそれは、微塵も確実な考えとして存在したことはなかったため、言う時に唇はほとんど動かなかった。慎吾は先ほどとは比較にならない強烈な焦りに襲われた。どうした、俺は何を言った。それはバトルじゃない。
 中里は意味を解せぬように眉間に力を入れ、わずかに首をかしげた。
「誰を」
「お前を」
「誰が」
「俺が」
 熟考する間もなく慎吾が素早く簡潔に問いに答えると、中里はまるで演技のような正確さで、目を見開いた。
「何で」
「一目惚れ、じゃねえかな」
 中里に何に対する疑問があってそう尋ねてきたのかは知れなかったが、慎吾は迷うことなくそう答えた。答えて、そうなのか、と疑い、そうなのかもしれない、とすぐに落ち着いた。ならば初対面の不快感は恋患いの始まりの警鐘で、それを今言えたということは、初めからすべてを了解していたということだ。否定すら避け続けた意味はなかったわけだ。
「それは」
 その先の言葉が見つからぬようで、中里は口を小さく開いたり閉じたりを繰り返しながら、ただ困惑に困惑を重ね、慎吾を見ていた。ひどい脱力感に慎吾は襲われた。こんなことが通じるわけはない。他人に、それも本人にぶつけるべきでもないものだ。それが今ここで出たことは、避け続けてきたための暴発だろう。時間の問題だったのだ。早い段階で認めてしまって一人で消化するか、それができないならば前後を判断して計画を練った上で言うべきで、これは最悪の結果だった。救いようがない。強い後悔と恥辱が身に溢れ、深い怒りも生じ、頭が熱く顔も熱くなったが、言ったことに取り返しはつかなかった。もうやめよう、と右手で小銭を握り締め、慎吾は割り切った。
「ウソだよ」
 努めて軽く言うと、呆然と慎吾を通してどこか遠くを見ていた中里は、数拍の後どこか遠くから慎吾へと意識を戻し、ウソ? と驚き声を裏返した。慎吾は震える声で言った。
「何で信じんだよお前。この上なく分かりやすい冗談だ」
 驚き戸惑っている中里の機先を制し、そんなことよりそろそろバトルしねえか、と、ようやく慎吾は、信じられないほど自然に、簡単にそれを言っていた。中里は再び、バトル? と声を裏返した。
「年明ける前に一回やっとこうぜ。もうできねえなんてことねえだろ」
「まあそりゃ、できねえことはねえが」
「なら来週だ。いい加減ここの本当のダウンヒラーが誰なのか、ハッキリさせる。いいな」
 慎吾がそうして足を後ろに引き会話を終わらせようとすると、中里は素早く右手を伸ばし、パーカーのポケットに入れられたままの慎吾の左前腕を掴んだ。服越しの手は熱く、やっぱ体温高いのか、と慎吾が考えていても、中里は何も言ってはこずに、戸惑った様子のままに慎吾の腕を掴み、ただ制止の意思を示していた。慎吾の顔にまた、意味のない笑みが浮かんできた。
「何だよ」
「本当に、ウソか」
「本当に、ウソだよ。何でそこでウソつかなきゃなんねえの」
「何で、って」
 変わらず中里は口を何度も開けては閉じてを繰り返した。返答を期待してはいなかった。最早何に期待もしていなかった。物分りの良い人間になりたくはなかったが、間違え続け逃げ続けた時間はあまりに長く、足掻くには遅すぎ、この先、認めた感情に振り回され苦しめられようとも諦められるほどに、失敗は積み重なっていた。だからこそ、そんなことよりも、正当性があり本来的である、バトルを優先したかった。慎吾にとっては今の感情すら過去であり、中里の混乱はまるきり他人事だった。期待もなく、中里を振り払うほどの厳しい感情も持たない慎吾は、腕を掴まれたまま、意味のない笑みを浮かべ、早く離れることのみを考えていた。
「慎吾」
 進退窮まった末の、最後の頼みの綱だというように、中里はすがるように慎吾を見据え、名を呼んだ。その途端、思考を飽和させるような強烈な衝撃が慎吾を揺り動かした。目の奥が、鼻の奥が痛くなった。表情に無用な力を使えなくなり、耐えかね、音がするほど強く息を吸い込み、今持てる最小限に近い最大限の殺意を込めて、中里を睨んだ。
「言いたいことがあるなら言え。そうじゃねえなら手を離せ」
 中里は口を開き、息を吸ってしばらく溜めては、そのまま吐いていた。手の力は緩まなかった。
 どうせこいつはこういう時でもくだらないことしか言えないってのに、と思い、慎吾は冷え込むような、痛ましいような気持ちになった。何とかしようと必死になった挙句、いつも間を外し、時期を外し、的を外す言葉を出して、自滅に至るこの男を、今そうさせようとしてているのは自分だった。それもいいかもしれない、と甘い優越を感じもすれど、そこまで卑屈に陥っては、それこそ取り返しがつかない。ここまできた以上、何もかも貫くことだ。慎吾は決意し、喉を通り鼻と目の奥を焼く熱を抑えて、まず余裕を得るためになるべく嫌らしい笑顔を作ろうとした。
 中里が中途半端に開いていた口からやっと声を出したのは、その時だ。
「泣くなよ」
 おそらく慎吾の様子から咄嗟にそう言ったのだろう、諌めるような調子があり、また、それでも中里は懇願しているようだった。頼むべき立場が逆だった。いっそ逆の方が良かったんだ、そう思うと視界がにじみ、慎吾は中里から顔を逸らすべく頭を下げ、舌を打った。意外な部分での自分の精神の脆さが痛感される。割り切るべき時に割り切れない。優柔不断もいいところだ。これでは中里を非難することもできなかった。その中里は、手の力を緩めはせず、下を向く慎吾を覗き込んできた。
「慎吾、お前、俺はそれでもいいんだよ。だから泣いてんじゃねえよ、お前、何で泣くんだよ」
「それでもってどれだよ、っつーかんなことどうでもいいじゃねえか、もう手え離せよ」
「放っておけねえだろ」
 放っておかれる方が感情が静まると十二分に考えられたが、慎吾が進んでそれを促すことはなかった。中里の口ぶりからは焦りと少しの怒りと、何らかの情が感じられた。中里のその必死さが、徐々に慎吾に期待を抱かせていた。
 瞬きすると一滴が地面に落ちた。右手をポケットから出し、金属臭のする指全体で目の下を拭って、唾を飲み鼻をすすり、顔を上げ中里を見る。もしかしたら、何かはどうにかなるのかもしれない。どうなるのか、自分がどういう結果を求めているのか、それは確かめずとも、先のように、口を開けば答えは出てくるはずだった。
「ウソじゃねえよ」
 中里は息を呑んだ。でもな、と、震えが止まらない声で慎吾はともかく言った。
「俺はお前が嫌いだったんだ、今まで、俺はお前が嫌いだった。じゃあそれは何だ、どえらい勘違いじゃねえか。しかもお前なんだぜ。そんなみっともねえこと、認められるかよ」
 それは、それまでの考えの根幹だった。保身だった。感情の存在を知りながらも、己の選択の間違えが呼ぶ名折れと、相手が同性であるという後ろめたさとから、直視できずに敢えて触れようとしなかったことの卑怯さ、今のこの悔しさも怒りも恥ずかしさも、すべてそこからくるものだった。そして、それらを走りに押し付け捨ててしまおうとしたことへの、罪悪感だ。
 己の不誠実に気付いてしまうと、慎吾は中里の行動を正さない理由を持たなかった。手を離し、これ以上に情けをかけることの無意味さを説いて、バトルへの障害を作らないことが、最善だ。また、それが慎吾にできる、唯一の誠実だった。慎吾は左腕を引くことで、手を離すように示したが、中里の手から力は抜けず、それどころか一層強く握られ、痛みに顔をしかめた。
「後悔は、させねえよ」
 その瞬間、中里は恐ろしいほど真剣に、まるで脅しつけるように言った。慎吾は痛みに気を取られ、咄嗟に言葉の意味を捉えかねた。だが時間を費やしても、この期に及んで中里が何を言おうとするのかはまったく想像もつかなかった。
 俺は、と中里は鼻息荒く言い募った。
「俺を好きになった奴を後悔させるような、そんな三流な男じゃねえんだ、勘違いするなよ。だから、みっともないとか言うんじゃねえ、お前だろうが何だろうが俺は、好きになったってんならそりゃお前、幸せにしないで、何が男だ」
 ああまたこいつは外してる、慎吾はそう思ったが、本気で言っている様子の中里を見ていると、肝心だった自分の憤りや自責の方が見当違いの思考だったように思え、そしてそう思うことに、とてつもない不条理さと、それゆえのおかしさを覚えた。慎吾はついに大きく笑っていた。中里は意表を突かれたように目を瞬かせ、見るからにうろたえた。
「何だ、何で笑う」
 答えられなかった。笑うしかできずに、答えられなかったのだ。人がせっかく考えて言ったのに、さっきまで泣いてくせに、と中里が呆気と呟いていても、しばらく慎吾の笑いは治まらなかった。滑稽だった。突然男に好きだと言われて後悔させないと言う中里も、そう言う中里を笑うしかできない自分も、この舞台が峠であることも、すべてが滑稽で、たまらなくみっともなく、ぬるかった。
 一通り笑ってしまうと、頭が冷えていき、感情が安定し、現実感が足を浸してきた。冷静さが戻ってきた。自己嫌悪も何もかもが遠ざかっていた。まるで一枚皮が剥けたような新鮮さがあった。単純だと思いながら、呼吸を整える。中里を見ると、呟くこともなくなってただ呆然としていた。そのしまりのない顔が、胸に妙な甘さをもたらした。右手を伸ばし、その頬に当てた。皮膚はざらついており、熱かった。
「毅」
「何だ」
「キスするぞ」
 音がはっきりと聞こえるほどに大きく唾を飲み込んでから、したけりゃ勝手にしろ、と低い声で中里は言ってきたが、目の動きは怪しく、目の下も震えており、内心で慌てているのは手に取るように分かった。やってらんねえ、と思った。慎吾は頬から右手を離し、その手でまだ力を入れて左腕を掴んできている中里の右手首を握り、腕を引っこ抜くように離させた。そして右手を再度ポケットに入れ、小銭を擦りながら、慈愛と軽蔑を半々に含む笑みを作り上げた。
「俺は俺だよ。他にどう答えりゃいいんだ」
 中里は憤慨したように大きく顔を引きつらせ、両目を閉じて、首を下げ、大きく息を吐いた。クソ、と舌を打ち、急に顔を上げたかと思うと、胸倉を掴まれ、引き寄せられた。勢いで顔にぶつかり、唇と歯が当たり、カツン、と軽い音がして、また急に胸倉を離されて、後ろに押された。中里はひどい形相で、
「もう分かった、お前は何もするな。俺がやる。分かったな」
 慎吾を指差し、息を荒げて怒鳴り、返答も待たず、じゃあな、と怒鳴るように言い、32へとずかずかと歩いて行き、荒々しく乗り込むと、一気にエンジンをふかし、走っていった。
 エンジン痛むだろ、と冷静に思いながら、慎吾は二つ呼吸をした後、崩れるようにしゃがみ込んだ。立っていられなかった。心臓が低く強くうなっている。何なんだあいつは、と思いながら、熱の浮いた顔を右手で冷やそうとしたが、手の熱と顔の熱は大して変わらず意味がなかった。
 結局、中里の考えというものは知れない。ただの意地だったのか、情けだったのか、何を原動として今まで動いていたのか、こういう事態において中里がどういう行動を取るかという情報はなく、推測の立てようもなかった。
 しかし、それは今後、少しずつ解明できるだろう。何せ振り返ると慎吾にはよく分からない流れではあったが、好きでいろ、と命令されたようなものだった。命令に従う理由もないが、従わなければ中里は本人が正しいと信じている根拠を持ち出し文句を言ってくるだろうから、一旦は従っておくに越したことはない。そしてなぜか、これまた慎吾にはよく分からないが、中里から何かをやると断言された。となれば何も起こらないわけがない。
 始まるんだ。遅い歓喜が身を貫いた。腹の底から笑えてきた。あいつは何なんだ。俺も峠で何やってんだよ。そうだ、バトルの話もしていない。清算すべきことも、考えなければならないことも、見極めなければならないことも、まだまだ山ほどある。くだらないことに幸せを感じて、残った痛みすら甘さに感じて笑ってなどいられない。

 だが、とりあえず走ろう、と慎吾は思った。
(終)


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