非望
休日はほぼないから、誰かと会うのは夜が多い。呼び出されるのも夜が多い。大概は全国展開しているファミリーレストランで、ドライブや酒飲みやナンパの算段がつけられる。男からの連絡が多いが、女からもないわけではなかった。だが、今回女から持ちかけられた話は、過去の記憶をさらっても、一度もないと慎吾は断言できる。
「……中里か?」
山走ってる人で、眉毛の濃い、というよりは顔全体が濃い、沖縄っぽい。このキーワードから慎吾が推測でき、かつ目の前の女二人が知っているのは、その男に他ならなかった。
そーそー、と高校時代の同級生は、てらてらしている唇を横に広げる。
「その人にね、この子一目惚れしちゃって」
「アキ」
その金髪女の隣、黒い髪を肩までさらりと伸ばした、いかにも地味だが、顔立ちは整っている女が、困ったように、恥ずかしそうに顔を赤らめる。いいじゃん事実だし、と金髪女は性格の悪さを如実に表す笑みを浮かべる。
「あの人彼女いないんでしょ? 女子大生なら食いついてこない? この子、顔いいし」
ちょっと話があるから、とだけで呼び出され、暇なのでノコノコやって来た時点では特に何も考えていなかったが、このどぎつい化粧の女と薄く地味な女が二人並んで座っているのを見た瞬間から、多少予想はできていた。暇だ暇だとやかましいから、以前峠に連れて行ってやった奴らだった。その件が原因の、女が無闇にがっつく話だろうと思ったのだ。
ただ、その相手が想定外だった。
了承を得てから吸い出した煙草を味わい、あー、と慎吾は女二人を交互に見て、
「でもあいつ、給料のほとんど車につぎ込んでるよ?」
「あ、あの、そういうんじゃなくて、ただあの、私、お話してみたいなって」
言うと、地味な女は慌てたように、真っ赤な顔で言い返してきた。高い、柔らかな、落ち着いた声、白い肌、大きな目、細い首。趣味合わねえよな、多分、と思いつつ、ふうん、と慎吾は煙草の灰を灰皿に落とした。
「まあ、悪い奴ではないけど、ちょっとバカだからな」
その言葉も聞かなかった風で、連絡先分かる、と金髪女が身を乗り出してくる。一つ頷いてから、慎吾は地味な女を見た。
「アドあるけど、教える? それとも一回会ってみる?」
「え……」
きょろきょろと目を動かすと、地味な女は金髪女を見て、俯いた。舌打ちをしそうになり、慎吾は煙草を吸い、早くこの場を片付けようと決めた。
「会った方が早いか。あいつメール全然やんねえし。んじゃ都合教えてよ、話つけるから。お前この子のアド後で教えろ。俺から連絡する」
前半は地味な女に、後半は金髪女に向けて言った。オーケー、と金髪女はにんまり笑い、ありがとうございます、と地味な女はきちんと礼をして、ごめんなさい、と立ち上がった。
「私、これから勉強しなきゃいけなくて。すみません、お手数かけちゃって、本当にありがとうございました。じゃあね、アキ」
そうして、そそくさと去っていく。さらさらと揺れる黒髪、プリーツの多い白いスカート、細い足、ブラウンのブーツ。送ってやろうか、とは言わなかった。言うタイミングはあったが、言う気がしなかった。慎吾は煙草を吸い、アイスティーを飲んだ。そこで、「あんたさ」、と金髪女が話しかけてきた。
「可愛い子に対しては丁寧だよね」
目をやると、嘲笑があった。慎吾はただ億劫で、肩をすくめた。
「苦手なんだよ俺、ああいう系統。油断すっと泣かせちまうから」
「へえー。優しいんだァ?」
「っつーか、めんどくせえ」
「ふうん」
「何」
「いーや、だからあんた彼女作んないのかなーって思って」
女は人間が猿から進化したことを確信させる顔に、得意げな笑みを作る。一度、酒の入った勢いで、この女とセックスしかけたことがある。未遂に終わったのは、慎吾が役に立たなかったからだ。その時脳裏にちらついたものを考えると、多分俺は、一生彼女は作らねえだろ、と思う。しかし、それは誰にも言いはしない。言えもしないことだ。慎吾は煙草を吸ってから、別の理由を思い出した。
「泣く女見るとよ、俺、絞め殺したくなるんだよ」
さすがに女はぎょっとしたように、マスカラで周りをごてごてにした目を見開いた。
「何それ」
「まあ、男でもそうだけどな。弱い奴は嫌いなんだ。弱さを武器にする奴」
ぐだぐだ言ってねえで死んどけよ、と思ってしまう。弱いと気付いていない奴がいい。それを馬鹿にされてもなお気付かない鈍感さと、恥を知っている繊細さがなければ、つまらない。考えながら、灰皿に灰を落として顔を上げると、媚びるような笑みを浮かべた女と目が合った。
「危ないよねえ、あんた」
「普通にしてりゃ人畜無害だ」
「どうだか」
さて、と慎吾は上着を取って立ち上がった。
「俺も用事がある」
「あたしもあるよ、そりゃ。ね、慎吾、送ってってくんない?」
「タカの家までか?」
「うん。あんたのツレに女紹介するってことで出てきてるからさ。証拠欲しいんだけど」
上目遣いに見てくる女を見下ろしながら、慎吾は伝票を指差した。
「ここ、お前持ちだろ」
「まあね」
「めんどくせえ奴らだよな、お前らも」
言い、先へ進む。女は慌ててハンドバッグを取って、待ってよ、と後をついてくる。昔はどんな女とでも、四六時中くっつくことも厭わなかった。まだ、枯れるような年齢ではない。朝勃ちもするし、女の裸体を見ればすぐに勃つ。問題はその後だ。思考が肉体を凌駕する。何もかもが面倒になったのは、それを知ってからだった。
「ありがとね。だからあんたは好きだよ」
女は囁くようにして、腕を組んでくる。胸の柔らかみが肘に伝わり、一瞬反応しかけ、結局は何もない。現金め、と一応言い返したが、慎吾はその手を振り払わなかった。どうせ車に乗る時は、勝手に離れていくだろう。何もかもが面倒だった。自分の意にそぐわぬことばかりで、うんざりする。そして、それを認められない自分が、永遠に続くのだと思うと、神経は麻痺したようで、すべてどうでもよくなるのだ。
毅、喜べ、と藪から棒に慎吾が言ってきた時、中里はまず身構えた。この男が甘い言葉を使うのは、皮肉か揶揄か非難を効果的にするためだ。だが、続いた言葉は、どれもに当てはまらなかった。
「お前を紹介してほしいと仰る奇特な女が俺の知り合いに現れた」
中里は身構えたまま、その内容について考えるよりも先に、無表情に近い慎吾の、抑揚のない口調が気になった。
「……何だ、その怪獣が出てきたみてえな言い方は」
慎吾は不可解そうに、少し間を置いた。
「何だよ、もっと嬉しそうな顔しろよ。どうせ一年はお前のその無駄にデカイものも使ってねえだろ」
かっとなって睨むも、慎吾は平然としたままだった。一回だけ、チームの飲み会でハメを外してしまったことがある。その時現場を押さえられて以来、こうして度々当てこすられる。中里は苛立ちを感じながら、ようやく最初の言葉の内容について考え、戸惑い、後頭部をがりがりと掻いた。
「いきなりそんなこと言われてもな、実感もわかねえ」
「写メ見るか」
「あ?」
慎吾はジーンズのポケットから携帯電話を取り出して、少しいじると、画面を中里の目の前に突き出してきた。そこには女性の画像が表示されていた。長い黒髪の女の子が、上目にこちらを見ている。整った輪郭、整ったパーツ。清楚という言葉がぴったりだ。中里は少し見惚れ、思わず呟いていた。
「可愛い子だな」
「そりゃ良かったな。んで、今週の日曜どうよ」
唐突すぎて、何が、と訝ると、携帯電話をジーンズのポケットに戻し、代わりに煙草を取り出した慎吾が、面通しに決まってんだろ、とやはり平然と言った。
「は?」
「その子がお前に会ってみてえんだと」、と煙草を咥えた慎吾が唇を器用に動かす。「話してえんだか何だかな。だったら早い方がいいだろ、っつーか俺お前の恋路にぐだぐだと関わりたくねえし」
慎吾の顔に、不愉快さが走った。頼まれごとを消化する律儀さを持っているが、本当は面倒なのだろう。大体、女を紹介し合うような仲でもない。だが、悪い、と言うのもまた違うような気がして、中里は日程だけを考えた。
「まあ、日曜なら……休みだな」
「昼間でいいか」
「ああ」
「予定詰まったら連絡する。場所やら時間やらな。あとは適当にやれよ」
そこまで言って、慎吾はこちらを見てきた。何となく、中里も見返した。何だ、と慎吾が顔をしかめる。何、ということはなかったが、ふと中里は気付いたことを聞いた。
「お前は来ないのか」
「はあ?」
思い切り顔をゆがめられ、威圧的な声を出され、中里は慌てて言葉を付け足した。
「いや、その、いきなり二人きりだと俺も何というか、心の準備的なものが……」
こういう展開になることに対しても、まず心の準備ができていないのに、直接会うことになったら、緊張しすぎて何をしでかすか分からない。ああ、と慎吾は思い至ったようだった。
「お前、女に慣れてねえもんな」
「馬鹿にすんじゃ、ねえよ」
「してねえけど。じゃあ、俺がその女、店まで送り届けてやるよ。それならいきなりってんでもねえだろ。っつーか、二人きりになんねえと始まらねえんだからさ」
まあそうだが、と口ごもると、
「大体お前に女があてがわれることが奇跡なんだからよ。ちゃんとやれよ。向こうは気ィあるみてえだし、気ィある女相手なら普通にしてりゃ誰でもやれる」
唾が器官に入りかけ、中里は咳き込んだ。一瞬、画像の女の子と事にいたる自分を想像したのだ。顔が熱くなる。慎吾を睨むと、我関せずといった風に、煙草を吸っていた。この男の精神が、よく分からない。
「……お前な」
「一般論だろ。まあ、後で連絡するよ。精々気合いれとけ、いくら何でもジャージで行ったら引かれるぞ」
行かねえよ、と更に睨んだが、その時には既に、慎吾は背を向けており、じゃあな、とシビックに向かった。
肩の荷が下りたようで、中里はため息を吐いた。我知らず、緊張していたらしい。いつからか、普通の会話の仕方を忘れてしまった。今なお思い出せず、だから慎吾といると、無意味な疲労が溜まる。
そしてふと、女性の名前も聞いてないことに気付いた。知っていなければ、失礼だろう。後で聞くことだ。そう考えるも、何かしっくりこず、自分のスカイライン戻りながら、より考えた。
運転席のドアに手をかけたところで、指先が震えるような事実に思い至った。つまり、失礼だということだ。失礼になってはならない。それは興味ではなく、義務感だった。興味よりも、義務がまさっている。女性に対する興味よりも――そこまで考え、中里は頭を振って、車のドアを開けた。とにかく今は、彼女を作れるかもしれない機会を、逃さないことだ。一年間は、確かに女性の肌に触れていない。飢えているかといえばまた別だが、やはり人恋しかった。少なくとも、いないよりは、いる方がよほど良い。ようやく心が昂ってくる。その勢いで、中里は走りに向かった。
中里さんってどういうお方ですか、という文面を見ながら、俺にどういう答えを求めてるのかね君は、と思ってみて、めんどくせえ、と慎吾は呟いた。とりあえず、『優しいんじゃないかな』、などと適当に打って、メールを返信する。家でゆっくり酒を飲みながらビデオを見られる幸福を、こんなことで邪魔されたくはない。だが、向こうからの返信はやたらと早いのだ。慎吾は携帯電話の電源を切るかと考えながらも、結局着信音を鳴らすそれを開くのだった。
<庄司さんは、どういう方だと思いますか。>
スカトロは趣味ではなかったが、こういうくだらないメールの返事を考えながらだと、いっそ高尚な芸術作品にも見えてくるから不思議だった。飯を食うのも糞尿を出すのもセックスを期待するのも、同一の欲望だ。やりたいとも思わないが。
<おれの意見より、君の意見を大事にした方がいいと思うよ どうせ明日会うでしょ>
どうでもいい相手には、どうでもいい気遣いができる。思ってもいないことを、いくらでも言ってやれる。本当に気になる相手には、思いの一つも伝えられない。ビールを飲んだが、丁度排尿シーンと重なり、俺には芸術性がねえな、と思いながら、ビデオを止めた。チャンネルを変え、戦争がどうのと語っている番組をかける。同時に、携帯電話が鳴った。
<そうですねすいません。夜遅くにごめんなさい。ありがとうございました>
顔文字までおしとやかに見えてくるのは偏見だろう。おやすみ、とだけ打って、慎吾は返信し、閉じた携帯電話をテーブルに投げた。ビールを飲むも、ビデオの映像が目の裏に残っていて、口の中が酸っぱくなってきた。半分残っていたが、既に500ml入りの缶を二本空けているし、飲むのをやめる。明日、送って行かねばならないのだ。よく分からない女を、よく分からない男のもとへ。
めんどくせえ、と再度呟く。煙草を吸う。煙を吐く。テレビのリモコンを操作して、チャンネルを変える。サラ金のCM、高級車のCM、安っぽいドラマ、妙な顔の女子アナ。どれも見るに耐えない。神経がささくれている。電源ボタンを押し、テレビを消す。リモコンもテーブルに投げて、煙草を灰皿にひねり潰し、ベッドに寝転がる。明日、待ち合わせの場所に連れて行かず、家に連れ込んであの女をレイプをしたら、どうなるだろうか。細部まで想像したが、陰茎は反応しなかった。試しに逆を想像したら、半分勃ち、俺もどうだよ、と思いながら、慎吾はそのまま眠った。
携帯電話の目覚ましがなければ、寝過ごしていただろう。起きようともしなかったに違いない。それほど行く気がしなかった。だが、約束は約束だ。極悪人だの犯罪者だの思われるのは構わなかったが、約束を破る人間だとは思われたくなかった。プライドだ。約束を破る奴を軽蔑するために、約束は守る。
メールで寄越された通りの住所に車を走らせる。一人暮らし。女子大生、国立だ。高卒で地元のパチンコ屋に就職した身分では、まず関わることがない部類の女。中里はどうだろうか。分からない。個人的なことはよく知らないのだ。知れば知るだけ気になるから、知らないようにしている。
アパートの前に、女が立っていた。白いジャケットにピンクのインナー、黒い軽そうな膝丈のスカート。
近くに車を停めて、降りる。車越しに女と会う。ばっちりと化粧を決めた、それでも地味な、けれどもやはり整っている顔が見える。
「待った?」
「あ、いえ」
「とりあえず、乗ってよ。言った通り俺が送るから」
返事も聞かぬうちに、運転席に戻る。甲斐甲斐しいね、と思う。役割だけを果たすのだ。女が車にそっと乗り込み、ぎこちない手つきでベルトを締めたのを確認してから、慎吾は車を発進させた。片道十分程度だ、燃料代はツケておいてやろう。つまらないことを考えながら、いつもよりは優しい運転で、目的地に向かう。
「あの、すいません、本当にこんなことしていただいて」
「いいよ別に。俺も暇だし」
ほぼない休みをこんなことで消費するという自虐が、今は心地良かった。すいません、と再度女は謝ってきたが、慎吾はもう何も言わなかった。
いきなり後ろから、頭を金属バッドで殴られたような衝撃だった。高校生の頃、早々と免許を取ってから峠に通うようになると、若さに対して恨みを持たれることが増え、いきなり後ろから、左肩を金属バッドで殴られたことはある。『それ』を見た時、その衝撃が頭にきたという仮定が、一番しっくりときた。
「おせえよ」
「悪い」
立ち上がった慎吾が、苛立たしげに言う。中里は謝りながら、その姿を窺った。ジャージにトレーナー。寝癖がついたままの前髪。乾燥している顔と唇。いかにも寝起きでやって来ました、という状態だ。中里は自分の服装を考えた。ボタンダウンのシャツに、ツイードのジャケット。しわのないチノパンと革靴。それと、この女性。気まずそうに、気恥ずかしそうに小さな肩を更に縮めている。綺麗な顔立ちと、白い肌。長く、柔らかく、細そうな黒い髪。
「じゃ、俺はこれで」
この店の客層としては相応しいだろうが、まったく部外者となってしまっている慎吾が、女性に対してそう言い、まだ席に座っていない中里の肩に手を置いて、
「適当にな」
と、囁くと、じゃ、と振り返らずに店から出て行った。女性は立ち上がり、その背に頭を下げていた。女性――香織さん、という名を思い出しながら、中里は閉じそうになる喉をこじあけ、こんにちは、と言った。『香織さん』が、顔を上げる。間近で見ると、上唇が硬そうだった。
「あ、こんにちは、あの、すいません今日はわざわざ」
「ああいえ、こちらこそ」
沈黙が広がりかけ、じゃあ座りましょうか、と中里は愛想笑いを浮かべていた。あ、そうですね、と『香織さん』は照れくさそうな笑みを浮かべ、座る。とりあえずは気楽にファミレス、その後は自分で考えろ。慎吾の助言らしい言葉がよみがえる。中里は複雑な感情を抱えた。目の前の女性と、おそらく既に駐車場から出ているであろう慎吾。二人に対して、ばらばらの思考が組み立てられている。窓際の席でないのが、何か落ち着かなくさせた。
「あの、初めまして。桜井香織です」
しばらくの間ののち、『香織さん』が笑う。あ、こちらこそ、と中里は変わり映えのしないことを言った。
「えー、中里です。中里毅。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
そう言ってから、驚いたような顔になって、くすり、と『香織さん』は笑った。可愛かった。中里はつられて笑っていた。徐々に、平常通り、感覚が目の前の女の子に集中する。
「何か、おかしかったかな」
「いえ、その、こちらこそって、私も言っちゃってて」
「ああ。いや、その、えーと、すいません、僕、こういうの、慣れてなくてですね」
「私もです。男の人を自分から紹介してもらうのって、初めて」
高く、それでいて忍ぶ声。細められる目を覆う、長いまつげ。白い喉。何も考えずに見ているだけで、胸の奥が熱くなる。通路を歩く店員を呼び止め、とりあえずアイスコーヒーを頼んだ。水だけでは、冷静さを取り戻せそうにない。『香織さん』は微笑を浮かべながらコーヒーカップに口をつけ、それからごく自然に言った。
「さっき庄司さんに聞いたんですけど」
中里は再び思考が分岐するのを感じながら、ショウジ、と人物の名前であることを確かめるように言った。『香織さん』は、中里の顔を見ることなく、照れ笑いを浮かべたまま続ける。
「何度も聞いちゃって私、ちょっとうざかったかなって、でも気になっちゃって。あの、こういうのも何ですけど、良い方ですね、庄司さんて」
そこで水を差すのも何なので、ああ、まあ、と適当な同意を示しつつ、話の続きを待つ。ちらりと中里の顔を見た後、『香織さん』はコーヒーカップに目を置きながら言った。
「ここまで送ってくださって、それに私の変な、変っていうのも違うかもしれないんですけど、そういうメールにもちゃんと返事をくれて。私何度も聞いてしまって、中里さんがどういう方なのかって」
「俺が」
「直接会えば分かるとかメールくれたんですけど、私何か庄司さんの意見を知りたかったんですね。よく中里さんのこと知っていそうだから。それでさっき、しつこいかったんですけど聞いたんです、店に着いてから。そしたらね、答えてくれたんです」
嬉しそうに『香織さんは』言うが、中里の頭には彼女の顔は残らなかった。
「何ていうか、その、失礼かもしれないんですけどそのまま言った方がいいかなと思うので言わせてもらうと、単純だけど一生懸命で、馬鹿だけど周りは見えていて、仲間は絶対見捨てない人だって。時代錯誤な感じもするけどとかも仰ってましたけど。私それ聞いて、何だか緊張っていうんでしょうか、少し怖かったんですね。やっぱりきちんとお会いするのは初めてですし。でも庄司さんがそういう風に、優しく言ってくださって、それで私、何ていうかそういうお仲間のいる中里さんと、やっぱりお話してみたいなって」
彼女は冗舌になっていき、そして不意に我に返ったように、ごめんなさい、私喋りすぎですね、と肩を小さくした。いや、と中里は感情を入れられない愛想笑いを浮かべながら、『それ』を思い出していた。時間通りに店に入ってからこちらに気付くまで、彼女と対面で話していた『ショウジさん』の顔にあった、嫌になるほど柔らかい笑み。その由来するところを瞬間的に合点した自分の愚かさ。すべてがつなぐ一つの、自分のうちにある事実。その先思考は完全に分断され、彼女に対し中里は、営業をするのみとなった。
ありがとうございました、で終わった文面を見、だから俺は何もしてませんよ、と呟いてみて、慎吾は途端に腹が満たされるような、肉を削られていくような気分になった。胃がむかむかする。決して昼間から酒を飲んでるせいではない。元々胃腸は丈夫だ。あるいは、部屋にさし込んでくる夕日のせいかもしれない。郷愁を呼び起こすような、昔の記憶を洗わせるような色、空気、匂い。
「くそったれ」
舌打ちし、床にあぐらをかき直し、携帯電話のボタンを押した。登録してある、その番号を呼び出す。コール五回で、やっと出た。
「苦情言われんの、俺なんだけどよ」
挨拶も、名乗りも名乗られもせぬうちに、素早く言う。数拍ののち、電波を通して、悪い、という謝罪の言葉が耳を打つ。慎吾はそれを聞かなかった振りをした。
「直接会ってタイプじゃなかったってんならいいんだよ。仕方ねえ。誰でも分かる。どうしようもねえことだ」
『ああ。分かってる』
「分かってんなら、好きな奴がいることくらい先に言えよ。紹介した俺の面目ってものも考えろ。これからネチネチ言われるんだぜ、ゴリラみてえな女に。何でそんな男紹介したのよ、そのくらい確かめなさいよ友達でしょ、だの何だのと」
『悪かった』
一気に非難してやるも、ただ謝る中里の声は、感情を窺わせなかった。淡々としたかすれ声。低く、耳の奥、骨の奥に沈んでいく声だ。その常とは違う落ち着きぶりが、先を急ぐこちらを蔑んでいるように感じられ、また、文句を言えば言うほど苛立ってきて、舌打ちが漏れる。
「いい子だったろ」
『ああ』
「あれよりいい子かよ」
立ち入りたくはなかったが、ここまで至ると、聞かずにもいられなかった。中里は黙った。電話の向こうから、他の音は聞えない。段々と億劫さに侵食されていき、五秒もしないで、まあいいや、と慎吾は言った。
「終わったことだ。お前、もう女を紹介してもらえるなんて思うなよ。自分がやったことの重大さを噛み締めろ」
『ああ』
「てめえはああしか言えねえのか」
凄むと、中里は再び黙った。だが、怯えているわけではあるまい。言うべき言葉を探しているか、そもそもその言葉を持っていないのだ。慎吾は最後の舌打ちをして、またな、と会話を終えようとした。そこで、初めて揺らいだ声が耳に入った。
『そんなんじゃねえんだよ』
何が、とつい、尋ね返す。そんなんじゃねえんだ、と中里は繰り返すのみだ。急に、腹の奥に、ふつふつとたぎるものが出てきた。怒り、憎しみ、期待、軽蔑。それらが入り混じった、熱い塊が、喉をこじ開けた。
「そんなこと知らねえよ、俺は」
そして、一方的に通話を切った。何が何じゃねえなんて、俺の知ったことか。閉じた携帯電話を放り出しかけて、思い直し、もう一度、女からのメールを見る。
<多分、私がうざかったんだと思います>
確かにお前はうぜえけどな、と思いながら、開けたばかりのチューハイをすする。あいつに比べりゃ、マシな方だ。イカ刺しをつまみ、次のメールを見る。
<でも庄司さんがいってたとおり素敵な人でした 会えてうれしかったです>
チューハイ、イカ刺し、野菜炒めを順に口に入れる。ありがとうございました、まで読んで、携帯電話を閉じ、テーブルに放り出す。皿に少し残った野菜炒めを口にかき入れ、チューハイで流し込む。好きな女がいるなどと、聞いたこともなかった。峠で爽快なほどあっさり公然とフラれて以降、女の話はしていない。だから油断していた。まず確認するべきだったのだ。意中の相手がいるか否か、いるならば、その旨を先に伝えられた。断ることができた。誰も傷つけずに――いや、誰かを傷つけることなどどうでもいい。
問題は、自分が不快であるということだ。
イカ刺しも平らげて、やはりチューハイで流し込む。丁度空になったので、それを機にベッドによじ登り、布団を被った。何もかもが面倒だった。永遠に続く心も、事実も、消えてなくなっちまえばいい、そう思えど、生きるしかないので、慎吾はずっと抱えていく。何も与えぬまま、何も気付かぬまま、麻痺したような感覚をもって、擦り減っていき、あるいは満ちるかもしれないが、それは今はなく、今のままでは、先にもないのだ。
(終)
2006/12/01
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