目の前には本日のバトルの相手がにこやかに立っていた。二十代前半、可も不可もない顔立ちに服装、だがこの峠に集まる男衆の中では格別の爽やかさを持つ青年だった。
「また毅サンと走れるなんて、ありがてーすよ。ども、ヨロシクッす」
 親しげに青年が言い、手を差し出してきた。中里は握手を求められていることに数秒気付けず、妙な間を置いてしまった。ああ、と慌てて右手を出し返し、こちらこそ、と驚きと疑念を抱いたままに青年の顔を見詰めても、青年は気にした風もなく手をしっかりと握り返し、笑った。
「俺は何もしてねえぜ」
 ひとしきりの挨拶を終え、残った不可解さに一人首をひねりながらスカイラインの元まで歩いて行くと、待ち構えていたらしき慎吾が、眉を絞り、面倒くさそうに声をかけてきた。
「誰も、何も聞いてねえだろ」
「どうせ聞くだろ」
 まあそうだが、と中里は唇をあまり動かさずに言った。慎吾は鼻で息を吐き、先ほどの青年と、青年が乗る車へと目をやった。
 いわく、イメチェン。個人レベルでならば、髪を切る、服装を変える、言葉遣いを変える。手法は様々だが、安定という名の飽和の崩壊がただ一つの目的だ。
 その青年は頻繁に峠に来ており、慎吾とよくつるんでいた。中里は一度、R32に乗り換えてほどない頃にバトルをしたという接触程度で、会話もほとんど交わしたことはなかったが、顔と名前を一致させることはできた。青年は一年半近く山に通っていた。サニーに乗っていた。シルバーに輝くサニーだった。
「あのセンスは、俺には分かんねえよ」
 慎吾が呟いた。俺にも分からん。中里は同意した。目の先には、青年のサニーがあった。ボディから何から、目の痛くなるような、桃色に覆われていた。紫を思い起こさせる、濃くどぎつい、ピンクだった。光の反射による立体感はあったが、それでも全体は二次元の絵を思わせる仕上がりとなっていた。非現実感が煽られた。いわく、イメチェン。
「そそのかしでもしたんじゃねえだろうな、お前」
 中里が聞くと、慎吾は億劫そうに、青年へ向けていた目を寄越してきた。
「何もしてねえっつっただろ、俺は」
「本当かよ」
「俺がそこまでする価値は、お前にはねえよ。自惚れんじゃねえ」
 慎吾は中里を睨むように見据えたまま、捨てるように言った。中里は黙った。疑いの根拠は勘でしかない。言い合うのも時間の無駄に思えた。口を閉じたまま慎吾の横を通り、車のドアを開ける。
「ビビッてんのか」
 乗り込もうとしたところで、耳に柔らかく、低い声が滑り込んできた。振り向くと、慎吾はやはり気だるげだった。
「誰が。あんなものは関係ねえ。どうせ前に出しもしねえ」
「お前、見かけのハッタリに弱いじゃねえか」
「ほざいてろ。先に下に降りるのはこの俺と、32だ」
 それ以上に慎吾の声を聞くのは腹立たしく、中里は運転席へと体をねじこみ、ドアを閉めた。ビビってなどはいない。驚いただけだ。そして驚きももう消えている。誰が車をどういじろうとも、その人間の自由であるし、その結果どれだけその車の性能があがろうとも、いつも通りに走るだけだ。自分に言い聞かせる。いつも通りに走るだけだ。敗北に苦しみ、手段を迷う時期はもう過ぎた。心臓の鼓動だけを耳に落とす。世界を閉める。変わったことは何もない。俺は俺だ。いつも通りに走るだけだ。呟き、鉄の心臓と連結する手足を動かした。
 所定の位置につく頃には、慎吾のことも思い出さなかった。

 ウソを吐いたという意識は思いのほか強く、指先を焼いた。慎吾は遠くに置かれたR32を眺めながら、火を点けていない煙草を噛んだ。火は、バトルが終わるまでは点けない。中里が勝つまでは、煙を吸わない。ただフィルターを咥え、時折噛む。
 マジでやったな、という、舌足らずで濁った声を頭が拾った。周りでバトルの開始を待つ仲間たちが、にやにやしながら、口々に品評を述べていた。いくら何でもピンクはなあ。でも前から塗りたかったっつってたんだろ? 言ってた言ってた、パーッと明るい色にしてえって。俺もあいつにやってもらったことあんだけど、ウマイんだよ。あれ、若社長だろ。ちいせえとこだけど。
「バカバカしい」
 慎吾は唇の端で呟いた。毅サンに話する前に、俺、一発気合入れるような何か、してえんだよな。サニーの男の、迷いのない声が蘇る。バカバカしい。もう一度呟く。あいつは見た目のインパクトに弱いからな。自分の、わざとらしい声が蘇る。耳が熱くなる。束の間呆然したサニーの男の、にわかに輝いた目が思い浮かぶ。一ヶ月前のことだった。元々板金好きの男で、全塗装もお手の物だった。そこにかける手間暇を車の運転に費やせば、という指摘は無粋だった。それは男の仕事にもつながったのだ。
 そんな奴が、勝てるわけがない。慎吾は並ぶ黒いスカイラインとピンクのサニーを見た。技術も経験も車の性能も、何もかもに差があった。中里は、愚かなまでに自身を車に捧げている。その先に栄光などありはしないのに、そうと自分では気付かぬうちに、骨が見えるまでに肉を削っている。そんな奴に、勝てるわけがない。
 だが、中里が動揺している可能性はあった。集中力を欠き、スタートを失敗するかもしれない。焦り、ステアリングを切るタイミングを間違えるかもしれない。勝負は何が起こるか分からないものだ。一つの失敗が全体の崩壊を呼ぶ。その捨て台詞も、虚勢からかもしれない。実際は運転席で手に汗をかき、わなないているかもしれない。想像すると、口内がかわいた。
 スタートに失敗はなかった。
 既に見えなくなった車体が生んだエンジンの回る音、タイヤが地面を擦る音、すすが後部から放出される音が、次第に遠ざかっていく。負けたらどうしてやればいい? 慎吾は煙草を唾液で濡らしながら考えた。笑いそしるか、皮肉で済ますか、優しく慰めるのか。負けたらどうなっている? どういう顔をしている? 絶望、諦観、怯え? ものともしていなかった人間に抜かされる屈辱、こんなはずではなかったという後悔。様々なものにまみれた顔。考えると、首筋がざわつく。中里の負けはつまり、その中里に勝てたことのないこちらの負けでもある。理屈として慎吾には責める権利があった。権利がなくともその気になれば、罵倒し、殴打することもできた。考えると、背筋が震える。想像は甘美だった。
 アクセルを踏み込む最中に、ブレーキを踏む瞬間に、揺らぎはあるだろうか? 精神や肉体をかき乱す焦燥は? 車の操作を失うことは? 曲がり切れずにクラッシュするか、ひっくり返るか。足を潰すか、腹を潰すか、頭を割るか。だが、中里が容易く正規の道を逸れるほど弱くはないことを慎吾は知っていた。なぜなら慎吾は中里に勝ってはいないのだ。中里は無事に戻ってくるに違いなかった。慎吾は事故の報告を期待しながら、歯の裏を舌で舐める。剛健であってもらいたかった。だが同時に、屈服させたくもあった。それができるほどの、隙を抱えていてもらいたい。誰もが見つけられるわけではない、ごく小さく狭い深奥に続く穴、それをいつかこじ開けることを思い、唾をのむ。
 以前なら苛立ちしか感じられなかった中里のバトルで、こうして精神が焦げ絶えていく楽しみを得られるようになったのは、ひとえに時間が経ちすぎたからだろう。出会った頃の鮮烈さも、憎しみもこだわりも薄れてしまった。未練だけが残っている。その未練が、より強い感覚を求める。より強い恐怖、緊張、下腹部がいきるような、興奮をだ。
 一瞬のどよめきが思考を割った。それはすぐに静まり、わずかに広がっていた緊張感も絶えた。中里は確かに本人の言通り、先に下に降りたのだ。つまんねえな。誰かの呟きだった。だがまだ慎吾はそれを口にはしない。終わってはいない。中里の姿をこの目で見てはいない。その身が無事であることを、その顔が安堵と慢心で見るに耐えないほど崩れていることを確認してはいない。叫び出したくなるような不安が肘を軋ませる。現実的な、そして精神的な圧迫が、膝を締め付ける。
 それが、心地良かった。

 ありがとうございました、と青年は笑って言った。負けても笑っている人間は、押し寄せる感情から逃避しているか、すべてを認めてしまっているか、大抵がどちらかだ。青年は後者であるようだった。中里も口元だけの笑みをやって、手を差し出した。青年は少しだけ戸惑ったあと、満面の笑みで、手を握り返してきた。
「おめでとう」
 再び上にあがり、シビックの前にしゃがみ込んでいた慎吾にまで歩み寄っていくと、重そうに頭を上げ、咥え煙草で棒読みに言われた。中里は慎吾のつむじを見下ろしながら、これ見よがしだな、とつい言った。
「何が」
「めでたいとも思ってねえくせに」
「黙ってても文句言うだろ、お前」
「そんなことねえよ」
「ウソつけ」
 慎吾が両膝に手をつき、深く息を吐き出しながら立ち上がった。ゆっくりと、顔をこちらに向けてくる。いつも通りの見苦しい顔だった。だが目を背ける気にはならなかった。自然、見合った。退屈そうに、慎吾は口を開いた。
「そそのかしたのは、俺だよ」
 中里は驚かなかったが、驚いた。漠然とした勘は消えていなかった。予想していたことだ。だが、今にもあくびをしそうなほどに気の抜けた顔で、舌を少しもつれさせながら、なぜ今それを慎吾が言うのかが分からなかった。驚きが、反応を鈍らせる。
「あ?」
 余裕を失ったまま、何を問うつもりもなく、問うような声を出した。慎吾は光の潜んだ目をそっと向けてきた。
「俺が本気でやれば、お前は俺には勝てなくなるぜ」
 中里は言葉を返さなかった。そんなわけがあるか。言いたかったが言えなかった。そうだろうな、とわずかにでも思えたのだ。
「やってやらねえけどな」
 慎吾は煙ののぼる煙草を噛んだまま、お前は本気じゃない俺に負けるんだ、と平坦に言った。その目はもう中里を見なかった。中里は慎吾の開かれた額をじっと見た。そこには何も書いてはいない。見える表情も倦怠に染まっているのみだ。何を言っても態度は変わらないだろう。自分で終わらせた会話は、二度と掘り起こさない。触る隙も与えない。そういう男だ。中里は何も言わずにスカイラインに戻ろうとしたが、ためらい、回れ右をしかけてから、しっかりを声を出した。
「ほざいてろ」
「ほざいてるよ」
 声はすぐに返ってきた。そして慎吾は顔を上げることなく先に背を向け、シビックに乗り込んだ。中里は回れ右を完了し、唸るエンジンの音を振り払うように、勢い良く足を踏み出した。なぜ、どうやって? 疑問がぐるぐると頭を巡る。ついに中里は足を止めた。振り向くと、シビックは発進していた。
「ほざいてろよ」
 小さく中里は言い、舌打ちして、慢性的な苛立ちを抱えたまま、再び歩き出した。
(終)


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