自由の勝手
昼は上空の太陽にじりじりと焼かれ、夜は宇宙に帰らない熱にじわじわと煮込まれる。山では梢を揺らす風がふいたところで、熱された肌に浮いた汗が乾くことはなく、農場を想起させる青草、口中に広がる錯覚を起こす焼けたゴム、油と脂、人の体臭、それらが丁寧に折り重なった空気が、鼻の奥に染み入ってくるだけだった。
「やかましいな」
あたりを見渡せば、見覚えのあるようなないような多種多様の車、バイク、人が点在しており、それらの声は虫の声とあいまって、空白のない音を奏でている。空間はごった返し、それぞれのものの距離は感覚的に近い。
だから慎吾のその呟きも、もっともだ、と中里は思った。やかましい。その通りだ。ごった返している。
「そういう季節だからな」
だがそれを言うなら、水色のTシャツに黒の半パンに白いスニーカーを履き、頬まで伸ばした染めムラのある茶色の髪と爬虫類的な顔を持つ右隣のこの男も、よっぽど雰囲気がやかましかったのだが、それは季節によって変わりもしないので無視する他なかった。
慎吾は腹立たしそうに舌を打ち、首をひねった。
「いる人数はそう変わってねえだろ。それで何でこんなに騒々しいよ」
「活きがイイんじゃねえか。活力がある。いいことだ」
「それにも限度ってもんがあるだろ、モノには限度ってもんが」
「お前が言えた義理か」
「俺が騒いだって、そりゃあお前、個人攻撃だ。あたり構わずってんじゃねえ」
「うるさいことには変わりねえだろ」
「それこそお前が言うかよ。いつもやかましく声張り上げてるくせに」
「誰が声張り上げさせてると思ってる」
「俺じゃねえことは確かだ」
「自覚が足りねえな」
「てめえがな」
至極当然に言った慎吾を睨むも、初々しい人の群れを眺め、うつろに立っているだけだった。この骸骨のような生気の欠けた顔から、小気味よく言葉が飛び出してきたとはにわかに信じられなかったが、そういえば、と中里は思い出した。
こいつは夏になると、危険度が増す。
確か一年前の夏の初め、それまで煙草を口にぼんやりと佇んでいたというのに、他の仲間が海の話で盛り上がっていたところ、突然、海が何だ、と叫び出した。お前らは海の何を知っている、内陸に住んでいるくせに偉そうに語るな、どうせナンパするなら海にくるようなチャラチャラした女じゃなくて山に行くような気合の入った女にしろ、だの何だのと叫び、分かったな、と賛同を求め、分かった、と合唱されると、満足げにその場から立ち去っていた。中里が近い場所でそれを眺め、あいつは何なんだ、と驚いていると、慎吾と親しく付き合っていた男が苦笑しつつ言ったものだ。
「あいつは夏になると、頭がちょっとねえ」
実際昨年、事故に巻き込まれたり怪我人を出したり自分が怪我をしたりと、中里の胃を脅かす慎吾のいざこざが集中した期間は、春の終わりから秋の初めにかけてだった。ただ、その頃は今よりもよほど近寄ることがなかったため、直接被害を受けたこともなく、自然と記憶は薄れた。
その程度のことを気にかける余裕がないほど、それから今に至るまで様々なこともあった。
中里は不意にその片鱗を思い出し、無性に懐かしくなった。鼻の奥がツンとする。思えば遠くに来たものだ。
狂おしい郷愁に襲われながらも、中里は思った。どこかへ旅立ちそうになっている慎吾へいつも以上に刺激を与えるべきではない。今では大分角も取れたが、だからといって筋が通っているような通っていないような説教をしてこないとは限らないし、そんなものを聞いてしまっては、こちらの頭がちょっとねえ、になりかねない。
だが、自分から挨拶してこの流れを築いた手前、勝手なことを言われっぱなしというのも中里は癪であり、「しかし」と中ぶらりんになった話をおさめる方向に進めることにした。
「世代交代はどの世界でも必至だぜ。なら、下の奴らは勢いがある方がいいじゃねえか」
「それも質によるだろ、程度低くてやかましくても、面倒なだけだ。面倒な」
唇をあまり動かさず、語尾を小さく慎吾は呟いた。続く言葉はなかった。中里は言葉を返さなかった。誰が明確に非難されているわけでもないし、一応の話の形はついている。
遠く近く、鋼鉄の心臓が唸る音が地を這い、そこから放出される熱が皮膚の内側に溶け込んでくるようで、頭部もしかり、脳味噌は食べ頃にはなっていそうだった。使いものになるかは怪しい。
しばらく互いに声はなかった。
空気が大きく流動し、肌が一瞬、水に浸かったように冷えた。気力も戻ってきた。それを機に、それで、と慎吾はゆっくりと中里に顔を向け、面倒そうに、苛立ちを交えた声で言った。
「お前はいつ交代してくれるんだ」
中里は眉に力を入れ、目を細め、常の不遜さを全面に押し出している慎吾を見た。
「交代することが前提かよ」
「しねえのかよ。しろよ。いい加減俺に政権寄越せ、もっと有効利用してやるから」
「政権って何だ、今の俺に権力なんざ、あってなきが如しだぜ」
「それはお前の仕切り方に問題があるからだ。俺ならもっとうまくやる。だから寄越せ、老害はまき散らすな」
かげりのない自信をもって言い切る慎吾を見ると、そうかもしれない、と思えはした。この男はもとより権謀に長けているし、要領も良い。利害が重視される関係においては偏向的な私意も排除できるだけの冷静さを持つ。後を任せるにはもってこいだ。
しかし、現状ではまだ不安要素もあった。責任を逃れる術にも長けているし、夏には頭がちょっとねえ、だ。
そもそも――と中里は個人的感情を優先した。この物言いから統率の役目を引き継がせては、こちらが間抜けだ。
「楽しそうな計画を立てようとしてるところ悪いがな、お前が、そういう風にセッツイてくる間はやらねえよ」
中里は人の群れに目を戻し、なるべく余計な色をつけぬように言った。慎吾は目の端をわずかに痙攣させてから、ああそうかい、と人を小馬鹿にする声をあげた。
「分かったよ、だったらずっと第一線を張っててくれ。永遠ここにいろ、そんでここの山の神になれ。年に一回くらいはおにぎり供えてやるから」
「んなもん要らねえよ。けどそこまで言うならいてやるさ」
おい、と慎吾は声を震わせ、口を大きく開けて笑った。
「去れっつわれたらいるんだから、いろって言われたら去るのが常識だろ」
「頼まれごとを引き受けねえってのは、男の沽券に関わることだぜ」
中里はやはり人の群れを見たまま、静かに言った。慎吾は汗が染みてまだら模様が浮かんでいるシャツの襟元を指でつまみ、パタパタと数回はたいて胸元に空気を送り込んできてから、唇の右端だけを器用に吊り上げ、お前さ、と改まって中里を見た。
「首尾一貫、って言葉知ってる?」
「お前、無粋って言葉を知ってるか?」
「知ってるさ。お前ほど似合う奴もいねえ言葉だ」
「知らねえじゃねえか」
「自覚が足りねえな」
だからそりゃあてめえの方だろうが、中里はようやく慎吾を向き、腕を組んで憤慨露わに言ったが、知るか、と慎吾は一蹴し、顎をもたげ髪をふりあげ、前髪を後ろへ掻き、粘り強く頬にくっついている何本かを、指で丁寧に払った。その動作の、生活感のある上品さをついでに見ることで、中里はわずかの居た堪れなさを得、慎吾から目を逸らした。以前よりもよほど削られた距離は、些細な事柄をも拡大するようになっており、時折、例えばこういう時、何と言うべきか何をやるべきか、中里は手段を失った。
と、丁度目を向けた方から、皮膚に人工的な日焼けをほどこした短い金髪の男が軽やかに駆けてきて、慎吾を呼んだ。中里はあからさまにほっとし、慎吾はあからさまに眉をひそめ、不機嫌を露わにした声で、何だよ、と男に言った。
「いや慎吾ちゃんさ、俺と明後日あたり、走りっこしねえ?」
「しねえ」
提案を一も二もなく却下され、ええええええ、と男は大仰に崩れ落ちかけた。
「ちょっと待てよ、そんな即答することねーじゃん、少しは考えたってよお」
「走りっこって言い方が気に食わねえ。一昨日来い」
その慎吾の言い分を聞き、バカらしい、と中里は思った。そして何も考えず、つい思ったことを小さく呟いた。
すると、
「ああ!?」
今なんつったてめえ、慎吾が声を荒げて急激に振り向いてきたため、中里は怯んだ。
「……は?」
「バカらしい、バカらしいだと。何で俺がてめえにそんなこと言われなきゃなんねえんだ、俺が何しようが俺の勝手だろうが。お前は何様だ、殿様か、神様か。もう山の神気取りか。そうか、そこまで言うならこの俺が直々にお前の骨をその辺に埋めてやる、大人しく手にかかれ」
一方的にまくし立て、そうして慎吾は開いた両手をこちらの首に向かって突きつけてきた。その反応の苛烈さに、心臓は耳の後ろまでのぼっていたが、ああ頭だよ、と思い、中里の思考はすぐに安定した。首の前にある慎吾の両手を一瞥し、血走った目が際立っているその顔に視線を戻し、聞く。
「何だこの手は」
「首出せ、絞めてやる。即身仏にさせてやる」
「お前は、誰がいきなり手ェ突き出されて、自分から進んで首絞められようとするなんて思う」
「お前がだよ」
「こっちが絞め殺すぞコラ」
中里が歯を噛み締めながら凄んだところ、「いやいやいやいや」と流れに取り残された男が甲高い声を上げて割って入り、両手を振った。
「いいよもう俺はいいっすよ、別にやんねーならやんねーでも、だからそんな二人して殺し合いなんて、ねえ」
殺し合い? 慎吾は不可解そうに呟き、だらりと両腕を下ろして、最後を言いよどんだ男を見た。
「何で俺がこいつヤッて刑務所入んなきゃなんねえんだ、やるわけねえじゃん。っつーか良くねえよ、やるよ」
「あ、え、何? やんの、やんないの?」
「俺は見た通り、頼まれごとを引き受けねえほど無粋じゃないからな。やるよ、走りっこ、やろうじゃありませんか。日ィ昇る頃にでもよ」
あてつけだ。中里は思ったが、絡めばまた細かいことを言われるだろうから、それも無視をした。
男は泳がせていた目を慎吾に固定し、慎重に笑った。
「そんで、家帰って、朝日のお出ましとともに寝るとか?」
「ゼイタクな人生をプロデュースだよ。何か注文あるか」
安堵の笑みへと変えた男は、いやいやいやいやありませんよ、と早口に言い、足を一歩後ろにひきつつ、中里を見た。
「んじゃあ毅さん、そういうことでよろしくどーぞ。俺ァもう、行くっす」
「ああ、頑張れよ」
ういっす、と笑顔のまま喉から声を出し、回れ右をし、早足に男は去って行った。賢い選択だ、と中里は思った。用が終わればすぐに去るべきなのだ。
「何を頑張れってんだ」
男の背がまだ見えているうちに、慎吾がうろんげに言ってきた。何って、中里は数秒ためらってから答えた。
「お前に勝てるようにな」
「勝てるように。あのな、バトルじゃねえ、走りっこだぜ、これは。勝ち負けねえよ。もっとよく考えてモノ言え、バカ」
刺々しく慎吾は言った。中里は頭のどこかの血管が切れそうな感覚を受けたが、相手の苛立ちの大元に自分がいないことを感じ取り、すぐに醒めた。諸悪の根源は、暑さだ。少しの人の多さが、やかましさが、気温と湿度の高さによって強調され、感情も強調されているだけだ。腹を立てるほどのことではない。誰にでも起こりうる、単なる八つ当たりだ。
一年以上顔をつき合わせ、痛みを交換してきた相手だった。中里とて慎吾の感情の変化の切れ端ならば掴めるようになっている。そこから全体像をも推測できる。
しかし、切れ端はあくまで切れ端であり、推測もあくまで推測であり、結局どこにも繋がってはいなかった。
現実に取りうるべき手段は、差し出されなかった。
先ほど疼いた汗と整髪剤で濡れている頭皮を掻きながら中里は、いつからかの常となった、形骸化した怒りをもって会話を続けた。
「お前にバカ呼ばわりされる筋合いねえよ」
「考えなしでモノ言う奴がバカじゃなけりゃ、誰がバカだ。風邪もひかねえくせに」
「風邪ひかねえ奴がいるかよ」
「夏風邪だろ、どうせ」
「うるせえよ。俺にだって俺なりの、あれだ、色々があるんだよ、考えとか動き方とか、色々と。お前にそれが分かんねえだけだ。分かるわけがねえ、お前に、くだらんことばかり言いやがるってのに」
「そんぐらい」
雑音の中届いたその声は、薄いガラス板のような強い均一さを思わせた。低く通る、意味のない声だった。中里は続く言葉を待つとともに、慎吾を見た。慎吾は首の右側を伸ばし、ポケットから出した左手でそこをもんでいた。それは本当に凝っているようにも見え、またとってつけたようにも見えて、中里は落ち着かなくなった。
首から右肩に手を移し、肩を支点にぐるぐると腕を回し、ごりごりと鳴らしながら、慎吾は先とは違い、苛立ちも何も含まれない、だが抑揚のきちんとついた、明瞭な声を出した。
「他の奴らにゃ言うなよ、あれは。ただでさえうぜえのに余計うざったくなる、それに俺は、あいつと二人っきりで走り合いたいんだよ」
友情を深めるには打ってつけだ、したり顔で呟きながら、慎吾は左肩をもみ始めた。また腕を回し関節を鳴らすと、背中に手を当てて伸ばす。そんぐらい、に続きはないらしい。しかし中里はどうとも察することができなかった。慎吾は背中を反らせていた。痛みに顔をゆがめている。
それが終われば間がもたないことは知れていた。
「やったっていいんだよ」
隙間を作りたくない思いから、この近寄りの意味を求める思いから、中里は早口に言った。
背中を丸めて深く息を吐いた慎吾は、腰を叩きつつ、そぐわない真面目さで中里を見た。
「そりゃやるぜ、お前の許可なんかなくてもな。俺は走んのは嫌じゃねえんだよ、別に川田とでも、嫌なのはあの語感だ」
語感、と中里が呟くと、鬼ごっこじゃねえんだぜ、と慎吾は唇を尖らせた。話を飛ばしすぎたことを中里は悟ったが、軽い失望が十本の手の指を支配しており、蒸し返すのも面倒になって、ああ、と曖昧に頷き、場に相応しい言葉を探した。
「でも、別にそう変わりもしねえだろ。お前の場合は」
「俺の場合でもどいつの場合でも全然違うだろうが、お前はどこ見てそれを言うんだ」
慎吾の口調には苛立ちが戻っていた。中里の心中には落ち着かなさが戻っていた。どこも見てねえよ、とだけ中里は返した。見えているはずのものも、見ようとはしていないのかもしれない。
汗がこめかみから伝う。指で拭う。顔が熱く、目玉も熱い。肌も熱い。頭も熱い。体が爆発し、肉片が飛散しそうだった。雑音が耳の奥で鳴り響いている。思い出したように不快感が募り、焦燥感が足に溜まっていた。車に帰ろう、中里は思った。つくべき形はつかなかったが、話は滑稽ながらも終結を見せている。
「お前は」
場を離れるきっかけを作ろうとした時、慎吾がまた遠い声を出した。中里は慎吾を見た。別人を装おうとしていて、致命的に失敗しているような表情がそこにあった。言葉が宙に浮いていた。慎吾は息を吸い、それを喉に静め、再び出した。
「自覚が足りないんだ」
何の、という中里の問いは、素早く滑らかに向けられた慎吾の背によって拒まれ、声になることはなかった。言葉はやはり宙に浮き、何にも繋がったが、何に繋がることもなく、夜に消え、夏に消えた。
(終)
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