やり方
徐々に大気も冷たくなり、夜間に峠に集まり車にて超速度の領域を楽しむ輩の服装も、一部の断熱効果の高い脂肪を大量に持っている者や北国出身の者や温度変化を気にしない感性を持つ者を除き、下は足元まで丈があるもの、上はセーターやトレーナー、ジャケット類で占められていた。
そんな中、どこにも穴の開いていないジーンズ、長袖の上に灰色のパーカーを着込んだ隠れ寒がりの庄司慎吾は、所属している走り屋チームの同期である友人と、五十万円あったら愛車のどこを優先的に改造するかという仮定について話し合っており、そこで唐突に後ろから、「なー慎吾ォ、お前知らんの?」、と不明瞭な問いを受けたため、「あ?」、と不愉快さは隠さずに振り向き、「何が」、と問い返した。
「何がって、ナニだよ、毅サンの。おーきさ」
「ロケットペンシル?」
「アメリカンドッグかフランクフルトかポークビッツかってな」
後ろで三人寄り集まっていた同じチームのメンバーは畳み掛けるように答えた上で問いを重ねてき、慎吾はその疑問の脈絡のなさと低俗さに、こいつら相変わらずだな、と煩わしさを感じつつ、
「お前らよ、俺があいつと一緒に銭湯行って洗面器でセッケンカタカタ鳴らすような仲にでも見えんのか?」
と、我らがチームのリーダー格である中里毅のムスコの大きさなど、己が知りうるべき立場ではないことを認めさせるために聞いたのだが、「いいや」、と下ネタ愛好家の三人と、更に聞いてもいない同期の友人まで揃って言下に答えてきたことには、事実を適正に把握されていることの納得よりも、腹立たしさを強く覚えた。赤い手ぬぐいをマフラーにするような仲に見られたいわけでもなかったが、即答できるほどにイメージが固定されているのも癪なものである。
ただでさえ悪人めいた顔に、薄情な、しかし引きつった笑みを浮かべながら、「だから知ってるわけねえだろうがよ、俺が」、と舌打ちののちに慎吾は言い、低めた声で続けた。
「あいつは酔っても脱がねえし、下半身見たことある奴もいねえんじゃねえの。そもそも酔わねえし」
あーなるほど、と二人が頷き、残る一人のヒラメ顔が、「お前ならイイ線いってっかと思ったんだけどなあ」、と残念そうに言ってきて、「何の線だよ」、と慎吾はGT-R狂の男との関係性において受けているであろう誤解にうんざりしながら、「っつーかんなこと知ってどうすんの」、と尋ね、「いや別に」、とあっさり言われたため、「はあ?」、と因縁づけるように三人を睨みつけた。慌てた様子でヒラメ顔が、
「いやいや、何か暇だったからさ。ネタになるじゃん、意外にでかいのか普通にでかいのか、毅サンだし」
と言い、他の二人は「どっちにしろでけえって感じ?」「でも短小包茎って線も捨てがたいよな」「でもあれで真性は救われねえぞ」「ってか中里って下ネタ乗ってこねえから分かんねえし」「童貞かよってな」「そうなんじゃね?」、などと被せてき、他者をからかい屈辱の海に落とすことを至上の喜びとしている慎吾としては、その好奇心を追い求める姿勢も理解できないわけではなかったが、いかんせん対象になっている男が小物すぎるので、さほど価値を感じられず、くだらねえ、とため息を吐いていた。
くだんねえのはくだんねえけど、でも毅サンだぜ、とヒラメ顔は言い、他の二人と同期の友人までも加わって、その後四人で話を膨らませていたが、毅だろ、と慎吾はうんざり思った。あんな自意識過剰の意地っ張りの誇大妄想家、童貞かどうかは知らないが童貞回路を頭にしっかり備えている、お前のカーチャンデベソ的挑発にも容易く乗るような単細胞など、車をけなしても個人の振る舞いをけなしても反応が同じなので、つまらないことこの上ない。顔を合わせるとつい揶揄をしてしまうのは単なる惰性だ。おそらく股間の大砲だか拳銃だかを話題にしたところで、顔を真っ赤にして喚き散らして終わりだろう。つまらない。くだらない。時間の無駄だ。
もっと羞恥心を煽り、動揺を深くして、自尊心を砕く、後々まで悔恨を引きずらせるような手筈をもってすれば、いくらかは楽しめるだろうが――。
そうして四人が「っつかあの歳で童貞はキツイだろ」「妖精見れそうだけどな」「でもああいうタイプでテクあったら女は逆にイイんじゃねえの?」「あったらな、なかったら悲惨だぜ」「いやなくてもトーゼンって感じだし」「あー、マイナスのギャップねえけどプラスはあるって?」「ほら、傘持ってねえ番長が雨の川岸で子猫を制服の内側にしまってるのを目撃するような胸キュンだよ」「いやわかんね」、などと会話している中、慎吾はそこまで考えて、奸策を弄するには卓抜している脳が後は勝手に動いたため、「そうか」、と呟いており、三人プラス一人に視線を一気に向けられて、「お前はやっぱ分かるかよ慎吾」、と坊主頭に笑顔で言われ、いや、と肩をすくめた。
「徹底的にやるんなら、そうできねえこともねえ、ってな」
愛車の四つのタイヤの具合を確かめたのち、そろそろ一服でもするかと立ち上がった中里毅は、ねっとりとした声に後ろから名前を呼ばれ、気負いなく振り向いた。思った通り、出っ張った頬骨を染めた前髪で覆っている、好青年とは言いがたい顔の男がそこにいた。
「慎吾、何かトラブッたか」
「トラブッてもお前にゃ相談しねえよ、俺は」
庄司慎吾は中里の横につき、当然のごとく言い放った。中里は少しの間を置いて、可愛げねえなあ、と本音を呟き、おうよ、と慎吾は胸を張り応え、中里の後ろに回りながら、「お前、俺に可愛げあってもどうしようもねえだろ」、と続けた。確かにこの犯罪上等男に可愛げがあったところで恐ろしいような気もしないわけではなかったが、「平和じゃねえか」、とひとまず理屈を無視した楽観的な結論を出した中里は、いつの間にやら己の両手首が後ろから掴まれて頭の上まで掲げられていることに対し、そこでようやく、「で、これは何だ」、と尋ねた。
「気にすんな。ハイ、両手組んで」
「はあ?」、と声を上げつつも、つい操られるままに中里は後頭部で手を組んでおり、「身体検査だよ」、と言った慎吾が脇の下から服越しに両手で絞るように撫でてきたため、むずむずしつつ、「何も持ってねえぞ、俺は」、と事の無意味さを伝えてやったが、「ノリだよノリ、こういうのはよ」、とよく分からぬ理論を押し通された。
今日のタートルネックのセーターは体に密着するサイズのもので、じかに触られているような生々しさが拭えない。目の前には数名のメンバーが立つなり座るなりでたむろしており、慎吾の手がジーンズの尻ポケットに移った頃、中里はいい加減、俺は何でこんなところでされるがままになってるんだ、と悟りを開くような心地になった。
「おい慎吾、いい加減に……」
それでも律儀に両手は頭の後ろで組んだまま、腰をひねって後ろでしゃがんでいる慎吾を見下ろしたとき、ジーンズの前ポケットを探っていた慎吾の手が、素早くジーンズのボタンを外しファスナーを下ろし、中里が疑問を感じる間もなく、一連の流れの中、ブルージーンズは下着ごと一気に膝下まで下ろされていた。
おおー、と、無責任な感嘆詞が上がった。中里は慎吾を見下ろすためにひねった腰を戻し、やけに涼しくなっている己の下半身を見下ろす姿勢に変え、同時に、
カシャ、
と音がして、何か瞬間的に強い光が前方からきたのを感じ、目をやると、しゃがみこんで携帯電話をこちらに向けているメンバーがおり、「おお、オッケーオッケー」、とその坊主頭は立ち上がり、「へえどうよどうよ」、「お、バッチリじゃん」、などと周囲にいる他のメンバーと話し始めた。
中里はそこでようやく、腰骨までしかないセーターには隠されず、剥き出しになっている股間を確認して、慌てて両手でそれをふさぎ、思い直して右手だけにし、左手でジーンズと下着を何とか引っ張り上げて、ファスナーを上げながら、「お、お、お、お前らァッ!」、とどもりつつ叫んだ。
「なに、何しやがるッ、コラァァ!!」
その怒声に、携帯電話をそれぞれいじっていた数名が身をびくりと震わせて、中里を振り向き、潰れた鼻をしている一人が、しかし能天気に、
「や、中里チャンのイチモツ拝見? んで激写?」
と笑い、横のヒラメ顔が「永久保存版スね」、などとしたり顔で言ったため、中里の脳内で何かがぶち切れ、「今すぐ消せェッ!」、と出せる限りの声で怒鳴ったが、メンバーは「えー」、とふざけた声を上げるのみだった。
「『えー』、じゃねえッ、いいかッ、さっさとそれを消さねえと、お前ら全員俺の手で妙義の谷底に突き落としてやるからな!」
声を裏返らせつつ指差し凄むと、へーい、と彼らは不満げな返事をし、結構イイ具合に撮れてんのにな、ってか落とされんのかよ俺ら、法律的にやべえだろ、俺中里さんになら落とされてもいいぜ、お前それ思考危険スギ、などとぶつくさ言っていたものの、ともかく宣告は通っていたので良しとして、「大体ッ!」、と中里は勢い良く後ろを向いた。
「元はといえば、慎吾ッ! てめえは――」
あんなマネをしやがってどういうつもりだ、という言葉は、道路と愛車と木々しかない風景に、喉の奥でせき止められた。先ほどこちらのイチモツをさらした男もいなければ、端に見えていたはずのその男が乗っている赤いシビックすらなく、中里は己の顔に引きつった笑みが浮かんでいくのを止められなかった。
「……あの野郎」
逃げやがった、という呟きは、冷たい風の音にさえぎられた。
一旦街まで出てコンビニで夜食を買い込み車中で弁当を頬張っていると、助手席に置いていた携帯電話がブブブブブと震え、見ると仲間の一人から、画像を消しておかないと話が通じなくなるぞ、というような主旨のメールがきていたため、元々話が通じないから構わない、というような主旨のメールを返し、慎吾は再び弁当をかっ食らった。
硬い飯粒を飲み込みながら、あの調子だと全員の携帯電話取り上げて一人一人画像を消させてるな、と考える。別に顔まで写ってないのだし、騒ぎ立てるほど異常なものでもないのだから――すぐに送られてきた画像を見るに、極端に長くも短くもなければ、極端に太くも細くもなく、極端に曲がってもなく、極端に皮も被っていない――、放っておけば良いものの、こだわるから面白がられるということを、あの男は分かっていないのだろうか。
まあ俺はその手にゃ乗らねえけどな、と思い、缶の緑茶を飲む。以前は些細なこと、それこそ服装から言葉遣いから動作に渡るまで突っかかり、煽ってけなしていじめ倒すことを楽しんでいたが、自分たちの和解後、あの男をいじる人間も増え、流行というものを嫌悪する慎吾としては、同一に見られることを忌避し、目立った行動は取らなくなった。それに元来楽しかったのは、あの男が間違いを犯して取り乱す姿ではなく、あの男の、嫌な相手に罵倒されて屈辱に歪む、その表情を見ることだった。
同じチームの仲間としての結束が生まれたことを悪いと思いはしないし、多少の馴れ合いも許せる範囲ではある。しかし、そのおかげで中里の態度が軟化していることには釈然としない。どれほど皮肉をぶつけようとも、顔を真っ赤にして声を上擦らせるくせに、最後には、仕方がない、で終わらせられるのだ。それもあの男言うところの、平和であるのだろうが――つまらない。
そして、いくらつまらなかろうとも、本当に憎まれる行為はしようとしない自分が、かえって憎らしい。
今回にしても、やりすぎた感はあるが、結局最後はため息一つで終了だろう。そうしようとしてここまで抜け出しているのだから、そうなって当然だ。
茶を飲み干し、車から降りて、食べ終わった弁当の容器と空き缶を、コンビニのゴミ箱へと突っ込む。風に吹かれ、一つ身震いしつつ、他の手がありゃあな、と思いながら、再び車に乗った。他の奴らと同等ではない方法、妥協できぬほどの辱めを受けさせる方法があれば、もっと快くなれるのだが――。
ああ、と呟くと同時に、携帯電話が再び震え、開いて何度かボタンを押すと、自分たちはもう帰るが中里はしばらく残るようだ、という内容のメールが見えたので、了解、とだけ返してパタンと携帯電話を閉じ、悪巧みには最適な頭を持つ自分に満足しつつ、慎吾は車を発進させた。
他の人間すべてが撤収したのちも根気強く残っていたが、幾度走っても集中できず、中里は駐車場に立ち尽くした。精神面が弱いと感じるのは、こういう時だ。さすがに出回ったすべての画像を消去させるまでは狭量すぎたか、しかしそれでも残っていたらどうしたものか、という考えが頭蓋骨の内側をぐるぐる回っており、運転にて振り切れもしなかった。
見せろと真正面から言われれば、見せただろう。自信があるわけではないが、隠し立てするほどのモノでもなく、さほどのコンプレックスもない。だからそれを見られたことにも、画像を残されたことにも、傷つくなどは一切ないし、極端な話、どうでも良かった。
それでも行動せねば気が済まなかったのは、騙し討ちを易々と食らったがために、威厳を失いたくなかったからだ。各自の罪を問い、罰を与えることで、足場を固めようとした。下半身の露出という一件による恥よりも、まとめる立場として失態を犯した恥の方が、強く脳みそを焼き、保身に焦るあまりに過度に締め上げやしなかったかと、今になって中里は不安に襲われていた。
そして、まだ一人、何ら処分を下していない者が残っていることも、憂鬱さをもたらした。
首根っこを掴んだメンバーの一人が聞きもしないのに白状したところによれば、
『いやー毅サンのオチンチーンでしょ、ネタになるんじゃねえかって俺らが話してたら慎吾クンも乗ってきてくださったっつーかァ、いや最初はねあいつも嫌だ嫌だとは言ってたんだけどほら実際やってみると意外に良かったりなんかしたりしちゃってっていうか、まあだからみんなで考えたんスよ、みんなでね、ハッピーになる方法を!』
ということで、誰か一人の責任を一方的に追及する話でもないが、実行犯を逃すわけにはいかない。第一、他の人間ならばやらなかっただろう。やれなかったはずだ。少なくとも、中里自身は他のメンバーにそこまでの蛮行を許すほど、チームの規律を緩めているつもりはないし、実際今まであの男以外の人間から、この部類の仕打ちを受けた記憶はない。だから、慎吾だからこそ、と思う。あいつだから、できたことだ。
島村栄吉との一件が終わった後から、面倒ごとを避けるように随分と大人しくなっていたため、つい油断をし、あの男が快楽主義者であることを忘れていた。それは自分の過失だ。だが、身体検査を称してジーンズを下着ごと下ろしてきたのは慎吾である。それはあの男の罪だ。だが、裏切りではない。
時間が経てば全身に広がるかとも思われた怒りの炎は、大分前に腹の底で火種が消えていた。以前なら、三日後でも燃えさせられただろう。今は、恥辱からくる怒りよりも、衝撃がいまだ尾を引いている。そもそも、自分があの男の何を信じていたかだ。所詮、バトルで卑劣な真似をしないということのみではないか? その評価を、普段の振る舞いにまで持ち込む方がお門違いなのだ。そこで、こうして不満を抱えている方が――。
ヤめだヤめ、と中里は首を振った。終わったことを引きずったところで仕方がない。慎吾に対しては後日、正式に謝罪を求めて終了にすれば良い。とりあえず一服して、気分が乗れば後何本か走り、帰ろう。そう決めてすぐ、静寂に満ちた山に遠く走行中の車が放つ音が響き、中里は再び一服の機会を逃した。
「走り足りなかったからな」
一見ではどこにでもありそうな赤いシビックから降りて、目の前まで白々しく来た男は、白々しくそう言い、そうか、と中里が白々しく頷くと、考えるように唇を突き出し、それから大きく口を開いて、「毅」、と呼んできた。中里は努めて平静に、「何だ」、と用件を聞く姿勢を取った。
「悪かったな。俺は、ああいうことは範疇ってんでもねえんだけど」
素直な謝罪か無反省の言い訳、どちらか一方を想定していたため、慎吾のそのどちらともつかない言葉に中里は戸惑ったが、ひとまず謝られてはいるのだし、これ以上真面目に取り合うのも馬鹿らしく、一つ息を吐いてから、別に、と言った。
「もう済んだことだ。撮られたもんも全部消したはずだしな。起こったことを今更どうこう言っても仕方ねえ」
全部ね、と慎吾は何かを含んだ口調で言い、中里が見ると、軽く首を横に倒し、「顔は写ってねえだろうし、そこまですんのはな」、と他人事のように続け、一旦奥へ引っ込めた罪悪感をえぐり出された中里は、内心動揺しながらも、「プライバシーの問題だ」、と言い切った。ふうん、と顎で頷いた慎吾が、妙な間を置いてから、「それとも」、と嫌らしい笑みを浮かべた。
「そんなに自分のナニに自信ねえってか?」
「……あ?」
「誰かに見られたら恥ずかしいようなもんつけてるってことだろ、そんだけ必死になるのは」
にやにやしているその面を、ふざけるなよ、とねめつけると、慎吾はすっと笑みを消して眉根を寄せ、あ、間違えた、と小さく呟いた。予想外の言葉ばかり出されるもので、中里は毅然とした態度を保てず、「何、何が」、とどもっていた。慎吾はばつが悪そうに顎を掻き、不満げな声を出した。
「こっちじゃねえんだよな、持ってくのは……まあ、方向性としちゃ間違ってねえんだけど」
「何の話だ」
「そんな面白くもねえのにやっちまうなんて、習慣ってのは恐ろしいなっつー話だよ」
うん、と一人頷く慎吾を、おい、と咎める。こっちとはどっちなのか、方向性とは何のことか、面白さは何によるのか、それらの習慣はどこへつながるのか、いまいち全体としての意味が分からない。慎吾は顎に触れていた右手を、中里の肩に置き、左の拳を口元に当てて一度咳払いをすると、「そんで」、と改まった調子で言った。
「悪しき慣習を打破してみるか、っつー話」
近距離で数秒見詰め合い、「……だから、何だ?」、と話の流れを理解し切れぬ中里が問うも、慎吾は答えぬまま、左手で中里の後頭部を掴み、急激に唇を重ねてきた。次にはもう、ざらりとしたものがぽかんと開けていた口内に入り込んできて、事態の異常さに気付き、中里は慎吾の身を押し離そうとしたが、後頭部といつの間にやら腰まで引き付けられていて、力が拮抗し、体勢は変わらなかった。いっそ侵入してきた舌を噛んでやろうかと思ったが、いや流血沙汰はヤバイ他の手立ては、いやいやしかしこれは俺の人権に関わる問題で非常事態だから超法規的措置も取って然るべきケース、いやいやいやけれどもそこまでするのはさすがにやり過ぎであるからして、などと考え、そうしているうちに、内側を擦っていく動きに体が反応し、力が徐々に抜けていった。
「ン」
鼻を通って出た声の高さに自分で驚き、全身に鳥肌が立った。唇も、歯も、舌も、肉も、粘膜も、余すところなく口でなぶられて、相手の下半身と密着している己のムスコが目覚めかけるまでに至り、物理的な息苦しさと、同じ走り屋で同じ男で似たようなダウンヒル記録を持つ庄司慎吾にそうされているという屈辱感が思考を支配し、俺はもう死ぬべきじゃねえか、と中里が一足飛びのことを考え出した時、ようやく慎吾は顔を離した。唾液が細い糸を引き、唇の端に落ちる。後頭部と腰には手をあてがったまま、浅い笑みを浮かべた慎吾が、額がつくほどの距離で、「感じたか?」、と軽く囁いてきて、中里は様々な感情のために、頭に一気に血が上るのを感じながら、「はァ!?」、と声をひっくり返し、睨みつけたが、慎吾は相変わらず軽い調子で、
「顔はヤバイとか言われるけどな、俺は、女はキスと手マンで落としてるからよ、まあ突っ込んだ先はどうでもいいから苦情くっけど」
と囁き続け、途方もない現実を処理し切れていない脳を抱えた中里が、どうしようもなくわなわな震えていると、「あー、なあ」、と唇の端を醜く上げてきた。
「俺、お前のそういう顔、好きだぜ」
その言葉の不躾さか、滑稽さか、軽薄さか、残酷さか、何が要因であったのかを中里が知ることは永遠にないが、ともかくそれを聞いた瞬間にやり切れなさのメーターが振り切れたことは確かであり、火事場的馬鹿力を発揮して、両腕が自由になるほどの間合いを確保した中里は、ろくな構えもせぬまま、
ボゴッ、
ガチッ、
と嫌な音を立てるほどの右アッパーを、慎吾の顎に決めていた。
衝撃で後ろに倒れかけたが何とか足を踏ん張って、二、三歩よろめくのみで起立し続け、顎先に重い拳を当てられた痛みと、上の歯と下の歯が勢い良くゴッツンコした痛みとで涙目になりながら、「あー、ああ、いへ、いてえ……」、と顎を押さえた慎吾は、今まで見たこともないほど顔全体を紅潮させた中里を、厳しく睨み上げた。
「クソ、加減知らねえな、てめえは……顎が割れたらどうすんだ、慰謝料払えんのかよ」
「慰謝料なんぞいくらでも払ってやる!」、と太っ腹な宣言をした中里は、「いいかッ」、と猫背になっている慎吾を指差し、
「二度とこんな舐めたマネをしやがるんじゃねえッ、やりやがったらお前を殺して俺も死ぬ!」
と続け、慎吾はその迫力にひるみかけたが、発言の内容を理解すると、その突拍子のなさのために、冷静にならざるを得なかった。
「……何かそれ、違うような気がすんですけど」
「……だから、もうやるなっつってんだよ! 分かったか!」
奇妙な間を置いてから、慎吾が片手を上げつつ疑問を述べると、中里も中里で不思議な間を置き、指差しをやめずに必死の形相で叫んだが、先の口付けののちの、わずかながらでも恍惚とした中里の表情と、これだけの動転ぶりを視認したことで、慎吾は満足しており、また顎関節にまで負担をもたらした打撃に嫌気も差したため、「いややらねえよ」、と両手を上げて即答した。
「これだけマジになられるとネタにもなんねえし、やる度こんなことされてたら、俺の体が先に壊れる」
「俺の体だってもたねえよ!」
その誤解を招く中里の言葉に、「でもショージキ良かっただろ」、と慎吾は反射的に被せており、「割るぞ」、とどすの利いた声でただちに返してきた中里へ、「ちょっとはカチッたんじゃねえの?」、と更に問い、中里が額に血管を浮かせたところで、いつもと同じ道を辿っていることに気付き、あ、クソ、と舌打ちした。
「結局こっちかよ、つまんねえ」
「……何なんだ、お前は」
かみ締めた歯をぎりぎりと鳴らしていた中里が、苛立ちを満面にして言ってくる。「別に、何でもねえ」、と洒落も皮肉も挟まず慎吾は呟き、中里から顔を背けて、考えた。不意打ちずり下げ事件についても、あの場に残り、揶揄を続けていれば一発どこかに拳なり蹴りなりを受けただろうか。真実不可解さに囚われているこの男は、問いを非難の足がかりともしていないこの男は、手加減もなく暴行しただろうか。いや――共犯者も定かではないあの場では、己の威信を第一とするこの男は、それもできなかっただろう。そして、おそらく先ほど謝らずに散々侮辱してやったとしても、済んだこととして手を出すまでにはならなかっただろう。つまり、この顎の痛みは――仕方がなくはない、ということだ。
結論の陳腐さに、ふん、と慎吾は鼻で笑っており、「あ?」、と凄むように顔をゆがめた中里への、そっち側への対応を、思考の流れによって瞬間的に思いついたので、「まあ、二度はしねえよ」、とその目を見据えながら言った。
「別のネタにはなったしな」
「別の……」
意味が分からぬように呟いた中里に、前触れもせず、一歩で間合いを詰め、逃げられる前に耳元に顔を寄せると、唇を舐めるように、「ズリネタ」、と慎吾は囁いて、すぐに素早く身を引いた。鼻先に風を感じた。右拳を上へ放ったままの中里が、信じられぬように目を見開いている。
「……このッ」
「二度はねえんだよ、学習しろ、っつーかお前のその行動カンペキ危険人物だしな」
「てめえッ、慎吾ォッ」
相変わらず声を裏返す中里が、本気で人の顎を破壊しようとする中里が、そうされても良いとすら思っている自分が愉快でたまらなく、ひゃはははは、と高笑いを上げたのち、後ろに軽やかに下がりつつ、「まーあれだ」、と慎吾は腹の底から声を出した。
「愛してるぜえ、毅」
中里は唖然とし、その顔がやたらとおかしくて、慎吾は更にひゃははと笑いながら、悠々と背を向けたのだった。
その後、車へと去っていく慎吾を、完全にキレた中里が全力で追いかけて、その背中に怒涛の勢いで飛び蹴りを食らわせて双方アスファルトの上で共倒れ、痛み分けになったとかならなかったとかということは、余談である。
(終)
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